8 / 8
8
しおりを挟む
光も音も、すでに一春には届かなかった。全身の火傷。痛みはある一定のラインを超えると感じなくなる。代わりに普段は気がつかない、物質としての体の重さが表れてくる。
「すまなかったな、かずはる」その丸太のようになった腕の先から光が通っていった。
「おまえに、いやなおもいを、させてしまった」
握られた手から発せられた光に姉神の声が乗り、一春の中心にたどりついた。
「こうならないために、ろくめいをつくったのだ。けれども、このざまだ」
「鹿鳴は……どこへいったんです」
「かえったよ、もとのばしょへ。あれはしばらく、やすまねばならない。かずはる。わたしはなにか、おまえにむくいてやりたい」
元の通りに傷を癒やそう。それとも恐ろしい目に遭った記憶をなくそうか。そのどれにも一春は首肯しなかった。かわりに口にした願いに、姉神は珍しく驚きの表情をみせた。
「いずみとは……おまえのうばがわりのものだな」
「どうしてあの人だったんですか。他に来燎火の隠れひそむ人は」
「ひとのいきしにに、りゆうはない」
いい人が死に、悪い人間が生き残る。生死の天秤は理不尽だが、真正面にそれと退治できる者は限られている。だから、そこにエックスを仮定し、自分たちをその支配下に置く思想のほうが、より広い人々に受け入れられた。エックスは神と名付けられ、宗教が始まった。天国と地獄をはじめ神にまつわるあらゆる思想は、えげつない理不尽に対する麻酔薬として今も少なからず機能している。だが、医師がモルヒネを処方するように、実際は神は人に管理されている。人が上で、神が下である。神の限界は人のそれより狭い。まして死者蘇生など、限界のはるか先にある願いだった。
「ほかにはないか」
「じゃあありません。ケガは自分が選んでしたことです」
「そうか。では、しかたがない」
死んだ者が生き返れば奇跡である。奇跡とは不合理である。理不尽以外の何物でもない。
「さいわい、つぼひとつぶんの、りふじんがてもとにあるな」
そうして奇跡を起こすものは、えてして「神」の名を冠せられるのだ。
冷たい手のひらが一春の顔に当てられた。左半分を上から下へなでられていくと、そこだけ痛みの熱が引いていった。
「当主を継ぐ者は、必ず目にする。だが、住まわれる場所に導かれた話はきかん」
台所を修復する槌音の響く中、冬枯は静寂を求めて庭の森に入っていた。事件の責任から当主の進退にも関わったが、まだ代替わりして五年とたっておらず、だれも跡を継ぐ者がない現実から、しばらくの謹慎で手打ちとなった。冬枯には願ってもない休暇である。
とはいえ気楽に旅行などに出られるはずもなく、庭に下りる時さえ監視の目が光っていた。
雑木林の奥、大きな楠の下で、小さな白木の社が鎮座している。水和木家の守り神であり、ひいては神農町を見守る社でもある。そこに手をあわす姿は、ずっと神職を続けてきた者のような落ちつきぶりがあった。
「一春はよほど気にいられたのだな」
入院した弟を見舞い、事件のあらましを聞いた冬枯は、そのひとつひとつにうなずいてみせた。冬枯もまた、この屋敷神の審査をへて当主になったのだ。もう二度と会えないと思っていたが、今度の事件で思わぬ再会をはたした。
「今年は秋がほとんどありませんでしたな」
楠以外の多くの木々が葉を落とし、近づく者はその足音を隠せない。朝晩は急激に冷え、北から初雪の便りも届きはじめていた。名前のせいでもないが、冬枯は冬が嫌いではない。人同士が近づき、ともに感情を分かちあうのに冬はいい季節だと思う。
「一春も年末年始に一度戻ってこられるそうです。ありがとうございます」
顔をあげると、白い綿のような吐息がふわりとあがった。ひとつ。そして、ふたつ。
「はい。今、戻ります。伊豆見さん」
当主はきびすを返すと、きびしい目付に伴われて母屋へ帰っていった。
しかし、冬枯も知らなかったことがまだあった。
この屋敷神が後継者の前に立つということは、遠からず現当主が退場することを意味している。まるで次の当主の回復を待っていたかのように、ちょうど一年後の冬、冬枯は病にふして身罷る。
急に家督を継いだ一春は、兄の喪に服す間は新しい名前を持たなかった。「偽春」の名は、継承して五年後にようやく記録に登場する。終生、「家督代理」を謳った一春こと偽春は、金のわらじを履く前にやってきた十歳年上で飛ぶ鳥を落とすほど笛が下手と恐れられた嫁を迎えて、兄を超える三十年にわたって「代理」を勤めつづけた。
顔半分を赤いあざが覆い、眼光鋭い一つ目に魅入られたら最後、その場に縫いとめられると恐れられた大人物であった。
その仕事の大半は、来燎火をなくして傾いた水和木家の立て直しである。偽春も精力的に働いたが、屋台骨をとりもどしたのは偶然に集まってきた人間の力のほうが大きかった。それらの多くは、あの来燎火騒動で負傷していた。中には命の危険から奇跡的に回復を遂げたものまである。
「歴代の当主の中でもっとも劣っている者こそ、この偽春である」と晩年まで自嘲したが、彼の残した成果は中興の祖と称しても決して過言ではない。そのエネルギーはどこからきたのか。どのように考えて行動していたのか。家督を継ぐものはもちろん、神農町の郷土史家、古代中世の武器防具の専門家、あるいは老舗商店の経営術研究者も、筆まめだった偽春の記録をひもといて学んでいる。時には新たな発見が、地域のニュースとして人々を驚かせることもあった。
名に冠したとおり、偽春は鹿鳴のことを忘れなかった。最期まで家の社へ参拝を続けていた。ある晴れた春の午後、だれかの気まぐれかなにかで、偶然両者が再会を果たすようなことはなかったのだろうか。そのような記録はいまだ発見されていない。
「すまなかったな、かずはる」その丸太のようになった腕の先から光が通っていった。
「おまえに、いやなおもいを、させてしまった」
握られた手から発せられた光に姉神の声が乗り、一春の中心にたどりついた。
「こうならないために、ろくめいをつくったのだ。けれども、このざまだ」
「鹿鳴は……どこへいったんです」
「かえったよ、もとのばしょへ。あれはしばらく、やすまねばならない。かずはる。わたしはなにか、おまえにむくいてやりたい」
元の通りに傷を癒やそう。それとも恐ろしい目に遭った記憶をなくそうか。そのどれにも一春は首肯しなかった。かわりに口にした願いに、姉神は珍しく驚きの表情をみせた。
「いずみとは……おまえのうばがわりのものだな」
「どうしてあの人だったんですか。他に来燎火の隠れひそむ人は」
「ひとのいきしにに、りゆうはない」
いい人が死に、悪い人間が生き残る。生死の天秤は理不尽だが、真正面にそれと退治できる者は限られている。だから、そこにエックスを仮定し、自分たちをその支配下に置く思想のほうが、より広い人々に受け入れられた。エックスは神と名付けられ、宗教が始まった。天国と地獄をはじめ神にまつわるあらゆる思想は、えげつない理不尽に対する麻酔薬として今も少なからず機能している。だが、医師がモルヒネを処方するように、実際は神は人に管理されている。人が上で、神が下である。神の限界は人のそれより狭い。まして死者蘇生など、限界のはるか先にある願いだった。
「ほかにはないか」
「じゃあありません。ケガは自分が選んでしたことです」
「そうか。では、しかたがない」
死んだ者が生き返れば奇跡である。奇跡とは不合理である。理不尽以外の何物でもない。
「さいわい、つぼひとつぶんの、りふじんがてもとにあるな」
そうして奇跡を起こすものは、えてして「神」の名を冠せられるのだ。
冷たい手のひらが一春の顔に当てられた。左半分を上から下へなでられていくと、そこだけ痛みの熱が引いていった。
「当主を継ぐ者は、必ず目にする。だが、住まわれる場所に導かれた話はきかん」
台所を修復する槌音の響く中、冬枯は静寂を求めて庭の森に入っていた。事件の責任から当主の進退にも関わったが、まだ代替わりして五年とたっておらず、だれも跡を継ぐ者がない現実から、しばらくの謹慎で手打ちとなった。冬枯には願ってもない休暇である。
とはいえ気楽に旅行などに出られるはずもなく、庭に下りる時さえ監視の目が光っていた。
雑木林の奥、大きな楠の下で、小さな白木の社が鎮座している。水和木家の守り神であり、ひいては神農町を見守る社でもある。そこに手をあわす姿は、ずっと神職を続けてきた者のような落ちつきぶりがあった。
「一春はよほど気にいられたのだな」
入院した弟を見舞い、事件のあらましを聞いた冬枯は、そのひとつひとつにうなずいてみせた。冬枯もまた、この屋敷神の審査をへて当主になったのだ。もう二度と会えないと思っていたが、今度の事件で思わぬ再会をはたした。
「今年は秋がほとんどありませんでしたな」
楠以外の多くの木々が葉を落とし、近づく者はその足音を隠せない。朝晩は急激に冷え、北から初雪の便りも届きはじめていた。名前のせいでもないが、冬枯は冬が嫌いではない。人同士が近づき、ともに感情を分かちあうのに冬はいい季節だと思う。
「一春も年末年始に一度戻ってこられるそうです。ありがとうございます」
顔をあげると、白い綿のような吐息がふわりとあがった。ひとつ。そして、ふたつ。
「はい。今、戻ります。伊豆見さん」
当主はきびすを返すと、きびしい目付に伴われて母屋へ帰っていった。
しかし、冬枯も知らなかったことがまだあった。
この屋敷神が後継者の前に立つということは、遠からず現当主が退場することを意味している。まるで次の当主の回復を待っていたかのように、ちょうど一年後の冬、冬枯は病にふして身罷る。
急に家督を継いだ一春は、兄の喪に服す間は新しい名前を持たなかった。「偽春」の名は、継承して五年後にようやく記録に登場する。終生、「家督代理」を謳った一春こと偽春は、金のわらじを履く前にやってきた十歳年上で飛ぶ鳥を落とすほど笛が下手と恐れられた嫁を迎えて、兄を超える三十年にわたって「代理」を勤めつづけた。
顔半分を赤いあざが覆い、眼光鋭い一つ目に魅入られたら最後、その場に縫いとめられると恐れられた大人物であった。
その仕事の大半は、来燎火をなくして傾いた水和木家の立て直しである。偽春も精力的に働いたが、屋台骨をとりもどしたのは偶然に集まってきた人間の力のほうが大きかった。それらの多くは、あの来燎火騒動で負傷していた。中には命の危険から奇跡的に回復を遂げたものまである。
「歴代の当主の中でもっとも劣っている者こそ、この偽春である」と晩年まで自嘲したが、彼の残した成果は中興の祖と称しても決して過言ではない。そのエネルギーはどこからきたのか。どのように考えて行動していたのか。家督を継ぐものはもちろん、神農町の郷土史家、古代中世の武器防具の専門家、あるいは老舗商店の経営術研究者も、筆まめだった偽春の記録をひもといて学んでいる。時には新たな発見が、地域のニュースとして人々を驚かせることもあった。
名に冠したとおり、偽春は鹿鳴のことを忘れなかった。最期まで家の社へ参拝を続けていた。ある晴れた春の午後、だれかの気まぐれかなにかで、偶然両者が再会を果たすようなことはなかったのだろうか。そのような記録はいまだ発見されていない。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
婚約者の幼馴染?それが何か?
仏白目
恋愛
タバサは学園で婚約者のリカルドと食堂で昼食をとっていた
「あ〜、リカルドここにいたの?もう、待っててっていったのにぃ〜」
目の前にいる私の事はガン無視である
「マリサ・・・これからはタバサと昼食は一緒にとるから、君は遠慮してくれないか?」
リカルドにそう言われたマリサは
「酷いわ!リカルド!私達あんなに愛し合っていたのに、私を捨てるの?」
ん?愛し合っていた?今聞き捨てならない言葉が・・・
「マリサ!誤解を招くような言い方はやめてくれ!僕たちは幼馴染ってだけだろう?」
「そんな!リカルド酷い!」
マリサはテーブルに突っ伏してワアワア泣き出した、およそ貴族令嬢とは思えない姿を晒している
この騒ぎ自体 とんだ恥晒しだわ
タバサは席を立ち 冷めた目でリカルドを見ると、「この事は父に相談します、お先に失礼しますわ」
「まってくれタバサ!誤解なんだ」
リカルドを置いて、タバサは席を立った
二十年以上無視してきた夫が、今さら文通を申し込んできました
小豆缶
恋愛
「お願いです。文通から始めてもらえませんか?」
二十年以上会話もなかった夫――この国の王が、ある日突然そう言ってきた。
第一王妃マリアは、公爵家出身の正妃。だが夫はかつて、寵愛する第三王妃の話のみを信じ、彼女を殴ったことがある。その事件が原因で、マリアは男性恐怖症が悪化して、夫と二人きりでは会話すらできなくなっていた。
それから二十年。
第三王妃はとある事故で亡くなり、夫は反省したらしい。だからといって――今さら夫婦関係をやり直したいと言われても遅すぎる。
なのに王は諦めない。毎日の手紙。花を一輪。夜食の差し入れ。
不器用すぎる求愛に振り回されるうち、マリアの中で止まっていた感情が少しずつ動き始める。
これは、冷えきった政略夫婦が「文通」からやり直す恋の話。
※本作は「存在されていないことにされていた管理ギフトの少女王宮で真の家族に出会う」のスピンオフですが、単体で読めます。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる