papillon

乙太郎

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chrysalis

Metropolis Apocalypse

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……
……
…………

…ナニカ、アツイ。
…熱い?
…ナゼカ、クライ。
…暗い?

…ワタシハ、ウゴケナイ。
……ココカラ、ウゴケナイ。
………………………ウゴけナイ。
…………………………ウごけなイ。
……………………………うごけない…


「気を確かに持って。
その記憶レコードは今の貴方には必要のないものよ。」

……ウゴケナイ。
………今のは………
…………ウゴケナイ。
……………そこに………
………ウゴケナイ、ウゴケナイ、ウゴケナイ、ウゴケナイウゴケナイウゴケナイウゴケナイウゴケナイウゴケナイウゴケナイウゴケナイウゴケナイウゴケナイウゴケナイ

……そこに、だれか、いるの?……

鬱積した思念が蠢動する無量の極点。
希釈にすぎる1人の少女。

輪郭はとうにない。
感覚もすでにない。
その意識だけが、世界に咀嚼され
一端にして全容として取り込まれる刹那。

微かに、差し込む薄明光線。
旧世界において使と形容されるそれに、

窪みを虚無で満たされたはずの眼で。
末端として暗黒に霧散したはずの手で。

彼女を優しく語りかける救いに触れる…




微かに、眼球に を透かして光が瞬き始める。
失っていたーーーの輪郭が線を結ぶ。
ーーはゆっくりと、ゆっくりと を、開く。

「…よかった。厳しいことをいってごめんなさい。
見えないものは見なくていい。
今は少しずつでいいからアナタを捉え直して。」
「……あ…?」

だれかが…私の…
…?肩…を、抱き抱えて…いる。

瞼…?をどうにか開ききった…のに
視界が…霞んで…

「少し、お話しをしましょうか。
貴方の名前は?思い出せる?」
「わたし…?わ、たしは…?」

辿る、辿る、辿る。

でも…なにも…思い、出せない…

霞を掴もうとするように…
なにも、とらえられない…

「そんなはずは、ない。
自分が誰かすら思い出せないようながさつな人間が、
こんなに綺麗な髪を持ち合わせてるはずがないもの。」

髪…髪…?
ちがう…私は、自分から伸ばしたんじゃ…
此れは…カナちゃんに…

走る鈍痛。頭を抱える。

「…何度もごめんなさい。
名前を思い出せなくたって貴方は貴方…」
「違う…違うの…!」

私はひとりでそんな事が出来る人間じゃない…

「アタシは…アタシは…緋翅ひばね水冴綺みさき…!
この髪は…彼女に…
…!」

霞んだままの視界。
助けてくれた彼女が
どんな表情かなんて見えもしないのに。

目の前の彼女が…何処か寂しさを讃えた目で
優しく微笑んだ気がした。

「そう…ヒバネ、ミサキ。
緋翅 水冴綺っていうのね。
とても…とてもステキな名前…」

途端、溢れる涙。

ついさっきまで底なしの暗闇にいた恐怖感に。
圧倒的な絶望からこうして生還できた安堵感に。
こんなにもアタシの心の真ん中にある
カナちゃんを忘れかけた自責感に。
そして、珠木可奈子を再び思い出せた多幸感に。

誰かも解らない彼女の胸を借りて、
どうしようもなく泣きじゃくっている。

「ええ、いいの。いくら泣いたって。
。」

彼女は、アタシの震える背中を、
子どもをあやすような優しさでさする。

2人を包む温かな安息。

しかし、廃棄区画をつつむ状況は
緋翅水冴綺のとめどない感傷を
いつまでも待ってはくれなかった。

背後から平穏を遮る爆発音。
その余りの規模に取り戻しかけた聴覚に
耳をつんざく甲高い反響が響き渡る。

「…っう!」
「そう…意地でも彼女は
始まった歩みを許せないというのね…」

目の前の彼女が立ち上がる。

「無理なお願いを聞いてちょうだい。
刻一刻と周囲の環境が悪化してる。
今すぐここを立ち去らないと。」

私の肩をつかって。とアタシの上半身を
支える彼女。

「ねぇ、まって…!
あなたの、あなたの名前をまだ聞いてない…!」
「……私のことなら、でいいわ。
この程度の人助けで偉ぶって名乗るような名前、
持ち合わせていないんだもの。」

笑いながら答える彼女。

ちがう…そんなの間違ってる…!
この世に、この世界に…
はぐらかしていい名前なんて、
一つもありはしない…!

でも、ソレが言えない。
ただ立ち上がるという動作だけで
疲れ切った緋翅水冴綺の体力は
意識を失いかけるほど消耗してしまった。

「…ひとつだけ。
これから出来るだけ急いで、それでいて焦らずに
まだ影響の薄い空き地を後にするけれど。
…今から貴方が目にするものすべては、

大丈夫、なんならあんなもの見なくていい。
100mポッチの辛抱なんだから
少しの間、我慢していてね。」


そうして、通りすがりの彼女にもたれかかりながら
狭い通路を抜けて。

彼女の目の前に飛び込んできたのは、

筆舌に尽くしがたいほどの、

阿鼻叫喚の灼熱が猛威を振るう地獄そのものだった。


…おかしい。
廃棄区画、確かにここはだ。
弛む事なき完璧な循環社会であるメトロフォリア。
たった一つ。
人類に残された最後のユートピアの存続を第一に
ORTICAはその威光が隅々を照らすモラルではなく
永久機関の成就と引き換えに
生活圏と隔てられたイリーガルを許容した。

事実、ここではORTICAの審判が甘く、
あの手この手で迷い出てくる一般住民ヒツジたち
食い物にする体制が組み上がっている。

だが…これはあまりにも…


とどまることを知らない業火に撒かれた火の玉が
雑音を上げて暴れて回る。

あ…れは、あれ…は…

「考えなくていい。今はここを出るだけ。」

…それは、出来ない…

何より、目を背けたとして。
どうせ、耳を塞いだとして。
その鮮烈な光を放つ熱量が、
苦悶の抵抗で、苦痛の絶叫で。
爛れを通り越して炭化したその容姿で。
その炎球の核が自我を持つ人間であることを
訴えかけてくるのだ。

…訳が…わからない…


この世に生を受けた人間が。
その生涯を悪虐の限りに費やしたとしても。
これ程までに残酷な報いを受ける道理が
私には、見つからない…


たまらず、唯一の頼りである彼女に目をやる。

毅然と前を向き続ける彼女の顔も
たちまち白くなって、びっしょりと汗が浮かんでいた。

歩く、歩く、歩く。
残された少女2人は凄惨な光景を遠ざける。

疲れ切った足取りに今にも飛びそうな意識。
ただし、この状況に比べれば不幸中の幸いだった。
霞んだ視覚は精神を破壊する視界にモザイクを、
耳鳴りの止まない聴覚は、煉獄を歌う叫びを
フィルタリングする。


歩く、歩く、歩く。

「その調子よ…あと半分もない…」

ビルは窓から火焔を吹き、
耐えかねたようにヒトガタがこぼれ落ちる。

びちゃり、びちゃり。
足元で崩れる肉。

血は流れない。
液体は蒸発しており、加熱変性して白濁した
内容物が音をたてているのだ。


まいにちのつみかさねでめらめらもえる。
ぼうぼう、ぼうぼうおどってまわる。
わらってる。わらってる
ひのようせいがぱちぱちはねる。
きっとかみさまがおこったんだろうな。
まなこにはいるきらびやかなねつ。
かれらのいのちをもやしてまたたく。

朦朧した思考で巡る現実逃避。

そのとき、ふと泳いだ視線の先。
一際強く燃え盛る箇所が目に入った。


あれは…なに…?


壁やコンクリートに大きな亀裂がある。
その狭間、大八地獄を煮詰めた宿業の釜を
傾けたかのように、とめどなく溢れ出す業火。

否、ビルの壁や舗装道路から
あんな火焔が漏れ出るはずもない。

…?

…a…rrru…

その先、炎の向こうに、

「水冴綺ッ!」

パンっ

両頬を平手打ち。
アタシ…なにを覗こうと…

そのままアタシの目を見つめる彼女。

「いい?貴方は緋翅水冴綺。
居住区のまっとうな女子高生の1人!
第一、カナちゃんっていう親友がいるんでしょう!
貴方その子に消えない傷をつけるつもりなの?!」
「…っ!」

そうだ。
アタシは彼女を手放した。
でも、その別れは決して無意味なものじゃなくて
確かに譲れないものがあったからだ。
彼女はアタシをもう二度と許してはくれない。
でもだからこそ、目覚めの悪い遺恨なんて
作りたくはない。
カナちゃんが許してくれなくても、
アタシは彼女との思い出を胸に前に進んでいける…!

「こんな地獄トコロ
死んでなんて…やらない…!」

虚だった瞳に強く揺るがぬ決意が宿る。

「本当にありがとう、通りすがりのあなた。
アタシ、どう感謝したらいいかーー」


その瞬間ときだった。

彼岸と現世を隔てる黒煙。
生還まで後一歩といったところ。

ビルに立て付けられていた
巨大なキャバレーの看板が猛火を讃えながら
緋翅水冴綺の…頭上に…

「…っ!危ないっ!」

身体が飛び退く。
咄嗟の機転に緋翅水冴綺は無傷で助かった。

…そんなことより、彼女は?

「ねぇ、あなたは無事なのっ?返事をして!」

少し時間を置いて一声。

「…なんとかね。」
「待ってて!今そっちにーー」

回り道を探そうとする緋翅水冴綺。
それを、

「来ちゃ駄目ッ!」

通りすがりを名乗る彼女は制止した。

そんな…ここまで来て…やっと、ーー

「いいの。どうせソッチにはいけないし。
それに私、。」

断行した無鉄砲。
得体の知れない大災害。
心身共に弱ってしまっていたアタシを
ここまで助けてくれた。
お礼なんてまだしていないし、
名前だってロクに聞けていない。


なにか。
なにか。
彼女に。
言わなければ
ならない
コトが。

「…ごめんなさいっ…ごめんなさい…」

再び涙で前が見えなくなる。
口を突いてでたのは、謝罪だった。

?」

「……!」

思えば、簡単なことだ。
ただのがこんな阿鼻叫喚を讃えた
煉獄のなかを助けに来てくれるはずがない。

であれば、
…!

「アタシ…どうしても…
…!」


届かない。


この感覚を私は知っていた。

なのに…
なのにアタシは…
また大切な繋がりを取り零そうとしている…!

「ふぅ、安心した。」
「えっ…?」

「貴方を此処で見つけた時は驚いちゃったんだ。
すっかりクールな雰囲気をまとってて、
悟った。」

彼女はの知らないとの出会いを語る。

答えられない。
もし彼女との付き合いが、
親友と呼べるものだったとしたら。

その過去を共有したものとして
返すべき記憶メモリーを一切浮かべることができない。

「でも、違ったんだ。

情緒が豊かで万華鏡のように美しい世界を
私たちに見せてくれた女の子そのままなんだ。」

「そんな…アタシは、そんな人間じゃない…!
行かないで!アタシまだあなたに何も返せていない!」

全身で放つすがるような叫び。

そこに、

「オイ、何やってんだミサキチャン!」

コートを羽織った青年、村岡辰二が駆けつけた。

「おいおい、何処の暴動だ?こりゃあ…」
「っ!ねぇ!お願い!あの煙の向こうに
女の子がいるの!助けるのを手伝って!」

目の前の男に縋り付く。

「煙?女の子ぉ?確かに火の手は上がっちゃいるが
女の子なんて何処にも…」

腫れ上がった右手で探偵の胸を叩く。

トン…
トン…
トン…

あまりにか細い仕草だが
これが今の彼女に出来る最大限の訴えだった。

こうしている間にも火は大通りを辿って
2人の方へその手を伸ばしている。

周囲を見渡し考えを巡らせる村岡。

………
……


「すまん。許せ。」

緋翅水冴綺を担ぎ上げる。

男は衰弱しきった彼女を
第一に優先する決断を下したのだ。

「うん、それでいい。

この奇跡の出会いは、私が貴方に対する
恩返しにつかうためのものなんだもの。」

「行かないでぇぇええ!!!」

力一杯煌々と燃え盛る繁華街に手を伸ばす。

待って。
待って。
消えそうになっていたアタシのココロ。
それを、ひとりポッチで掬い上げて。
今にも倒れそうな不安定な足取りを、
か細い腕を引っ張って導いてくれた。

そんな、そん、なあなた、の献身を、
アタシ、思い出せ、ーー ない、ーーなん、ーー


おちる、おちる。
とばりがおちる。
とおりすがりのかのじょと
ちっぽけなままのアタシをへだてて。

まって。
アタシ、かならず、あなたの、こと、を、ーー

緋翅水冴綺の視界は、そこで暗転した。
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