僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十九章

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 二兎を追う者一兎も得ず、という格言はもちろん知っている。その格言から得た学びを親身に教えてくれた人も複数いたし、どちらか一つに人生を賭けている人と比べたら自分の習熟速度が遅いことも、如実に感じていた。それでもどちらか一つに絞れず、これが私の人生と半ば諦めていたが、このお店にたまたま拾ってもらい、パンとケーキの両方をお客様に喜んでもらっている。だから私は幸せですと、パティシエさんは背筋を伸ばしたのだ。僕はいたく感動し、要らぬ事をつい口走ってしまった。
「僕の神社に伝わる古流刀術は、一つの基礎技術に特化した基本と、複数の基本を連携させる連続技を、対等に扱っています。一つ一つの基本を磨くからこそそれらを連携させた連続技は洗練され、そして連続技を洗練させるほど、一つ一つの基本は生命を得て輝くと僕は師匠に教わりました。僕はパンとケーキの素人ですから的外れかもしれませんが、複雑なケーキは連続技、そしてシンプルなフランスパンは基本のように、このお店で感じました。どちらも、時間を忘れるほど美味しかったです」
 人とは面白いもので、複数の基本を連携させる連続技に上達すると、基本の単独使用も並行して上達してゆく。パンにはパンの基本と連続技が、ケーキにはケーキの基本と連続技があるはずだから、どちらか一方を突き進むのももちろん正しい。ただパンとケーキのように発祥地が等しく、材料と調理法も似ていて、かつコース料理として両方を同じお客様に提供できる場合、大地を駆ける左右の脚のような、空を飛翔する左右の翼のような間柄に、パンとケーキはなれるのかもしれない。そんな感じの事を、蛇足であってもなるべく短く僕は伝えた。するとパティシエさんはこんな僕に幾度もお礼を言い、
「道が定まりました。一生かけて歩んでゆきます」
 晴れ晴れとそう宣言し、厨房へ帰って行った。それとは対照的に、大それた事をしでかした気がして一人アワアワしていたのだけど、
「良かったね、眠留くん」
 輝夜さんはまたもや一瞬で、僕を安住の地に連れて行ってくれた。痛いほど思う。
 ――ああ僕は、なんて幸せなのだろう
 先ほどのパティシエさんと同じく、僕の背筋は自然と伸びたのだった。

 メインディッシュ後のパンとチーズとトマトの量は、絶妙の一言に尽きた。食べ盛りの腹ペコ男子としては、家に帰ったら何か食べなきゃ就寝直前にお腹が空きそうだぞ、と少々危惧していたのだけど、それが綺麗に消えたのである。これも一流料理人のあかしなんだろうな、お会計時にそれをキチンと伝えないとなあなどと、お腹が満たされた僕は余裕をもって考えていた。だが続くデザートの時間が始まるなり、
 ズキュ――ン!
 胸を撃ち抜かれ、余裕など一切なくなってしまった。
 輝夜さんが、可愛すぎたのだ。
 デザートのプリンを食べる輝夜さんが、天使すぎたのだ。
 小さな子供のようにスプーンを握りしめ、純真無垢な笑顔でプリンを頬張る輝夜さんが可愛すぎ天使すぎて、僕の心臓をハチの巣にしたのである。
 僕はロリコンではない。妹を持つ僕にとって年下の女の子は可愛がり大切にする対象以外の何者でもないと、胸を張って言うことが出来る。自慢ではないが、いやぶっちゃけると自慢だが僕はその想いが滅法強く、なればこそ仲良くなった小さな女の子を、親戚のお兄さんのように可愛がってやれた。優しく大切にし、しかし馴れ馴れしくなく、それでいて他人行儀でもない、適切な距離を保つことが自ずとできた。神社の長男として地域の子供達と長年関わってきたし、七五三などの祭事でも大勢の子と接してきたから、それなりに場数をこなした自負もある。だからロリコンではないと心底断言できるはずなのに、
 ズキュン
 ズキュンッ
 ズキュ――ンッッ
 天使の可愛らしさを振りまく輝夜さんにエンドレスで胸を撃ち抜かれまくっている僕は、一体全体どうなってしまったのか。オーソドックスなプリンの上にホイップクリームを一絞りし、そこにサクランボを一つ乗せただけの、豪華でもゴージャスでもなんでもないデザートを食べる様子を見ているだけなのに、なぜこうも胸が高まるのか。そう、僕の心臓は貫かれるたび、鼓動が速まっていった。そして鼓動が速まるにつれ、狂おしいほどの想いがますます募っていったのだ。それがとうとう限界を超え、僕はスプーンを持った手をテーブルに置いたまま身動きが取れなくなってしまった。そんな僕に気づき、
「眠留くん、どうしたの?」
 ちょこん、と輝夜さんが首を傾げる。
 その刹那すべてがつながり、僕はそれをありのまま伝えた。
「僕は今、あなたに二度目の恋をした」
 永遠とも感じる、瞬き一回分の時間を見つめ合った僕らはその直後、成層圏まで届くキノコ雲を二つ、そろって生成したのだった。

 もじもじソワソワしてプリンを急に食べなくなった僕らを、心配したのかもしれない。厨房の方角から、ウエイトレスさんの躊躇した足取りが聞こえて来た。けどテーブルに近づくにつれ足音からためらいが消え、次第にほのぼのさが加わってゆき、そしてテーブルの横を通るころには優しいお姉さんの足音になり、ウエイトレスさんはにっこり微笑んで去って行った。僕と輝夜さんは顔を見合わせクスクス笑い合い、それを機に、プリンを楽しむ極々普通の時間が流れていった。
 そしてコース料理を締めくくる、コーヒーとプティフールの時間になった。デザートがシンプルだったからか、プティフールのプレートにはミニサイズのマカロンが、色鮮やかに八個並べられていた。輝夜さんは顔をパッと輝かせ、その様子にウエイトレスさんは、妹を優しく見守るお姉さんの表情になっていた。僕はウエイトレスさんに無限の感謝を抱きつつ、気になっていることを訪ねた。
「このコーヒーは、お姉さんが淹れたんですか?」
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