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水和木家の実権は兄の冬枯に移っていた。代替わりの際に名を改め、五代前の漢字をもらい受けたら、なんとも寒々しい字面になったが、仕事ぶりは鬼神もたじろぐばかり。家業は従業員を倍に増やし、店を屋敷ごと建て替え、町の執行役員としての発言力も年々高まっていた。
その中で起こった来燎火騒動である。他言無用で町の外には漏れていないが、古い水和木の関係者は青い顔を集めて対策を練っていた。とはいえ真剣に考えているものは誰一人なく、事態の深刻さを理解してさえいない。そもそも来燎火をみたものさえほとんどなかった。すでに存在さえ失われかけていた秘剣が、今さらどうなるというのか。鷹揚にかまえて冬枯をはげましているのは、そういった手合いだ。つねに家長の近くにいる人はじっとなどしていられない。今も普段と比べて、家に出入りしている人の数はずっと少なかった。
「心配をかけてすまないな一春」
家に戻ってくると、一春はただちに当主と面会した。「火急の用件」とは口慣れない言葉だが、後回しにされないためにはしかたがない。
齢三十にも満たないはずが、ずっと年上の顔をしていた。後ろになでつけた髪の一部は白化し、新月色の瞳を伏せて、遠くの調べを吟味しているかのような風情には妙な色気があった。家ではもっぱら単衣の着物を雑に着けていたが、痩せぎすでは病人のそれと大差ない。けれどもそれが、仕事を離れてくつろぐ冬枯の本来の姿だった。
「家がやかましく、おまえにも面倒をかけてしまっている」
「今日は冬枯に頼みがあってきたんだ」一春は外向けの言葉で切り出した。
家長は崩していた足をたたんで襟元をただすと「……なんなりと」と家長として応じてみせた。さらに兄を過労に追いやってしまったような気をあまり見つめないようにして、一春は吐き出すようにいった。
「来燎火が隠れひそんでいそうな場所を教えてもらいたい」
年長者が口にするだろう罵声、怒号、嘲笑の言い回しが脳内に一覧表を作る勢いで並んでいく。けれども冬枯の返してきたのは、リストのどこにもない台詞だった。
「見当がついてないわけではござらん。ただ……」
「ただ」
「それをやる前に見つけたいと、捜索する者はみな考えているはず」
「まだるっこい」思わず言葉に勢いがついてしまったが、とどめて格好を付けられるほど一春に技量はなかった。
「こら、かずくん」
かわりに叱咤したのは、入ってきた伊豆見だった。
「冬くんを困らせてはいけません」
「いやいや、伊豆見さん。けんかじゃないから。大丈夫ですから」
冬枯がなだめても母親代理の剣幕は収まらず、運んできた茶が冷めるまでしばらく続いた。
すっかり水が差された形になったが、おかげで一春は冷静さを取りもどした。あのまま続けても泥仕合にはならなかったろうが、決して気持ちよく情報を引きだすわけにはいかなかったろう。
厚手の湯呑みに手をそえて、冬枯はつぶやいた。
「まずはうけたまわりたい。そちらの来燎火について知っていることから」
そうして一春は、今までのこと、鹿鳴とその姉神から聞いたことを話した。もちろん二柱の存在と水墨画の石舞台についてははぶいたが、冬枯はそれをいちいちうなずいてみせ、「それはつまり……」と時々言い換えて理解している様子をアピールしながら聞いていた。
「よく調べられてござる。『来燎火』の名が舌になじんでいたので、聞いてみてよかった」
「来燎火は」
「左様。町にあると私どももみている次第。しかし、まだ発見の報はなく」
「でもまだ探す手立てがあるような口ぶりだった」
「……うん、一春」よそゆきの言葉がふいに消えた。距離が一気に縮まった。「あの戟、どうして赤い色をしていると思う」
「燃える炎の色では」
「火の色は赤くない。火は勢い、吸いこむ空気の種類、燃える素材によって刻々と変わる。そして一春。君はまだ来燎火の姿をみていない。赤いとは、どんな赤なのかを」
一春にとって、死角から殴られたような言葉だった。鹿鳴の言い回しから、ついクレヨンかなにかで塗りつぶしたような赤を連想していなかったか。どんな赤か、だと?
「兄さ……冬枯。来燎火とはどんな赤なんだ」
「あたりに人馬の血がかすみとなってたなびく中、戟はその姿が消える。武具が炎を吹きあげるなど伝説にすぎない。実際はしたたる鮮やかな血、その色に他ならないだろう。来燎火の名は後世の名付けではない。当時の人々が目の当たりにしてつけた名だ……なあ、一春。そんな来燎火が一番隠れてそうな場所とは、どこだろうな」
湯呑みが倒れる。すでに一春は部屋から飛び出していた。体温を失ったように全身が冷えきっていた。取りかえしのつかないことがやってくる。廊下を叩くように走る。
ヘビはいったではないか。
『来燎火はしばらく町にいるだろうぜ、町で鋭気を養ってから飛び立つつもりさ』
鹿鳴もそうだ。
『名だたる名物は自分がもっとも活躍できる場を好む。来燎火なら戦場、あるいは戦道具と人が集中している場所だ』
そして冬枯。
『町にあると私どももみている次第……』
三者が全員、町にあるとみている。町でもっとも力がある場所。来燎火はいなくなったわけではない。初めからこの家に隠れひそんでいた。
「伊豆見さん」
台所にかけこんだ。土間の奥から手を拭きながら「あら、かずくん。どうされましたか」と小走りで台所の主がやってくる。ぷすりぷすり。かまどが吹きこぼれている。
「なんともないです?」
「まだ御夕食には早いですよ、つまみ食いはいけません」
「しませんよ」
次だ。きびすを返したそのとき、手の中であの石が腕を引きのばした。その先で……。
ぷすり、ぷすり。そういえば、あれはなんの音だ。「伊豆見さん?」すでに背をむけていた彼女は、声をかけられて「はい」と振りかえった。
なのに、顔はこちらについてこない。ぷすり、ぶすり。
『武具が炎を吹き出すなど伝説にすぎない。実際はしたたる鮮やかな血』
けれども一春のそばには、伝説を超越した存在である鹿鳴がいる。伝説は虚言ではない。ならば。
ぶすりぶすり。
燃える炎と鮮血が、相反しない保証はない。
「伊豆見さん!」
ゆっくりめぐってきた顔の右半分が、果物のように欠けて落ちた。その中から、相手をにらみつける、あるいはあざ笑うように細める鋼鉄の目が見えた。人が内側から燃えていく。ぶすりぶすり。その伸ばす腕に、伊豆見の意思はあるのか。いや、肩から滑り落ちた腕は、すでに土間に当たって砕けてしまった。燃えるなら火柱をあげて燃えてしまえばいい。けれどそれは知っていた。見るものがもっとも恐れ、おののくにはどうすればいいのかを。一枚、一枚、うすぎぬを脱いでいくように、隠れていた人型の場所を崩していく。自分が母親のように慕っていた人が、世界で最も無残に殺されていく様を目の当たりにして、発狂しないものがあるだろうか。一春は握った石のナイフで、赤き中で白い目に笑みさえ浮かべる者に向かっていった。伊豆見の胸先に届く。その前に一瞬つめたい風が吹いた。音の衝撃が、一春から聴覚を奪う。人の体でできた散弾が全身をうちつける。涙。一春の目からこぼれた涙を吹き飛ばす。人間だったものの中心で、人間の尊厳があたりにゆっくりまき散らされていく中、すっくと立った一本の木は、まるで伊豆見自身が変身したかのように、主人然としてたたずんでいた。
それ自体に血潮が通っているように、幹は赤銅に輝いていた。細い管が幾重にも折り重なり幾何学模様が全体をおおい、ところどころに花鳥の図案を浮かびあがらせている。首周りだろうか、炎が噴きだしているのは。そこに俺がいるぞと誇示する油田のように、細く長いオレンジの火がたなびいている。オレンジ色が抱く中心から伸びていく、目が覚めるほど白い槍の穂先はまっすぐ天を指して迷うところがない。穂のかたわらによりそう三日月状の別の刃、これこそ表情となって前に立つ者をにらむ月牙であった。
一春も門外漢ではない。古代の戦争道具全般を扱う店が並ぶ中で、似たような形の武器を、あるいはどこかで見たかもしれない。けれども来燎火に比べたら、それらは生前の姿さえ怪しい化石でしかない。武の器が生きるとは、命を奪うためにあるものが存在するとは、一点の曇りさえないのだった。
人間一人分の体液が蒸発した中で、一春は常識を嘔吐した。胃腸が裏返って慟哭する。不純物が取りのぞかれてあとに残ったのは、伊豆見が贈ってくれたいくつもの記憶たちである。春の夕刻に遊んでくれた影法師。秋に手を引いた遊歩道で落ち葉を踏む音。それらは具体的でありながら、抽象的なイメージで一春の内面に張りついていた。どのフレームの伊豆見も微笑んでいた。心から楽しい感情が、丸裸になっていた。
一春は涙をぬぐう。その思い出に手を乗せて、ゆっくり体を起こしていく。
『人は理想では戦えん』知ったような口で、ある神造りの神がいった。
『まず手で触れられるもののために戦う。他の誰でもない自分と親兄弟のため、他のどこにもない自分が住みくらした場所を守るために戦う』
来燎火の回収。当主の面目の回復。そんなものは、足下で広がる吐瀉物の中に消えた。
『複雑に考えてしまったのなら、原点に立ちかえってみることだ』
一春の細めた右目は憎しみを、広がった左目は怒りに怒りに白濁していた。蝶が羽を押し伸ばすように叫んだ。手にしているのは小さな石の刃である。その石から冷たい空気が腕の内面を駆けあがった――。
焼き尽くす熱が渦を巻く。肌は沸騰して肉がはぜるのを防いだのは、涼しげな白い薄衣だった。透けるその向こうで、熟れすぎて身が裂けた果実のような笑みが現れる。
「これが名にし負う来燎火か」
鹿鳴が一春の前に立っていた。
「邪魔だ」
一瞥する顔は、初対面の時より表情がなかった。掴んだ襟元を力のおもむくまま振りまわされて、一春は柱にたたきつけられた。とどろく雷鳴は屋根を突きやぶり、呆けたような春の日差しが土間を照らしていた。
「一春!」尋常ならざる爆発音にあわてて駆けよってきた冬枯には、ずっと頭を駆けめぐる数々の問題が一掃されていた。
「大事ないか」
その姿は家長の代理として、たとえ肉親でもある一定の距離を保って対応せんとする、こざかしさはすでになかった。
「あれはいったい何者だ。おまえはなにをしようとしているのだ」
「来燎火を捕まえにきたんだ。人の外側から」
背骨がしびれていたが、足に不具合はなかった。にぎる拳にも力が入る。問題ないと一春は微笑むが、相手の表情はかたいままだった。
「追わないと。鹿鳴が……」
「いってはならん」冬枯が背中から抱きとめる。「お前に万一のことがあれば、私はおじいさまになんとわびればいいのか」
「兄さん、兄さんが立派に家を継いでいるじゃないか。冬枯の名前ももう兄さんのものだ」
「おまえは家名を継ぐ予備ではないぞ、一春」
その肩をつかんで、ふたりは相対した。小柄な兄はすでに弟と背丈で拮抗されている。
「お前は飛びだしていけ。こんなほこりだらけの古い家など捨ててしまえ。それを見越して、はじまりの春という名前はつけられたんだ」
「いやだね」一春は笑みをこぼしていった。
「俺も水和木の人間なんだ」
おのれの手をはらう力は、すでに一人前の男と変わらなかった。一春は今、自分とはちがう道を歩もうとしている。これをはばめば、自分は忌むべきまわりの大人たちと同類だ。見送る背中はいまだ齢十五にもみたぬが、それがなんだというのか。
「聞け、一春」
「来燎火は俺がつかまえるんだ、兄さんは待っていてくれ」
「捕まえないでよい。壊してしまえ」
いまだかつて聞いたことがない冬枯の絶叫は、意外なほど新鮮味にあふれていた。
「姿をみせた今が好機だ。もしお前に力があるなら、これ以上、被害がひろがる前に息の根を止めよ」
一春は小さくうなずくと台所から出ていった、まるで近所へ買い物にでも出かけるような気軽さで。忙しくてあまり話せないでいたここ一年の間に、どれだけの変化があったのか。わからないのは、自分は変化から取りのこされていた証拠だろう。変化を拒絶して守り伝えていくことの愚かさを、冬枯もわかっていた。けれども、受けいれていい変化といけない変化を、どう区別したらいいのか。思いなやんでいるうちに老人になってしまう。それをなかばあきらめていたところに、鮮烈な弟の激情がくすんだ冬枯の内面をゆさぶった。なにもわかっていない子供の戯れ言と拒んで分別くさく振る舞うには、まだ早い。
「ああ。おまえは、まだあのころの、ままだよ」
そういってたもとから現れた影が袖を小刻みに引いた。
その中で起こった来燎火騒動である。他言無用で町の外には漏れていないが、古い水和木の関係者は青い顔を集めて対策を練っていた。とはいえ真剣に考えているものは誰一人なく、事態の深刻さを理解してさえいない。そもそも来燎火をみたものさえほとんどなかった。すでに存在さえ失われかけていた秘剣が、今さらどうなるというのか。鷹揚にかまえて冬枯をはげましているのは、そういった手合いだ。つねに家長の近くにいる人はじっとなどしていられない。今も普段と比べて、家に出入りしている人の数はずっと少なかった。
「心配をかけてすまないな一春」
家に戻ってくると、一春はただちに当主と面会した。「火急の用件」とは口慣れない言葉だが、後回しにされないためにはしかたがない。
齢三十にも満たないはずが、ずっと年上の顔をしていた。後ろになでつけた髪の一部は白化し、新月色の瞳を伏せて、遠くの調べを吟味しているかのような風情には妙な色気があった。家ではもっぱら単衣の着物を雑に着けていたが、痩せぎすでは病人のそれと大差ない。けれどもそれが、仕事を離れてくつろぐ冬枯の本来の姿だった。
「家がやかましく、おまえにも面倒をかけてしまっている」
「今日は冬枯に頼みがあってきたんだ」一春は外向けの言葉で切り出した。
家長は崩していた足をたたんで襟元をただすと「……なんなりと」と家長として応じてみせた。さらに兄を過労に追いやってしまったような気をあまり見つめないようにして、一春は吐き出すようにいった。
「来燎火が隠れひそんでいそうな場所を教えてもらいたい」
年長者が口にするだろう罵声、怒号、嘲笑の言い回しが脳内に一覧表を作る勢いで並んでいく。けれども冬枯の返してきたのは、リストのどこにもない台詞だった。
「見当がついてないわけではござらん。ただ……」
「ただ」
「それをやる前に見つけたいと、捜索する者はみな考えているはず」
「まだるっこい」思わず言葉に勢いがついてしまったが、とどめて格好を付けられるほど一春に技量はなかった。
「こら、かずくん」
かわりに叱咤したのは、入ってきた伊豆見だった。
「冬くんを困らせてはいけません」
「いやいや、伊豆見さん。けんかじゃないから。大丈夫ですから」
冬枯がなだめても母親代理の剣幕は収まらず、運んできた茶が冷めるまでしばらく続いた。
すっかり水が差された形になったが、おかげで一春は冷静さを取りもどした。あのまま続けても泥仕合にはならなかったろうが、決して気持ちよく情報を引きだすわけにはいかなかったろう。
厚手の湯呑みに手をそえて、冬枯はつぶやいた。
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「よく調べられてござる。『来燎火』の名が舌になじんでいたので、聞いてみてよかった」
「来燎火は」
「左様。町にあると私どももみている次第。しかし、まだ発見の報はなく」
「でもまだ探す手立てがあるような口ぶりだった」
「……うん、一春」よそゆきの言葉がふいに消えた。距離が一気に縮まった。「あの戟、どうして赤い色をしていると思う」
「燃える炎の色では」
「火の色は赤くない。火は勢い、吸いこむ空気の種類、燃える素材によって刻々と変わる。そして一春。君はまだ来燎火の姿をみていない。赤いとは、どんな赤なのかを」
一春にとって、死角から殴られたような言葉だった。鹿鳴の言い回しから、ついクレヨンかなにかで塗りつぶしたような赤を連想していなかったか。どんな赤か、だと?
「兄さ……冬枯。来燎火とはどんな赤なんだ」
「あたりに人馬の血がかすみとなってたなびく中、戟はその姿が消える。武具が炎を吹きあげるなど伝説にすぎない。実際はしたたる鮮やかな血、その色に他ならないだろう。来燎火の名は後世の名付けではない。当時の人々が目の当たりにしてつけた名だ……なあ、一春。そんな来燎火が一番隠れてそうな場所とは、どこだろうな」
湯呑みが倒れる。すでに一春は部屋から飛び出していた。体温を失ったように全身が冷えきっていた。取りかえしのつかないことがやってくる。廊下を叩くように走る。
ヘビはいったではないか。
『来燎火はしばらく町にいるだろうぜ、町で鋭気を養ってから飛び立つつもりさ』
鹿鳴もそうだ。
『名だたる名物は自分がもっとも活躍できる場を好む。来燎火なら戦場、あるいは戦道具と人が集中している場所だ』
そして冬枯。
『町にあると私どももみている次第……』
三者が全員、町にあるとみている。町でもっとも力がある場所。来燎火はいなくなったわけではない。初めからこの家に隠れひそんでいた。
「伊豆見さん」
台所にかけこんだ。土間の奥から手を拭きながら「あら、かずくん。どうされましたか」と小走りで台所の主がやってくる。ぷすりぷすり。かまどが吹きこぼれている。
「なんともないです?」
「まだ御夕食には早いですよ、つまみ食いはいけません」
「しませんよ」
次だ。きびすを返したそのとき、手の中であの石が腕を引きのばした。その先で……。
ぷすり、ぷすり。そういえば、あれはなんの音だ。「伊豆見さん?」すでに背をむけていた彼女は、声をかけられて「はい」と振りかえった。
なのに、顔はこちらについてこない。ぷすり、ぶすり。
『武具が炎を吹き出すなど伝説にすぎない。実際はしたたる鮮やかな血』
けれども一春のそばには、伝説を超越した存在である鹿鳴がいる。伝説は虚言ではない。ならば。
ぶすりぶすり。
燃える炎と鮮血が、相反しない保証はない。
「伊豆見さん!」
ゆっくりめぐってきた顔の右半分が、果物のように欠けて落ちた。その中から、相手をにらみつける、あるいはあざ笑うように細める鋼鉄の目が見えた。人が内側から燃えていく。ぶすりぶすり。その伸ばす腕に、伊豆見の意思はあるのか。いや、肩から滑り落ちた腕は、すでに土間に当たって砕けてしまった。燃えるなら火柱をあげて燃えてしまえばいい。けれどそれは知っていた。見るものがもっとも恐れ、おののくにはどうすればいいのかを。一枚、一枚、うすぎぬを脱いでいくように、隠れていた人型の場所を崩していく。自分が母親のように慕っていた人が、世界で最も無残に殺されていく様を目の当たりにして、発狂しないものがあるだろうか。一春は握った石のナイフで、赤き中で白い目に笑みさえ浮かべる者に向かっていった。伊豆見の胸先に届く。その前に一瞬つめたい風が吹いた。音の衝撃が、一春から聴覚を奪う。人の体でできた散弾が全身をうちつける。涙。一春の目からこぼれた涙を吹き飛ばす。人間だったものの中心で、人間の尊厳があたりにゆっくりまき散らされていく中、すっくと立った一本の木は、まるで伊豆見自身が変身したかのように、主人然としてたたずんでいた。
それ自体に血潮が通っているように、幹は赤銅に輝いていた。細い管が幾重にも折り重なり幾何学模様が全体をおおい、ところどころに花鳥の図案を浮かびあがらせている。首周りだろうか、炎が噴きだしているのは。そこに俺がいるぞと誇示する油田のように、細く長いオレンジの火がたなびいている。オレンジ色が抱く中心から伸びていく、目が覚めるほど白い槍の穂先はまっすぐ天を指して迷うところがない。穂のかたわらによりそう三日月状の別の刃、これこそ表情となって前に立つ者をにらむ月牙であった。
一春も門外漢ではない。古代の戦争道具全般を扱う店が並ぶ中で、似たような形の武器を、あるいはどこかで見たかもしれない。けれども来燎火に比べたら、それらは生前の姿さえ怪しい化石でしかない。武の器が生きるとは、命を奪うためにあるものが存在するとは、一点の曇りさえないのだった。
人間一人分の体液が蒸発した中で、一春は常識を嘔吐した。胃腸が裏返って慟哭する。不純物が取りのぞかれてあとに残ったのは、伊豆見が贈ってくれたいくつもの記憶たちである。春の夕刻に遊んでくれた影法師。秋に手を引いた遊歩道で落ち葉を踏む音。それらは具体的でありながら、抽象的なイメージで一春の内面に張りついていた。どのフレームの伊豆見も微笑んでいた。心から楽しい感情が、丸裸になっていた。
一春は涙をぬぐう。その思い出に手を乗せて、ゆっくり体を起こしていく。
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『まず手で触れられるもののために戦う。他の誰でもない自分と親兄弟のため、他のどこにもない自分が住みくらした場所を守るために戦う』
来燎火の回収。当主の面目の回復。そんなものは、足下で広がる吐瀉物の中に消えた。
『複雑に考えてしまったのなら、原点に立ちかえってみることだ』
一春の細めた右目は憎しみを、広がった左目は怒りに怒りに白濁していた。蝶が羽を押し伸ばすように叫んだ。手にしているのは小さな石の刃である。その石から冷たい空気が腕の内面を駆けあがった――。
焼き尽くす熱が渦を巻く。肌は沸騰して肉がはぜるのを防いだのは、涼しげな白い薄衣だった。透けるその向こうで、熟れすぎて身が裂けた果実のような笑みが現れる。
「これが名にし負う来燎火か」
鹿鳴が一春の前に立っていた。
「邪魔だ」
一瞥する顔は、初対面の時より表情がなかった。掴んだ襟元を力のおもむくまま振りまわされて、一春は柱にたたきつけられた。とどろく雷鳴は屋根を突きやぶり、呆けたような春の日差しが土間を照らしていた。
「一春!」尋常ならざる爆発音にあわてて駆けよってきた冬枯には、ずっと頭を駆けめぐる数々の問題が一掃されていた。
「大事ないか」
その姿は家長の代理として、たとえ肉親でもある一定の距離を保って対応せんとする、こざかしさはすでになかった。
「あれはいったい何者だ。おまえはなにをしようとしているのだ」
「来燎火を捕まえにきたんだ。人の外側から」
背骨がしびれていたが、足に不具合はなかった。にぎる拳にも力が入る。問題ないと一春は微笑むが、相手の表情はかたいままだった。
「追わないと。鹿鳴が……」
「いってはならん」冬枯が背中から抱きとめる。「お前に万一のことがあれば、私はおじいさまになんとわびればいいのか」
「兄さん、兄さんが立派に家を継いでいるじゃないか。冬枯の名前ももう兄さんのものだ」
「おまえは家名を継ぐ予備ではないぞ、一春」
その肩をつかんで、ふたりは相対した。小柄な兄はすでに弟と背丈で拮抗されている。
「お前は飛びだしていけ。こんなほこりだらけの古い家など捨ててしまえ。それを見越して、はじまりの春という名前はつけられたんだ」
「いやだね」一春は笑みをこぼしていった。
「俺も水和木の人間なんだ」
おのれの手をはらう力は、すでに一人前の男と変わらなかった。一春は今、自分とはちがう道を歩もうとしている。これをはばめば、自分は忌むべきまわりの大人たちと同類だ。見送る背中はいまだ齢十五にもみたぬが、それがなんだというのか。
「聞け、一春」
「来燎火は俺がつかまえるんだ、兄さんは待っていてくれ」
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「ああ。おまえは、まだあのころの、ままだよ」
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