僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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二十二章

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 ビッヨ~~ン
 と、ヨ~~ンの箇所の空中加速をすこぶる強調してジャンプしてみた。すこぶる強調した理由は颯太君を歓迎する気持ちの現れであり他意はなかったのだけど、
 ドサッ ドサッ ドサッ
 バッグが地面に落ちる複数の音が、後方からなぜか一斉に聞こえてきた。恐る恐る振り返ると、黛さんを始めとする男子部員全員が、目の色を変えて空中加速ジャンプの練習を始めていた。インハイ後の数週間は加速ジャンプの練習に励んでいたが日々の訓練に追われ皆いつしかしなくなっていたのだけど、去年はあえて見せなかった僕の全力の加速ジャンプに、闘志が再熱したようなのである。このジャンプを会得すると跳躍中の姿勢制御が格段に上達し、かつ着地の質も向上するため練習自体は好ましいと言える。しかし地面に放り出された十三個のバッグは、二重の意味で好ましくない。公道に私物を放置するという意味と、
 ―― 十三個全部を僕が持たねばならない
 という意味の両方で、好ましからざる事この上なかったのだ。
 とは言うものの、この事態を招いた張本人が僕なのは間違いない。それにここで嫌な顔をしたら、三枝木さんと渚さんが幾つか受け持つことを申し出るかもしれない。そんな事態になったら野郎共からきつく報復されられるのは避けられず、そして明日の夜はその絶好の機会と呼ぶにふさわしい、合宿一泊目だったのである。手本を示すさいに「俺がバッグを持っておくよ」と言ってくれた北斗までもが二つのバッグを放り出していることに内心溜息をつくも、僕は十三個のバッグを泰然と肩にかけ、神社へ歩を進めたのだった。

 幸いそれは比較的すぐ終わった。十三個のバッグを運んだのは、車も人も滅多にいない路地が交通量の多い二車線道と交差するまでの、100メートルに過ぎなかったのだ。颯太君を含む後輩四人が僕の状態にまず気づき、謝罪しつつ大慌てでバッグを受け取り、他の皆もそれに続いてくれた。バツ悪げにしている北斗をジト目で見つめたら、僕のバッグも黙って引き受けてくれたから、水に流すとしよう。
 二車線道の先は再び路地になったけど、今度は皆さすがに自制した。ただ颯太君は気持ちを押さえるのに大層苦労しており、そしてその様子が、
 ――お預けを指示されたのに我慢できないでいる豆柴
 を彷彿とさせ胸を温めてくれたので、黛さんが群れの長としてご褒美を出した。
「颯太君、手本を見て気づいたことが、何かあったかな?」
「猫将軍さんのジャンプを参考に跳ぼうとしましたが、どうしても真似できませんでした。真似できなかった理由は運動神経にあるのではなく、筋力不足にあるのではないかと僕は推測しました!」
 尻尾を千切れんばかりに振りつつ豆柴は答えた。その途端、部員全員が一斉にこちらへ顔を向けた。皆の顔に、『思わず吹き出しそうになったのを誤魔化したんじゃないぞ、身体能力の専門家の意見を聴きたかっただけなんだ』との、
 ――真っ赤な嘘
 が、判を押したように張り付いている。皆と違って誤魔化せる相手のいない身になってくださいよ、との嘆きを胸に収め、空中加速ジャンプに必要な筋肉及び筋肉量について僕は説明した。すると三十秒を待たず、男子部員全員を巻き込んだ大議論が勃発したのだ。このジャンプは跳躍中の安定感に秀でており、着地時の静けさと滑らかさが抜群に良いので、新忍道の戦士として放っておく事など不可能だったのである。颯太君もその輪に加わり活発な意見交換をしている様子を、渚さんは目に涙を浮かべながら、しかし安心しきった表情で見つめていた。

 そうこうするうち神社に着き、小笠原姉弟は祖父母と美鈴に対面した。旅館の跡取り娘として培ってきた礼儀作法を軸に、小笠原家が猫将軍家に抱いている感謝を、高原の花のように述べた渚さんへ、祖父母は最大級の賛辞を贈っていた。その渚さんに続いて、
「小笠原颯太です。猫将軍さんを大変尊敬しています。末永くよろしくお願いします!」
 と、豆柴が豆柴まる出しで元気一杯挨拶したものだから、たまったものではない。祖父母と言えど笑いを三秒堪えられず、すると全員堰を切ったように笑い出し、豆柴は皆から撫でまくられていた。ここが石畳の上じゃなかったら羽交い絞めとくすぐりの集中砲火を浴びせられたのに、う~ん残念だなあ。
 颯太君については、驚いたことが一つあった。いや「驚いた」程度に収まっているのは僕だけで、僕以外の男子新忍道部員は、驚天動地の見本の如くなっていた。颯太君は美鈴に挨拶しても、ただの可愛い豆柴でい続けたのである。渚さんを姉に持つから年上の美少女に慣れているのか、それとも異性にまだ興味がないのかは定かでないが、そんな颯太君を美鈴は大層気に入ったらしく、瞬く間に弟として接するようになった。実弟がそんなふうに接してもらえて、姉として嬉しくないはずがない。渚さんはその気持ちを素直に出して美鈴に話しかけ、美鈴も素直にそれに応え、そして二人は数秒後には、仲の良い姉妹のようにキャイキャイやっていた。その二人から可愛がられる颯太君が、合宿の夜に受けるであろうくすぐり報復を想像しただけで、僕は冷や汗をかかずにはいられなかった。
 明日から始まる二泊三日の合宿の荷物は、今日持って来ても良いことになっていた。と言ってもそれが有難いのは、おそらく女性だけではないだろうか。宿泊用の荷物を大きなバッグに詰め込んで持って来たのは三枝木さんしかおらず、男子部員は部活に行く程度の分量を大離れに置いただけだった。ちなみに三枝木さんと渚さんは小離れに泊まり、中離れは誰も利用しない緩衝地帯になっていた。HAIを備えた家なので間違いは決して起きなくとも、大切な娘さんを預かる身として、祖父母がそう決めたのである。夕食会メンバーがお泊り会を開くときは、女の子たちのご両親から絶大な信頼を得ている事もあって、小離れに女子組の中離れに男子組と言った感じに、隣り合って泊まるんだけどね。
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