僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十四章

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 八月四日、午前四時五十六分。
 十八歳以下では初の新忍道全国大会となる高校総体本選初日の、太陽が昇った。 
 その太陽を、翔々下で水晶の超音速鞭を躱し続けていても知覚できたのは、不思議であると同時に当然のことのように思えた。光のまったく差さない洞窟に住む水生生物も日の出を生活サイクルに取り入れて暮らしているそうだから、外部の感覚を完全に閉ざしていても、一日の始まりを本能が知覚して然るべきと思えたのである。とはいえ今の僕に、そんな余裕は全然ないんだけどね。
 去年の十一月末日、水晶の放った通常より数段厳しい超音速鞭を、僕は二十回躱すことに成功した。それ以降、道場での訓練はそれのみとなり、それに伴い魔想との戦闘も、修得済みの技術を使うのみとなった。先行する三か月の魔想戦も同様だったから、僕はかれこれ一年間、新技術を教わっていなかったのだ。しかしそれでも、焦りは一切なかった。僕はこの一年で以前とは比較にならぬほど、魔想の意思を知覚可能になっていたからだ。水晶の超音速鞭を野生のヒグマとするなら、去年四月に命からがら勝利した特闇も、陸に上がったアザラシと大差なかった。腹ばいになって地上を移動するアザラシは、体育会系部活に所属している若者にとって、落ち着いている限り命の危険はまずない動物と言える。奥深い山中で空腹のヒグマに出くわすことと比べたら、余裕をもってアザラシに対処できるはずだ。それと同程度の余裕が、今の特闇戦にはあった。心静かに特闇を観察し、動きを把握し、その意思を知覚できるようになった。またその状況下で繰り出す技は、去年の僕を数倍する上達速度をもたらしてくれた。新技術を身に付けずとも確実に強くなってゆく自分を、僕は日々実感していたのだ。その大本となった水晶の訓練をどれほど有難く思っているか、言葉では到底言い表せない。しかも魔想討伐を休んだ僕に合わせ、遠い長野までこうして足を運んでくれるのである。音速の三倍という鞭の速度以上に、その大恩へ全身全霊で応えるための緊張感から、翔々下での訓練に僕は余裕の欠片も感じられなかったのだった。
 それから数分経った、五時。
「本日の訓練はこれにて終了」
「ありがとうございました」
 水晶へ礼を述べ翔々をとき、三次元世界に僕は戻ってきた。そして目を開け、
「双葉も虫よけと遮音と遮光をありがとう。とても快適だったよ」
 反対側に座るもう一匹の精霊猫に体ごと向け、深々と頭を下げた。翔々中は化学物質をなるべく用いない方が良く、また音や光の外的刺激も少ないに越したことはないので、精霊猫の双葉が虫と音と光を遮ってくれていたのである。それだけでも感謝せずにはいられないのに、
「精霊体を二つ出現させ、長野と金沢の二か所同時に技を使うのは私にとっても良い訓練なの。気にしないで」
 と愛らしく微笑むものだから、世にも珍しいこのエメラルド色の猫を抱きしめ頬ずりしたい衝動を、昨日に続き僕は今日も大層苦労して我慢せねばならなかった。
 まあ金沢の年頃娘達は間違いなく、五日連続で頬ずりしているはずだけどね。
 それはさておき、
「水晶、研究学校への侮辱対策について進展がありました。聞いてくださいますか」
 輝夜さんと昴の金沢観光を助けてくれた事については訓練前に礼を述べていたので、訓練後のおしゃべりタイムの話題提供を兼ね、僕はそう切り出した。理由は定かではないが水晶は長野での訓練後、自由に会話できる時間を設けてくれていたのだ。消えかけていた双葉に鮮やかなエメラルド色が蘇り、水晶の隣へ移動し香箱座りをする様子に、これは精霊猫全般の興味を引く話題なのかもしれないと感じつつ、昨日知ったことを僕は説明した。
「湖校の部活はそんな伝統を受け継いでいたのね。私は御所ほど湖校に詳しくないから、初耳だったわ」
 瞳を丸くして感心する双葉の隣で、水晶は日差しの温かさにウトウトし始めた猫になっていた。僕の知らなかった湖校の伝統を竹中さんに教えてもらった昨日の時点で水晶がそれを熟知していることは予想できたから、退屈な話にならぬよう工夫したつもりだったけど、僕ごときではやはり無理だったようだ。まあそれこそ、当然と言えば当然なんだけどさ。
「それで眠留は、ヒントとして出された『他者への配慮』に、見当は付いたの?」
 ひょっとすると水晶は双葉と会話させるべく眠たげな演技をしているだけなのかな、いや絶対違うだろうなんて一人ツッコミを胸中しつつ返答する。
「それが難しいんだよ。荒海さんが休憩中に話した『他者への配慮』で正解だとは思うんだけど、最上級生が身をもって教えてくれるってことは、最上級生と下級生の『他者への配慮』には違いがあるって事だよね。けどそんなの、僕にとっては当たり前でさ。真田さん達がこれまで見せてくれたそれと、未熟極まりない僕のそれには差があり過ぎるから、正解はその差の中にあるのか、それとも別の場所にあるのかが、僕には分からないんだよ」
「あら、基本をしっかり押さえているじゃない。そうね、差の中にあるなら差について熟考すれば正解を得られやすくなるけど、別の場所にあるなら差を無視した方が、正解の閃きは得られやすくなる。眠留が閃きの基本をちゃんと覚えているって、神社に帰ったら桔梗姉さんに話しておくね」
「ひええ。猫丸のなた化訓練では、桔梗に一方ならぬご迷惑をお掛けしました~~」
 香箱座りから正座に切り替えた双葉へ、土下座せんばかりの勢いで僕は謝った。精霊猫は基本的に対等だけど、翔猫時代を中吉と小吉のように過ごした桔梗と双葉は、今でも姉妹として振舞っている。その関係で、猫丸の鉈化に半年近く費やした僕を、意識操作の師匠である桔梗以上に双葉は気に掛けていた。だから僕はこの話題になると、中吉への謝罪を小吉へもするのと同様、桔梗と双葉の双方へ頭を下げていたのである。
 そう僕は、猫丸の鉈化に半年近い時間を費やしてしまった。その主な理由は、日本刀と鉈の違いを僕が意識し過ぎたことにあった。日本刀と鉈は、形状も性質も真逆の刃物と言える。それを強烈に意識していた僕は、鉈の形状を思い出している最中、無意識下で日本刀の形状も思い出していた。鉈の性質を活かして戦っている自分を想い描くと同時に、日本刀の性質を活かして戦っている自分も、無意識に想い描いていた。そのせいで、心の中に形成した鉈を無意識の産物にしようとしたとたん、無意識領域に形成した日本刀と、鉈が融合してしまった。その仕組みに気づいてからも、鉈化を成し遂げるまで三か月かかった。その理由はまたもや、僕が意識し過ぎたことにあった。無意識領域に日本刀を形成すまいと努めれば努めるほど、日本刀は確固たる存在感をもって、無意識領域に出現したのだ。あの時は正直、かなり深刻に凹んだ。僕が残念な人間だからこんな事態を引き起こすのだと、信じ込んでいたのである。しかし人とは面白いもので、凹むことに疲れ果て余分な意志力を失った僕は、脱力の極みとも呼べる状態になり、するとその脱力状態が、
 ポン♪
 と純粋な鉈を心の中に呼び寄せてくれた。その時、僕ははっきり感じた。僕が意識しようとすまいと、鉈化した猫丸は宇宙の未顕現領域に既に存在していて、そしてそれを呼び寄せる障壁になっていたのは、鉈とはこういうモノであるという僕の既成概念だったと、その時はっきり感じたのだ。それを今回の件に応用したのが双葉の言った、「別の場所にあるなら差を無視した方が閃きは得られやすい」だったのである。
「姉さんも私も、手のかかる子ほど可愛いって知っているから、気にしなくていいわ」
 猫が優しげにコロコロ笑う様子を、物心つく前から当然のこととして見てきた僕はきっと、自然のありがたみを理解していなかった前世紀の人達のようなものなのだろうな・・・
 そうしみじみ思っていた僕へ、
「そうそう私、閃いた事があるの。聞いてくれる?」
 双葉が友人のように話しかけてきた。
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