僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十九章

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 昨年五月、輝夜さんと狭山湖デートをした日の夜、その様子を日記に描写するにあたり僕は悩みに悩んだ末、
 ――夢のような時間が瞬く間に過ぎて行った
 とキーボードを弾いた。本好きの子供なら幼稚園時代に覚えるであろうその描写は、つたなさ由来の自戒と的確さ由来の充足の双方を僕にもたらした。だがそれはあくまで一年五カ月前の僕であり、様々なことを経験した今の僕ならもう少し穿った表現をきっとできると考えていたのだけど、それは甚だしい間違いだった。なぜなら今回も、夢のような時間が瞬く間に過ぎて行ったせいで、
「輝夜さんどうしよう、午後四時五十分のタイマーが鳴ってるんだけど!」
「またまた眠留くん、眠留くんと湖校前で待ち合わせてから四時間も経つはずないじゃない・・・・ええっっ、本当に五時十分前! 眠留くん、ここからレストラン街は遠い? 遅刻したりする??」
 てな事態に僕らは陥ってしまったのだ。いや別にコントをしているのではなく、僕らは心底、まだそんな時間ではないと思っていた。植物は日差しの下で見るのが一番だからと先ずは大規模園芸店を目指し、植物園並みのその規模に揃って歓声をあげ、併設している水生生物店で「可愛い」「連れて帰りたい」を連発し、その横のアウトドアショップでキャンプをする自分達を想像して有頂天になり、そしてその隣の天体観測機器店で大いに語り合っているうち、レストランの予約時間の十分前になってしまっていたのである。だって双眼鏡展示ブースに着くなりこんな会話をしたら、そりゃ時間も忘れますよ。
「これこれ、これが昔からずっと憧れてる、口径200ミリの日本製大型双眼鏡だよ!」
「うん、この天体観測仕様が、八ヶ岳の別荘にあるの」
「へ? 別荘にあるのはドイツ製の超高級品じゃなかったっけ?」
「えっと、ドイツ製は両親用に一台ずつあって、兄と私はまだ早いとかで、こっちをそれぞれ用意してもらったのね」
 僕は開いた口が塞がらなかった。この双眼鏡は巨大タンカー等の船舶の備品として、つまり水平線を観察するための双眼鏡としてもともと作られている。したがって斜め上の星々を観測すると、頭を後ろへ反らさねばならず、首がいささか疲れてしまう。だから天体観測用は接眼部分に傾斜をつけ、首を疲労させず星空を楽しめるようにしているのだけど、大型双眼鏡の場合はそれだけで値段が50%増しになる。ちょっと高めのAICAが一台、楽々買える金額になるのだ。それを子供達用に二台用意し、更なる高額品を夫婦用に二台購入するなど、白銀家の財力は一体全体どうなっているのだろうか。
 いやいやそれよりも、
「じゃあ輝夜さんは、日本製とドイツ製の見え方の違いを知ってるんだね!」
 僕は息せき切って尋ねた。日本人としては残念なのだけど、この二つの双眼鏡が双璧と並び称されることはない。僅かながらドイツ製が勝っているというのが、天文愛好家の通説なのである。その理由を、翔人の視力で比較した輝夜さんに説明してもらえるなど、願ってもない事。僕は千切れんばかりに尻尾を振りそう問いかけ、そんな僕に輝夜さんは二か月前に一度だけ降臨した、新米美人教師になって答えてくれた。
「微妙ですが、違いは確かにあります。ただそれは光学的差異より、台座の強固さとベアリングの滑らかさに・・・」
 僕らはそれから、双眼鏡そっちのけで大いに語り合った。AICAに譬えるなら、光学レンズはモーターで、台座はシャシーになる。日本車はガソリン車時代から、エンジンはドイツ車に並んでもシャシーは後塵を拝すと評されてきたが、それは天体観測機器も例外ではないらしい。これはただでさえ技術者の興味をくすぐる話題なのに、武術を修める者にとって、シャシーは即ち足腰を指す。日本刀と薙刀という長柄物を高速かつ精密に操る翔人にとって、足腰がどれほど重要か、説明は不要だろう。輝夜さんの御両親は、それを子供達に伝える翔人の訓練の一環として、二種類の双眼鏡を購入したのではないだろうか。という推測に至ってからの時間感覚を、僕らは持っていない。「眠留くんのお陰で、白銀家の日々がまた一つ、幸せな思い出になったよ」と涙ぐむ輝夜さんを、僕はショップ脇のベンチに連れて行った。そしてまずは慰め、次いで冗談を言って笑い合っているうち先ほどの、
「輝夜さんどうしよう、午後四時五十分のタイマーが鳴ってるんだけど!」
 てな事態になったのである。僕らのいる場所とレストラン街の位置関係を把握しておらず遅刻を心配する輝夜さんへ、僕は答えた。
「早歩きしても、レストランの予約時間ギリギリだと思う!」
「大変、眠留くんすぐ出発しよう!」
 僕らは素早く立ち上がり、早歩きでベンチを離れた。だがこのような不測の事態を、楽しさを増す幸せな出来事に替えてしまうのが、
 ―― 恋
 なのかもしれない。人のいない場所では横に並び、人のいる場所では縦に並ぶという違いはあっても、僕らは決して手を離さず、ペアダンスを踊るようにレストラン街を目指した。

 幸い遅刻は免れ、お店に迷惑をかけることはなかった。まあでも冷静に考えれば、遅れるなど有り得ない。ショッピングモールの公式HPに記載されている徒歩の所要時間は、子供連れの家族がウインドウショッピングをしつつ歩く速度を基準にしている。よって体育会系部員の僕と輝夜さんがノンストップで早歩きしたら、半分ちょっとの時間で到着して当然だったのだ。
「猫将軍眠留様、白銀輝夜様、ようこそお出でくださいました。ご案内いたします」
 予約時間まで残り五分を切っていた事もあり、僕らはレストランに着くや、ウエイトレスさんにテーブルへ案内してもらえた。そのウエイトレスさんの一挙手一投足に、僕は心の中で感嘆しまくっていた。日本の接客AIは、不動の世界トップを誇っている。その理由は、AIのオリジナルとなる接客のプロ達にあると僕は知っているつもりでいたが、それはまさしく一知半解だった。僕と輝夜さんを迎え入れ、テーブルに案内し終えて去ってゆくまでの二十秒足らずをウエイトレスさんと過ごしただけなのに、
 ――このレストランに決めて本当に良かった
 と、僕らは心から満足していたのである。
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