僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十五章

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 僕らの乗ったAICAが森を抜け住宅街に入った。起伏の多い狭山丘陵で育った僕は、平坦一徹の街並みに違和感を覚えてしまうのだけど、南へゆるやかに傾斜するこの住宅街にはそれを感じなかった。山と森に隣接しつつも東京っぽさの漂うこの街に、僕はほのかな好感を抱いた。
 真南に伸びる二車線道を東に折れ、AICAが路地を進むようになると、ほのかな好感は明瞭な好感に変わった。山裾やますその土地をあえて選んだ人々の住む街だからか、ほとんどの家がガーデニングに力を入れていたのである。手入れの行き届いた庭と色とりどりの花壇に、僕は目をとても楽しませてもらった。その花壇が途切れると、
「茶畑だ!」「茶畑にゃ!」
 かまぼこ型に整えられた青々とした茶畑が視界に飛び込んできた。山と住宅街の隙間に作られているため広々に類する形容詞は使えなくとも、50メートル幅の茶畑が数百メートルも続いている光景は、ちょっとした旅行気分を味わわせてくれた。しかもその中ほどの、茶畑が最も厚い場所に山へと続く道が設けられていて、その道に入るべくAICAが減速したものだから、
「かまぼこ畑に突入にゃ!」「おお――!」
 などと、冒険に挑むが如き高揚を僕と末吉は覚えていた。
 かまぼこ畑、もとい茶畑の先の森には、雑木林の気配が漂っていた。輝夜さんに尋ねたところそれは正解らしく、六十年ほど前に輝夜さんの祖父の御両親が茶畑を雑木林に替えたのだと言う。100メートル進み上り坂になっても雑木林の気配が続いていたことから、輝夜さんの母方の実家はかなりの土地を所有する家系なのではないかと思った。そのとたん、
『ナデシコ株の発見者は東大和市の茶農家の一人娘で、東京の大金持ちと結婚したそうだ』
 という、これまで全く気にかけてこなかった噂話が意識の表層にいきなり浮上してきた。それは小学校低学年時に偶然聞いた噂話であり、また東大和市は僕の住む埼玉県とは異なる東京都に属し、かつそれを耳にした頃の僕の脳味噌は今よりもっと悲惨だったので、東大和市は遠く離れた場所にあるという感覚が心に根付いていた。しかしそれは間違いも甚だしく、二つの市は隣り合う位置関係にあった。そう僕は今この瞬間、東大和市にいたのだ。しかも、東京の大金持ちに嫁いだ東大和市出身の女性の娘さんと、AICAに同乗していたのである。僕は頭が混乱しかかった。だが、女性を花の香りにするナデシコ株と呼ばれる善玉菌を発見した女性は天才薙刀使いという一般常識を、記憶の格納庫からかろうじてすくい上げることに成功した。
 丁度その時、AICAが雑木林を抜け広々とした畑に出る。
 その、半径100メートルの畑の中心に立派な道場を有する日本家屋を認めた僕は、世界一好きな女性についてもっともっと知りたいと、かつて無いほど強く願ったのだった。

 輝夜さんの祖父母との対面は、お詫びの気持ち一色から始まった。猫将軍家は輝夜さんの御家族に寂しさを強いているという祖父の言葉が、罪悪感を爆発させたのである。
 輝夜さんの祖父母は、門まで足を運び僕らを出迎えてくれた。枝ぶりの良い松と大きな自然石でできた風情ある門のもとに佇む老夫婦を目にするや、僕は土下座しそうになった。この老夫婦が輝夜さんをどれほど大切にし愛しているかを、心の目がありありと捉えたのである。孫娘と過ごす時間をこの老夫婦から奪っていることを、額を地に着けてお詫びしたい気持ちで僕はいっぱいだった。
 そんな僕の気持ちを、きっと汲んでくれたのだと思う。知らず知らずのうちに体を直角に折っていた僕に老夫婦は歩み寄り、肩や背に手を添え、僕が体を真っすぐ伸ばすよう促してくれた。太陽と大地の力を借りて農作物を育ててきた老夫婦の手は、譬えようもないほど優しかった。
 風雅な日本庭園を経て、玄関に通された。靴を脱ぎ身をかがめ、脱いだ靴を整え立ち上がった僕を、老夫婦はとても褒めてくれた。玄関での作法のおさらいに付き合ってくれた祖母と貴子さんに、僕は心の中で手を合わせた。
 輝夜さんに足を拭いてもらい上がりかまちに昇り、背筋を伸ばしてペコリとお辞儀した末吉も、老夫婦に手放しで褒められていた。故郷でも神社でも、お年寄りに可愛がられて育った末吉は、輝夜さんの祖父母のハートを瞬く間に射抜いたみたいだ。それは末吉も同じらしく、老夫婦の膝で甘えることを心待ちにしているようだった。
 黒光りする廊下を渡り床の間に通された僕は、祖父母の名代として挨拶した。そして心に従い、輝夜さんと過ごす時間を猫将軍家が奪ってしまっていることを謝罪した。老夫婦はしばし瞑目したのち、輝夜さんの母親の話をしてくれた。
「私達の一人娘、輝夜の母の葉月はづきは、トンビの両親のもとに生まれた鷹でしてな。良縁に恵まれ嫁いだ娘が、トンビの里と縁が遠のくのを、生まれたばかりの娘を一目見るなり私達は悟ったものです」
 葉月は八月の異名いみょうで、旧暦の八月は太陽暦の九月に相当し、記紀の時代の九月は落ち葉の現れる時期だったため、「葉が木から離れ始める月」を意味すると言われている。また葉月は秋の季語でもあり、収穫の秋は喜びの多い季節であることから、輝夜さんの祖父母は葉月という名に、素晴らしい娘を得た幸せと、遠くへ離れてゆく娘の運命を込めたのではないかと僕には感じられた。
「葉月は、薙刀の才能と明晰な頭脳を持っていました。私達は数えきれないほど娘を褒められ、そしてその都度、私達夫婦の小さな価値観に娘を閉じ込めてはならないと自分を戒めました。立派なおじい様とおばあ様に育てられた、あなたには打ち明けましょう。私達は娘を褒められるたび、一人娘を手放す寂しさを、募らせて行ったのです」
 同種の話を、昴の御両親から僕は一度だけ聴いていた。おじさんとおばさんはどちらも長子ではなく、婿養子をもらい昴に家を継いで欲しいとも考えていなかった。破格の天分に恵まれ破格の人生を歩むであろう一人娘の邪魔を、自分達は決してしてはならないのだと、おじさんとおばさんは一度だけ、さりげなさを装い僕に話してくれていたのだ。その出来事があったのは、兄という理由だけで妹の未来を奪ってはならないと心に誓った時期と重なったため、お二人の気持ちの千分の一を僕は共有できた気がした。そしてその出来事があったお陰で、輝夜さんの祖父母が募らせていった寂しさの、一万分の一を理解できた気が僕はしたのだった。
「葉月は大学在学中、香雪こうせつを発見し学会に発表しました。それが縁となり、大学の先輩だった白銀光彦さんと交際を始めました。光彦さんは誠実な方で、二年前に妻を亡くしている事と、秀治という名の二歳の男の子がいる事を、正式な交際をする前に話したそうです。そして白銀家を始めて訪れたとき、秀治君に『お母さん?』と呼びかけられ、秀治君の母親になる決意をしたと葉月は話していました」
 香雪とは、女性を花の香りにするナデシコ株の初期の俗称だ。また香雪には、良い香りのする白い花の意味の他に、茶の別称でもあったことから、お茶の生産地では今でもこの名が好まれていると聞いていた。だが事によるとこの俗称の考案者は、お茶の生産を代々してきた家に生まれた葉月さんか、もしくは眼前に座る老夫婦自身なのかもしれなかった。
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