イカロスの翼

谷メンマ

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7月30日 渇いた銃声

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昌弘からFAXを通して文献を受け取り、さらに翌日も夜通しそれと睨めっこをしていた拓也だったが、流石に眠気を感じ、少しだけ仮眠を取ろうと横になったのが朝の6時過ぎ。

しかし目が覚めた時にはすでに、時計の短針は頂上を通り越し、右側にある3の文字すらも通り過ぎようとしていた。

思わず頭を抱えたものの、こうしてはいられない。

送られてきたA4用紙4枚の中で、昨日の夜に見ていた3枚には、それらしい記述は一切無かった。

「…クッソ……こんだけの危険を冒してんだ、単なるオッサンの妄想では終わらないでくれよ……」

すぐさま作業に戻ろうと文献がコピーされたA4用紙に手を伸ばしたところで、まだじっくりとは目を通していない最後の一枚が、ひらりと彼の手から離れていった。

不思議とそこに運命的なものを感じた拓也は、反射的にそれを拾い上げた。
使われているのは古い書体の……アラビア語系の文字だ。
12世紀に東方の文書はその大半がラテン語に翻訳されたが、対象となったのは医学書等の実用性のありそうなものに限られる。

この手の特殊な文献は、意外と原本そのままで残されていることも多いのだ。

故に、それらに頻繁に使われる文字についてはあらかた頭に入っている。

とはいえ十数年ぶりに目にするアラビア古語だ。
無理せずゆっくりと辿りながら翻訳していくと、そこに記されていた内容に、思わず文献を取り落としてしまった。

それはアラビア圏に広く信仰されている、かの宗教について書かれているものである。

曰く、
『偶像を信じること勿れ。偽りを信じるところ、それ即ち真と成る』

その文書は、一見宗教について書かれているように見えるものの、中身は風土的魔術の指南書となっている特殊なものであり。
そしてこれがまさしく、拓也が探していた魔術にまつわる文献であった。

驚きのあまりひっくり返りそうになるのを必死でこらえつつ、拓也はじっくりとその先を追っていった。

汗まみれになるのも構わず、たっぷり2時間ほど、穴が開くほどその紙を見つめていた彼は、すぐさまスマホを取り出して通話ボタンを押した。

かける先は勿論、旧友であり民族学者の佐藤昌弘である。

今度はすぐに出た旧友に向かって、拓也は一息に捲し立てた。

「佐藤、今どこにいる!?周りに人は!?…ついに分かったぞ!よく聞け、いいか一回しか言わないからよく聞けよ!」

「わ、分かったから落ち着け!俺は今研究室にいるんだ。人は…今はいないぞ。…どうした拓也、一体あの文献から何が分かったって言うんだ?」

酷く取り乱した様子の拓也宥めつつ、気になった昌弘は続きを促した。

「…あ、ああすまん。……分かったのは、『きさらぎ駅』の正体についてだ」

「きさらぎ…って、あのネットで有名な都市伝説だろ?それと俺が送った文献に、何の繋がりがあるっていうんだ」

昌弘の言葉に、電話口の向こうで頷いた拓也は、呼吸を整えて口を開く。

「……きさらぎ駅は、単なる都市伝説じゃない。…もっと言うとあれは、ネットの性質を利用した国家単位での——」



拓也からの電話を貰ったその日の夕方、昌弘はどうしても家に帰る気になれず、研究室から少し歩いたところにある骨董屋に立ち寄っていた。

どうしても、先程の拓也の言葉が忘れられない。

茫然自失の表情で店先の小物を眺めていた彼は、ふと背後から視線を感じて勢い良く振り返った。

しかし、後ろには人一人いない。

「…気にしすぎ、か。……よし、帰ろうか」

小物を店頭に戻して帰途についた昌弘であったが、その後もたびたび人に見られているような感覚に陥り、ついには最寄駅の一つ手前で電車を降りることにした。

気のせいなら単なる杞憂で済むのだ。
しかしこれがもし本物の尾行なら、ますます旧友の立てた突拍子もない仮説が真実味を帯びてくることになる。

背後からの足音を気にしながら歩いていると、これまた偶然か必然か、どんどん人気のない方へと進んでしまっているような気がする。

……やはり、何かおかしい。

額に浮かぶ脂汗を拭いながら、昌弘はスマホを取り出した。

こういう職業だ、家族への遺書ならすでに残してある。
だが、今はもう一人。どうしようもない旧友にこの事を伝えなければ。
そうでなければ、おちおち死ぬ事もできない。

しかし通話開始ボタンを押してからしばらく待っても、一向に出る気配のない拓也に焦れの限界が来た昌弘は、LINEではなく通話アプリならではの利点、留守番電話機能をタップした。

これは、仮にスマホの充電が切れても、自動でそこまで録音した分を送信してくれる優れものである。

「もしもし、昌弘だ。…お前に頼まれた4枚目の続きをFAXで送っておいたよ。……さっきから、人に尾けられてる。…明日の朝も生きていたら、また電話するよ——」

そのあとに旧友宛の遺言代わりの言葉をいくつか残してから、昌弘はスマホをしまい、天を仰いだ。

明日の朝まで生きていたら、か。

学者のくせに、随分と希望的観測をしたものだと自嘲気味に嗤った彼の頭に。
カチャリ、と冷たい金属の感触が突き付けられた。

「こんばんは、佐藤博士。……あなたのような聡明な方の最期が、こんな所とは。残念ですよ」

今まで何の気配もしなかった場所から、突然。
昌弘の背中にじっとりと脂汗が浮かぶ。

話し声からして、女性だろう。
抵抗する気も起きないが、ただで死んでやるわけにもいかない。

「君は…すまない。女性の顔を覚える苦手でね」

おちゃらけついでに顔を見ようと頭を動かしたが、その瞬間に先程よりも強く金属を押し付けられた昌弘は、「冗談だ」と両手を挙げた。

「…公安か?それとも、宗教連か。…いずれにせよカタギじゃ無さそうだ」

その言葉を笑うでも思案するでもなく、あくまで無表情といった平淡な口調で女は答える。

「どちらでもありません。私たちは、異分子を消すための専門機関です。…再起を図ったナチスの残党、黒人差別結社、過激なテロ組織。……各国首脳は私たちのことをこう呼びます。………”世界の意志”と」

「世界の、意志……?…そんな暗殺組織様がなぜ、一民族学者の私を狙う。…冥土の土産だ、教えてくれないか」

「…そうですね、詳細は分かりませんが。今回私たちは、日本政府から依頼を受けたと聞いています」

壮大すぎる話ではあるが、今更驚きはしなかった。
恐らくこの襲撃は、拓也との通話から端を発している。

つまり、相手には公共の電波を傍受できるだけの権力がある、ということだ。

「そうか。……私は、覚悟を決めてるよ。…なあ、あいつも殺すのか」

頭に当たっている金属の感触が、わずかに変化した。
背後の女が、引き金に指をかけたのだ。

全てを悟り、そっと瞼を閉じた昌弘の背後から。


「……はい。それが”世界の意志”ですから」


夏の夜空に、プシュッと滑るような銃声が鳴り響いた。




























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