papillon

乙太郎

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chrysalis

11章

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彼女の教室前へ共に移動する。
雑談で賑わう廊下、その中でも
あまり目のつかない支柱の裏で2人は足を止めた。

「ごめんなさい。かなり強い言い方だったわね。
私も少し冷静じゃなかったの。
…それで、どう?協力してくれる?」
「うん、こちらこそお願い。あの後でいいのね?」

私宛にファイルが添付される。
レコード7/17。これがチヅルの違和感を記録した
この案件史上最も有力な手掛かり。

「あぁ、それと…」
「ん、見られたくない所があるの?
いいわ。協力してもらった以上は
アナタの許す限りで閲覧する。」

このレコードに記録されていることは
その時点の出来事すべてを記録している。
だからこそ、その視界を持つ当人の
プライバシーも丸裸にされてしまう。

…しょうがないことだ。
彼女の決心を裏切りたくはない。
レコードの隅々を走査できないのは
事実解明には大きな弊害だが
彼女の不可侵領域をずけずけと
踏み荒らしていい道理はどこにもない。

「いえ、そうじゃなくて…
その、説明しづらいのだけれど、
ところどころところがあって。」

かつて気が動転していたのか不明瞭なチャプターが
あることを村岡に相談したところ、

であれば問題はない。
人間の知覚は頭の整理の為に
不要な情報を簡略化、削除する傾向がある。
見えないならそれまでのことだ。
第一、君に見えないものなら第三者が
レコードを閲覧しても分かるはずがない。

と、提出の必要性を否定されたそうだ。

あのヤロウ、今度ブン殴ってやる。

「いえ、重要な手掛かりになるかも。
忠告ありがとう。調査結果はもう少し待ってて。」

チャイムが鳴る。
授業が始まるまえに教室に戻ろう。

「それだけじゃなくて…!
その、ありがとう。お陰で目が覚めた。
ああでも言ってくれなきゃ
私、自分を見失ったままだったかも。」

その言葉に振り向き、苦笑いで答えた。

「構わないわ。さっき金髪が言ってた通り
あまりいい噂の無い私だけど、
よければいつでも相談に乗ってあげる。」

その言葉を聞いたとたんチヅルは
窓枠に手をつき急に俯いた。
やはり精神的に大きな負担がかかっていたのか。
慌てて彼女に駆け寄る。

「…ッ!…フフッ。アッハハハハ!
…キンッパツ、ってぇ!」

覗き込んで見れば腹を抱えて笑いを堪えている。
元より行動力のある彼女のことだ。
この様子ならもうあの3人にイビられる
心配もないだろう。釣られて笑っている所を
教師に注意され、2人は急いで
それぞれの教室へ駆け出した。

「じゃあまた!探偵サン、ヨロシクね!」
「ええ!キッチリやり遂げてくるわ!」


退屈な科学史も終了し、放課後。
部活にうちこむ者、街に繰り出す者、
帰宅し自宅で思うままに過ごす者、
皆それぞれの目的をもって教室を離れていく。

そうして10分もする頃には、学び舎全体は
運動部の掛け声と管楽器の一節を反響させる
空洞と変わっていた。

橙色に照らされ、誰もいない教室で佇む。
4時半、誰もが距離感を図り合う昼間とは
異なる時間帯。私だけ、私きりの空間。

set-up completed.
        ORTICA, mode Calculation be ready.

窓辺から冷めた目で、
照明を提供し続ける天蓋を見つめる。

虚構だ。
自らの配役を守り切るための上っ面な人間関係も、
ああして歴史が棄却したはずの太陽を
今も健気に代替している偽物なりすましも。
…でも、だからこそ。

「構ってなんかやらない。」

贋作の中で見出した尊い真作を、
緋翅水冴綺は絶対に手放したりなんてしない…!

in-put optimized.

diving launch sequence count down.

椅子に体重を預け、掌を胸の上で組む。

3…
2…
1…

Onsite verification現場検証 start開始!」


途端、体から切り離される意識。
この教室は3階、地上8m相当。
速度を増していく存在スケール
…現実世界の位相に意味はない。
此処はとうに電脳の狭間、
冷たい地表など意に返さない垂直落下。
こびりついた網膜のイメージを払拭し、
自我は底無しの暗黒に落ちていく。
間もなく背後に過ぎ去っていく青白い光を観測。
見慣れたソレが一条、光束となり、
周囲を取り囲んだ瞬間、上下軸を平定する
重力が反転する…!


brain activities is replaced.
   process diving all complete.

飛び起きるように覚醒する。
身体は汗ばみ、節々がふるえている。
…汗? 電脳世界で?
冷静になれ。どうってことない。

warning Sync rate 92%

やはり絶対の平穏が約束されている空間
以外でのダイブはやるべきではなかったか。

この事態を想定して工程はいつもより
多めに踏んだというのに、
久方ぶりに電脳酔いを引き起こしてしまった。

「っう…最悪の気分ね。」

取り敢えず存在スケールの境界を捉え直す。
皮膚の感覚情報、筋膜の反射運動をノイズとして
シャットアウト。
ぼやけていた輪郭が確かな境界を引き始める。

深呼吸。
電脳だろうが実世界だろうが
肉体を駆動させるための呼息運動は
リラックスに効果的である。
延髄にて基礎活動として定義され、
体の循環の根底を支えるソレは
混乱した思考と興奮した肉体に平常時の
状態を想起させてくれるのだ。


改めてレコードの位相を確認する。
視点は俯瞰。
前回の少し後、暗闇の包む裏小路の曲がり角の出口。
あの金髪どもはとうに見えなくなっている。

再生。


チヅルの周囲を取り囲むのは、来客を迎え入れる
表通りのような置き看板の電球ではなく、
絶対的な沈黙。
ただなわけではない。
無秩序が生み出した 混沌カオスが、
互いに牽制しあって間合いを図っている静寂だった。

「っ…くぅぅ…」

今にも泣き出しそうな自分を押し殺すチヅル。
彼女はもう踏み込んだ。
体育館裏で私が彼女に語りかけたではなく
誰の目にも明らかな
この空間ではチヅルは捕食対象にすぎない。

眼前に香水店の居場所を示すペイントが写る。
廃墟同然の雑居ビルのB1階。
コンクリートに囲まれた階段がチヅルを
手招きしているようだ。
あの空間には逃げ場などない。
金髪の言っていた通り、なんて
品性のある店舗であるのなら話は別だが。

…いや、この路地に踏み入れた以上、
コトが起きた時には手遅れなのだろう。

階段を降りて行こうか迷っている彼女の右肩に
何者か捕食者の手が置かれた時、
彼女はあまりに遅すぎた気づきを得た。

まさかまだ大丈夫でしょう?と
肩を左右に軽く振ってみる彼女。
今まで付き合いの良い人物像をこなして来たし
通りすがりの人助けだって何度もやってきた。
ましてやこんなところで得体の知れない暴漢に
食いものにされる程悪いことなんてしてない私。
どう考えたってそんな私が酷い目にあう
道理なんてドコにもない…!

その肩はびくとも動くことはなかった。
がっちりと彼女を掴むその握力に
「道を尋ねるようとする私と同じ初心者」
なんて可能性を一切感じさせない。
粗暴な力、ゴツゴツした手のひらは
「もう逃げられない」という非情な現実を
彼女に突きつけていた。

全身の血の気がひく。
ORTICAで助けを呼んだら保安警察がくる?
大声で叫んだら?
振り向いて股間を蹴り上げるとか?
ヒステリックでも起こせば怯んで手を離すかも?

…どれも叶わない。
そも、とうに彼女は恐怖に怯えきっており
体は硬直して指1本どころか声すら震えて
あげられなくなっていた。

「ひぃっ…」
誰か助けて。
ごめんなさい。
もう2度と来ませんから。
何も出来ず強く瞼を閉じ、一条の涙を流したその時…

チヅルの体が弾けた。
いや、弾けたように加速度をもって走り出した。
不意をついたソレは見知らぬ男の拘束をほどき
その追跡を振り切らんとしている。
彼女は目を瞑ったままだが、その逃走は確かで、
立地を把握しきっている様子すら感じられた。


一時停止。


彼女の様子を再度凝視する。
自らの体を抱え込むように前傾になっているために
幸運にも突然の逃走に行動できる状態だったようだ。
見ればフリーになっていた左手が
強く前に突き出されている。
…突き出す?前傾の割にはかなり不自然な伸張。
違う、これはもっと別の…

?…


「っ…!見つけた…!」


彼女の1m前方を凝視。
大河内智鶴。彼女は最後に1つ言伝をしていた。

ところどころ

「ホント…だったのね…」

確かにそこにはなにもなかった。
暴漢に襲われる彼女。
そうとしか見えなかった。

しかしながらという
認識に焦点を当てた今…

…!


彼女のの原因、
未解決失踪事件の一端が今私の目の前にある…!












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