神農町奇談

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 光も音も、すでに一春には届かなかった。全身の火傷。痛みはある一定のラインを超えると感じなくなる。代わりに普段は気がつかない、物質としての体の重さが表れてくる。
「すまなかったな、かずはる」その丸太のようになった腕の先から光が通っていった。
「おまえに、いやなおもいを、させてしまった」
 握られた手から発せられた光に姉神の声が乗り、一春の中心にたどりついた。
「こうならないために、ろくめいをつくったのだ。けれども、このざまだ」
「鹿鳴は……どこへいったんです」
「かえったよ、もとのばしょへ。あれはしばらく、やすまねばならない。かずはる。わたしはなにか、おまえにむくいてやりたい」
 元の通りに傷を癒やそう。それとも恐ろしい目に遭った記憶をなくそうか。そのどれにも一春は首肯しなかった。かわりに口にした願いに、姉神は珍しく驚きの表情をみせた。
「いずみとは……おまえのうばがわりのものだな」
「どうしてあの人だったんですか。他に来燎火の隠れひそむ人は」
「ひとのいきしにに、りゆうはない」
 いい人が死に、悪い人間が生き残る。生死の天秤は理不尽だが、真正面にそれと退治できる者は限られている。だから、そこにエックスを仮定し、自分たちをその支配下に置く思想のほうが、より広い人々に受け入れられた。エックスは神と名付けられ、宗教が始まった。天国と地獄をはじめ神にまつわるあらゆる思想は、えげつない理不尽に対する麻酔薬として今も少なからず機能している。だが、医師がモルヒネを処方するように、実際は神は人に管理されている。人が上で、神が下である。神の限界は人のそれより狭い。まして死者蘇生など、限界のはるか先にある願いだった。
「ほかにはないか」
「じゃあありません。ケガは自分が選んでしたことです」
「そうか。では、しかたがない」
 死んだ者が生き返れば奇跡である。奇跡とは不合理である。理不尽以外の何物でもない。
「さいわい、つぼひとつぶんの、りふじんがてもとにあるな」
 そうして奇跡を起こすものは、えてして「神」の名を冠せられるのだ。
 冷たい手のひらが一春の顔に当てられた。左半分を上から下へなでられていくと、そこだけ痛みの熱が引いていった。

「当主を継ぐ者は、必ず目にする。だが、住まわれる場所に導かれた話はきかん」
 台所を修復する槌音の響く中、冬枯は静寂を求めて庭の森に入っていた。事件の責任から当主の進退にも関わったが、まだ代替わりして五年とたっておらず、だれも跡を継ぐ者がない現実から、しばらくの謹慎で手打ちとなった。冬枯には願ってもない休暇である。
 とはいえ気楽に旅行などに出られるはずもなく、庭に下りる時さえ監視の目が光っていた。
 雑木林の奥、大きな楠の下で、小さな白木の社が鎮座している。水和木家の守り神であり、ひいては神農町を見守る社でもある。そこに手をあわす姿は、ずっと神職を続けてきた者のような落ちつきぶりがあった。
「一春はよほど気にいられたのだな」
 入院した弟を見舞い、事件のあらましを聞いた冬枯は、そのひとつひとつにうなずいてみせた。冬枯もまた、この屋敷神の審査をへて当主になったのだ。もう二度と会えないと思っていたが、今度の事件で思わぬ再会をはたした。
「今年は秋がほとんどありませんでしたな」
 楠以外の多くの木々が葉を落とし、近づく者はその足音を隠せない。朝晩は急激に冷え、北から初雪の便りも届きはじめていた。名前のせいでもないが、冬枯は冬が嫌いではない。人同士が近づき、ともに感情を分かちあうのに冬はいい季節だと思う。
「一春も年末年始に一度戻ってこられるそうです。ありがとうございます」
 顔をあげると、白い綿のような吐息がふわりとあがった。ひとつ。そして、ふたつ。
「はい。今、戻ります。伊豆見さん」
 当主はきびすを返すと、きびしい目付に伴われて母屋へ帰っていった。
 しかし、冬枯も知らなかったことがまだあった。
 この屋敷神が後継者の前に立つということは、遠からず現当主が退場することを意味している。まるで次の当主の回復を待っていたかのように、ちょうど一年後の冬、冬枯は病にふして身罷る。

 急に家督を継いだ一春は、兄の喪に服す間は新しい名前を持たなかった。「偽春」の名は、継承して五年後にようやく記録に登場する。終生、「家督代理」を謳った一春こと偽春は、金のわらじを履く前にやってきた十歳年上で飛ぶ鳥を落とすほど笛が下手と恐れられた嫁を迎えて、兄を超える三十年にわたって「代理」を勤めつづけた。
 顔半分を赤いあざが覆い、眼光鋭い一つ目に魅入られたら最後、その場に縫いとめられると恐れられた大人物であった。
 その仕事の大半は、来燎火をなくして傾いた水和木家の立て直しである。偽春も精力的に働いたが、屋台骨をとりもどしたのは偶然に集まってきた人間の力のほうが大きかった。それらの多くは、あの来燎火騒動で負傷していた。中には命の危険から奇跡的に回復を遂げたものまである。
「歴代の当主の中でもっとも劣っている者こそ、この偽春である」と晩年まで自嘲したが、彼の残した成果は中興の祖と称しても決して過言ではない。そのエネルギーはどこからきたのか。どのように考えて行動していたのか。家督を継ぐものはもちろん、神農町の郷土史家、古代中世の武器防具の専門家、あるいは老舗商店の経営術研究者も、筆まめだった偽春の記録をひもといて学んでいる。時には新たな発見が、地域のニュースとして人々を驚かせることもあった。
 名に冠したとおり、偽春は鹿鳴のことを忘れなかった。最期まで家の社へ参拝を続けていた。ある晴れた春の午後、だれかの気まぐれかなにかで、偶然両者が再会を果たすようなことはなかったのだろうか。そのような記録はいまだ発見されていない。
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