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十五章
どちらかしかない
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心を整理整頓して清められるのは、自分しかいない。
物理的な部屋なら他者や機械に頼めても、心を清められるのは自分しかいない。
そして心を清める技術は、部屋の掃除と同じく、すればするほど上達してゆく。
嫌なことや辛い出来事があっても、その技術に長けていれば心は清められ、そしてそれを行うたび、心の清らかさはその人に定着してゆく。
その、長年の努力によって定着させた心の清らかさを、香雪は物質次元に具現化するのではないか。
節制しない人に効果を及ぼさないという具現化を香雪が成すように、節制が定着した人の心のあり様も、香雪は具現化するのではないか。
心を清める技術という、日々の努力により獲得した後天的美徳を、清らかな香りで香雪は表現しているのではないか。
もしそうなら、輝夜さんの真の姿が観えてくる。
清涼感の精髄たる香りに、人跡未踏の高峰に咲く白い花の香りが、ときどき加わる理由が観えてくる。
きっとそれは、天上の御使いがこの星に慣れてきた、証なのだろう。
そんなことを考えながらゆっくり叩いていた背中に、うっすら力が込められた。
身を起そうとする合図を受け取った僕は背中から手を放し、華奢な肩に手を添え、その手助けをする。
互いをいつもの距離に戻した輝夜さんは僕の瞳をのぞき込み、納得した声で言った。
「うん、私が決して嫌がっているのではないって、理解してくれたのね」
「輝夜さんは嫌がっているという想いが僕の中にあったら、僕の心はざわついていたはず。その想いが欠片も無いからこそ、僕は今、これほど穏やかな気持ちでいられるんだ。輝夜さん、そういう事だよね」
他者の心の詳細はわからずとも、他者が解き放った想いの本質を素直に感じることなら、テレパシーなどなくても容易にできる。僕の胸の中で輝夜さんが想いを解き放ち、そしてその想いの本質を僕が素直に感じ取ることなら、僕と輝夜さんは絶対的な自信を持っていた。つまり、僕が今これほど落ち着いているのは、輝夜さんが嫌な気持ちを少しも抱いていなかった証拠。僕はそれを自分の心を見つめることで、理解したのである。
そんな僕を今度は輝夜さんが素直に感じ取り、それをまた僕が感じ取るといった具合に、共有する素直な気持ちを僕らは増幅して行った。僕と輝夜さんが物理的な違いを無数に持っていようと、心の核の部分で同じ想いを共有できれば、僕らは対等になれる。対等な存在として、共に生きてゆく事ができるのだ。
と、ここまでは甘酸っぱくとも、健全な夏休みのひと時を過ごせていたと思う。でも、共に生きて行くという概念が結婚に結び付いたとたん、想いを共有していたのが仇となり、僕らは照れ照れになってしまった。ほんの数十秒前まで薄手のシャツ越しに互いの肌を感じ合っていた思春期真っ盛りの男女なのだから、婚姻に伴うアレコレに心を翻弄されて当然なのかもしれないが、それでも僕らは新たな話題を掲げ、この身悶え級の照れ照れ状態を打開しようとした。しかしアレコレから遠ざかって考えているはずの僕の頭が思いつくのは「プールに行こう」や「海に行こう」系の、今よりもっと開放的な姿になった輝夜さんを公然と拝める話題ばかりだったため、「僕はエッチやヘンタイではなくその中間のスケベだったんだ」との真実が僕を襲った。その真実は巨大すぎて抵抗できず、いっそスケベになり切ってしまおうかという案にジワジワ浸食されて行ったが、
「すっ、末吉はどうしているかな!」
すんでのところで健全な話題を閃くことができた。すると、
「しょ、少々お待ちください!」
輝夜さんはHAIのセキュリティシステムを立ち上げ望遠カメラで末吉の現在位置と状況を特定するという大掛かりな対応を、大慌てでしてくれた。その慌てぶりから、輝夜さんも一杯一杯だったことが如実に見て取れ、と僕が考えていることに輝夜さんが気づき、それに僕も気づくといった具合に、僕らは歴代一の高温高圧照れ照れに悶えてしまった。のだけど、
「・・・末吉のこんなに心地よさげな寝顔、初めて見るよ」
「・・・きっと、畑で思いっきり遊ぶという夢を、叶えられたのね」
木陰でスヤスヤ眠る末吉の姿が、僕らの心を通常状態に戻してくれた。
森と畑の境の涼しげな木陰で横になり、末吉は笑顔を浮かべたまま眠っていたのである。
そんな末吉の様子を輝夜さんと一緒に眺めていると、我が子の寝姿に頬を緩める夫婦のような気がしてきて、僕らの胸に揺るぎない愛情が芽生えた。
それはなんとも幸せなひと時で、これ以上の幸せを僕は想像できなかったのだけど、それは違ったらしい。
「なぜ忘れていたのかしら。翔人としての私のパートナーを、眠留くんに紹介するね!」
「うわあ、嬉しいよ輝夜さん!」
嬉しさを新たに加えれば、人は幸せの上限を容易く更新できるのだと、輝夜さんは僕に教えてくれたのだった。
それから僕は、盛夏の日中に初めてお会いするのだから失礼の無いよう服装を一新したいという希望を輝夜さんに述べた。こういう事もあろうかと、靴下やパンツを含む着替え一式を、AICAの荷台に2セット積んでいたのである。もちろん輝夜さんは快諾し、僕は喜び勇んで客間を後にし外へ出て、駐車場に停めてあるAICAに飛び乗った。
そして車窓の不透明化と冷房の指示を出すや力尽き、両手で顔を覆って泣いた。
笑顔で輝夜さんの前に立つため僅かな時間を利用し、涙を流してうめいた。
先ほど、三人の輝夜さんに覚悟を伝えたとき、僕は思い出した。
前回の輝夜さんも前々回の輝夜さんも、どちらも十代でこの星を去っている事。
そして僕の未来は、二千年の修業が実り今度こそ輝夜さんと共にこの星を去るか、二千年の修業が無駄になり今回もこの星に一人残されるかの、
――どちらかしかない事。
この二つを僕はあのとき、はっきり思い出したのだ。
修業が実るか無駄になるかの節目に生まれてきたことに、恐れはない。
残された日々を二千年の願いを叶えるべく使うことにも、未練はない。
だが、この人生で縁を結んだ大勢の人々とあと数年で別れることへ、動揺を微塵も感じないというのも、決して無かったのである。
それゆえ僕は泣いた。
動揺を昇華するため涙を流しうめいた。
そして一分後、快適な涼しさが車内に満ち、体を拭くための濡れタオルをまず目元に使いまくってから、僕は着替えを開始したのだった。
物理的な部屋なら他者や機械に頼めても、心を清められるのは自分しかいない。
そして心を清める技術は、部屋の掃除と同じく、すればするほど上達してゆく。
嫌なことや辛い出来事があっても、その技術に長けていれば心は清められ、そしてそれを行うたび、心の清らかさはその人に定着してゆく。
その、長年の努力によって定着させた心の清らかさを、香雪は物質次元に具現化するのではないか。
節制しない人に効果を及ぼさないという具現化を香雪が成すように、節制が定着した人の心のあり様も、香雪は具現化するのではないか。
心を清める技術という、日々の努力により獲得した後天的美徳を、清らかな香りで香雪は表現しているのではないか。
もしそうなら、輝夜さんの真の姿が観えてくる。
清涼感の精髄たる香りに、人跡未踏の高峰に咲く白い花の香りが、ときどき加わる理由が観えてくる。
きっとそれは、天上の御使いがこの星に慣れてきた、証なのだろう。
そんなことを考えながらゆっくり叩いていた背中に、うっすら力が込められた。
身を起そうとする合図を受け取った僕は背中から手を放し、華奢な肩に手を添え、その手助けをする。
互いをいつもの距離に戻した輝夜さんは僕の瞳をのぞき込み、納得した声で言った。
「うん、私が決して嫌がっているのではないって、理解してくれたのね」
「輝夜さんは嫌がっているという想いが僕の中にあったら、僕の心はざわついていたはず。その想いが欠片も無いからこそ、僕は今、これほど穏やかな気持ちでいられるんだ。輝夜さん、そういう事だよね」
他者の心の詳細はわからずとも、他者が解き放った想いの本質を素直に感じることなら、テレパシーなどなくても容易にできる。僕の胸の中で輝夜さんが想いを解き放ち、そしてその想いの本質を僕が素直に感じ取ることなら、僕と輝夜さんは絶対的な自信を持っていた。つまり、僕が今これほど落ち着いているのは、輝夜さんが嫌な気持ちを少しも抱いていなかった証拠。僕はそれを自分の心を見つめることで、理解したのである。
そんな僕を今度は輝夜さんが素直に感じ取り、それをまた僕が感じ取るといった具合に、共有する素直な気持ちを僕らは増幅して行った。僕と輝夜さんが物理的な違いを無数に持っていようと、心の核の部分で同じ想いを共有できれば、僕らは対等になれる。対等な存在として、共に生きてゆく事ができるのだ。
と、ここまでは甘酸っぱくとも、健全な夏休みのひと時を過ごせていたと思う。でも、共に生きて行くという概念が結婚に結び付いたとたん、想いを共有していたのが仇となり、僕らは照れ照れになってしまった。ほんの数十秒前まで薄手のシャツ越しに互いの肌を感じ合っていた思春期真っ盛りの男女なのだから、婚姻に伴うアレコレに心を翻弄されて当然なのかもしれないが、それでも僕らは新たな話題を掲げ、この身悶え級の照れ照れ状態を打開しようとした。しかしアレコレから遠ざかって考えているはずの僕の頭が思いつくのは「プールに行こう」や「海に行こう」系の、今よりもっと開放的な姿になった輝夜さんを公然と拝める話題ばかりだったため、「僕はエッチやヘンタイではなくその中間のスケベだったんだ」との真実が僕を襲った。その真実は巨大すぎて抵抗できず、いっそスケベになり切ってしまおうかという案にジワジワ浸食されて行ったが、
「すっ、末吉はどうしているかな!」
すんでのところで健全な話題を閃くことができた。すると、
「しょ、少々お待ちください!」
輝夜さんはHAIのセキュリティシステムを立ち上げ望遠カメラで末吉の現在位置と状況を特定するという大掛かりな対応を、大慌てでしてくれた。その慌てぶりから、輝夜さんも一杯一杯だったことが如実に見て取れ、と僕が考えていることに輝夜さんが気づき、それに僕も気づくといった具合に、僕らは歴代一の高温高圧照れ照れに悶えてしまった。のだけど、
「・・・末吉のこんなに心地よさげな寝顔、初めて見るよ」
「・・・きっと、畑で思いっきり遊ぶという夢を、叶えられたのね」
木陰でスヤスヤ眠る末吉の姿が、僕らの心を通常状態に戻してくれた。
森と畑の境の涼しげな木陰で横になり、末吉は笑顔を浮かべたまま眠っていたのである。
そんな末吉の様子を輝夜さんと一緒に眺めていると、我が子の寝姿に頬を緩める夫婦のような気がしてきて、僕らの胸に揺るぎない愛情が芽生えた。
それはなんとも幸せなひと時で、これ以上の幸せを僕は想像できなかったのだけど、それは違ったらしい。
「なぜ忘れていたのかしら。翔人としての私のパートナーを、眠留くんに紹介するね!」
「うわあ、嬉しいよ輝夜さん!」
嬉しさを新たに加えれば、人は幸せの上限を容易く更新できるのだと、輝夜さんは僕に教えてくれたのだった。
それから僕は、盛夏の日中に初めてお会いするのだから失礼の無いよう服装を一新したいという希望を輝夜さんに述べた。こういう事もあろうかと、靴下やパンツを含む着替え一式を、AICAの荷台に2セット積んでいたのである。もちろん輝夜さんは快諾し、僕は喜び勇んで客間を後にし外へ出て、駐車場に停めてあるAICAに飛び乗った。
そして車窓の不透明化と冷房の指示を出すや力尽き、両手で顔を覆って泣いた。
笑顔で輝夜さんの前に立つため僅かな時間を利用し、涙を流してうめいた。
先ほど、三人の輝夜さんに覚悟を伝えたとき、僕は思い出した。
前回の輝夜さんも前々回の輝夜さんも、どちらも十代でこの星を去っている事。
そして僕の未来は、二千年の修業が実り今度こそ輝夜さんと共にこの星を去るか、二千年の修業が無駄になり今回もこの星に一人残されるかの、
――どちらかしかない事。
この二つを僕はあのとき、はっきり思い出したのだ。
修業が実るか無駄になるかの節目に生まれてきたことに、恐れはない。
残された日々を二千年の願いを叶えるべく使うことにも、未練はない。
だが、この人生で縁を結んだ大勢の人々とあと数年で別れることへ、動揺を微塵も感じないというのも、決して無かったのである。
それゆえ僕は泣いた。
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そして一分後、快適な涼しさが車内に満ち、体を拭くための濡れタオルをまず目元に使いまくってから、僕は着替えを開始したのだった。
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