僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十九章

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「これは二段じゃない、三段ロケットだったんだね!」 
 ゼリーの味をあえて薄くし、蟹を堪能したいという欲求を体に芽生えさせる。これが一段目。
 芽生えたところで蟹を咀嚼させ、まずは味覚面でそれを叶える。これが二段目。
 次いで満足の息を吐かせる事により、蟹を堪能したいという欲求を嗅覚面でも叶えてあげる。これが三段目。
 そうこのジュレは、かくなる仕組みの三段ロケットだったのである。
 という説明を、マナー違反にならぬレベルに声を押さえてしたところ、輝夜さんは音の出ない拍手を満面の笑みでした。続いて厨房の方を向き、可愛らしくペコリとお辞儀する。同じ方角へ顔を向けると、さっきのウエイトレスさんが厨房の入り口に立ち、笑顔でこちらに腰を折っていた。僕は咄嗟にこのジュレが絶品であることと、三段構えの料理と感じたことをジェスチャーで伝えた。夕方の営業が始まったばかりな事もあり、僕と輝夜さん以外は一組のカップルが遠くのテーブルにいるだけで、かつそのカップルはおしゃべりに夢中だったから、僕はつい湖校のノリで表情豊かにそれを伝えてしまった。ウエイトレスさんは口を手で押さえ笑いを堪えたのち、後ろを振り返り、厨房の中にいた三十歳くらいの男性シェフと一緒に改めて腰を折ってくれた。これら一連のやり取りは、マナーに厳しい人にとっては、やってはいけない行為なのかもしれない。けど、
 ――人は人と関わって仕事をしてゆく
 のが、人の真実なのである。あのシェフがこの調理技術を習得するまでに費やした時間と労力に敬意を表し、そしてシェフも、自分の技術を理解した客へ謝意を示す。このような心の触れ合いにこそ労働の真価があるのだと、僕は思えてならなかった。
 ジュレで味覚と嗅覚が全開になったからなのだろう、続くコンソメスープの精密巧緻な味と香りに、僕は思わず瞑想してしまった。それをほんの数秒で止められたのは、磁器製のスプーンが添えられていたことを思い出したから。そう、このコンソメスープ用にサーブされたのは金属製ではない、磁器製のスプーンだったのである。瞼を開けた僕に説明してくれた輝夜さんによると、コンソメスープに金属の雑味を加えないための措置なのだと言う。それが潜在意識を揺さぶったのか、心の奥深くをかすめた可能性を考察すべく、スープをもう一口いただく。僕の味覚では確信は持てずとも、一応それを伝えてみた。
「輝夜さん、ひょっとしてこのコンソメスープは、金属の鍋で作っていないとか?」
 輝夜さんは肩を竦め、企業秘密だから詳細は解らないと前置きするも、熱伝導率の高いセラミック製の琺瑯鍋のような物を使っているのではないかと推測を述べた。「セラミック製なら、遠赤外線効果も期待できるね」「そうなの。それと火力も、ガスじゃないかもしれない」「セラミックの中に電熱線を直接通して、鍋の形状にしているなんてのはどうかな」「眠留くん、ここはもう一歩踏み込んで、鍋の形をしていないかもしれないよ」「むっ、これは一本取られた」 なんて具合に、意外なほど楽しい調理器具談義に僕らは暫し花を咲かせた。
 次の魚料理は予想が当たり、鮭のムニエルだった。というか、旬まっ盛りの鮭と一緒に、鴨とタラバ蟹を空輸したというのが真相なのだろう。そう推論を述べた僕に、輝夜さんはイタズラ小僧の笑みを浮かべただけでナイフとフォークを手に取る。その仕草の背後に「さあ眠留くんにこの料理が解るかな?」系の、一種の挑戦状を見て取った僕は、真剣勝負の気概で鮭のムニエルを口に入れた。
 その三十秒後。
「輝夜さん、負けました。ソースにバターとレモンを使っているのは即座に判ったけど、ソースの基本食材が何なのか、僕にはまったく想像できませんでした」
 僕は潔く敗北を認めた。輝夜さんは、一生懸命考えた甲斐があったと全身で安堵し、種明かしをする。
「これは、白ワインのソースなの。白ワインのソースはフランス料理の基本中の基本でも、昴はワインの味見をまだできないから、このソースが決め手になる料理を眠留くんは一度も食べてないんじゃないかなって、わたし思ったんだ」
「なるほど、そうだったんだね。和食に料理酒を使うのは日常でも、料理酒以外を食材としてちゃんと使った経験が僕にはない。この鮭のムニエルを食べたら、家庭料理教室でおなじみの『白ワイン風調味料』は、まさしく入門者用の調味料なんだって実感できたよ。ありがとう、輝夜さん」
 輝夜さんは大いに照れながら、白ワインソース独特の味を丁寧に教えてくれた。凛とした美人新米教師も良いが、可愛く照れる美人新米教師はなお好い。伸びまくる鼻の下を、美味しい料理を食べる笑みで誤魔化すという幸せな時間が、テーブルに流れていった。
 口直しの梨のシャーベットも、大層勉強になった。味はもちろんのこと、見た目が非常に美しかったのだ。梨の果肉はほぼ白なので、氷の白と違いが生まれにくく単調な色合いになりがちだが、煮詰めて黄色みの増した梨のジャムをこのお店では巧みに使い、黄色と白のグラデーションを作り上げていた。そしてそれを、薄水色の薩摩切子の平皿に盛り付けることで、紛うことなき芸術作品にしていたのである。僕は厨房の方角に体を向け、声に出さず口だけ動かし「芸術です」と伝えたら、ウエイトレスさんと同年配のパティシエさんが瞳を潤ませてお辞儀してくれた。一口食べてからもう一度同じことをしたかったけど、その頃にはお客さんが十組近くいて諦めるしかなかった。だが幸運にも、僕らのテーブルをサーブしてくれているウエイトレスさんがたまたま近くを通りかかったので、顔全体を使い絶品ですと表現したら、歩みを少し遅くし、
「私の同期なのです」
 と素敵に微笑んだ。シャーベットを食べているのに、僕と輝夜さんは胸をポカポカ温めてもらえた。
 そしてとうとう、待ちに待った瞬間が訪れる。コース料理の主役、メインディッシュを味わう時間になったのだ。洗練された技で手元に置かれた鴨のオーブン焼きは、僕を新しい世界に導いてくれた。大抵の男子は、お肉大好き小僧と言える。そこに、第二次成長期ど真ん中の体育会系部員という要素が加わると、
 ――肉は神
 的な宗教じみた崇拝心を男子は持つようになる。もちろん僕もそれに漏れず、また幸い僕の周囲には料理上手が多く、天然の鹿肉や猪肉にも親しんでいたから、肉に関してならいっぱしの食レポができると僕は考えていた。なのに人生初の天然鴨の一切れ目を口に含むなり、
 プルッ プルッ プルッ・・・
 体を小刻みに震わせ恍惚に浸ることしか、僕にはできなかったのである。
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