僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十五章

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 輝夜さんの父親の名が光彦、兄の名が秀治なことも今回初めて知った。白銀家の始祖である明智光秀の「光」と「秀」の字を嫡子に用いるのが、本家代々の習わしなのだろう。
「葉月が翔家翔人の秘密を知ったのは、結婚後でした。私達夫婦が知ったのは、輝夜が生まれ、輝夜に翔人の才能があると判明してからでした。この家が白銀家の肝煎りで建て替えられたのは、その時でしてな。良く言えば娘と孫娘に翔人の運命を背負わせた事への詫び、悪く言えば翔家翔人の口止め料と、私達は考えています」
 僕は座布団に座ったまま通常の礼をし、そして座布団から降りて土下座した。前者は葉月さんと輝夜さんを翔家に迎え入れられたお礼で、後者は死の危険を伴う職務を輝夜さんに背負わせたことへの謝罪だった。僕の立場では、いや祖父母であっても礼と土下座の意味の違いを口にしてはならないとされていたが、
「私達は勘違いをしていたのかもしれません。どうか顔を上げてください」
 老夫婦はそう言い、僕を両側から支え起こしてくれた。僕の左隣で同じように二度頭を下げた末吉は輝夜さんに支え起こされ、感謝と慈愛に満ちた手で撫でてもらっていた。
「白銀家に嫁いだ葉月は年に一度帰省するだけでしたが、輝夜が生まれてからはそれが月に一度になりましてな。しかも玉のような孫娘を連れて戻って来てくれたものですから・・・」
 老夫婦は言葉を詰まらせ、ハンカチで目元を抑えた。僕と輝夜さんを交互に見つめる末吉に二人揃って頷くと、末吉は老夫婦の膝元へ駆けてゆき、ニャーニャーとしきりに鳴いた。優しい子じゃ、優しい子ですねえ、と老夫婦は頬をほころばせ、話を再開した。
「月に一度の帰省は、輝夜が三歳になる年の一月三十一日に終わりました。葉月はその夜、輝夜の名の由来と自分の決意を私達に明かしました。『白銀家の始祖の明智光秀は、セイショウの朋友ほうゆうとなる女子に輝夜と名付けよ、という予言を残していた。その約五百年後に生まれた予言の子の輝夜が白銀本家の長幼を乱し、秀治を差し置き嫡子とならないよう、私は心を鬼にすると決めた』 あの子はあの夜、私達にそう話したのです」
 翔人のパートナーの翔猫や翔狼や翔鳥を、かつて朋友と呼んでいたのは覚えていたため漢字変換できたが、初めて耳にしたセイショウは無理だった。厳密には、翔猫と精霊猫の正式名称が月晶と陽晶である事から「星晶もしくは聖晶か」との閃きを得たのだけど、僕はそれを手放し、より重要なことに時間と思考力を使った。
 輝夜さんの誕生を、いわゆるお家騒動の元凶と捉えた人が白銀一族にどれ程いたのか、僕には分からない。だが老夫婦の話から推測するに葉月さんはその一人であり、そして葉月さんはその人達にあえて加わる事で、その人達の内部操作を試みたのだと僕には感じられた。また葉月さんの行いは、僕の母に似ているとも感じた。翔人の才能の欠片もない僕を心を鬼にして鍛える事で、猫将軍一族の長老達が「訓練続行の正否は暫し保留」を採択するよう促した、亡き母のように。
 だがそれら全ては突き詰めると、僕の推測にすぎない。僕の母の心内こころうちも、輝夜さんの母親の心内も、輝夜さんの心に傷をつけた生家での出来事も、僕にはわからないのだ。ならば僕が今すべきは、いかなるものからも輝夜さんを守る覚悟を持つ事。僕は左後ろに座る輝夜さんを守るべく、心身を戦闘モードへ移行した。末吉も老夫婦のもとから駆け戻り、輝夜さんの盾となるべくその膝元に座った。葉月さんの「私は心を鬼にする」の個所で硬さをまとった輝夜さんが、柔らかさをみるみる取り戻してゆく。それは老夫婦にも効果を及ぼしたらしく、再開された話はその内容に反し、ほのかな懐古に彩られていた。
「葉月の帰省は、年に一度に戻りました。葉月が輝夜に、冷淡な態度をとっていると風の噂に聞きました。葉月は連絡をよこさなくなり、反対に輝夜のメールは、翔人の訓練のつらさと母親の冷たさを訴えるものが増えて行きました。私達は自分を呪いました。親の価値観で娘を縛ってはならないと自分を戒めた日々を、そしてそれを今も続けている自分を、私達は呪ったのです」
 自分を呪った経験が僕に無かったら、僕は老夫婦の話に取り乱し、戦闘モードの解除を余儀なくされていたと思う。けど僕には、自分を呪った過去があった。あの日々があったからこそ僕は今もこうして、輝夜さんを守る自分を維持できているのである。そんな僕を仲間と認識してくれたのか、老夫婦は朗らかな笑みを投げかけてくれた。
「しかし、それを忘れさせてくれる日が一年に十日ありました。輝夜が一年に五度私達のもとを訪れ、その都度この家に一泊してくれたのです。その十日間に私達がどれほど喜び救われたか、言葉では表せません。輝夜は私達を、大層慕ってくれました。青山の家の寂しさが輝夜にそうさせているのだと知っていても、葉月が心を鬼にして輝夜に冷たく接していると知っていても、それでもこの家に孫娘がいてくれるだけで、私達はただただ幸せだったのです」
 その頃の輝夜さんがこの家のあちこちにいる様子を心の目が捉えた。いや、視点が一方向に限定されない全方向視点を持つその不思議な映像は、輝夜さんを見守ってきたこの家自身の記憶かもしれなかった。
「そしてその幸せが、毎日続く日がやって来ました。自分を呪った日々が、報われる日がやって来ました。この家が、輝夜の避難所になれたのです。生まれ育った家から逃げ出すことしかできなかったのは、悲しいことです。しかし私達がここにいなければ、輝夜はそれすらできなかった。輝夜は疲弊した心をこの家で癒し、湖校に通い、そして元気になりました。嬉しさと楽しさの溢れる日々を、輝夜は過ごすようになったのです。だから眠留さん」
 老夫婦の呼びかけに合わせ、家に芯が一本通ったように感じられた。先ほどの不思議な映像がこの家自身の記憶だったことを確信した僕は、老夫婦と家の双方へ居住まいを正した。
「おじい様とおばあ様へ、どうぞお伝えください。輝夜を大切にして頂けるだけで、私達は幸せです。百万言を尽くしても言い表せぬ感謝を、あなた様方へ抱いております。今後とも、輝夜をよろしくお願い致します」
 僕は知った。
 誰かを大切にする気持ちは、光と同じ性質を持っていた。
 猫将軍家の人々が輝夜さんを大切にする気持ちは、輝夜さんだけでなく、老夫婦にも明かりを届けていた。
 それは、老夫婦が輝夜さんを大切にする気持ちと合わさり輝夜さんを照らし、そしてその光は輝夜さんによって、僕らにも届けられていた。
 光が遠く離れた場所に明かりをもたらすように、誰かを大切にする気持ちは距離を超え、異なる場所にいる人達を明るく照らしていたのだ。
 いや、大切にする気持ちは距離のみならず、時間を超えることもできた。過去の苦しみを和らげる光にも、未来の希望を見定める光にも、なっていたのである。
 ふと思った。
 ――距離と時間に縛られない宇宙の創造主は、自分に似せて人を創った。ならば、人の目的地と創造主の目的地は、同じなのではないか――
 僕にはわからない。
 無数の制約に縛られている僕は創造主の性質と違いすぎて共振の通路を開けず、目的地を見通すことがまだできないのだ。でも、
 
  大勢の人達の光を結集すれば、
  目的地を照らし出せるかもしれない。
 
 それを気づかせてくれた今日の出会いへ感謝を込め、
「全身全霊をもちまして」
 老夫婦とこの家へ、僕はそう応えたのだった。
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