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神農町は東京郊外にあり、二十三区からわずかに外れる。武蔵野台地に腰掛けて南に多摩川をにらむ土地は、古代より人が集まっていたことを示す遺跡も数多い。川の浸食でできた崖に清水が湧いて人が定住し、洪水で肥えた平地には田畑が広がり、すでに中世には今の地図と変わらない地形ができあがった。「野見つくされぬ」と歌われた雑木林を使い、炭焼きが行われ、隆盛した関東武士の要請にしたがい、武具や馬具の制作が盛んになった。注文をあつらえて納めるだけでなく、店を構えて棚にならべる現代の小売店の形式が、もう十五世紀の初めにはあったという。世がすこし落ち着けば、たとえば刀の鍔や装飾など、武具以外の注文も増え、さらに町が拡大した。中央の大都市、大伽藍の門前町ならいざしらず、このような田舎で専門店が軒を連ねてできた町が維持できたのは、職人の腕前と宣伝する商人のしたたかさであり、ついに町の名は現代まで残った。この町の名「じんの」は、かつての合戦のおりに陣を築いた「陣野」だったり、攻守において重要拠点たる「腎黄」と諸説あるが、明治の初めにはすでに「神農」の字があてられていた。神代に初めて武器を作った伝説の名にあやかっているあたり、当時の街の有力者が世の中の大転換を利用して、権威づけた感がある。とはいえ百年もたてばどんな名前でもなじむもので、神農市の中央には神農駅があり、各学校にも神農市立に一から十まで数字が付いている。昨今は周辺の市も発展をとげ、やや神農は影が薄くなっているが「それだけ落ち着いて住みやすいから」との評判もたつ。
さて。
木をすべり下りてきた一春はその根元の社の前に立っていた。あの石舞台は、この白木造りの小さな扉の先にあったのだが、中をのぞいてみても飾り気のない石が収まっているにすぎない。さて、先ほどまでのことは夢だったのかと思うほど一春も素直ではない。なにより、
「これは……」
手の中にはあの石塊がにぎられている。紐もついてあきらかに人の手が加わった道具であった。
来燎火を探して見つけだす。それを自分の口からもいってしまった。意識もしていなかったことだ。今朝方はそれで大の大人が右往左往し、家長の兄もただならぬ雰囲気で事態の収束に忙しく立ち回っていた。この春に中学生になったばかりの一春に、出番などあるはずもない。
ならどうして「俺が取りもどす」などと大見得を切ってしまったのか。考えながら裏口に戻ると、もっとも見られたくない人に出会ってしまった。
「かずくん、どうしたのですか」
ほうきを投げすてて駆け寄ってきたのは、伊豆見といった。この人がいなければ、水和木家の家事一切が停止して、本業の運営も成りたたない。十名近いハウスキーパーを手足のごとくあやつり、無駄に大きい屋敷を維持している。はじめてやってきたときは一春がまだ幼く、母親代理が主な勤めだった。
「やはりまだ朝の勤めは早かったのでしょうか」
「朝一番に社に水をあげる役目で、どうしたら満身創痍になるの」
「やはり明日から私がやります。さあ、服を脱いでください」
この場で服をむこうとする伊豆見から逃れるように屋敷へ飛びこみ、風呂場へ閉じこもる。熱いシャワーに細かい傷を叩かれていると、耳元で小さな笑い声が聞こえてきた。
「ざまあねえな、ざまあねえよ」
シャワーをとめ、目の前の鏡をぬぐうと、右の肩にヘビがとぐろをまいていた。小さな悲鳴をあげて振りはらうと、ヘビは足下でふわりと着地し、水しぶき一つはねなかった。
「手荒に扱うんじゃないぜ、俺はおまえよりずっと長くこの屋敷の水場に居着いてるんだ」
石舞台での体験の前では、しゃべるヘビなど珍しくもない。一春は自分でも意外なほど冷静になって腰を下ろした。
「ただのヘビじゃないみたいだ、神様かその仲間のようなもんだろうか」
「祈られたってなにもできねえが、俺がいるなら虫や火の災いからは避けてやれる。俺だけじゃあないぜ。この屋敷、この町には、たくさん俺みたいなのがいるんだぜ」
「じゃあどうしてみんな気づかないんだ」
「あんた、ほんとの神様に触れてきたな」ヘビが口角を上げて笑ったのを一春は初めてみた。
「さもなくば、俺に気がつくわけがない。水に溺れたものがその匂いに敏感になるように、神仙と相対すれば気が触れて、周りが見えないものが見えるようになる……これからつらい人生だぜ、おたく」
「来燎火を知っているか」一春はなぜか、「今ここで聞いておかなくては」と思い、自然とその単語を口にした。
「この水和木の家がそれで大騒ぎになっているのは知っているだろ」
「知ってるもなにもねえ……逆だよ、逆なんだ」ヘビは浴槽のへりに上がって、あぐらでもかくようにじっくりと腰を据えた。
「来燎火は家宝として人目にもつけねえように扱われているが、そもそも来燎火を押さえつけるための一族が、水和木家なんだぜ。水は火に克つ、五行相克だ。火にかけて水が沸く、ゆえに水和木だ。来燎火とはそういった武器だぜ、そういった武器があるんだ」
「じゃあ来燎火がなくなったら」
「家の基礎がなくなるも同然だ。虫やネズミをつかまえてる役目には手に余る大事件だな」
ようやく一春にも今朝から水和木家はもちろん、役所の人間までがあわてて出入りする事態が飲みこめた。そして「取りかえす」と、いかに大それたことを口走ってしまったかも思いいたった。「なかったことに……」したくなる気持ちを、ぐっと喉元で押しとどめる。
「ありがとう、ヘビ」一春はシャワーをとめ、体を拭いた。「俺のすることがみえてきた感じだよ」
「なんだい、来燎火をなんとかするって顔してんな。神仙に触れてきたんなら、なにか知恵があるんだろうが、危ない橋だぜ。なにもみなかったことにだってできるんだ」
「でも、俺はみてきたんだ。みたってことは、知ったってことだろ」
月明かりに照らし出された石舞台。白い衣をまとった女神、その自信作ろくめい、そして家に町にはびこるという、このヘビのような存在が、一春を昨日とは別人に変えていた。
ヘビにいわれて、そういえばもうひとつ、知恵の象徴をもらったのだと、脱衣所に残してきたあれを取ろうとすると、浴室の戸はむこうから開いた。
「かずくん、ひとりで洗えていますか」
庭掃除を手早く片付けた伊豆見がタオル一枚になって立っていた。
「伊豆見がお手伝いいたしますね」
脱ぎ捨てていた自分の服をひったくって浴室に戻った。そうしてしばらくガラス越しの押し問答が続くことになる。
ほがらかな表情で家の守り神の一匹は眺めていたが、一春の服の中から落ちたものを目にして、思わず口笛を吹いた。
「どうだい、まともじゃねえのを持っているな。たしか……」
さて。
木をすべり下りてきた一春はその根元の社の前に立っていた。あの石舞台は、この白木造りの小さな扉の先にあったのだが、中をのぞいてみても飾り気のない石が収まっているにすぎない。さて、先ほどまでのことは夢だったのかと思うほど一春も素直ではない。なにより、
「これは……」
手の中にはあの石塊がにぎられている。紐もついてあきらかに人の手が加わった道具であった。
来燎火を探して見つけだす。それを自分の口からもいってしまった。意識もしていなかったことだ。今朝方はそれで大の大人が右往左往し、家長の兄もただならぬ雰囲気で事態の収束に忙しく立ち回っていた。この春に中学生になったばかりの一春に、出番などあるはずもない。
ならどうして「俺が取りもどす」などと大見得を切ってしまったのか。考えながら裏口に戻ると、もっとも見られたくない人に出会ってしまった。
「かずくん、どうしたのですか」
ほうきを投げすてて駆け寄ってきたのは、伊豆見といった。この人がいなければ、水和木家の家事一切が停止して、本業の運営も成りたたない。十名近いハウスキーパーを手足のごとくあやつり、無駄に大きい屋敷を維持している。はじめてやってきたときは一春がまだ幼く、母親代理が主な勤めだった。
「やはりまだ朝の勤めは早かったのでしょうか」
「朝一番に社に水をあげる役目で、どうしたら満身創痍になるの」
「やはり明日から私がやります。さあ、服を脱いでください」
この場で服をむこうとする伊豆見から逃れるように屋敷へ飛びこみ、風呂場へ閉じこもる。熱いシャワーに細かい傷を叩かれていると、耳元で小さな笑い声が聞こえてきた。
「ざまあねえな、ざまあねえよ」
シャワーをとめ、目の前の鏡をぬぐうと、右の肩にヘビがとぐろをまいていた。小さな悲鳴をあげて振りはらうと、ヘビは足下でふわりと着地し、水しぶき一つはねなかった。
「手荒に扱うんじゃないぜ、俺はおまえよりずっと長くこの屋敷の水場に居着いてるんだ」
石舞台での体験の前では、しゃべるヘビなど珍しくもない。一春は自分でも意外なほど冷静になって腰を下ろした。
「ただのヘビじゃないみたいだ、神様かその仲間のようなもんだろうか」
「祈られたってなにもできねえが、俺がいるなら虫や火の災いからは避けてやれる。俺だけじゃあないぜ。この屋敷、この町には、たくさん俺みたいなのがいるんだぜ」
「じゃあどうしてみんな気づかないんだ」
「あんた、ほんとの神様に触れてきたな」ヘビが口角を上げて笑ったのを一春は初めてみた。
「さもなくば、俺に気がつくわけがない。水に溺れたものがその匂いに敏感になるように、神仙と相対すれば気が触れて、周りが見えないものが見えるようになる……これからつらい人生だぜ、おたく」
「来燎火を知っているか」一春はなぜか、「今ここで聞いておかなくては」と思い、自然とその単語を口にした。
「この水和木の家がそれで大騒ぎになっているのは知っているだろ」
「知ってるもなにもねえ……逆だよ、逆なんだ」ヘビは浴槽のへりに上がって、あぐらでもかくようにじっくりと腰を据えた。
「来燎火は家宝として人目にもつけねえように扱われているが、そもそも来燎火を押さえつけるための一族が、水和木家なんだぜ。水は火に克つ、五行相克だ。火にかけて水が沸く、ゆえに水和木だ。来燎火とはそういった武器だぜ、そういった武器があるんだ」
「じゃあ来燎火がなくなったら」
「家の基礎がなくなるも同然だ。虫やネズミをつかまえてる役目には手に余る大事件だな」
ようやく一春にも今朝から水和木家はもちろん、役所の人間までがあわてて出入りする事態が飲みこめた。そして「取りかえす」と、いかに大それたことを口走ってしまったかも思いいたった。「なかったことに……」したくなる気持ちを、ぐっと喉元で押しとどめる。
「ありがとう、ヘビ」一春はシャワーをとめ、体を拭いた。「俺のすることがみえてきた感じだよ」
「なんだい、来燎火をなんとかするって顔してんな。神仙に触れてきたんなら、なにか知恵があるんだろうが、危ない橋だぜ。なにもみなかったことにだってできるんだ」
「でも、俺はみてきたんだ。みたってことは、知ったってことだろ」
月明かりに照らし出された石舞台。白い衣をまとった女神、その自信作ろくめい、そして家に町にはびこるという、このヘビのような存在が、一春を昨日とは別人に変えていた。
ヘビにいわれて、そういえばもうひとつ、知恵の象徴をもらったのだと、脱衣所に残してきたあれを取ろうとすると、浴室の戸はむこうから開いた。
「かずくん、ひとりで洗えていますか」
庭掃除を手早く片付けた伊豆見がタオル一枚になって立っていた。
「伊豆見がお手伝いいたしますね」
脱ぎ捨てていた自分の服をひったくって浴室に戻った。そうしてしばらくガラス越しの押し問答が続くことになる。
ほがらかな表情で家の守り神の一匹は眺めていたが、一春の服の中から落ちたものを目にして、思わず口笛を吹いた。
「どうだい、まともじゃねえのを持っているな。たしか……」
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