僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十四章

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 翌日の、午前五時。
 場所は、運動場横に設置された、清流を見下ろすベンチ。
「ほうほう、眠留は天然温泉に、湯あたりしたのじゃな」
「はい、してしまいました。つきましては同じ過ちを繰り返さないため、湯あたりした仕組みを教えて頂けないでしょうか」
 朝の訓練を手伝ってくれた水晶へ、僕はそうお伺いを立てていた。
 僕と輝夜さんと昴は全中及びインハイ開催中、翔人の訓練を翔々する事でこなしていた。翔々とは心の中への翔化を指し、生命力圧縮をせずとも幾らでも時間を引き延ばせるので、今回のような外泊時にはもってこいの訓練方法だった。水晶によると翔々は、「翔々で可能になったことは物質肉体でも可能になる」という境地へ、翔人を連れて行ってくれるらしい。だがそれは境地の話であり、翔々歴四カ月の僕は譬えるなら、一歩二歩進むだけで尻餅をついてしまう赤ん坊のようなもの。水晶の言った境地は、その赤子がオリンピック金メダリストとなるに等しい時間と鍛錬を費やした果てにあると、考えるべきなのだろう。よって僕は今朝も焦らずゆっくり、翔々による鍛錬を行ったのだった。
 とまあ、それはさて置き。
「ふむ、正しい心構えじゃ。湯あたりの仕組みは、大会に臨む眠留にも役立つゆえ、願いを叶えるとするかの」
 清流のせせらぎに耳を傾け、清らかな水と深い森の香りを胸いっぱいに吸い、早朝の高原の気配に包まれながら、福々しい笑顔の水晶にこうも嬉しいことを言われたと知ったら、輝夜さんと昴は怒るだろうな。
 なんてことを心の片隅で考えつつ、教えを頂戴すべく背筋を伸ばした。のだけど、
「先ずはヒントじゃ!」
「どわっ」
 いたずら小僧よろしく瞳を輝かせる水晶に、僕はズッコケてしまった。まあ旅行気分を楽しんでくれているみたいだから、全然いいんだけどね。
「温室育ちや純粋培養という言葉は、人へもしばしば使われる。さて眠留はこのヒントを、活かせるかの」
 咲耶さんが水晶を師匠と崇めるはずだと胸中大きく頷き、答えた。
「風雨や暑さ寒さから隔離され、快適なだけの場所で育てられた生物は、環境悪化への抵抗力を失います。翔人専用風呂の薬湯は天然温泉からすれば、温室や培養槽に似ているという事なのでしょうか」
「満点でなくとも、五段階評価における四といった処じゃろう。然るに今一度、背中を押そう。そなたは朝方、どのような起こされ方をしておるかの」
 爽やかな朝に小気味よいさえずりを添える小鳥たちを驚かさぬよう、僕は控えめに手を打ち鳴らした。
「なるほど、薬湯の薬効は、ゆっくり働くよう調合されているんですね。それに対し天然温泉は、効能が電気ショックのように訪れる時がある。昨夜の僕がまさにそれで、長湯によって肌から吸収された温泉成分が、短時間で一気に作用した。だから僕の体は一時的に、ショックで目が回ってしまった。そういう事なんですね」
「そうじゃの。湯に溶け込んだ成分を肌から吸収することに慣れている眠留の体は、いつもの調子で温泉成分を体内に取り入れた。じゃがその荒々しい自然のままの成分は、そなたの体に荒々しく作用し、体調不良が一時的に発生した。これが昨夜の眠留の、湯あたりの仕組みじゃな」
「昨夜の眠留って、僕が湯あたりしたの知ってたんじゃないですか」
「こりゃ失言したわい。ふおお、ふぉっ、ふぉっ」
 なんて、水晶は好々爺丸出しで笑った。つられて笑う僕の口から「長野を魔想から守っている人達は誰なんですか」という考えなしの質問が飛び出しそうになるも、昨夜の過ちを繰り返してはならぬと自分に言い聞かせ、僕は今すべきことに集中した。
「及第点をもらえたみたいなので、もう一つに移ります。水晶はさっき、大会に臨む僕にも役立つって言いましたよね。あれは世間の評価の一つである、研究学校生は温室育ち、と同義だと僕は感じました。当たっているでしょうか」

 研究学校への世間の評価は、時の経過とともに変化してきた。
 大学進学に価値を置かない研究学校は創設当時、学歴社会の恩恵に浸ってきた人達から目の敵にされ、世間もそれに同調していた。
 しかし研究学校生と直接触れ合う近隣住民達が、研究学校生の人柄を世間へ広めてゆくに従い、目の敵にしていた人達は窮地に立たされていった。
 それでも、恐怖遺伝子最多保有民族の日本人は、新時代の教育を施す研究学校へ、奇異な印象を抱くことが多かった。年配者ほどそれは顕著らしく、日本古来の民族性の破壊者として研究学校を位置付ける老人は大勢いた。
 その老人達が寿命を迎え数を減らしてゆくにつれ、破壊者に類する過激な表現は見かけなくなっていったが、その人達の言である「研究学校生は温室育ち」は、今でも根強く残っていた。
 そしてそれは、様々な非公開情報を量子AI達から教えてもらっている僕にとって、あながち間違いではないという感想を持たざるを得ない、評価だったのである。
「ふむふむ。当たっているとして、話を先へ進めてごらん」
 まん丸のニコニコ顔でそう促されると、優柔不断と残念脳味噌を併せ持つ僕でも、話を聴いてもらえる喜びが湧いてくるのだから脱帽するしかない。颯太君の件で、後輩が増えてゆく一方の未来を実感した僕は、咲耶さんの弟弟子になる決意を胸に先を続けた。
「スポーツの審判を人が務めていた時代は、審判の死角で反則をして相手選手の動揺を誘うことがしばしば行われていました。審判の心証を操り、相手に不利で自分に有利な状況を意図的に作る選手もいました。それどころか、それらの技術に長けた選手を、優秀な選手として称える風潮さえありました。清廉であろうとする人が少数派で、私利私欲に染まった人が多数派である時代を、人類は長く生きすぎたのです」
 スポーツの語源となったラテン語は、日常生活に不可欠な作業から一時的に離れる、という意味で使われていたそうだ。これは平たく言うと「遊び」や「気晴らし」であり、よってラテン語を文化的背景に持つ欧州諸国では、チェスやTVゲームもスポーツの一種として捉えられていた。一方、この外来語に武士道精神を結びつけた日本人は、良く言えば求道者的な競技として、悪く言えば勝者至上主義的な競技としてスポーツを捉えていた。その良い面が作用したお陰で、世界に誇るフェアプレー精神を日本人は育むに至ったのは事実だろう。しかし、勝ちさえすればいいという悪い面が「勝負の世界に潔さを持ち込むなんて青臭い」という風潮を醸造したのも、また事実だったのである。
「量子AI登場以前の人類には、金や権力を得るためなら手段を選ばなくなる事を、大人の定義とする強い傾向がありました。そのせいで、いわゆる汚い試合をする若者を、大人は自信をもって矯正することができませんでした。そのような若者こそが社会の順応者として権力と高給を得る例を、大人たちは沢山見てきたからです」
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