僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十五章

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 僕を気落ちさせないためなのか、腸腰筋とハムストリングスのCG映像を智樹が空中に映してくれた。サンキューと言い、ありがたく使わせてもらった。
「腸腰筋を使って脚を振り下ろすとき、体は同時にハムストリングスも使って、脚の動きを調整している。片側の筋肉のみに頼るのではなく、両側の筋肉を巧みに調整しながら、ボールを蹴っているんだね」
 拮抗筋の調整能力と運動音痴は密接に関係していて、それを論じたい気持ちは多々あったが、今はその時間ではない。話が脇道に逸れぬよう、僕はウオッホンと咳払いした。 
「ボールを蹴る動作において、ハムストリングスは『伸びながらブレーキを掛ける』という役割を担う。そしてここが面白いのだけど、伸びながら少しずつブレーキをかけるという作業は、筋肉に大きな負荷をかける。どれくらい大きいかと言うと、縮むとき以上の負荷がかかる。つまり!」
 僕は熱血教師ヨロシク、二つのCG筋肉をビシッと指さした。
「腸腰筋を使ってボールを蹴ればハムストリングスも鍛えられるから、走力と調整能力の両方を向上させられるんだね!」
 盛大な拍手に気をよくした僕は、鼻息荒く続けた。
「これは逆も真なりで、ハムストリングスを使って走ると、キック力も向上する。速く走ることとキック力はどちらもサッカーに必須だから、そこに座る真山のように二つの筋肉をいつも意識して使っているサッカー選手は上達が凄まじく早く・・・って、なんで真山がいるの!?」
 鼻息荒くまくし立てていたせいで智樹の隣に3Dの真山が座っている事に、僕は今更ながら気づいた。腹を抱えて笑う二人が種明かしした処によると、真山のメールを受け取ったミーサが美夜さんに掛け合い、真山が3Dで僕の部屋を訪問できるよう計らってくれたのだと言う。いたずら心の芽生えた真山は智樹に頼み、二人並んで座っていられる状況を作ってもらい、そして満を持し3D映像で現れたところ、僕はまるで気づかず話を進めていったそうなのだ。けどそんなのどうでもいいほど嬉しかった僕は、「これからは真山もいてくれるんだね!」と瞳を輝かせたのだけど、それは叶わなかった。休憩時間を利用して参加したに過ぎなかったのだ。明日の再会を硬く誓い、真山の3Dは消えていった。
 でも、良い事もあった。ほんの僅かとはいえ三人そろった反動で寂しさを募らせた智樹が、夕ご飯を頂いていいかなと言ってくれたのである。智樹に負けず劣らず寂しがっていた僕に、否などあろうはずがない。「五時にカレーを作り始めるから力を貸してくれ!」「任せろや!」と気炎を上げた僕らは、サッカー談義に終止符を打つべく突き進んで行った。
 それからも智樹と様々なことを話し合った。
 腸腰筋とハムストリングスのような拮抗筋は筋トレで個別に鍛えても、調整能力は向上しない。したがって筋トレはせず、サッカーを介して鍛える事。
 そのためには重心を高くして胸を張り、足元のボールを見ないクセを付ける事。
 足元は見ずともやり取りされているボールはよく見て、軌道と速度と回転の様子からボールの未来を予測する事。
 未来予測はボールだけでなく、ピッチ上の人にも適用する事。
 常に周囲へ目を配り、視覚情報を脳内で鳥瞰図に換え、人とボールの未来予測をそれに重ねる事。
 これらを箇条書きし、今後も研究を続けてゆく合意が得られたところで、時刻は午後四時四十五分になっていた。休憩を考慮すると、時間はもうほとんど無いだろう。よって最後に、どうしても伝えたいことを話す時間を設けた。ジャンケンに負けた僕から、それを口にした。
「真田さんの質疑応答は、失敗を恐れず挑戦し続けた者のみが到達する領域の話だ。だから智樹も失敗を恐れず、挑戦し続けてくれ」
「事実上の全国大会決勝で、マゾではないことを言及されるおとこの言葉を、俺は決して忘れないよ」
「ちょっと待って、アレやっぱ僕のことだよね?」「お前なに言ってんだ。荒海さんがアレを言ったとき、眠留の事だ~って、部室は大爆笑だったぞ」「ヒエ~~!!」
 頭を抱えた僕を遠慮皆無で笑い飛ばし、智樹は「じゃあ次は俺だな」と背筋を伸ばした。
 その姿に、僕は未来を観た。
 僕とは異なる方法で智樹がこの時間を用いる未来を、僕は脳裏に観たのである。
 数瞬後、智樹はそれを具現化した。 
「胸の中にあるこの想いを、俺は言葉にしない。俺は、美辞麗句を並べるばかりでそれを行動に移さない人間を親に持ち、この世に生まれた。だからその逆の人間になれば、俺は新しく生まれ変われる気がするんだよ」
 智樹は伝えたい想いを、言葉ではなく態度で示すと言ったのである。
 ならばと僕も、無言で頷いた。
 智樹もただ頷き返した。
 それから僕らは、カレー作りに全力で臨む意思を態度で示すべく、ごろりと寝転がって過ごしたのだった。

 その日のカレーは、僕が習得したレシピの中で最も素朴なものを選んだ。素朴な分、ジャガイモと人参と玉葱を1センチ角に切らねばならないのだが、早くもその工程で智樹は大いなる成長を果たした。丁寧さを忘れず集中力を損なわず智樹が切り分けた人参の、一本目と八本目に、多大な差が出たのだ。「技術が向上するほど食材に敬意を払えるようになるよ」と伝えたのち、一本目の中で出来が一番悪いものと、八本目の中で出来が一番良いものを選び、切断面を指で触ってもらう。智樹は沈痛な面持ちになり、一本目の人参にゴメンなと声を掛けていた。
 今日のカレーは圧力鍋を使うので、火に掛ければ料理の九割を終えたと言える。食器やスプーン等を用意し、ぬか漬けと西瓜を切り分け、残り一割を半分まで進めたとき、美鈴が台所に現れた。そして、
「福井さんのお陰で疲れが取れました」
 美鈴は智樹に恭しく腰を折った。午前と午後の三時間ずつを部活に費やし四時半に帰宅した美鈴は、午睡を取っていたのである。
「誰かさんが料理を手伝ってくれたから、美鈴はそのぶん長く眠れたんだよ。ありがとな、誰かさん」
 昼食と夕食をこの家で食べることに負い目を感じていた智樹にとって、僕ら兄妹の謝意は思いもよらぬ事だったらしい。咄嗟に「俺は役になんてたっていません」となぜか敬語で否定していたが、智樹が切り分けた渾身の胡瓜の糠漬けを美鈴に見せ、そんな事ないと二人で説くと、智樹は胸の前で拳を握りとても困った顔になった。白状すると僕も困ってしまったのだけど美鈴には何でもないらしく、智樹と並んで圧力鍋の前に立ちカレーの仕上げをしていた。神道の本質に触れたと智樹が感じているような、そんな気がした。
 夕食は予定どおり午後六時過ぎに始まった。カレーは好評で、祖父母と美鈴は一回ずつ、僕と智樹は三回ずつお代わりして圧力鍋を空にした。空になった鍋とは裏腹に話題は尽きることがなく、格闘技を土台とするサッカー論は特に盛り上がり、祖父母と美鈴もノリノリで議論に加わっていた。祖父に至っては「熟年サッカーなら儂もそこそこイケルのではないか」と真顔で言い出し、おじいちゃん想いの美鈴が調べてみたのだが、最寄りのチームもAICAで往復三時間かかる場所にあったため諦める他なかった。祖父は本気で興味があったのか酷く落胆し、その落ち込みぶりが僕にそっくりだという祖母の指摘は、夕食いちの笑いを誘っていた。
 午後七時過ぎ、玄関で祖父母と美鈴に深々とお辞儀し、智樹は寮に帰って行った。水晶がその五分後に現れ、智樹が玄関と同じ仕草を拝殿前と鳥居でしたことを教えてくれた。智樹の家庭事情を知る祖父母は、目に涙を浮かべて手を合わせていた。
 午後八時半、輝夜さんと昴が所沢に帰ってきた。近隣住民への配慮から出迎えは禁じられていたが、猫が会いに来るのを禁じる規則はないと咲耶さんが明言してくれたので、小吉と末吉が皆を代表し六年生校舎の校門に向かってくれた。二匹に出迎えられた輝夜さんと昴の喜びようといったらなく、というか二人がバスを降りるなり末吉が一目散に駆けてゆき、盛んにニャーニャー鳴きながら足元にじゃれついたので、末吉は数十人の薙刀女子による撫で撫で攻撃に見舞われたと言う。その隙に小吉がテレパシーで二人に呼びかけ、目立たない場所で再会を喜び合い、機を計り二匹は薙刀女子達から逃げてきたそうだ。それはさておき輝夜さんと昴は自宅に無事到着し、その帰宅メールをもって、本年度の僕のインターハイは幕を閉じたのだった。
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