僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十四章

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 僕と輝夜さんと昴が魔想討伐を心置きなく休めるよう、祖父母は骨を折ってくれた。特に輝夜さんを中学総体に出場させるべく、祖父母が白銀本家へ直接赴いたと知った時は、どうすればその恩に報いられるかを三人で泣きながら話し合ったものだ。だが、恩を感じる必要などないと本心から僕らを諭す祖父母へ、一体全体どうすれば恩を返せるかが皆目わからなかった僕らは、当たり前のことを当たり前にこなす日々を送るしかなかった。実直に魔想を討伐し、愚直に鍛錬を続け、学校生活を満喫する。そんな僕らを、いつも幸せいっぱいの瞳で見守ってくれる祖父母へ返せるのはこれしかないと思い定め、僕らは実直に愚直に日々を満喫した。それは、間違いではなかったと思う。けど結局、僕は何も分かっていなかった。祖父母は、嬉しかったのだ。薙刀の大会に出たくても出られなかった輝夜さんの手助けができた祖父母は、そこに喜びを感じられた。様々なことを我慢する人生を送ってきた祖父母はできれば僕らには同じ想いをさせたくないと願い、そしてその願いを、輝夜さんの夢を叶えることで実現したのである。然るに祖父母は恩義無用と本心から言い、けど僕らは祖父母に報いようと日々を精一杯生き、そんな僕らの姿が、祖父母へ更なる喜びをもたらした。それは水晶も同じで、いや水晶こそは翔人の苦悩を数百年間見つめ続けてきた存在だから、僕らと祖父母の真心のやり取りを、本当は誰よりも喜んでいたのだ。
 ふと思った。
 量子AI開発への助力を秘していた水晶達は、他にも様々なことを秘しているのだろう。
 人々が翔人の活動を知らないように、翔人も水晶達の活動を知らないのだろう。
 その全貌の把握は、僕如きには到底不可能なのだろう。
 でも僕は、水晶の優しさを知っている。
 水晶が素晴らしい教育者なのも、知っている。
 なら、こういう事はないだろうか。
 優しさを育みそれを体現する人生を、僕が送ったなら。
 後輩達の手本となる人生を、僕が過ごしたなら。
 水晶に及ばずとも、水晶とは異なる道を歩いたとしても、水晶と同じ状態を目指す人生そのものが、教えてくれるのではないだろうか。この宇宙における水晶達の、そして僕らの、
 
  存在理由を。

「眠留、一緒に連れて来てもらえず、ミーサが悲しんでおる。旅館に帰ったら、優しくしておやり」
 額を芝生に付けていた僕の後頭部を、ふわふわの肉球で撫でつつそう言い、水晶は消えて行った。
 僕は上体を起こし跪坐になり、誓った。
「はい。僕は僕の、今すべきことをします」
 透明な水の香りに満ちた空気を、胸いっぱいに吸う。
 そして立ち上がり、明日もよろしくねとベンチに語りかけてから、僕は帰路についたのだった。

 旅館に帰って暫く、颯太君と二人で箒掛けをした。玄関先を掃いていた颯太君は初め「そんな事はさせられません」と首を横に振っていたが、箒掛けは毎朝の日課だからかえって落ち着くんだと伝えると、竹箒をもう一本持ってきてくれた。日本庭園にしつらえた石畳を掃き清めてゆくのは心地よく、僕は安らぎを得ることができた。
 振り子時計の鐘の音が微かに六度聞こえたころ、旅館正面の公道を端から端まで掃き終えた。そのとたん反対側を受け持っていた颯太君が駆け寄ってきて、「猫将軍さんの箒の使い方を教えてください!」と尻尾を千切れんばかりに振った。足さばきと軸運動のカッコよさを息せき切って話す颯太君に照れながらも、僕は要諦をかいつまみ話していた。すると丁度良いことに、
「お~す眠留」「お~す颯太君」
 ジャージ姿の北斗と京馬がやって来たので、二人に頼んでみた。
「北斗、京馬、回転ジャンプスクワットを、颯太君に見せてあげてくれないかな」
 察しの良い二人は二つ返事で引き受け、自由に使える残り時間を颯太君に尋ねてから、回転ジャンプスクワットを始めた。それはさすが、毎朝の日課として鍛錬してきた美技と言う他なく、颯太君は輝く瞳を二人へ向けていた。頃合いをはかり「やってみるかい?」と声を掛けたところ、元気溌剌な「はいっ」が帰って来るも、それは十秒続かなかった。元気だったのは最初の二回転だけで、続く二回を真剣な面差しで、そして最後の三回を苦悶の形相でこなしたのち、颯太君はアスファルトに崩れ落ちたのである。横になっても止まらない眩暈と吐き気に顔をゆがめながらも、北斗と京馬の美技を食い入るように見つめる颯太君に、僕はつくづく思った。才能とやる気に溢れる少年の成長を助けられるのは、こうも嬉しいことなのだな、と。
「颯太君、僕が小学三年生で初めてこれをした時は、たった三回で吐きそうになった。この二人も初挑戦時は僕とどっこいどっこいだったけど、今ではこれほど上達している。二人と違いこれを日課にしていない僕も、今は百回近く続けられるようになった。重要なのは最初の回数じゃないんだって、覚えておいてね」
 颯太君はおぼつかない足を懸命に操作し立ち上がり、かしこまりましたと頭を下げた。けどそれを普段どおりキビキビ行ったのが仇となったのだろう、眩暈をこらえきれず尻餅をついてしまった。幸い北斗と京馬が丁度ノルマを終えたので、恥じ入る颯太君を輪に加え車座になり、男子恒例のバカ話を始める。体育祭の「これが俺のドリルだ!」を面白おかしく話す僕らに夢中の颯太君へ、誰にも気づかれぬようこっそり生命力を注いだ。三半規管を正常に戻しておかないと、旅館の仕事に支障をきたしてしまうからね。
「明日も教えて頂けるんですか!」「もちろんだ」「待ってるぜ」「楽しみだねえ」「ありがとうございます!」
 眩暈を忘れたようにシュバッと頭を下げ、そして何度も振り返り会釈しながら、颯太君は朝の仕事へ戻って行った。その姿が視界から消えるなり僕らは顔を引き締め、明日と明後日の練習メニューについて話し合った。颯太君が後輩になるか否かなんて、そんなの関係ない。あの愛すべき豆柴が、目標を成就すべく努力するなら、幾らでも力を貸そう。言葉にするまでもなく僕らはそう、合意していたのである。
 ほどなく一年の松竹梅が現れたのでストレッチをしつつ運動場へ向かい、新忍道の基本動作を行った。運動場の混み具合によっては、一年と二年は今日の練習を諦めなければならないからだ。噴き出る汗を拭くことも忘れて、僕らは基礎鍛錬に没頭した。
 とはいえ北斗と松井という知恵者が二人もいてくれるのだから、時間超過の失敗などする訳がない。僕らは整理体操をしつつ運動場を後にし、旅館に着くなり浴場へ直行して、真水のシャワーを浴びた。身を清め洗い立ての衣服を身に付け洗濯物を洗濯機に放り込み、食堂に足を踏み入れたのが、朝食開始五分前の七時十分。三枝木さんと渚さんに挨拶し配膳を手伝い、準備が全て終了したところで先輩方がやって来て、
「「「いただきます!」」」
 全員で手を合わせた。油分を少なくし消化を早くした朝食を、更に早く消化すべく一口につき五十回噛んで食べた。そして一時間ちょいの食後休憩を経た、午前九時。
「出発!」
 真田さんの号令のもと、湖校新忍道部総勢十五人は旅館を後にした。
「行ってらっしゃいませ」「御武運を願っています」
 本選前日の練習がいかに大切かを承知してくださっている皆さんの声を背に、真夏の高原の空を仰ぎつつ、僕らは運動場へ歩を進めたのだった。
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