【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋

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第二巻 決戦!川中島の戦い

 甲斐国の武田信玄には知恵者としての軍師•山本勘助なる人物がいた。
 山本 勘助やまもと かんすけは、明応2年(1493年)もしくは明応9年(1500年)に生まれたとされているが、その生誕については、はっきりした記録がない。ただ、
死没した日ははっきりしている。あの上杉謙信率いる上杉軍との戦いで命を落としている。その戦いとは川中島の戦いである。
永禄4年9月10日(1561年10月18日)の年であった。

『甲陽軍鑑(注釈1)』に於いては名を勘助、いみなを晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信信玄が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。
 (注釈1)
 『甲陽軍鑑こうようぐんかん』は、甲斐国の戦国大名である武田氏の戦略・戦術を記した軍学書である。起巻、目録、本書20巻23冊全60品、末書2巻。武田信玄・勝頼期の合戦記事を中心に、軍法、刑法などを記している。 古刊本の写本の巻10末に寛永9年(1632年)の尾畑勘兵衛の識語があり、寛永12・13年頃から閲読の記録が残っている。

『甲陽軍鑑』巻九では天文16年に武田晴信が『甲州法度之次第』を定めた際に勘助の年齢を55歳としており、これに従うと生年は明応2年(1493年)となる。一方、『甲陽軍鑑』末書下巻下の「山本勘助うハさ。五ヶ条之事」によれば、勘助の生年を明応9年(1500年)としている。「五ヶ条之事」では菅助が本国を出て武者修行を行い、駿河で滞在し今川家に仕官を望み、甲斐へ移り武田家に仕官し、出家し川中島の戦いで戦死する一連の履歴の年齢を記しているが、これには矛盾が存在していることが指摘されている。生年には、文亀元年(1501年)説もある。『甲陽軍鑑』によれば、没年は永禄4年(1561年)9月10日の川中島の戦いで討死したとされる。
 近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられて、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、その実在について長年疑問視されていた。しかし近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されているのだ。

 以下に記述する勘助の生涯は江戸時代前期成立の『甲陽軍鑑』を元にするが、山本勘助の名は(戦後に発見された市河文書を除き)『甲陽軍鑑』以外の戦国時代から江戸時代前期の史料には見当たらない。勘助の生涯とされるものは全て『甲陽軍鑑』及びこれに影響を受けた江戸時代の軍談の作者による創作であると考えられている。各地に残る家伝や伝承も江戸時代になって武田信玄の軍師として名高くなった勘助に因んだ後世の付会である可能性が高く、武蔵坊弁慶の伝承・伝説と同様の英雄物語に類するものとするのが史家の間では通説である。

 山本勘助の生誕地(愛知県豊橋市賀茂町)
『甲陽軍鑑』などには三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)の出とある。

 江戸時代後期成立の『甲斐国志』によれば、勘助は駿河国富士郡山本(静岡県富士宮市山本)の吉野貞幸と安の三男に生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣大林勘左衛門の養子に入っている。大河ドラマ『風林火山』(NHK)もこの説を採用している。甲斐国志は、甲陽軍鑑、北越軍談の記述を引用している。

 北越軍談では愛知県豊田市寺部(本国三州賀茂郡に帰り、という記述)。

 日本中世史研究の第一人者で、静岡大学教育学部名誉教授の小和田哲男によると、信憑性が低いとされるが、『牛窪密談記』に初出の愛知県豊橋市賀茂(三河国八名郡加茂村)。
ー(山本勘助の牢人時代)ー

 「牢人」は「浪人」と同じ意味合いである。江戸時代以前に主に使われていた。山本勘助の原典史料である『甲陽軍鑑』ではこちらが使われている為私はこの「牢人」を採用した。
 勘助は26歳(又は20歳)のときに武者修行の旅に出た。『武功雑記』によれば、剣豪上泉秀綱かみいずみのぶつなが弟子の虎伯こはく牛窪うしくぼの牧野氏を訪ねたときに、若き勘助と虎伯が立会い、まず虎伯が一本取り、続いて勘助が一本を取った。しかし、勘助を妬む者たちが勘助が負けたと誹謗ひぼうした為、いたたまれず出奔しゅっぽんしたという。上泉秀綱かみいずみのぶつなが武者修行に出たのは勘助の死後の永禄7年(1564年)以後とされており、この話は剣豪伝説にありがちな創作であると言える。

 勘助は10年の間、中国、四国、九州、関東の諸国を遍歴して京流(または行流)兵法を会得して、城取り(築城術)や陣取り(戦法)を極めた。後に勘助が武田信玄に仕えたとき、諸国の情勢として毛利元就もうりもとなり大内義隆おおうちよしたかの将才について語っている(萩藩の『萩藩閥閲録遺漏はぎはんばつえつろく』)の中に子孫を称する百姓・山本源兵衛が藩に提出した『山本勝次郎方御判物写(山本家言伝之覚)』がある。それによると勘助は大内氏に仕えていたが天文10年に妻子を残して出奔したとあるが、その後の話に辻褄が合わない部分もあり裏付けに乏しい)。

 天文5年(1536年)、37歳になった勘助は駿河国主今川義元に仕官せんと欲して駿河国に入り、牢人家老庵原忠胤の屋敷に寄宿し、重臣朝比奈信置を通して仕官を願った。だが、今川義元は勘助の異形を嫌い召抱えようとはしなかった。勘助は色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、指もそろっていなかった。今川の家中は小者一人も連れぬ貧しい牢人で、城を持ったこともなく、兵を率いたこともない勘助が兵法を極めたなぞ大言壮語の法螺であると謗った。兵法で2、3度手柄を立てたことがあったが、勘助が当時流行の新当流(塚原卜伝が創設)ではなく京流であることをもって認めようとはしなかった。勘助は仕官が叶わず牢人の身のまま9年にわたり駿河に留まり鬱々とした日々を過ごしたのである。

 この山本勘助の風貌により、かなり虐げられ、士官も叶わないで浪々の身でいた時に、偶々今川家に来ていた板垣信方いたがきのぶかたを襲わせることを計画し実行に移した。その時勘助が加勢し板垣信方を助けたのであった。
 そうして板垣信方の推挙により武田信玄に仕えることになったのである。

ー(勘助、武田家に仕える)ー

 山本勘助の猪退治した時、猪の牙で勘助は片目を失った。

 勘助の兵法家としての名声は次第に諸国に聞こえ、武田家の重臣板垣信方は駿河国に「城取り(築城術)」に通じた牢人がいると若き甲斐国国主武田晴信(信玄)に勘助を推挙した。
 天文12年(1543年)、武田家は知行100貫で勘助を召抱えようと申し入れて来た。

 牢人者の新規召抱えとしては破格の待遇であった。取り消されることを心配した庵原忠胤はまずは武田家から確約の朱印状をもらってから甲斐へ行ってはどうかと勧めるが、勘助はこれを断りあえて武田家のために朱印状を受けずに甲府へ赴くことにした。晴信は入国にあたって牢人の勘助が侮られぬよう板垣に馬や槍それに小者を用意させた。勘助は躑躅ヶ崎館で晴信と対面する。晴信は勘助の才を見抜き知行200貫とした。なお、『甲陽軍鑑』には駿河滞在は「九年」とあるが、駿河入国(1536年)と武田家仕官(1543年)の年月が7年しかなく、年数が合わない。

 晴信は「城取り」や諸国の情勢について勘助と語り、その知識の深さに感心し、深く信頼するようになったが新参者への破格の待遇から妬みを受けて、家中の南部宗秀が勘助を誹謗した。晴信はこれを改易して、ますます勘助を信頼した。南部宗秀は各地を彷徨い餓死したという。
 同年、晴信が信濃国へ侵攻すると勘助は九つの城を落とす大功を立てて、その才を証明した。勘助は100貫を加増され知行は300貫となったのだ。

 天文13年(1544年)、晴信は信濃国諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を降し、これを殺した。なお、史実では晴信の諏訪侵攻と頼重の自害は天文11年(1542年)である。
頼重には美貌の姫がいた。翌天文14年(1545年)、晴信は姫を側室に迎えることを望むが、重臣たちは「姫は武田家に恨みを抱いており危険である」とこぞって反対した。

 だが、勘助のみは姫を側室に迎えることを強く主張する。結局は諏訪家も後継ぎが欲しいであろうという根拠から、姫が晴信の子を生めば武田家と信濃の名門諏訪家との絆となると考えた。晴信は勘助の言を容れ姫を側室に迎える。姫は諏訪御料人と呼ばれるようになる。翌年、諏訪御料人は男子を生んだ。最後の武田家当主となる四郎勝頼(諏訪勝頼、武田勝頼)である(勝頼が武田家滅亡の際に、子息の信勝に家督を譲る儀式を行った事から、信勝が最後の当主になったという説もある)。

 天文15年(1546年)、晴信は信濃国小県郡の村上義清の戸石城を攻めた。戸石城の守りは固く武田勢は大損害を受けた。そこへ猛将・村上義清が救援に駆けつけて激しく攻め立て、武田勢は総崩れとなり撤退し、その間に追撃を受けて全軍崩壊の危機に陥った。勘助は晴信に献策して50騎を率いて村上勢を陽動するという作戦にでた。 
 
 この間に晴信は体勢を立て直し、武田勢は勘助の巧みな采配により反撃に出て、村上勢を打ち破ったという。武田家家中は「破軍建返し」と呼ばれる勘助の縦横無尽の活躍に「摩利支天」のようだと畏怖した。この功により勘助は加増され知行800貫の足軽大将となったのだ。この功績により、武田家の家臣の誰もが勘助の軍略を認めるようになった。なお、史実では戸石城攻防戦は天文19年(1550年)とされている。

 立身した勘助は暇を受けて駿河の庵原忠胤を訪ね、年来世話になった御礼言上をして、主君晴信を「名大将である」と褒め称えた。

 晴信は軍略政略について下問し、勘助はこれに答えて様々な治世の献策をした。優れた「城取り」で高遠城、小諸城を築き、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれるようになった。また、勘助の献策により有名な分国法「甲州法度之次第」が制定されたのである。

 晴信と勘助は諸国の武将について語り、毛利元就、大内義隆、今川義元、上杉憲政、松平清康について評し、ことに義元に関しては討死を予見した。後年、義元は織田信長の奇襲攻撃により桶狭間の戦いで討死している。

 天文16年(1547年)、晴信は上田原の戦いで村上義清と決戦した。
 重臣・板垣信方が戦死するなど苦戦するが、勘助の献策により勝利する。村上義清は越後国へ走り、長尾景虎上杉謙信を頼った。以後、謙信はしばしば北信濃の川中島へ侵攻して晴信と戦火を交えることとなる。なお、史実では上田原の戦いは天文17年(1548年)であり、戸石城攻防戦の前である。また、村上義清は上田原の戦いで勝利して一時反撃に出ており、越後国へ逃れたのは天文22年(1553年)であることば分かっている。

 天文20年(1551年)、晴信は出家して信玄を名乗る。勘助もこれにならって出家して法号を道鬼斎と名乗った。史実では晴信の出家は永禄2年(1559年)とされる。

 天文22年(1553年)、信玄の命により、謙信に備えるべく勘助は北信濃に海津城を築いた。城主となった春日虎綱高坂昌信は、勘助が縄張りしたこの城を「武略の粋が極められている」と語っている。 

『真田三代記』によると、勘助は真田幸隆と懇意であり、また馬場信春に対して勘助が築城術を伝授している。 

 これらの『甲陽軍鑑』に書かれた勘助の活躍から、江戸時代には勘助は三国志の諸葛孔明のような「軍師」と呼ばれるようになる。なお、『甲陽軍鑑』では勘助を軍師とは表現していない。 「山本勘介由来」、「兵法伝統録」によると勘助の兵法の師は鈴木日向守重辰(家康が初陣で討った人物)と伯父山本成氏、「吉野家系図」では父貞幸が軍略の師範となっている。

 永禄4年(1561年)4月、武田信玄が割ヶ嶽城(長野県上水内郡信濃町)を攻め落とした。その際、武田信玄の信濃侵攻の参謀と言われた原虎胤が負傷した。これに代わって、山本勘助が参謀になったのである。

ー(川中島の戦い・山本勘助の死)ー

 永禄4年(1561年)、謙信は1万3000の兵を率いて川中島に出陣して妻女山に入り、海津城を脅かした。信玄も2万の兵を率いて甲府を発向し、海津城に入った。両軍は数日に及び対峙する。軍議の席で武田家の重臣たちは決戦を主張するが、信玄は慎重だった。信玄は勘助と馬場信春に謙信を打ち破る作戦を立案するようにと命じたのである。勘助と信春は軍勢を二手に分けて大規模な別働隊を暗闇に乗じて密に妻女山へ接近させ、夜明けと共に一斉に攻めさせ、驚いた上杉勢が妻女山を下りたところを平地に布陣した本隊が挟み撃ちにして殲滅する作戦を献策した。啄木鳥きつつきくちばしで木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうことに似ていることから後に「啄木鳥戦法」と名づけられた。

 信玄はこの策を容れて、高坂昌信、馬場信春率いる兵1万2000人の別働隊を編成して妻女山へ向かわせ、自身は兵8000人を率いて八幡原に陣をしき逃げ出してくる上杉勢を待ち受けた。 
 だが、この時上杉方では、暑さに倒れる兵が出てきており、これ以上味方の兵を苦しめる訳にもいかないとの謙信の判断で、夜中に妻女山を下山していた。夜明け、高坂勢は妻女山を攻めるが、もぬけの殻であった。偶然にも同じ日に両者は川中島に出たのである。
 夜明けの濃霧が晴れた八幡原で、信玄と勘助は驚くべき光景を目にすることになる。
 いるはずのない上杉勢1万3000人が彼らの眼前を進軍していたのである。謙信も、武田勢2万人を目にして驚いた。武田勢も上杉勢も、敵軍の動きに全く気がつかなかった。謙信は武田勢を突破するべく車懸りの陣で武田勢に死に者狂いの猛攻をかけるたのだ。信玄はこれに抗すべく鶴翼の陣を引き応戦したが武田勢は押しまくられ、武田家の武将が相次いで討ち死にした。その中に勘助がいた。『甲陽軍鑑』は勘助の死について「典厩(武田信繁)殿討ち死に、諸角豊後守討死、旗本足軽大将両人、山本勘助入道道鬼討死、初鹿源五郎討死」とのみ信繁信玄の弟ら戦死者と列挙して簡単に記している。

 (武田八陣形)

 


 日本では中国の八陣図が古くから知られ、平安時代に大江維時により魚鱗ぎょりん鶴翼かくよく雁行がんこう彎月わんげつ鋒矢ほうし衡軛こうやく長蛇ちょうだ方円ほうえんという和名が作られた。古代中国の八陣については風后により作られ孫子や呉起、諸葛孔明しょかつこうめいなどに利用されたと多くの史料が伝承しているものの、その実体は明らかでなく、後世の史家や兵家、好事家らが想像し推測したものが残されているのみである。また意味する内容が戦術なのか構築陣地の建設法なのか、軍団の配備なのか要塞群の配置なのか明確にできない点がある。

ー(映画『風林火山』を視聴した時の私の感想)ー

 武田八陣形は明らかに戦術であった。
 私は風林火山の映画を鑑賞した時感動したのだが、脚本家や原作者の空想の描写が物語になっていて、私はがっかりしたのである。
しかし、歴史小説はそれでいいと思うのだ。
何故なら映画は大衆娯楽の世界であり、鑑賞する人に感動と涙と驚きを与えたらいいと思っている。


 江戸時代の軍記物『武田三代軍略』によれば、勘助は己の献策の失敗によって全軍崩壊の危機にある責に死を決意して、敵中に突入したのだ。奮戦して13騎を倒すが、遂に討ち取られた。『甲信越戦録』では、死を決意した勘助は僅かな家来と敵中に突入して獅子奮迅の働きをするが、家来たちは次々に討ち死にし、それでも勘助は満身創痍になりながらも大太刀を振るって戦い続けるが、上杉家の猛将柿崎景家の手勢に取り囲まれ、四方八方から槍を撃ち込まれ落馬したところを坂木磯八に首を取られている。享年69歳であった。

 勘助らの必死の防戦により信玄は謙信の猛攻を持ちこたえた。乱戦の最中に謙信はただ一騎で手薄になった信玄の本陣に斬り込みをかけた。馬上の謙信は床机に座った信玄に三太刀わたり斬りかかったが、信玄は軍配をもって辛うじてこれを凌いだ。ようやく別働隊の高坂勢が駆けつけ上杉勢の側面を衝く。不利を悟った謙信は兵を引き、戦国時代未曾有の激戦である川中島の戦いは終わった。この両雄の決戦を『甲陽軍鑑』は前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ちとしている。

 なお、当て推量なことを「山勘」「ヤマカン」と言うが、この山本勘助の名前が由来しているのだ。
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