日露戦争の真実

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第十巻

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 【第十巻ノ1】

 《日露戦争 対馬海峡戦 バルチック艦隊、かく敗れたり!》

 日露戦争に於いて、日本海海戦はロシアでは「ツシマの海戦」と呼ばれている。
この「ツシマの海戦」は今日に至るまで、なお全世界に於ける謎のような観がある。
このツシマの海戦にロシアのバルチック艦隊は壊滅したのである。

 第二、第三両艦隊が太平洋に於いて合流した後のバルチック艦隊の航海の実情と、運命的な日本海海戦の光景を出来るだけ読者の皆様にご理解して頂く為に視覚的要素を取り入れました。私のiPhoneのカメラで資料の画像を撮影した為、お見苦しいと、思いますがご了承願いたい。

 恐らく、バルチック艦隊の乗組員たちは、砲撃を受けながら被災し猛火の中、戦艦とともに日本海の荒波に飲み込まれ、尊い人命を失っているのだ。
ロシア人の乗組員たちのご冥福をお祈りします。

 バルチック艦隊はバルト海に面したリバウ軍港からウラジオストックまで約3万3千3百キロの大航海に出た。 

 大日本帝国連合艦隊を壊滅する為であった。
 バルチック艦隊のロジェストウェンスキー中将が艦隊を率いた。
明治三十七年(一九〇四)十月十五日のことである。

 私は以前、このバルチック艦隊の幕僚の手記を読んだことがある。
「我がバルチック艦隊が遭遇した悪運のいっさいの秘密の部分を暴くことが出来るなら、私は自分の労に対するな褒賞を得たものとして大いに満足するものである。」
この幕僚は対馬海峡戦(日本海海戦)に参加した参謀将校(第三艦隊幕僚•中佐)であった。自ら自国の艦隊の欠陥と弱点を暴き、敗北に至った原因を追及したのである。
その手記を公開した作者が次のように述べでいた。
「手記を執筆した筆者の身に後難が訪れることも十分考えられるので、ここではその名前を公にすることを差し控えたいと思う」
と。
 さて、このツシマの海戦が行われた対馬海峡戦と言われる日本海海戦。この海峡には独特の海流がある。まず、この海流について、ご説明しよう。

 日本列島近海の海流には、8つの海流がある。
下の図は日本列島近海の海流である。其々の数字と海流を表している。
1.黒潮 2.黒潮続流 3.黒潮反流 4.対馬暖流 5.津軽暖流 6.宗谷暖流 7.親潮 8.リマン(Liman)寒流



対馬海流つしまかいりゅうは、九州西方沖から対馬海峡を通って日本海に流入する暖流で、黒潮と東シナ海の中国沿岸水などが混ざり合った高温、高塩分、低栄養塩類の表層流である。対馬暖流とも呼ばれる。

 対馬海流はいくつかの流路を通って日本海を北上する。一部が朝鮮半島東岸を北上し(東鮮暖流)、本流は東北地方西岸つまり山形~秋田沖を通り、多くは津軽海峡から太平洋へと流出する。これを津軽暖流という。残りは北海道沿いに北上して宗谷海峡からオホーツク海へと抜ける。これを宗谷暖流という。

 わずかながら西樺太沖へも流れている。
津軽暖流は噴火湾や襟裳岬沖で、宗谷暖流は有明海を北海道沿岸に沿ってろ流れることから、根室沖で確認されることもある。これらの流れは、東シナ海と太平洋との水位差に支配されている。対馬海流の厚さは200m、海域によっては300mあるとも言われ、流速は流軸付近で毎秒50cm程度である。

 日本列島の日本海側は、同じ日本国内でも、道東や東北地方の太平洋側の岩手県~宮城県~福島県や、同緯度の対岸にある朝鮮半島、ロシア極東に比べて気温が高いが、これは対馬暖流の影響である。このことは、南北を海に挟まれた山口県に於いて、最も年間平均気温が高いのが、萩市沖の離島の見島であることからもはっきり分かる。

 日本海側の地方、特に冬季の福井県嶺北地方、石川県、富山県、新潟県、山形県、秋田県、青森県津軽地方は、日照時間が短く雨や雪の日が多い日本海側気候であり、世界有数の豪雪地帯となっている。これは、冬季の寒気であるシベリア高気圧が日本海を通過する際に、北西季節風を起こし、暖かい対馬海流から水蒸気を大量に蒸発させた結果、雪を降らせる雲を形成しているからである。また、とても暖かい暖流ゆえに前線や極低気圧が度々発生しやすい。気温は日照が少ない分、太平洋側よりやや低いが、曇りがちで放射冷却効果が弱いため冷え込みは緩い。また、冬の日本海は荒天が続くが、これもこの北西季節風が原因である。

 日本海側の地方の夏は、多くの地点で同緯度の太平洋側よりもやや高温であるのみならず、日照時間も長い。特に北陸地方や東北地方日本海側は、寒流である親潮から吹いてくるやませの影響を受けやすい同緯度の太平洋側と比較して、顕著に高温・多照であり、冷害が起こることも少ない。
対馬海流は、日本海側の地方に冬の積雪や豪雪に由来する豊富な水資源と、夏の高温・多照をもたらし、結果的に稲作つまり米づくりに適した穀倉地帯と風土をそれぞれ作り出していると言えるのだ。

 さて、1905年(明治38年)5月28日、厄災やくさいの日が遂に来た。早朝、午前5時頃、バルチック艦隊の右前方に一隻の商船が姿を見せた。
商船はバルチック艦隊を見るや否や、進路変更して姿を消した。
バルチック艦隊から、その商船を追跡する戦艦はなかった。 

 これはすこぶる怪しい船であったと、バルチック艦隊の乗組員たちが話していた。
ニコライ皇帝の「戦局の一挙逆転を!」と言う期待を一心に背負っていた艦隊を率いるロジェストウェンスキー司令長官は、日本海対馬海峡の荒海を眺めていた。
この日、一片の雲もなく、空は晴れ渡っていた。

 海上は濃霧に閉ざされていて、容易に晴れず、海の視界は70ケーブル程度で、西南の風で風力は四、波のうねりは三ないし四であった(70ケーブルは1万3千メートル)。
午前7時、バルチック艦隊は、艦隊の列を組んで航進していた。 

 これより1時間ほど前の午前6時ごろ、装甲巡洋艦“ナヒモフ“から「右舷真横方向に敵の艦隊あり」との報告があった。これが日本の巡洋艦“和泉“であった。

 午前8時ごろ、旗艦“スワロフ“は偵察支隊に艦隊背面への移動を命令したのである。
この命令によって、巡洋艦“スウェートラーナ“は輸送船と同じ航路に出て、航行を続けて仮装巡洋艦“ウラール“はその右方、巡洋艦“アルマーズ“はその左方に位置をとった。このこの時、日本艦隊の巡洋艦“和泉“は55ケーブルから60ケーブルの間隔を取りバルチック艦隊の右方を並んで航行していた。

 旗艦“スワロフ“は艦隊の列の右側にある第一、第二戦艦隊に対して、右舷と艦尾砲塔の備砲を“和泉“に向けよとの命令を発したものの、“和泉“を追い払うための何らかの処置も取らなかったのである。
もしここで巡洋艦“オレーグ““アウロラ“を差し向けていれば、この二艦は“和泉“に勝る速力を持っていたので、“和泉“を払うだけではなくて、大損害を与えるか、あるいは撃沈することも可能であったかもしれない。

 午前8時半ごろ、バルチック艦隊の艦隊の列は右列梯隊には第三戦艦隊と巡洋艦隊。
左右梯隊の中間には“アナズイリ“を先頭に輸送船団が並び、巡洋艦“スウェートラーナ““アルマーズ“、仮装巡洋艦“ウラール“が輸送船団の後ろに続く。“モノマフ“はこの三艦の最右翼についた。
午前9時40分。

 左舷西北の濃霧の中から、日本艦隊の旧式巡洋艦“松島““ 巌島““橋立“と、日清戦争の戦利艦である旧式戦艦“鎮遠“などが姿を現し、一万二千メートルから一万三千メートルの距離をおいてバルチック艦隊と並んで航行を開始した。 

 午前10時。
日本艦隊は順次左舷に転回してようやく艦影が認められるほどの遠方に離れたまま並んで航行する隊列をとっていた。  

 午前11時30分。
旗艦“スワロフ“から「速力8ノットを維持せよ」「各員交代で食事をとれ」 
との命令が伝えられた。

 しかし、平然と、食事のできるほど、食欲のあったものは、極めて少なく、ほとんどの船員たちは日本艦隊主力の出現を不安と緊張の面持ちで待ち続けていた。 

 午前11時55分ごろ、左舷真横およそ一万三千メートルに日本艦隊巡洋艦“千代田“と“浪速“が、数隻の駆逐艦を率いて現れた。  

 バルチック艦隊と針路を合わせて航行を開始した。
対馬つしまはバルチック艦隊の現在地から相当くないところにあるはずだったが、濃霧に遮られて見ることが出来なかった。

 午後12時35分。
会津藩士を父に持つ 出羽 重遠でわ しげとお提督率いる日本艦隊の一隊は、右方からバルチック艦隊の前方を通過して正面陣形をつくり、右方寄りに航進を続けた。
無線の示すところによれば、日本艦隊の諸艦は間断なく暗号による通信を交わし、主力は既にバルチック艦隊に接近していると、ロシアの司令長官は確信していた。 

 午後1時15分。
戦艦“シソイ•ウェリキー“から「東方に六隻の船舶を認む」との信号があった。 

 午後1時20分。
旗艦“スワロフ“から速力9ノット維持の命令あり。この時、バルチック艦隊の前方を通過した日本艦隊出羽提督の快速重要艦隊は一斉に右舷転回を敢行した。

 バルチック艦隊は7か月に及んだ航海の末に日本近海に到達した。

 5月27日に東郷平八郎率いる大日本帝国連合艦隊とロシアの誇る最強海軍バルチック艦隊と激突したのであった。
これが日本海大海戦である。

 5月29日にまでに渡るこの海戦でバルチック艦隊はその艦艇の殆どを失うのみならず、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けた。ロシア側史料を紹介した稲葉千晴について、その記録をここにご紹介しよう。

  《海戦のロシア側被害状況》

死亡者4866名、
負傷者799名に
比して捕虜約6140名である。

 《大日本帝国連合艦隊被害状況》

 連合艦隊は喪失艦がわずかに水雷艇3隻
であった。

 近代海戦史上においても例のない一方的な圧勝に終わった。 

対馬海峡に入ってきたバルチック艦隊の艦列図

  


 日本海を一挙に駆け抜けようとしているバルチック艦隊



 5月27日午後2時30分過ぎ、戦艦「スワロフ」などバルチック艦隊は相次いで猛火につつまれた。



 煙突は日本艦隊の砲撃により撃ち抜かれ、マストは折られた断末魔の旗艦「スワロフ」
 ロシアの乗組員たちは船とともに日本海の荒波に呑み込まれた。




 艦と運命をともにした戦艦「ボロジノ」の乗組員たち。




 【第十巻ノ2】

 
第6合戦  第9合戦ベドウイ降伏
🛳️ブイスツルイ沈没 第10合戦
      (松島)🛳️ドンスコイ沈没
   第5合戦
   🛳️スウェトラーナ沈没

     第4合戦
     🛳️アリヨール
     🛳️ニコライ1世
     🛳️アブラクシン
     🛳️セニャーウィン降伏
 🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊
 🌊🌊🌊🌊🌊日本海🌊🌊🌊🌊🌊🌊
 🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊

      第8合戦
       🛳️ウシャーコフ沈没
      🛳️ブイヌイ沈没

  第7合戦     第3合戦
  🛳️グロームキー沈没
      🛳️ベズウブリョーチヌイ沈没

       🛳️イルツイシ沈没

    第2合戦
 🛳️ナワリン沈没🛳️シソイウエリキー沈没
    27日夜駆逐隊艇隊概位
      第1合戦
     🛳️ボルチノ沈没
     🛳️アレクサンドル3世沈没
🛳️スワロフ沈没 🛳️ウラール沈没
     🛳️カムチャッカ沈没
🛳️オスラビア沈没  🛳️ルース沈没

🛳️病院船アビヨール
 コストローマ抑留  

対馬🏝️🛳️モノマフ沈没
   🛳️アドミラ•ナヒモフ沈没
      沖ノ島
   🏝️壱岐



🛳️ブレスチャーシチー沈没

 


上記は日本海海戦の戦場略図である。

 5月27日早朝、「敵艦見ユ‥‥‥」
当時、連合艦隊の主力は朝鮮半島南部の鎮海湾ちんかいわんに停泊していた。

 5月27日午前4時40分、哨戒中の仮装巡洋艦「信濃丸」が「敵艦隊らしきもの見ゆ」と報じた。五島列島西端に浮かぶ岩礁•白瀬の西方約40マイル(約74キロ)であった。
この無線報告は、対馬の尾崎湾にいた「厳島」が中継して艦隊「三笠」に届いた。午前五時五分のことである。 

 私が調べたところによると、その後の連合艦隊司令部の様子を次のように記載していた。

 私はこの場面を私の小説のハイライトにしたい。

「飯田少佐が秋山真之の所へやってきて、草稿を差し出したのである。
「敵艦見ユトノ警報接シ、連合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」
とあった。
「よろしい」 

 秋山真之は頷いた。飯田はすぐに動いた。加藤参謀長のもとに持ってゆくべく駆け出そうとした。その時秋山真之は「待て」と止めた。既に鉛筆を握っていた。その草稿を取り戻すと右の文章に続いて「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と入れたのである。後年、飯田久恒は中将になったが、秋山真之の回顧談が出るたびに「あの一句を挟んだ一点だけでも、我々は、秋山さんの頭脳に遠く及ばない」と語ったという。確かにこれによって文章が完璧になると言うだけでなく、単なる作戦用の文書が文学になってしまった感があった。

 次に、この日本海海戦において、バルチック艦隊の損害について記載したい。

 バルチック艦隊の損害は、戦死者約5000名、捕虜約6000名以上にのぼった。一方、連合艦隊の損害は水雷艇3隻沈没、戦死者110余名、負傷者580名と、バルチック艦隊に比べると、信じられないほどの軽微であった。

 なお、ロシアの捕虜の中には、ロジェストウェンスキー長官も含まれていた。

 バルチック艦隊の具体的な損害について記載したい。

 撃沈された艦は全部で16隻である。
その内訳は、戦艦が6隻、装甲巡洋艦2隻、防護巡洋艦1隻、駆逐艦3隻、仮装巡洋艦1隻、工作艦1隻、運搬船1隻であった。
次に撃破され撃沈した艦は4隻であった。
装甲巡洋艦「ドンスコイ」
駆逐艦2隻.運搬船1隻。

 座礁して自沈した艦は巡洋館「イズムルード」1隻であった。

 日本艦隊に捕獲された艦は6隻であった。
戦艦は「ニコライ1世」と「アリヨール」の2隻であった。

 装甲巡洋艦は「アブラクシン」と「セニャーウィン」の2隻であった。
その他に駆逐艦1隻.病院船1隻であった。

 マニラに入港し、アメリカに抑留された艦は3隻であった。
 
 防護巡洋艦は「オレーグ」「アウロラ」の2隻であった。

 巡洋艦は「ジェムチューグ」の1隻であった。

 上海に入港し、清国に抑留された艦は3隻であった。
駆逐艦1隻、運送船2隻であった。

 なお、ロシア本国へ逃げおおせた艦は運送船1隻、病院船1隻、ウラジオストクにたどり着いた艦は巡洋艦「アルマーズ」と駆逐艦2隻であった。

 日本海海戦の時に、5月28日。
駆逐艦「ペドウィ」と交戦した日本の駆逐艦「さざなみ341トンは駆逐艦「ペドウィ」を降伏させて、ロシア艦隊司令長官のロジェストウェンスキー長官を捕虜とした。

 では、日本海海戦に於いて日本艦隊はどのような体制であったのかについてご説明しよう。

 主力は無論、六六艦隊である。
旗艦「三笠」を先頭に「敷島」「富士」「朝日」「春日」「日新」、「出雲」「常盤」「吾妻」「八雲」「浅間」「巌手」の順に単縦陣(注釈1)となって進んだ。

 午後1時39分、旗艦「三笠」が南西はるかにバルチック艦隊を発見した。対馬•壱岐と三角形をつくる沖の島の北方であった。


 【第十巻ノ3】

 この日露戦争に於いて明治海軍の将として名前を挙げるなら東郷平八郎と秋山真之であろう。
まず、秋山真之について、私の思うところをここに執筆する。
 私は秋山真之を同じ人間として、尊敬している。秋山真之は一言で言い表すとこのように言えるだろう。
「真之は徹底して戦術を研究した人物である」と。
 大学予備門を中退した秋山真之は、海軍兵学校に入学した。
 海軍を選んだのは、「イギリスと似た島国の日本を考えれば、海軍の方が良いように思われた」からだという。海軍兵学校では「勉強をせずに首席になった」と言われた。
要点を掴み取ることにけていた。真之の勉強の仕方は、過去の試験問題と教官の特性を徹底して研究したのだった。
明治35年、真之は、海軍大学校の戦術教官になった。「古今の陸海戦史、兵術書をよく研究し、これだと思うことを自分の兵理とせよ」
 これが真之の持論であり、独自の「秋山流軍学」を解説した。
 ロシア艦隊を仮想の敵国として、実践そのものの図上の演習を行い、旅順港の封鎖やバルチック艦隊の撃滅の方法などを学生たちと何度も研究し、最後にはそれを的確に解明して見せたのだ。
 ここで真之の講義を受けた将校たちが、日露戦争で、連合艦隊の各舞台に参謀として配属され、真之の手足となって活躍したのである。

 私はこのことを今の日本人に敢えて伝えたい。「人材を育てるとは、秋山真之のような指導者になれ!」と。
今の日本には残念ながら気骨のある指導者は一人もいない。厳しいことを言うようだが。
 これからの日本に秋山真之のような指導者が現れることを期待したい。この指導者こそが日本版のキリストとであり、救世主なのだ。

 秋山真之が学んだ海軍兵学校は、広島の江田島にあった。もともとは東京の築地にあった。なぜ移転したかと言うと、文明開花の波を受けて華やかになった築地は、生徒に好ましいからざる影響があると言う理由だった。
 江田島は瀬戸内海の孤島にあり、築地からは兵学寮時代から合わせ340人の卒業生を送り出している。江田島からは昭和20年3月卒業の74期生まで1万847人が巣立っている。

現在の江田島の画像です。



 次は明治海軍のリーダーであった東郷平八郎である。
 ここでは簡単な説明に止める。
東郷 平八郎とうごう へいはちろう 
西暦1848年1月27日〈弘化4年12月22日〉~西暦1934年〈昭和9年〉5月30日迄生存した。
享年86歳。
 彼は日本の海軍軍人、最終階級は元帥海軍大将。各地の東郷神社に名を残す。位階は従一位、勲位は大勲位、功級は功一級、爵位は侯爵。

 東郷神社は陸軍で乃木大将の神社が建立されたことを受けるように、海軍でも日露戦争で、バルチック艦隊を撃滅した連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将が亡くなった後、東郷神社が建立された。日本海海戦の戦場になった玄界灘を臨む福岡県の福津市など、東郷神社は幾つかあるが、東京にある原宿の東郷神社が名高いと言える。
 この原宿にある東郷神社は敷地面積は一万坪あり、原宿の竹下通りのすぐ脇にあるとは思えない落ちついた佇まいである。
東郷平八郎は強運の将と言われている。東郷平八郎大将にあやかりたいと、今もなお、多くの受験生が参拝している。
また、東郷神社は結婚式場としても有名である。

東郷神社の画像です。
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