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岩が張り出して舞台のようになった中央に月光が満ちあふれる。空気は清冽とし、じっとしていられないほど肌寒い。そこで碁盤をはさんで相対する人物があった。
「かずはる」
手前の女性は肘を置く台に体をあずけ、肩越しに一春を見つめていた。薄い綾をまとっていて、より白い肌の色が透けてみえる。小柄な体つきはあまり起伏がなく中性的で、崩して座る裾からしなやかな足がのぞく。黒々とした髪は水が岩を染み出て落ちるように両肩にたっぷりと流れていた。目元は笑みを浮かべて細まり、薄紅がのぞく唇に一春は総身の毛が逆立つなにかを感じる。取って食らわんとする恐怖か、突き抜けた美麗のせいかもわからない。ただ、きびすを返して逃げだそうとはしなかった。あまりに現実味のない夢は、中途で気づいておかしな度胸がつくのと似ていた。
「よくきた。ちかくよれ」指先を揃えた手が招く。「おそろしくはないぞ。ここにはだれも、いやなおもいをさせるものは、いない」
ともすれば、からだが引っ張られてしまうような感覚に手綱をつけて、慎重に歩を進めていく。「かがめ」といわれるままに膝を折ると、「よしよし」長い指が一春の頭をなでた。
「きのうから、なんぎであったな」
「知っているんですか」
発してみると、意外にも声は簡単に出た。
「あなたなら来燎火がどこに行ったのかわかるんですか」
「おびえずともよい」
子供は一春の手に触れた。胸の底で沸き立つ鉄瓶のような心持ちが、鳴りをひそめて静かに沈んでいった。それでも苦しい立場に追いこまれた兄を想う心情は、焼け付いた影法師となって残っていた。
遠く望月は中天にかかり、そそぐ光は白昼さながら。崖のむこうに延々と連なる山々の峰はかすみ、囲んでこちらの様子をうかがっている。鳥も小獣もあたりから絶え、掛け軸の中に入ってしまった気さえした。
「らいりょうかは、ひとのしゅうねんがたどりついた、もののけのどうぐ。ひとのそとからむかったほうが、はやくであえるだろう」
盤の向こう側から、石が打つ音が響いた。
姿形は似ていたが、からだがふたまわりほど大きかった。布地から透ける肌も色味が強くつややかで、生気にあふれている。筋肉は肌に陰影を描き、その動きにあわせて衣のひだは遅滞なくついていく。
「ろくめい」名を呼ばれて、あごがあがる。鋭い眼光が一春をとらえた。太い眉とまつげが浮き彫りにする目に瞳はなく、一匙に白い汁をたたえているようだった。鼻は高く、口元は固く結ばれていた。肩まで包む黒髪が、その上半身の輪郭線をかたどっている。
「つれていけ。やくにたつ。じしんさくぞ……それと」
一春と重なった手の間に、冷たい石が乗せられていた。平たく、長く、細い。どこの河原でもひろえそうな形の石に、穴がうたれて、麻紐が通されてある。
「まるごしで、らいりょうかにいどむわけには、いかん」
直感的に親指を通して握ると、石の棒はナイフのように見えなくもない。だが、やはり手のひらの感覚は石である。
「ろくめい、かずはるのいいつけによくしたがえ。いけ」
一春の足が宙を掻く。ろくめいに小脇に抱えられて、そのまま水墨の虚空に飛んだ。
女と自分をかたどる描線は尾をあとへ流して消えていく。岩の肌だろうと、水面だろうと、つま先が触れれば膝が深くかがんで、墨をいっぱいにたたえた筆がためられて、飛び立つ瞬間に一気に爆発する。紙の風をききながら、一春は月をあおぐ。目の前にせまった一円相に飛びこめば、音を立てて色彩がめくれあがっていく。青空に足跡をつけると、頭上を丸く覆うように敷き詰められた家々の屋根、隙間を埋める木々の緑、アスファルトの血管に落ちていく。
ろくめいは二度、三度と回転し、空気の層に体をぶつけながら、一本の楠の頭に軟着陸した。体を起こすと、そこからは一春の住む町が一望できる。いまだ江戸の匂いが残る町、神農町である。
「あの屋根の下すべてに人が住んでいるのか」
一春の顔のそばで枝先に立っていた女は、遠くを眺めながらいった。いつのまにか目には赤みを帯びた瞳が入っている。表面に宿る光はどこか挑発的だった。
「ずいぶんと風俗のことなる土地にきたものよ」
「ろくめい……」そんな名前だったっけ、と思う間もなく、一春の足は再び宙を泳いでいた。子猫のようにつかまれた襟元は首回りを締めつけ、それ以上の言葉を遮断させた。
「一度しかいわんぞ、わっぱ」先ほどまでの石舞台の雰囲気は消え、首の後ろに立ちのぼってくるのは、はっきりとした悪意にほかならない。
「来燎火は私がつかまえる。姉様に言われたことだ。私はな、たとえそれが原因で自分が不利になろうと、交わした約束はかならず守るのだ。だが、おまえといっしょでは足手まといだ。自分の屋敷に引っこんでおれ、わかったな」
そうして一春を幹にむかって投げすてると、女はそのまま飛びさってしまった。枝葉の洗濯機にもまれながら、一春はその狂喜とも嘲笑ともつかない声を聞き、なにもできずにただ見送るしかすべがなかった。
「ろくめい……!」
ようやく太い枝をつかんで落下が止まったときには、顔や腕には細かい傷が無数についていた。歯を食いしばっているのは傷のせいばかりではあるまい。ろくめい。その名はもう二度と忘れることはない。
「おまえがいなくっても、来燎火は俺がとりもどすぞ」
ところで男の子の一人称が変わる瞬間とは、どれだけ小さいきっかけだろうと、さなぎから蝶が羽化するよりも劇的な変化が内面に起きているのではないだろうか。
すくなくとも一春は自分史の中で決定的な一時間を今すごした。
「かずはる」
手前の女性は肘を置く台に体をあずけ、肩越しに一春を見つめていた。薄い綾をまとっていて、より白い肌の色が透けてみえる。小柄な体つきはあまり起伏がなく中性的で、崩して座る裾からしなやかな足がのぞく。黒々とした髪は水が岩を染み出て落ちるように両肩にたっぷりと流れていた。目元は笑みを浮かべて細まり、薄紅がのぞく唇に一春は総身の毛が逆立つなにかを感じる。取って食らわんとする恐怖か、突き抜けた美麗のせいかもわからない。ただ、きびすを返して逃げだそうとはしなかった。あまりに現実味のない夢は、中途で気づいておかしな度胸がつくのと似ていた。
「よくきた。ちかくよれ」指先を揃えた手が招く。「おそろしくはないぞ。ここにはだれも、いやなおもいをさせるものは、いない」
ともすれば、からだが引っ張られてしまうような感覚に手綱をつけて、慎重に歩を進めていく。「かがめ」といわれるままに膝を折ると、「よしよし」長い指が一春の頭をなでた。
「きのうから、なんぎであったな」
「知っているんですか」
発してみると、意外にも声は簡単に出た。
「あなたなら来燎火がどこに行ったのかわかるんですか」
「おびえずともよい」
子供は一春の手に触れた。胸の底で沸き立つ鉄瓶のような心持ちが、鳴りをひそめて静かに沈んでいった。それでも苦しい立場に追いこまれた兄を想う心情は、焼け付いた影法師となって残っていた。
遠く望月は中天にかかり、そそぐ光は白昼さながら。崖のむこうに延々と連なる山々の峰はかすみ、囲んでこちらの様子をうかがっている。鳥も小獣もあたりから絶え、掛け軸の中に入ってしまった気さえした。
「らいりょうかは、ひとのしゅうねんがたどりついた、もののけのどうぐ。ひとのそとからむかったほうが、はやくであえるだろう」
盤の向こう側から、石が打つ音が響いた。
姿形は似ていたが、からだがふたまわりほど大きかった。布地から透ける肌も色味が強くつややかで、生気にあふれている。筋肉は肌に陰影を描き、その動きにあわせて衣のひだは遅滞なくついていく。
「ろくめい」名を呼ばれて、あごがあがる。鋭い眼光が一春をとらえた。太い眉とまつげが浮き彫りにする目に瞳はなく、一匙に白い汁をたたえているようだった。鼻は高く、口元は固く結ばれていた。肩まで包む黒髪が、その上半身の輪郭線をかたどっている。
「つれていけ。やくにたつ。じしんさくぞ……それと」
一春と重なった手の間に、冷たい石が乗せられていた。平たく、長く、細い。どこの河原でもひろえそうな形の石に、穴がうたれて、麻紐が通されてある。
「まるごしで、らいりょうかにいどむわけには、いかん」
直感的に親指を通して握ると、石の棒はナイフのように見えなくもない。だが、やはり手のひらの感覚は石である。
「ろくめい、かずはるのいいつけによくしたがえ。いけ」
一春の足が宙を掻く。ろくめいに小脇に抱えられて、そのまま水墨の虚空に飛んだ。
女と自分をかたどる描線は尾をあとへ流して消えていく。岩の肌だろうと、水面だろうと、つま先が触れれば膝が深くかがんで、墨をいっぱいにたたえた筆がためられて、飛び立つ瞬間に一気に爆発する。紙の風をききながら、一春は月をあおぐ。目の前にせまった一円相に飛びこめば、音を立てて色彩がめくれあがっていく。青空に足跡をつけると、頭上を丸く覆うように敷き詰められた家々の屋根、隙間を埋める木々の緑、アスファルトの血管に落ちていく。
ろくめいは二度、三度と回転し、空気の層に体をぶつけながら、一本の楠の頭に軟着陸した。体を起こすと、そこからは一春の住む町が一望できる。いまだ江戸の匂いが残る町、神農町である。
「あの屋根の下すべてに人が住んでいるのか」
一春の顔のそばで枝先に立っていた女は、遠くを眺めながらいった。いつのまにか目には赤みを帯びた瞳が入っている。表面に宿る光はどこか挑発的だった。
「ずいぶんと風俗のことなる土地にきたものよ」
「ろくめい……」そんな名前だったっけ、と思う間もなく、一春の足は再び宙を泳いでいた。子猫のようにつかまれた襟元は首回りを締めつけ、それ以上の言葉を遮断させた。
「一度しかいわんぞ、わっぱ」先ほどまでの石舞台の雰囲気は消え、首の後ろに立ちのぼってくるのは、はっきりとした悪意にほかならない。
「来燎火は私がつかまえる。姉様に言われたことだ。私はな、たとえそれが原因で自分が不利になろうと、交わした約束はかならず守るのだ。だが、おまえといっしょでは足手まといだ。自分の屋敷に引っこんでおれ、わかったな」
そうして一春を幹にむかって投げすてると、女はそのまま飛びさってしまった。枝葉の洗濯機にもまれながら、一春はその狂喜とも嘲笑ともつかない声を聞き、なにもできずにただ見送るしかすべがなかった。
「ろくめい……!」
ようやく太い枝をつかんで落下が止まったときには、顔や腕には細かい傷が無数についていた。歯を食いしばっているのは傷のせいばかりではあるまい。ろくめい。その名はもう二度と忘れることはない。
「おまえがいなくっても、来燎火は俺がとりもどすぞ」
ところで男の子の一人称が変わる瞬間とは、どれだけ小さいきっかけだろうと、さなぎから蝶が羽化するよりも劇的な変化が内面に起きているのではないだろうか。
すくなくとも一春は自分史の中で決定的な一時間を今すごした。
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