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十九章
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僕はこれまで、天然の猪肉を個人的好みの筆頭に掲げてきた。鹿肉は、飼育された最高級の牛肉、豚肉、そして鶏肉を僅かながら下回ったが、最も美味しい季節に獲れた猪肉は、頭一つ飛び出た肉として僕の心身に刻み込まれていたのだ。が、
「輝夜さん、僕が一番好きな肉は、鴨肉だったようです」
頭一つ飛び出た猪肉をも超える肉に、僕は今この瞬間、出会ったのである。
輝夜さんは良かったねと微笑むだけで、それ以上は何も言わなかった。それもあり、僕は五感を総動員して鴨のオーブン焼きを味わっていた。
だが総動員しても、なぜこの肉がこうも好きなのかを、僕はどうしても言葉にできなかった。それは初めて翔化し、そして肉体に戻って来てしばらく経った時の感覚に似ていた。最初の翔化時、僕は生まれて初めて経験した「真の自由」を、十全に理解しているつもりでいた。けど肉体に戻り十秒ほど経つと、ついさっきまで満喫していた真の自由を、言葉で一言も説明できない自分に気づいた。肉体で過ごした生活の中に、翔化中の感覚を表現し得る言葉を、僕は見つけられなかったのである。
もちろん今もそれは同じだけど、譬え話ならかろうじて可能になっている。それは、
――解放感
に似ているという事だった。たとえば真夏の炎天下を長時間歩いて目的地に着き、お風呂場に直行し、汗でべちょべちょの不快極まる服を脱ぎ捨て、水風呂に飛び込んだとする。熱中症直前だった体は熱から解放され、暑さと服の不快さに耐えてきた心もそれらから解放され、僕は水風呂の中で夢見心地を味わっているとする。その時の解放感を蒸留して不純物を取り除き、100%純粋なエッセンスとして精製したとするなら、それは翔化中の自由に似ていると言えなくもないかな、という譬え話が今はかろうじて可能になっていたのだ。
という無駄に長い話を、鴨のオーブン焼きを食べ終わってから、僕は輝夜さんに一生懸命した。その行為自体は間違っていなかったと思う。しかし当然と言ったらそれまでだけど、
「眠留くん、じゃあまた絶対、一緒に鴨料理を食べようね」
100%純粋な笑顔のエッセンスを振りまくことで、ダメダメな長話を遥かに超える真実を、輝夜さんは僕に一瞬で教えてくれたのだ。「ああそうか、この人と一緒だったから、鴨料理にこうも感動できたんだ」 胸に溢れるこの想いを全身全霊で噛みしめつつ、残り少なくなった幸せな時間をとことん楽しむ決意を、僕はしたのだった。
そのはずだったのだけど、
「えっとあの、このフランスパンとチーズとトマトがあれば、僕は動けなくなるまで食べ続けられちゃうんですけど」
残り少ないどころか、陰のメインディッシュとも呼ぶべき最強の刺客が、僕を待ち受けていたのである。
それは、ウエイトレスさんがワゴンを押してテーブルにやって来た時から始まった。
「ご注文頂いたチーズをお持ちしました」
フランス料理のフルコースではメインディッシュの後に、チーズとパンを楽しむ時間がある。ネット情報によるとそれはチーズとパンの時間ではなく、パンでメインディッシュのソースを拭ってソースを味わい尽くすための時間らしいが、僕にとってはウエイトレスさんの「ご注文頂いたチーズ」の方が断然重要だった。フランス料理について輝夜さんと打ち合わせをした際、「メインディッシュ後のチーズは私に任せてくれる?」と輝夜さんが申し出たまさにそのチーズが、ワゴンに乗っているに違いないからだ。とは言うものの、鼻息を荒くしてチーズばかりに注目するのはマナー違反。僕は平生を保ち、この時間が始まるのを待っていた。
それが、ウエイトレスさんの次の言葉で活きた。
「こちらのトマトは、パティシエと私からのサービスです」
ウエイトレスさんは優しいお姉さんの笑みを浮かべて、色鮮やかなトマトを盛り付けたお皿をチーズの隣に置いてくれたのである。僕は非常に恐縮するも、保っていた平生さのお陰で一流フランス料理店に相応しい返礼をすることが出来た。が、
「こちらのフランスパンはシェフのサービスです。心ゆくまでお召し上がりください」
続いて目に飛び込んで来たバゲットはそうもいかなかった。フランスパン一本では足りない量が、バゲットに盛られていたのだ。さすがに慌ててしまいマナーを逸脱しそうになるも、そうはならなかった。ウエイトレスさんとパティシエさんとシェフさんと交わした温かなやり取りが、慌てまいとする僕を助けてくれたのである。僕は堅苦しくない範囲で背筋を伸ばし、ウエイトレスさんと厨房へ、それぞれ一回ずつ腰を折った。お姉さんは再び優しく笑って、テーブルを去っていった。
という一場面があったので僕はこの時間を、チーズとパンとトマトを味わい尽くすために使おうと張り切っていたのだけど、開始そうそう想定外の展開になった。心の手綱をしっかり握ったまま堪能しようと考えていたのに、そんなのできっこない状態になったのだ。輝夜さんの勧めに従い、適量のトマトとチーズを口に含んでからフランスパンに噛り付き咀嚼に移るや、
ドッカ――ン!!
美味の大爆発に吹き飛ばされてしまったのである。チーズの濃厚さとトマトの瑞々しさとフランスパンの素朴な小麦の味、この三つの美味が並行励起した際の衝撃に、僕は成すすべなくぶっ飛ばされたのだった。
幸い、そのぶっ飛ばされ度合いが半端なかったお陰で放心状態になり、マナーそっちのけで貪るような事態は避けられたが、崖っぷちすれすれだったのが実情。また放心状態を解いたのが、耳朶に届いた銀鈴の声だったのも、幸運の極致という他ない。いついかなる時もこの声さえあれば平常心を取り戻せる僕は、後にその麗人が語ったところによると、
にぱぱぱぱっっ
などという、開けっぴろげの「にぱっ」を幾重にも重ねた笑顔を振りまき、マナーの達人たる麗人をいささか困らせたそうだ。僕としては輝夜さんが「あの時は困っちゃった」と頬を幸せ色に染めるたび、身悶えするほど困っているんだけどね。
とまあそれはさて置き、
「えっとあの、このフランスパンとチーズとトマトがあれば、僕は動けなくなるまで食べ続けられちゃうんですけど」
とのセリフを、僕はフランスパンとチーズとトマトを完食するまで三度言った。最初は正面に座る輝夜さん、次はお水のサーブに来てくれたウエイトレスさんで、最後はパティシエさんの都合三人に、まったく同じセリフをバカみたいに繰り返したのである。それでも皆さんとても喜んでくれて、特に最後のパティシエさんからは、マナーに反しない範囲で貴重な話をうかがう事ができた。
「本当は良くないのでしょうが、私はケーキとパンの両方が好き過ぎ、どちらか一つに絞ることができなかったのです」
「輝夜さん、僕が一番好きな肉は、鴨肉だったようです」
頭一つ飛び出た猪肉をも超える肉に、僕は今この瞬間、出会ったのである。
輝夜さんは良かったねと微笑むだけで、それ以上は何も言わなかった。それもあり、僕は五感を総動員して鴨のオーブン焼きを味わっていた。
だが総動員しても、なぜこの肉がこうも好きなのかを、僕はどうしても言葉にできなかった。それは初めて翔化し、そして肉体に戻って来てしばらく経った時の感覚に似ていた。最初の翔化時、僕は生まれて初めて経験した「真の自由」を、十全に理解しているつもりでいた。けど肉体に戻り十秒ほど経つと、ついさっきまで満喫していた真の自由を、言葉で一言も説明できない自分に気づいた。肉体で過ごした生活の中に、翔化中の感覚を表現し得る言葉を、僕は見つけられなかったのである。
もちろん今もそれは同じだけど、譬え話ならかろうじて可能になっている。それは、
――解放感
に似ているという事だった。たとえば真夏の炎天下を長時間歩いて目的地に着き、お風呂場に直行し、汗でべちょべちょの不快極まる服を脱ぎ捨て、水風呂に飛び込んだとする。熱中症直前だった体は熱から解放され、暑さと服の不快さに耐えてきた心もそれらから解放され、僕は水風呂の中で夢見心地を味わっているとする。その時の解放感を蒸留して不純物を取り除き、100%純粋なエッセンスとして精製したとするなら、それは翔化中の自由に似ていると言えなくもないかな、という譬え話が今はかろうじて可能になっていたのだ。
という無駄に長い話を、鴨のオーブン焼きを食べ終わってから、僕は輝夜さんに一生懸命した。その行為自体は間違っていなかったと思う。しかし当然と言ったらそれまでだけど、
「眠留くん、じゃあまた絶対、一緒に鴨料理を食べようね」
100%純粋な笑顔のエッセンスを振りまくことで、ダメダメな長話を遥かに超える真実を、輝夜さんは僕に一瞬で教えてくれたのだ。「ああそうか、この人と一緒だったから、鴨料理にこうも感動できたんだ」 胸に溢れるこの想いを全身全霊で噛みしめつつ、残り少なくなった幸せな時間をとことん楽しむ決意を、僕はしたのだった。
そのはずだったのだけど、
「えっとあの、このフランスパンとチーズとトマトがあれば、僕は動けなくなるまで食べ続けられちゃうんですけど」
残り少ないどころか、陰のメインディッシュとも呼ぶべき最強の刺客が、僕を待ち受けていたのである。
それは、ウエイトレスさんがワゴンを押してテーブルにやって来た時から始まった。
「ご注文頂いたチーズをお持ちしました」
フランス料理のフルコースではメインディッシュの後に、チーズとパンを楽しむ時間がある。ネット情報によるとそれはチーズとパンの時間ではなく、パンでメインディッシュのソースを拭ってソースを味わい尽くすための時間らしいが、僕にとってはウエイトレスさんの「ご注文頂いたチーズ」の方が断然重要だった。フランス料理について輝夜さんと打ち合わせをした際、「メインディッシュ後のチーズは私に任せてくれる?」と輝夜さんが申し出たまさにそのチーズが、ワゴンに乗っているに違いないからだ。とは言うものの、鼻息を荒くしてチーズばかりに注目するのはマナー違反。僕は平生を保ち、この時間が始まるのを待っていた。
それが、ウエイトレスさんの次の言葉で活きた。
「こちらのトマトは、パティシエと私からのサービスです」
ウエイトレスさんは優しいお姉さんの笑みを浮かべて、色鮮やかなトマトを盛り付けたお皿をチーズの隣に置いてくれたのである。僕は非常に恐縮するも、保っていた平生さのお陰で一流フランス料理店に相応しい返礼をすることが出来た。が、
「こちらのフランスパンはシェフのサービスです。心ゆくまでお召し上がりください」
続いて目に飛び込んで来たバゲットはそうもいかなかった。フランスパン一本では足りない量が、バゲットに盛られていたのだ。さすがに慌ててしまいマナーを逸脱しそうになるも、そうはならなかった。ウエイトレスさんとパティシエさんとシェフさんと交わした温かなやり取りが、慌てまいとする僕を助けてくれたのである。僕は堅苦しくない範囲で背筋を伸ばし、ウエイトレスさんと厨房へ、それぞれ一回ずつ腰を折った。お姉さんは再び優しく笑って、テーブルを去っていった。
という一場面があったので僕はこの時間を、チーズとパンとトマトを味わい尽くすために使おうと張り切っていたのだけど、開始そうそう想定外の展開になった。心の手綱をしっかり握ったまま堪能しようと考えていたのに、そんなのできっこない状態になったのだ。輝夜さんの勧めに従い、適量のトマトとチーズを口に含んでからフランスパンに噛り付き咀嚼に移るや、
ドッカ――ン!!
美味の大爆発に吹き飛ばされてしまったのである。チーズの濃厚さとトマトの瑞々しさとフランスパンの素朴な小麦の味、この三つの美味が並行励起した際の衝撃に、僕は成すすべなくぶっ飛ばされたのだった。
幸い、そのぶっ飛ばされ度合いが半端なかったお陰で放心状態になり、マナーそっちのけで貪るような事態は避けられたが、崖っぷちすれすれだったのが実情。また放心状態を解いたのが、耳朶に届いた銀鈴の声だったのも、幸運の極致という他ない。いついかなる時もこの声さえあれば平常心を取り戻せる僕は、後にその麗人が語ったところによると、
にぱぱぱぱっっ
などという、開けっぴろげの「にぱっ」を幾重にも重ねた笑顔を振りまき、マナーの達人たる麗人をいささか困らせたそうだ。僕としては輝夜さんが「あの時は困っちゃった」と頬を幸せ色に染めるたび、身悶えするほど困っているんだけどね。
とまあそれはさて置き、
「えっとあの、このフランスパンとチーズとトマトがあれば、僕は動けなくなるまで食べ続けられちゃうんですけど」
とのセリフを、僕はフランスパンとチーズとトマトを完食するまで三度言った。最初は正面に座る輝夜さん、次はお水のサーブに来てくれたウエイトレスさんで、最後はパティシエさんの都合三人に、まったく同じセリフをバカみたいに繰り返したのである。それでも皆さんとても喜んでくれて、特に最後のパティシエさんからは、マナーに反しない範囲で貴重な話をうかがう事ができた。
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