僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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二十二章

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「眠留、部長命令だ。しばし待機」
 黛さんの声が鼓膜を震わせた。その刹那、僕の時間感覚が混乱した。今は一年前の春合宿の最中で、真田さんにそう命じられた気がしたのだ。威厳と自信に溢れつつも底抜けの安心感を場にもたらす真田さんの声と、黛さんの今の声が非常に似ていたため、去年の春合宿と今年の春合宿を混同してしまったのである。それは僕だけの現象ではなかった証拠に、部員達は目を剥き息を止めて黛さんを見つめていた。黛さんが、豆柴へ朗らかに命じる
「ミッションを告げる。眠留の誤解を解く先鋒として、今朝の登校時の出来事をお姉さんに説明しなさい」
「かしこまりました、部長!」
 群の長からミッションを告げられたのがよほど嬉しかったのだろう、下っ端豆柴は朝の出来事を踊る口調で渚さんに説明していった。そんな弟に渚さんは顔を綻ばせていたが、城下一のイケメンの箇所で皆が笑い転げた場面に差し掛かるや怪訝な顔を浮かべ、小首をかしげた。お姉さんに釣られて颯太も一瞬首を傾げるも、すぐそれを元に戻した。黛さんの、
 ―― 眠留の誤解を解く先鋒
 との言葉を思い出したのである。それは僕も同じで、いや同じどころか渚さんに釣られて小首をかしげ、そして颯太と一緒にそれを元に戻した僕に、部員達は口元を両手で押さえ必死になって笑いを堪えていた。さすがにムカッと来るやらそれ以上に恥ずかしいやらの一杯一杯になった僕の鼓膜を、あの声が再び震わせる。途端に安堵した僕へ、黛さんが種明かしをした。
「あのとき俺達が笑ったのは、予想に酷似した反応を眠留が示したからだ。自己評価の低すぎるお前は、『容姿と表面的な性格は異なる』という個所を曲解し、落ち込むのではないかと俺達は予想した。それは的中しお前は項垂れ、続いて説明された『日本刀の如き眉目に巌の性格を宿した城下一のイケメン』では、歩行も怪しい状態になっていた。それに噴き出したのであって、前世の眠留と今生の眠留の違いを俺達は笑ったのではない。颯太も、前世と今生の眠留に笑うほどの差はないと考えていたから、皆が笑う理由が判らず、不安になっていたんだよな。違うか?」
 いえ違いませんと、颯太は尻尾をブンブン振りながら答えた。これは半ば比喩ではなく、颯太は黛さんの話の途中から武者震いを始め、しかし最後に問いかけられたので武者震いを止めようとするも、止められたのは上半身に留まり、腰から下はブルブル震えていたのである。その余りの豆柴振りに、場が一気に和んだ。それに加え、今回の件の全体像を把握できた渚さんも姫君の笑みを燦々と振りまいていたものだから、部室はまこと楽しい場となった。その楽しい空気に油断した僕は、今生の僕が残念男子であることを証明するかのように、最も重要なことを見過ごしたまま昼食休憩を終えてしまった。だが、午後の部活を後輩達の指導に丸々充てたことが幸運を呼び、後輩達を見つめる視界の片隅に黛さんが映るや、僕はその最も重要なことを唐突に理解した。それは、
 ―― 黛さんが自分を過小評価する時期は終わった
 という事であり、そしてそれには僕が大いに関わっていた。自己評価の低すぎる僕が今朝の登校時に落ち込む様子を目の当たりにした黛さんは、自分も同じ状態に陥っていたことに気づいた。優しく温かな心を後輩達へ常に注いでいる黛さんは、歩行も覚束なくなった僕にそれは誤解だと心の中で熱心に説き、そしてそれはそのまま、大いなる存在が黛さんへ語り掛ける姿でもあった。お前は自分を過小評価しているだけだ、早くそれを手放しなさいと、その存在も黛さんに語り掛けていたのだ。それに気づいた黛さんは、手放した。手放した事がどう作用したかは僕には解らないが、前世の記憶を持つ僕と渚さんに真っ先に同意したのが黛さんだったのは、手放したが故の行動として良いのだろう。その行動は後輩達の賛同を集め、と同時に後輩達の視線も集めた黛さんは、そこにかつての自分を見て考えを改めた。かつて自分が真田さんや荒海さんへ向けていた眼差しを、今は後輩達が自分へ向けているのだから、過小評価などしている場合ではない。部を預かるおさとして、行動せねばならないのだ。そう考えを改めた黛さんは、蛹が蝶へ羽化するように、底抜けの安心感を後輩達にもたらす部長へ一気に成長したのである。
 という今回の真相を、僕は唐突に理解した。すると僕にも変化が訪れた。いや違う。
 僕はただ、気づいたのだ。
 二年生の松井と竹と梅本、そして一年生の颯太が僕へ向ける眼差しは、かつて僕が真田さんや荒海さんへ向けていた眼差しと瓜二つである事に、僕は今更ながら気づいたのである。
 その途端、名状しがたい何かが心の中で爆発した。それは言語化不可能な、まこと名状しがたき爆発だったが、それが僕にもたらしたものの言語化は容易かった。それは、
 ―― やる気
 だった。やる気の塊と化した僕は指導のかたわら、体をほぐし始める。筋肉も靭帯も関節もやる気が漲っていたらしく、単なる体ほぐしを準備運動と認識し、一斉に歓喜の声をあげた。心もそれに同意し、躊躇うなこのヘタレめと、僕に発破をかけまくっていた。僕は覚悟を決める。ああ分かったやってやる、やってやろうじゃないか!
「集合!」
 僕の放った裂帛れっぱくの気合いに四人の後輩は全力疾走で応じた。可能な限り素早く一列横隊を成し指示を待つ後輩達へ、僕は告げる。
「本物のサタンは戦士の心を恐怖で縛り、行動遅延を図る時がある。だがそれは、戦士にとって好機でもある。恐怖を撃退する心は通常の心より強い電気信号となって神経を駆け、体をより速く動かすことを可能にするからだ。僕が今から一度だけ、その手本を示す。各自、心に留めるように」
「「「「ハイッッ!!」」」」
 僕に負けぬ気合いで返答した後輩達へ頷き、僕は通常より濃度の濃い感覚体を体の中に形成した。感覚体は神経から漏れ出た生命力ゆえ、当然ながら神経を流れる電気信号より弱い。然るにそれを濃く、つまり強くすると、神経と筋肉の隔たりが薄くなり、筋細胞の一つ一つを心で直接動かしている感覚を得られるのだ。これは物質化した魔物との戦闘に用いる技術であり、僕の技量では魔物との実戦に耐えうるか怪しいところだけど、なぜか今この瞬間、僕は歴代一の高濃度体内感覚体を難なく形成することが出来た。いぶかしむ間もなく、閃きが駆け抜けてゆく。なるほど、これが創造主の意思か。
 
  創造主は僕らをいつも
  導いてくれているから、
  後輩を導こうとした僕を
  助けてくれた。
 
 それを魂のレベルで悟った僕は、エイミィが新忍道本部と交渉し借り受けた3Dの出雲を木刀に投影し、練習用のサタンと単騎戦う。そして、
 ズバ――ンッッ
 サタンの胴の半ば以上を、出雲で叩き斬ったのだった。
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