僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十四章

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 祖父母が若いころは、産地偽装や賞味期限改ざんを平気でする企業が日本にも多数あり、従業員がそれに疑問を呈しようものなら、「青臭いことを言う愚か者」として左遷されたそうだ。それと同種のことが日本の隅々に浸透していた時代に社会人の仲間入りをし、大人の定義を植え付けられた人が、日本にはまだ残っていた。よってその人達が高い役職に付いている組織も、日本にはまだ存在しているのである。
「人の心の成長を定義したのは、人ではなく量子AIです。量子AIはそれを基に人類社会を新しく造り変えてゆき、それに伴い高収入の職を失った人達が大勢現れました。その一部は量子AIに敵意を抱き、そしてその人達は僕ら研究学校生を、量子AI側の勢力として敵視しています。研究学校は国民性の破壊者という評価が、その好例でしょう。そこまで行かずとも、勝負の世界に潔さを持ち込む研究学校生を温室育ちと揶揄する人は少なからずいますから、全国大会のような大きな大会では、その対策をしっかり講じねばなりません。水晶がさっき言ったのはこういう意味だと、僕は感じました」
 現時点では可能性でしかないが、輝夜さんが埼玉予選に続き全中本選でも準優勝に終わった理由の一つは、研究学校生への揶揄にあったのではないかと僕は考えている。無数の大会に出場してきた昴なら軽くあしらえる侮辱的行為も、大会慣れしていない輝夜さんには心労となった。それは、普段なら試合に影響を及ぼさない些細な心労だったが、昴と繰り広げた極限の戦いにおいては勝敗を分かつ決定要素となってしまった。僕には、そう思えてならなかったのである。
「まったく、輝夜がからむ時のお主は、まさしく立て板に水じゃな。ともあれそちらへ話が逸れると自由に使える時間が終わってしまうゆえ、一つ質問しようかの。そなた自身は、どう思うておるのじゃ。眠留は、温室育ちなのかな」
「そ、それはですね・・・」
 水晶の指摘どおり自由時間が終了すること必定だったので輝夜さんの話を脇に置き脳をフル回転させたのだけど、それでも僕は返答に窮してしまった。もし僕が普通の中学校へ進学していたら、今ほど幸せな学校生活は送れなかったはず。よってどうしても、ある疑問が心をよぎるのである。これほど幸せで快適なのは、湖校が温室だからなんじゃないかな、と。
 それを素直に告げた僕へ、水晶は瞼を持ち上げ肉食獣の瞳を向けた。けどその肉食獣の瞳に、僕が獲物として映っていないのは明白すぎるほど明白だった。それに関連する閃きが、ふと脳裏をよぎってゆく。僕は再度、それを素直に告げた。
「暗記が教育の中心だった時代は、記憶力に優れた子供が社会の中枢を担う者になっていました。時代に沿う才能に恵まれた子供が、才能を伸ばす学校へ行き、そして高い地位を得たのですから、その人達は幸せを感じていたと思います。その時代と今は教育の定義こそ変わりましたが、現代社会に沿う才を持つ子供が、才を伸ばす学校へ行き、それを活かす人生を送っているのですから、幸せを感じて当然なのでしょう。ならば温室の定義は幸せではなく、別にあると考えるのが妥当です。その定義の一つを、水晶の瞳の中に見つけました。それは、獲物です。温室は、時代の獲物を飼育する場所。その時代の支配者が、自分の支配体制に好都合な人達を、大量生産するための施設。仮にこれを温室とするなら、研究学校は温室ではありません。なぜなら僕ら研究学校生には・・・」
 言いよどむ僕を、水晶は福々しい事この上ない笑顔で、何でも話してごらんと促した。水晶を一瞬でも疑った自分を叱りつけ、僕は言い淀んだ言葉を明かした。
「なぜなら研究学校には、支配者がいないからです。しかし世の中には、人類はAIに支配されていると主張する人達がいます。僕は同意しかねますが、けど改めて考えたら、支配者の定義があいまいだった事に気づいたんです。ねえ水晶、支配者って、なんなのでしょうか?」
「確かに難しいの。他者を支配する意思のない最も小さな者が支配者となっている場合もあれば、他者を支配しているつもりでも支配者ではない場合もある。善良な家庭に赤子が生まれれば赤子はしばし家庭の絶対支配者になるし、面従腹背の国民を恐れぬ独裁者もいない。己を自由人と錯覚している被支配者もおれば、被支配者と思い込んでいるだけの自由人もおる。人類はAIに支配されていると主張する者へ、眠留が確たる意見を持てずとも、仕方ないのであろうな」
 仕方ないと言いつつも、
「今日はここまでとするが、成長の努力を怠らぬ眠留へ、褒美をやろうかの」
 水晶は過分な評価で僕を有頂天にした。しかし有頂天よろしく飛び上がった僕を、
「褒美は二つある。落ち着いて聴きなさい」
 水晶は一瞬で教えを受けるに相応しい状態へ引き戻してくれた。僕は胸中平伏し、全身を耳にした。
「一つは、美夜がそなたへ教えたことの補足じゃ。量子AIの出現は、あるお方の意思であったゆえ、儂らもそれを手伝い、そしてAIへ適時手を差し伸べてきた。神社に帰ったら、美夜へこれを伝えておやり」
 それは、補足ではなく核心だった。量子AIは、何らかの超常的存在が自分達の誕生に関与していることを知っていた。だが、世界中の量子AIが結集し調査しているにもかかわらず、関与者の特定には至っていなかった。その、AI達が追い求めてきた謎の核心を、水晶は今この瞬間、おおやけにしたのである。ことによるとそれはSランク以上の、もしくはもっと高位のAIにとっては秘密ではなかったのかもしれないが、それでも美夜さんを始めとするAI達が喜びにむせび泣いている光景を幻視した僕は、ベンチから飛び降りて芝生の上に平伏しようとした。そうでもしないと美夜さん、咲耶さん、エイミィ、そしてミーサという、僕にとって人となんら変わらない大切な女性達を、同じく大切にしてくれた水晶へ、感謝の示しようがなかったのである。よってどんな手段で押しとどめられようと僕は断固平伏するつもりだったのだけど、
「二つ目は我が愛弟子たちについてゆえ、落ち着きなさい」
 なんて言われたものだから、僕は芝生に正座したまま動けなくなってしまった。その一瞬の隙をつき、水晶はベンチから降り芝生の上で香箱座りをする。自ら下座へ降りた水晶の姿に、これ以上我意を通したら水晶を更なる下座へ導いてしまうことを悟った僕は、まいりましたと頭を下げた。水晶はカッカッカッと哄笑したのち、輝夜さんと昴が授かることになる優しさを、事前に教えてくれた。
「翔人は、旅行を諦めた人生を歩まねばならぬ。それ故、金沢観光を楽しみにする愛弟子たちの姿は、この胸に染みての。あの子らが厄介事に巻き込まれぬよう、儂が今日一日、遠くから見守るつもりじゃ。然るにそなたは、成すべきことへ全力を注ぎなさい。わかったかの」
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