僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十八章

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 こんな感じで真山はとても饒舌に、隣席の僕を褒めちぎった。献立の意図を十全に理解してもらい親友としては嬉しい限りだが、美鈴の兄としては多大な不満を覚えるのが本音。僕はそれを素直に伝えた。
「妹への感謝が千、僕への感謝が一くらいじゃないと、兄として不満なんだけど」
 これだけは引かないぞ、と眼光を鋭くした僕に、真山はあろうことか涙目になった。その姿に、輝夜さんと意思疎通できず涙ぐむ自分が寸分たがわず重なり、僕は感極まってしまった。寸分たがわず重なったのだから、真山の心中を僕が誤解したのは間違いない。にもかかわらずピッタリ重なったという事は、その誤解も含めて真山が僕を好きでいてくれる証なのである。それほどの親友へ、僕はなんて愚かな事をしてしまったのか。僕は真山に謝罪しようとするも、感極まったせいでそれが難しく、そして難しいのは真山も同じみたいだった。台所に、涙目男子と感極まり男子の役立たずコンビによる沈黙が広がってゆく。すると美鈴が、役立たず故に沈黙を打破できない僕らに代わり、全てをつまびらかにしてくれた。
「お兄ちゃん。真山さんは私を一番喜ばせる事で、お兄ちゃんにお礼をしたのよ」
 そうですよねと微笑む美鈴に、真山は一瞬で頼もしさを取り戻した。その真山に、兄の限界を突き付けられた僕の視界が、急速にぼやけていった。
「お兄ちゃんへの感謝が千で、私への感謝が一。私が一番喜ぶのは、この比率なの。それを感じ取った真山さんは私を喜ばせるため、お兄ちゃんの考えた献立の素晴らしさを話題にしたのね。真山さん、私の気持ちを汲み取ってくださり、ありがとうございます」
 真山に腰を折った美鈴は、テーブルに並んでいる料理の下拵えについて説明した。豆腐の水切り、オクラの産毛処理、胡麻の薫りを高めるり鉢と擂り粉木の使い方、ワカメの戻し加減、そしてとりわけ困難な、牛蒡と人参の切り分け。細胞壁をなるべく壊さず切り分けることなら自分にもできても、大きさと形状のセンスは兄に遠く及ばない。牛蒡と人参は部位によって水分含有量が異なるため大きさと形状を変えねばならず、それを指で触れただけで瞬時に見極める兄の技量を、私は非常に尊敬している。だから真山さんが兄を褒めてくれたのが、嬉しくて仕方なかった。美鈴はそう、真山に説明したのだ。
 ふと気づくと、手元にポケットティッシュが置かれていた。目元を押さえていたハンカチを畳んで膝に置き、ポケットティッシュから紙を一枚取り出し、音を殺して鼻をかむ。阿吽の呼吸で横から出されたゴミ箱にティッシュを入れ、僕は背筋を伸ばした。
「真山、僕は考え違いをしていた。僕より美鈴を優先してくれて、ありがとう」
「漫画に熱中する俺を気遣い献立を考えてくれた眠留への一番のお礼は、美鈴さんを喜ばせることだ。それが叶ったんだから、俺はそれで充分さ」
 ここで軽快なハンドタッチをしたり、拳を小気味よく打ち鳴らしたりするのが他の親友とのお約束なのだけど、真山とは、互いに照れ笑いするのが恒例となっていた。掌や拳を介さずとも、互いの気持ちが通じ合っているのを真山は特殊視力で直接見て取り、そしてそれを僕も本能的に感じ取るから、僕らは照れ笑いするだけで心を満たすことができるのである。この先どうなるかは分からないけど、今はそれでいい。真山と同じく、僕もそれで充分なのだった。 
 それから話題は、自然に漫画へ移った。あの自転車漫画は祖父母も読んでいたから、食卓は大いに盛り上がった。するとそれに乗っかって祖父母の馴れ初めを美鈴が暴露し、慌てる祖父をもっと慌てさせるべく祖母が初デートの様子を美鈴に話して聞かせるといった状態に、台所は推移していった。その過程で最も苦労したのは、祖父の頬だったのかもしれない。祖父の頬は孫娘の喜びように緩みまくる仕事と、次々明かされる初デートの様子に引き攣りまくる仕事を、同時にこなさなければならなかったからだ。祖母と美鈴がこうも楽しげにしているのだからもう暫く放置でいいかなと思う半面、過去の自分の初々しさを晒される祖父の胸中も同じ男として理解できた僕は、助け舟を出すことにした。女性陣に同調した声で提案してみる。
「ばあちゃん、その頃の写真を見せてよ!」
 我が意を得たりと美鈴が続いた。
「わあ、私も見たいおばあちゃん!」
「まったくもう、仕方ないですね」
 仕方ないと言いつつ、祖母はウキウキ顔で二人の初ツーショットを見せてくれた。台所に歓声が轟いた。大学一年生の祖母は控えめに言って凄まじい美女で、そこに生涯の伴侶に出会った喜びが加わったため、筆舌に尽くしがたい美しさを面に湛えていたのだ。筆舌に尽くしがたいのは、写真の中の祖父も同じだった。神職として本格的に働くようになり二年目の祖父は、生来のイケメンに仕事のできる男の気配を漂わせ始めていて、そこに生涯の伴侶を得た喜びと覚悟が加わったため、天に昇る龍のごとき覇気を放っていたのである。僕の予想どおり二人はその後、互いの素晴らしさを褒め称え始め、当時の想い出に揃って浸り、そして二人だけの世界に入って行った。よって残された者達はお邪魔虫にならぬよう黙々と食事を続け、静けさ最優先で後片付けをし、出会ったころの二人に戻った祖父母をほのぼの見つめて台所を後にした。
 それからは美鈴も加わり、僕の部屋で三人一緒の時間を過ごした。件の漫画の名場面を先を争って語り合う二人の様子に僕は胸をポカポカ温めてもらっていたのだけど、美鈴が真山にこの言葉をかけてからは胸の内は一変し、表面を取り繕うのに大層苦労せねばならなかった。
「真山さん、お兄ちゃんの部屋で漫画を読みたい時は、遠慮せずいらして下さい。夕ご飯付きで待っていますね」 
 仮に僕と真山の二人きりだったら、僕はそろそろ、深刻な三つの仕事に取り掛かる必要があった。

 一、明日は魔想討伐日なので真山を泊まらせてあげられないと、魔想討伐を伏せて真山に説明する仕事。
 二、宿泊が無理なのに加え、寮に漫画を持って帰らせてあげられないと謝る仕事。
 三、したがって平日に漫画を読みたいなら、部活を休むしかないと伝える仕事。

 この三つを、僕はそろそろ始めなければならなかったのだ。僕と真山の友情をもってしても、これは多大なストレスを強いると言える。よってそれを酌み、美鈴は年頃娘特有の天真爛漫さで三つの仕事を肩代わりしてくれたのである。これだけでも苦労して涙を堪えたのに、その後の二人のやり取りは僕を更なる苦労へ突き落した。美鈴の「夕ご飯付きで待っていますね」に、
「自由日を使い、明日明後日の部活を休むつもりです。夕ご飯をご馳走になります」
 真山は毅然と頭を下げた。それを受け、
「楽しみにしています」
 美鈴も淑やかに腰を折り、大和撫子の鑑たる笑みを浮かべた。真山が、天に昇る龍のごとき覇気を放ったのは言うまでもない。その勢いのまま、
「眠留、また明日!」
 真山は漢らしく立ち上がった。
 そのすぐ斜め後ろを、美鈴がつき従い歩いていった。
 対して僕は、表面を取り繕うのに大層苦労していた。
 二人の背中に、ひしひしと感じたのである。
 
 妹は遠からず、お嫁に行ってしまうのだと。
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