僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十一章

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 目の良い僕は、三等星以上の星を昼でも見ることができる。梅雨の晴れ間の空にオリオン座や冬の大三角形が広がる光景は、僕にとってありふれた日常なのだ。
 もちろんこれは、僕に限ったことではない。大多数の人にとっては思いもよらぬ事が、ある人にとっては日常でしかない例は、この世にゴマンとあるからだ。そして僕は昨夕、北斗にとってのそれに触れた気がした。
『上位知力と呼ぶべき知能を有する北斗は、大多数の人にとって知覚不可能な翔人の世界を、独自の感覚で感じ取っているのではないか。翔人が身近にいないなら無理でも、親友として過ごしてきた足かけ六年の日々が、北斗に何かを感じさせているのではないか』 
 僕はそう、ふと思ったのである。
 そしてそれは今日、より強められた。先ほどの話の終盤で北斗は言葉を一旦切り、目線を手元に下げ、左右の掌をじっと見つめるという仕草をした。そのとき僕の脳裏に、こんな疑問が芽生えたのだ。
『その程度の話と評した理由は、二つしかないのかな?』
 この疑問に則り改めて北斗を注視すると、北斗は左右の掌へ目をやっているのではなく、その少し先の五指へ視線をそそいでいることが判明した。そして僕の上位視力はその五指のうち、親指と小指が折り畳まれようとしているのを知覚した。それにより、理由は三つあるのだと僕は直感した。そして北斗を卍固めで締め上げている最中、思い出したのである。翔体を肉体から解放しやすい人と、解放しにくい人の、違いを。
 小学四年生の夏、水晶が僕と美鈴にこんな講義をした。「同じ運動を長期間続けると、人の体は、その運動に適した体へと変化してゆく。これは脳にも当てはまり、複雑精緻な思考の建築物を心の中に造り上げる理論家と、心の明度と彩度を高めてゆく芸術家とでは、脳神経の連結様式が異なると言える。その物理的差異は、翔体の解放にも影響を及ぼす。一概には言えぬが、理論家は翔体を解放しにくい傾向を持ち、芸術家は翔体を解放しやすい傾向を、持っているようじゃな」
 僕は自分を理論家とも芸術家とも思わなかったけど、水晶が北斗を「こりゃたまげた理論家じゃ」と評していたことと、同じく昴を「こりゃたまげた芸術家じゃ」と評していたお蔭で、両者の違いだけなら容易くイメージできた。そしてそのイメージは湖校入学後、より具体的なものへと成長して行った。新忍道で経験したモンスターとの戦闘が理論思考を学ばせてくれて、家庭料理教室と自宅で作ってきた料理が芸術的感性を学ばせてくれたのである。それによると、理論思考と芸術表現には、
 ――意識を移動させる方向が真逆
 という違いがあった。理論思考とは、意識を表層から深層へと移動させ、外的刺激から切り離された純粋思索領域で複雑精緻な思考を積み重ねてゆく行為だった。対して芸術表現は、意識の深層にある純粋知覚領域で受信した霊験を、意識の表層へ運んでくる行為だった。つまり理論は表層から深層への移動によって成され、芸術は深層から表層への移動によって成されていたのだ。そして翔体を肉体から解き放つ行為は、肉体の内側にある心を外側へ移動させる作業なので、芸術表現と相性が良かった。僕はそれを、湖校で過ごした一年間を通じ、実体験として学んだのである。
 実体験として学んだのは北斗も同じだった。モンスターとの戦闘を解析後、北斗は呆れ顔でよくこう言っていた。「眠留にとっての勝機とは、未来を知ったうえでの勝機なんだな」と。
 切り込み役の僕は、勝機の見定めを任されている。勝利を手にする最高の瞬間を感じるや、独断で戦闘を開始する権限を僕は持っているのだ。それは真田さんと荒海さんの「眠留ならできそう」という直感によって決まったのだけど、真冬の雨の日に開いたミーティングで、僕の見定めには未来が含まれていることを北斗が発表した。
「戦闘終了後に全体を俯瞰してシミュレーションすると、そこから得られた勝機と眠留が見定めた勝機には0.5秒未満の誤差しかないことが証明されます。しかし戦闘を開始してから得られた情報のみを扱うと、もっと大きな誤差が生じるか、勝機を見極めるのは不可能との結果が出ます。なぜなら眠留は、その時点ではまだ把握できていないはずの情報を、つまり未来にのみ判明する情報も加味したうえで、勝機を感じ取っているからです」
 3DGは建物や物陰を多数配置し、プレイヤーがモンスターの全動向を知覚できないようにしている。なればこそ熟練度や作戦精度が問われ、それが3DGの醍醐味になっているのだけど、強引な表現をすれば、僕はそれらをすっ飛ばして勝機を感じているそうなのだ。本来ならそんなことをすれば大騒ぎになるのだろうが、新忍道の創設者の神崎さんが超人と謳われる人だったのが功を奏し、先輩方は「へ~」「そうなんだ」「ふ~ん」系の極めて軽いノリで北斗の報告を聞いていた。僕としては非常にありがたいそんな先輩方とは裏腹に北斗はどうしてもそれが気になるらしく、僕と一緒にモンスターと戦うようになり十カ月が経過した今も、戦闘後解析を毎回欠かさず行っていると言う。つまり北斗は理論思考では得られない、純粋感覚領域で受信した勝機を、新忍道を介して学んできたのである。
 それに加え、今日なされた打ち明け話により、内側から外側へ意識を移動させる作業を北斗がこの五年間続けてきたことを僕は知った。北斗は、こんな感じのことを言っていた。『俺は眠留に出会い、策を弄するだけの人生から離れた』『俺は眠留に学び、素直な自分を素直に明かせる人生に足を踏み入れた』
 僕から学んだ云々はうっちゃるとして、素直な自分を素直に明かすことは、意識を内側から外側へ移動させる作業に他ならない。北斗はそれを五年間続ける事により、生来の能力だけでは難しかった意識の深層から表層へ至る経験を、重ねてきたのである。
 その五年間の努力とモンスターとの戦闘経験が、北斗に新たな能力をもたらしたのだろう。北斗は今、純粋思索領域へ下りる能力に加え、純粋知覚領域で霊験を受信する能力も身に着け始めている。理論的思考を先天的能力として、芸術的感性を後天的能力として、その二つを兼ね備えた人間になりつつある。そのうえ北斗は、上位知力と呼ぶに値する能力も有しているのだ。そんな北斗が、僕の親友として過ごした五年間を振り返った時、「本当の僕である翔人としての猫将軍眠留」を微塵も知覚しないなんて考えられない。翔家翔人という語彙に行き当たらずとも、翔体を肉体から解放することはできずとも、それに類する事柄を北斗は上位知力で捉えている。僕にはそう、思えてならなかったのだ。
 なら、僕に何ができるだろう。
 僕は、何をすべきなのだろう。
 この問いの回答を、僕は既にもらっていた。五日前の午後十二時半過ぎ、
「この二人を加えた四人が、僕の親友なんです!」
 と宣言した直後のくすぐり攻撃の最中に、僕はそれを受け取っていたのである。それは、
 ――今を全力で生きる
 という回答だった。一年十組で過ごすうち、僕は北斗だけでなく、猛と京馬と真山も親友と感じるようになって行った。だから二年時のクラス替えの前に、三人にそれをきちんと伝えておきたかったのだけど、気恥ずかしくてそれを実行に移すことができなかった。いや気恥ずかしいと言うより、それは別の形で三人へ届けるべきものであるように、僕は感じていたのだ。そしてそれは正しかった。敬愛してやまない真田さんと荒海さんへ、僕は胸を張り、四人が親友であると伝えた。引退まで残り五カ月を切ったお二人へ、僕の四人の親友を纏めて紹介することができた。あの日以降、僕は何度もあの場面を思い出したが、あれこそは、四人が親友であることを世界に宣言する最高の好機だった。あれは、全力で生きてきたからこそ手元にやって来た好機だった。いやきっと、僕はあれを贈ってもらえたのだと思う。僕は空を見上げ、謝意を述べた。
「あの好機を贈ってくださり、ありがとうございます」
 僕が謝意を述べたのは、宇宙の根底を支える空間そのもの。よって空の彼方にいる訳では決してないのだけど、その存在へ語りかけるさい、僕は必ず空を見上げてしまう。それはきっと・・・・
「僕の外側に広がる世界の中で、束縛の最も少ない空は、あなたに最も近しい場所だからなのでしょうね」
 心の中で、そう語りかけた。
 そんな僕へ宇宙の創造主は、僕の内側に広がる世界の中で最も自分に近しいモノを介して答えてくれた。
 
  そうだよ
 
 空間と同種の構造体である心を経由し受け取ったそれをぎゅっと抱きしめ、胸の中の宝箱にしまう。
 そして僕は踵を返し、空へと続く神社の大石段を、登って行ったのだった。

          十一章、了
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