僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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九章

一番好きな空

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 翌日の、午前四時。
 魔想討伐を終えた僕と末吉は、帰路に着いていた。
 今日は最も遠い任地の栃木県那須岳の北側で討伐を終えたため、僕は空を翔けるのを止め、水平移動で神社を目指していた。肉体操作と翔体操作の差を縮めるべく、翔人は駆け足で空を移動するよう努めているが、時速360キロで突っ走っても神社まで三十分近くかかる那須岳周辺が最終任地だった時に限り、水平移動での帰投が推奨されていた。足から伝わる振動で視界にどうしてもぶれが生じる駆け足より、無振動の水平移動の方が進路上の魔想を知覚しやすく、衝突の危険を減らせるからだ。東の地平線と接する部分だけがうっすら群青色に染まり始めただけの、星の煌めく夜の空を、四つの目で魔想の有無を確認しつつ僕らは滑空した。
 そう僕と末吉は一つの生命体のように、四つの瞳で前方を睨み空を飛んでいた。というのは冗談で、末吉が僕の後頭部側から覆いかぶさっているだけの、いつもの僕らなんだけどね。
 
 今から、一年二か月前。
 翔体での訓練を始めたばかりの、小学六年生の晩秋。
 拝殿の一室で受けていた座学の終わりに、僕と末吉は祖父に宿題を出された。
「このように、水平移動の方が進路上の魔想を探知しやすい。振動のない滑るが如きこの飛行を、儂らは滑空と呼んでいる。その滑空時、魔想の探知精度をより向上させるための方法を、次の座学までに力を合わせて考えてきなさい」
 それから僕らは台所の日溜まりに移動し、活発に議論した。けど幾ら考えても良い案が浮かばず、休憩を取ることにした。季節は秋の深まる十一月下旬。窓の外は木枯らしが吹き、落ち葉が乾いた音を立て舞っていたが、日差しの降り注ぐ日溜まりは温かで、僕らは途端に眠気を覚えた。僕は床暖房のきいたフローリングに横たわり眠気をやり過ごそうとするも、それは猫の目には真逆の、「さあ眠ろう」の意思表示に映ったのだろう。末吉はうつ伏せになった僕の背中に飛び乗り、丸くなって寝てしまった。生後半年の、子猫の面影を多分に残す末吉は温かく軽やかで、背中に感じる心地よさを僕は楽しんでいた。そのはずだったのだけど、頬を包むカーペットの柔らかさと体に掛けられた毛布の感触に、僕は眠りから覚めた。
「眠留、首は痛くない?」 
 少し離れた場所で香箱座りをする小吉に問われ、首を持ち上げてみる。ほんの僅か凝っていたのか、首に微かな痛みが走った。うつ伏せのまま眠っていたのだから、順当だろう。
「中吉姉さんが眠留の頭を持ち上げてカーペットを挟み、毛布を掛けてくれたの。後でお礼を言っておくのよ」
 その頃は中吉との和解がまだ成立していなかった事もあり、首の凝りをほぐすストレッチをしつつ曖昧に返事をした。そんな僕を咎めず、小吉はくすくす笑い話題を変えてくれた。
「それはそうと、宿題は解けましたか?」
 応えようとしたが僕より早く、
「無理なのにゃ。姉さん、助けてほしいのにゃ」
 末吉が毛布から頭をポンと出しそう懇願した。背中に乗ったまま前脚をきちんと揃え背筋を伸ばし、猫にとっての正座で宿題の難しさをハキハキ話す末吉に、今度は僕がくすくす笑う。姉さんに失礼にゃ、と末吉は前足で僕の頭をペシぺシ叩くも、僕としては子猫の肉球の心地よさしか感じない。そもそも本人がそれを狙っているのだから尚更だ。「ありがとう末吉。今度は首をマッサージしてよ」「調子に乗るにゃ~」などとワイワイやる僕らを目を細めて見守っていた小吉が、頃合いを計りヒントを出してくれた。
「話し合うだけより、似た状況を作った方が、気づきは多いわ。今のあなた達は、その『似た状況』にいると私は思うのだけど、どうかしら」
 二人同時にピタリと静止した。数瞬後、僕は首を巡らせ後ろを向き、末吉は体を傾げて僕を覗き込む。そして僕らは、同時に驚きの声を上げた。
「本当だ!」「本当にゃ!」
 うつ伏せの僕の肩辺りに末吉が座っている今の状態は、滑空中の僕に末吉が乗っいる状態と、酷似していたのだ。それからは、正解に辿り着くまで一分かからなかった。僕の肩甲骨を足場に末吉が立ち上がり、後頭部側から覆いかぶさって二人一緒に前方を睨むのが、魔想を最も発見しやすい方法だと僕らは気づいたのである。
 そうして迎えた次の座学、朗らかに「正解」と告げ、祖父は種明かしをした。
「翔人も翔描も、魔想討伐以外の目的で翔化することはまかりならん。だが翔化せずとも、肉体のまま翔体の自分を想像することはできる。工夫すれば、その精度を上げることも可能だ。眠留、末吉、ゆめゆめ工夫を怠るでないぞ」
 末吉は、大好きな祖父に出された宿題を、大好きな小吉に手伝ってもらいけたことが、よほど嬉しかったに違いない。その後も翔化中の問題にぶつかるたび、末吉は「なるべく真似てやってみるにゃ」と言い、張り切ってそれに臨んでいる。尋ねたことは無いが、滑空時以外も僕の頭に覆いかぶさり神社に帰りたがるのも、あの時の喜びがそうさせているのだと思う。僕が考え事をしていたら必ず気づき、力を合わせて解決しようとしてくれるしね。 
「眠留、今朝は考え事が多いようだにゃ。おいらに話してみるにゃ」
 そう、まさしく今のように。

 那須岳から神社へ帰投中、滑空する僕の頭に顎を乗せ前方を睨んでいたはずの末吉が、今回も絶妙なタイミングで話しかけてきた。それを受け、僕は進路を微調整する。南南西にまっすぐ伸びる東北新幹線の真上を飛べば、方角確認用の意識を会話に回せるからね。
「うん、僕は今、昨日の下校時のことを考えていた。末吉、気づいてくれてありがとう」
 任せろにゃ、任せるぜ、なんてやり取りを経て、末吉が問いかける。
「昨日の下校時、何があったのかにゃ?」
「クラスメイトの女の子たちに、騎士になるよう勧められた。思いもよらなくて、かなり動揺しちゃってさ」 
「その時の状況と、その子たちが何て言ったかを、正確に知りたいにゃ」
 学校行事について話し合った昨日は帰りが遅くなったため、二人の女の子を駅まで送った事。「騎士にならないの?」という問いかけに「遠くから騎士へ憧憬を投げかけていれば充分」と答えたら、戸惑われた事。別れ際、女の子たちが「騎士になるべきだと思う」と声を揃えた事。それらの出来事をすべて説明し終えた僕の眼下で、北西から伸びてきた上越新幹線の明かりに、東北新幹線の明かりが合流する。全行程の半分を切った目印の場所を通過しつつ、末吉が騎士に可愛がってもらった思い出話をした。
「おいらも地域社会の勉強で、騎士に何度か会いに行ったにゃ。小吉姉さんが猫好きの騎士を選んでくれたから、騎士の皆さんはおいらをとても可愛がってくれたにゃ。人に尽くす行いをしてきた若者の手は優しいって、姉さんから教えられていたとおりの、優しいなでなでだったにゃ」
 末吉の想い出を、騎士の視点で語った話があることを、僕は明かした。
「三毛猫と茶虎の子猫が、たまに遊びに来てくれる。それもなぜか、つらい想いを隠し通学路に立っているとき、猫達は現れる。見るからに賢げな三毛猫と、元気いっぱいの茶虎猫は、どこの子なのだろうか。そう立ち話をする騎士達へ、『その子たちはあの神社の猫ですよ』と地域の人がウチの鳥居を指さしたという話を、僕は氏子さんから聞いたことがある。おそらく水晶の指示で、末吉は大切な学びをさせてもらったんだろうって、僕は思うよ」
 案の定、末吉はその話を知らなかったらしく、僕の髪の毛を嬉しげにかき回した。そして地域の人々に愛される猫に相応しい、情緒豊かな賢い提案をした。
「眠留は騎士じゃないにゃ。でも、騎士になった自分を想像する事はできるにゃ。例えば、こんなのはどうかにゃ。昨日眠留は騎士として、クラスメイトの女の子たちを駅まで送った、なんてのは」
 猫は人より早く成長する。ましてや末吉は大吉を始めとする偉大な先輩と、見当もつかぬほど偉大な精霊猫たちに囲まれて暮らしているのだ。成長著しいパートナーを称える気持ちに、パートナーに置いて行かれる焦りを加えて、僕は了解と伝えた。
 末吉一人に索敵を任せるべく、滑空速度を半分に落とす。頭の上からかけられた「任せろにゃ」という頼もしい声を合図に、僕は目を閉じ、騎士になった自分で昨日の下校時を再体験した。頭の中に造り上げた世界で校門から駅まで歩き、元の世界に戻って来た僕は、水平移動を慌てて止めた。驚きの余り意識がすべて内側を向き、外側へ欠片も気を配れなくなったため、盲目で障害物の中に飛び込んでゆくような恐怖を覚えたのである。
「随分驚いたみたいだにゃ、眠留」
 髪の毛一本分の幅しか首を縦に触れない僕などお構いなしに、末吉は先を続ける。
「クラスメイトの女の子たちにとって、昨日の眠留は騎士だったにゃ」
 末吉の言葉は正しかった。騎士として再体験した昨日は、実際の昨日と何も変わらなかった。騎士であるか否かは、完全に無関係だった。想像の中の僕も、芹沢さんと青木さんを全力で守っていた。未修得技術を理由に尻込みせず、可能性が少しでもあるならそれを試し二人を守ったことに、なんら変わりは無かったのである。
 するとそれが、僕に自信を取り戻させてくれた。目の見えない状態で障害物の中に飛び込む恐怖は、もう感じていない。僕は翔体の瞼を開け、移動を再開しようとした。
 のだけど、
「なのに眠留がヘンテコなことを言ったせいで、その子たちを戸惑わせてしまったのにゃ。間抜けにもほどがあるのにゃ」
 末吉の放ったヘンテコという言葉が羞恥心を芽生えさせ、僕は移動どころか、宙に浮いているのがやっとになってしまった。しかしそんな僕を救ってくれたのは、今回も芹沢さんと青木さんだった。末吉は肉球パンチで僕の頭を二度叩いたのち、言った。
「けどその子たちは戸惑いから抜け出し、眠留を助けたにゃ。友人を助けるのは今度は自分の番なのだと、行動してくれたのにゃ」
 肉球パンチの心地よい余韻に、青木さんの言葉が重なる。
 
  今の私が、天狗だったころの
  私を基準に未来を決めていたら、
  猫将軍君は私を助けてくれる?

 羞恥心を芽生えさせていたヘンテコが、木っ端みじんに吹き飛んでゆく。そして足元に、不動の大地が出現した。空中に現れたそれは、数多の友人達に僕は支えられているのだという、揺るぎない実感だった。
「心が定まったようだにゃ。眠留、西の夜空を見るにゃ」
 促されるまま体を西へ向ける。月のない夜空に、無数の星が瞬いていた。
「思い出は、星のようなものにゃ。太陽から遠く離れるほど、星は漆黒を得て光り輝くのにゃ」
 中吉の芸術の授業が実り、感性が日ごと鋭くなってゆく末吉の言葉に、僕は全身を耳にした。
「思い出は不動のように見えて、時間と共に遠ざかっているのも星と似ているにゃ。そしてもう一つ似ているのが、太陽の存在にゃ。眠留、今度は東の空を見るにゃ」
 回れ右をして体を東へ向ける。明度と彩度を増した群青色が、地平線の上に広がっていた。
「星にとっての太陽は、人にとっての未来の希望にゃ。太陽の光が星々を消し去るように、未来の希望が放つ強烈な光は、過去の自分を断ち切るのにゃ。眠留、未来を見るにゃ。騎士とかけ離れた過去の自分ではない、騎士になるべきだと言ってもらえた今の自分で、騎士になった未来の自分を見つめるのにゃ」
 億兆の想いを込め、僕は口を開く。
「なあ末吉」
「なにかにゃ」
「真冬の、深夜から日の出にかけての空が、僕は一番好きだ」
「おいらもにゃ。深みと明るさを両立させた、青。無限の透明度で地上を睥睨する、天空の青。それを、遮るもののない空でこうして眺められるなんて、おいらは幸せ者なのにゃ」
「ああ、幸せ者だな」
 
  この空を、
  かけがえのない戦友と、
  こうして眺められるなんて

 末吉の言った「こうして」はこういう意味だということを、胸の中の宝箱にしまう。そして、
「よし、帰ろう」
「よし、帰るにゃ」
 僕らは二人で、帰宅の途についたのだった。

          九章、了
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