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第七巻
ー(決戦!川中島の戦い)ー
【第四次川中島の戦い絵】
【上杉謙信(右)の太刀を武田信玄(左)が軍配で受け止める像。画像は長野市八幡原史跡公園の一騎討ち像】
天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎は本格的な信濃出兵を開始したのであった。
以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となったのが、最初の合戦であった。これを第1次川中島の戦いという。
武田軍は村上義清の葛尾城を落とした。しかしこの後、武田軍は5月、八幡にて村上義清に敗れ葛尾城を奪還されてしまう。
9月武田軍は塩田城を落とす。武田軍の先鋒は9月の布施の戦いにて撃破されてしまう。
長尾景虎は信濃領内に侵攻し、荒砥城、虚空蔵山城を落とし、青柳城と苅屋原城を攻めたが武田晴信は何故か決戦を避けた。
その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退したのである。
同年8月には景虎の支援を受けて大井信広(武石城主)が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。
ー(甲斐•相模•駿河三国同盟の締結)ー
武田晴信は信濃進出に際して、和睦が成立した後も軍事的な緊張が続いていた駿河の今川氏と相模の北条氏の関係改善を進めており、天文23年(1554年)には嫡男武田義信の正室に今川義元の娘嶺松院(信玄の姪)を迎え、甲斐•駿河同盟を強化する。また娘を北条氏康の嫡男北条氏政に嫁がせ甲斐•相模同盟を結ぶ。
これにより、今川氏と北条氏も信玄及び今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結び、甲斐•相模•駿河三国同盟が成立する。甲斐•相模•駿河三国同盟のうち、北関東に於いて景虎と抗争していた北条氏との甲斐•相模同盟は長尾景虎を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能したのであった。
ー(木曽・下伊那・美濃恵那の平定)ー
天文23年(1554年)、佐久郡や伊那郡・木曽郡に残されていた反武田勢力を完全に鎮圧して信濃南部を安定化させることに成功した。
これと同時期に、三河・美濃・信濃の国境地帯に勢力を持つ美濃恵那郡の岩村遠山氏・苗木遠山氏の両遠山氏も信玄に臣従して来た為に美濃を支配する斎藤道三・義龍父子とも緊張関係を生じさせることになる。
ー(第2次川中島の戦い)ー
天文24年(1555年)、武田方の善光寺別当・栗田永寿が旭山城(長野県長野市)に籠もった。
これに対し、長尾景虎は裾花川を挟んで対岸に葛山城を築城する。
天文24年(1555年)、信玄は川中島於いて200日余長尾軍と対陣したのである。
今川義元の仲介で和睦、両軍は撤兵した。和睦の条件に武田方の旭山城破砕があり、破砕されたのである。
弘治2年(1556年)、長尾家家臣の大熊朝秀が離反し、会津の蘆名盛氏と共に越後に侵攻するが撃退されてしまう。
ー(第3次川中島の戦い)ー
弘治3年(1557年)2月15日、信玄は葛山城を調略で落とすことに成功する。
弘治3年(1557年)、晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。
この戦いは、上野原の戦いともいう。
弘治3年(1557年)、室町幕府の第13代将軍・足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し、晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されているのだ。
また、小谷城(平倉城)を攻めて飯森盛春らを討ち取り、これを攻略することに成功する。小谷城の戦いである。
一連の戦闘の結果、北信地方の武田氏勢力は拡大した。
永禄2年(1559年)3月、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地の高梨氏館(中野城、長野県中野市)を落とされ、飯山城(長野県飯山市)に後退してしまう。
長尾景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになった。
永禄2年(1559年)、永禄の飢饉が発生した。甲斐国が大規模な水害に襲われるたのである。
このように戦国時代という時代は飢饉や疫病などがあり、また、容赦なく襲って来る。武田信玄も上杉謙信も、領土に於ける領民の幸せな暮らしを守ることも必要であったのだ。
ー(第4次川中島の戦い)ー
その間も信玄は北信濃侵攻を続けていた。永禄4年(1561年)4月、上杉政虎(永禄4年(1561年)3月、長尾景虎より改名)が後北条氏の小田原城を包囲した。小田原城の戦いである。
この間に信玄は信濃に海津城(長野県長野市松代町)を築城する。
割ヶ嶽城(現長野県上水内郡信濃町)を攻め落とす。参謀の原虎胤が負傷する。
代わって、軍師•山本勘助が参謀になる。
信玄は甲斐•相模同盟の後北条氏の要請に応じて信濃に出兵した。
これを受けて政虎(永禄4年(1561年)8月より輝虎に改名)は川中島の善光寺に出兵したのである。
永禄4年(1561年)8月、第四次川中島の戦いは一連の対決の中で歴史上最大規模の合戦となる。武田方は信玄の実弟である副将武田信繁をはじめ重臣室住虎光、足軽大将の軍師•山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したのであった。
第4次川中島合戦で信濃侵攻は一段落し、信玄は西上野侵攻を更に進めるのであった。
ー(第5次川中島の戦いと西上野侵攻)ー
永禄7年(1564年)、上杉謙信が武田軍の飛騨国侵入を防ぐ為に川中島に出陣したが、信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣するのみで、睨み合いで終わった。
弘治3年(1557年)より、信玄は川中島の戦いと並行して西上野侵攻を開始したものの、山内上杉家の長野業正が善戦した為、当初は捗々しい結果は得られなかったのである。
永禄4年(1561年)、業正が死去すると、武田軍は跡を継いだ長野業盛を攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を領国化したのであった。
これにより箕輪城は対後北条氏の最前線となる。
元亀2年(1571年)12月、甲斐•相模同盟が回復すると後北条氏との争いが止まったのである。
甲斐•相模同盟は天正7年(1579年)3月まで続いたのであった。
ー(川中島の戦いのまとめ)ー
川中島の戦いは、日本の戦国時代に、領土拡大を目指し信濃国南部や中部を制圧し、さらに北信濃に侵攻した甲斐国の戦国大名である武田信玄と、北信濃や信濃中部の豪族から助けを求められた越後国の戦国大名である上杉謙信との間で、主に川中島で行われた数次の戦いである。
武田信玄、上杉謙信双方とも勝利を主張している。
ー(川中島の戦い)ー
武田信玄率いる武田軍と上杉謙信率いる
上杉軍の戦力比較とその主なる武将達である。
武田信玄率いる武田軍は次の通りである。
武田信繁 、武田義信、諸角虎定 、山本勘助 、飯富虎昌、馬場信春、高坂昌信、真田幸隆、
上杉謙信率いる上杉軍は次の通りである。
上杉政虎、直江実綱、柿崎景家、甘粕長重(景持)、中条藤資、色部勝長、本庄繁長、村上義清、高梨政頼
戦力は武田軍は二万。上杉軍は一万三千。
戦死者は、武田軍は、武田信繁、諸角虎定、山本勘助など他四千人死傷。
上杉軍の戦死者は、志田義時、大川忠秀など他三千人死傷。
1542年(天文11年)に武田信玄が甲斐国の実権掌握後に信濃国に侵攻して各地を制圧し、さらに北信濃に侵攻したことで越後の上杉謙信との間に軍事的な緊張が生まれた。
武田信玄と上杉謙信の対立は、北信濃の覇権を巡る戦いとなり、その後の武田軍と上杉軍は川中島の地域を主戦場にして戦うことになったのである。
最大の激戦となった第四次の戦は千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島の八幡原史跡公園周辺が主戦場だったと推定されている。また、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いとされている。
川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に川中島で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に川中島の戦いと言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日〈18日〉)を指すことが多い。
第一次合戦:天文22年(1553年)
第二次合戦:天文24年(1555年)
第三次合戦:弘治3年(1557年)
第四次合戦:永禄4年(1561年)
第五次合戦:永禄7年(1564年)
ただし、古文書や古記録の研究の進展から、北信濃地域ではこの5回の他にも武田・上杉両軍による軍事行動が確認されているのである。
私はこの合戦で尊い命を落とした武将や足軽まで、彼らに「謹んでご冥福をお祈り申し上げたい」
【第四次川中島の戦い絵】
【上杉謙信(右)の太刀を武田信玄(左)が軍配で受け止める像。画像は長野市八幡原史跡公園の一騎討ち像】
天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎は本格的な信濃出兵を開始したのであった。
以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となったのが、最初の合戦であった。これを第1次川中島の戦いという。
武田軍は村上義清の葛尾城を落とした。しかしこの後、武田軍は5月、八幡にて村上義清に敗れ葛尾城を奪還されてしまう。
9月武田軍は塩田城を落とす。武田軍の先鋒は9月の布施の戦いにて撃破されてしまう。
長尾景虎は信濃領内に侵攻し、荒砥城、虚空蔵山城を落とし、青柳城と苅屋原城を攻めたが武田晴信は何故か決戦を避けた。
その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退したのである。
同年8月には景虎の支援を受けて大井信広(武石城主)が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。
ー(甲斐•相模•駿河三国同盟の締結)ー
武田晴信は信濃進出に際して、和睦が成立した後も軍事的な緊張が続いていた駿河の今川氏と相模の北条氏の関係改善を進めており、天文23年(1554年)には嫡男武田義信の正室に今川義元の娘嶺松院(信玄の姪)を迎え、甲斐•駿河同盟を強化する。また娘を北条氏康の嫡男北条氏政に嫁がせ甲斐•相模同盟を結ぶ。
これにより、今川氏と北条氏も信玄及び今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結び、甲斐•相模•駿河三国同盟が成立する。甲斐•相模•駿河三国同盟のうち、北関東に於いて景虎と抗争していた北条氏との甲斐•相模同盟は長尾景虎を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能したのであった。
ー(木曽・下伊那・美濃恵那の平定)ー
天文23年(1554年)、佐久郡や伊那郡・木曽郡に残されていた反武田勢力を完全に鎮圧して信濃南部を安定化させることに成功した。
これと同時期に、三河・美濃・信濃の国境地帯に勢力を持つ美濃恵那郡の岩村遠山氏・苗木遠山氏の両遠山氏も信玄に臣従して来た為に美濃を支配する斎藤道三・義龍父子とも緊張関係を生じさせることになる。
ー(第2次川中島の戦い)ー
天文24年(1555年)、武田方の善光寺別当・栗田永寿が旭山城(長野県長野市)に籠もった。
これに対し、長尾景虎は裾花川を挟んで対岸に葛山城を築城する。
天文24年(1555年)、信玄は川中島於いて200日余長尾軍と対陣したのである。
今川義元の仲介で和睦、両軍は撤兵した。和睦の条件に武田方の旭山城破砕があり、破砕されたのである。
弘治2年(1556年)、長尾家家臣の大熊朝秀が離反し、会津の蘆名盛氏と共に越後に侵攻するが撃退されてしまう。
ー(第3次川中島の戦い)ー
弘治3年(1557年)2月15日、信玄は葛山城を調略で落とすことに成功する。
弘治3年(1557年)、晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。
この戦いは、上野原の戦いともいう。
弘治3年(1557年)、室町幕府の第13代将軍・足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し、晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されているのだ。
また、小谷城(平倉城)を攻めて飯森盛春らを討ち取り、これを攻略することに成功する。小谷城の戦いである。
一連の戦闘の結果、北信地方の武田氏勢力は拡大した。
永禄2年(1559年)3月、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地の高梨氏館(中野城、長野県中野市)を落とされ、飯山城(長野県飯山市)に後退してしまう。
長尾景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになった。
永禄2年(1559年)、永禄の飢饉が発生した。甲斐国が大規模な水害に襲われるたのである。
このように戦国時代という時代は飢饉や疫病などがあり、また、容赦なく襲って来る。武田信玄も上杉謙信も、領土に於ける領民の幸せな暮らしを守ることも必要であったのだ。
ー(第4次川中島の戦い)ー
その間も信玄は北信濃侵攻を続けていた。永禄4年(1561年)4月、上杉政虎(永禄4年(1561年)3月、長尾景虎より改名)が後北条氏の小田原城を包囲した。小田原城の戦いである。
この間に信玄は信濃に海津城(長野県長野市松代町)を築城する。
割ヶ嶽城(現長野県上水内郡信濃町)を攻め落とす。参謀の原虎胤が負傷する。
代わって、軍師•山本勘助が参謀になる。
信玄は甲斐•相模同盟の後北条氏の要請に応じて信濃に出兵した。
これを受けて政虎(永禄4年(1561年)8月より輝虎に改名)は川中島の善光寺に出兵したのである。
永禄4年(1561年)8月、第四次川中島の戦いは一連の対決の中で歴史上最大規模の合戦となる。武田方は信玄の実弟である副将武田信繁をはじめ重臣室住虎光、足軽大将の軍師•山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したのであった。
第4次川中島合戦で信濃侵攻は一段落し、信玄は西上野侵攻を更に進めるのであった。
ー(第5次川中島の戦いと西上野侵攻)ー
永禄7年(1564年)、上杉謙信が武田軍の飛騨国侵入を防ぐ為に川中島に出陣したが、信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣するのみで、睨み合いで終わった。
弘治3年(1557年)より、信玄は川中島の戦いと並行して西上野侵攻を開始したものの、山内上杉家の長野業正が善戦した為、当初は捗々しい結果は得られなかったのである。
永禄4年(1561年)、業正が死去すると、武田軍は跡を継いだ長野業盛を攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を領国化したのであった。
これにより箕輪城は対後北条氏の最前線となる。
元亀2年(1571年)12月、甲斐•相模同盟が回復すると後北条氏との争いが止まったのである。
甲斐•相模同盟は天正7年(1579年)3月まで続いたのであった。
ー(川中島の戦いのまとめ)ー
川中島の戦いは、日本の戦国時代に、領土拡大を目指し信濃国南部や中部を制圧し、さらに北信濃に侵攻した甲斐国の戦国大名である武田信玄と、北信濃や信濃中部の豪族から助けを求められた越後国の戦国大名である上杉謙信との間で、主に川中島で行われた数次の戦いである。
武田信玄、上杉謙信双方とも勝利を主張している。
ー(川中島の戦い)ー
武田信玄率いる武田軍と上杉謙信率いる
上杉軍の戦力比較とその主なる武将達である。
武田信玄率いる武田軍は次の通りである。
武田信繁 、武田義信、諸角虎定 、山本勘助 、飯富虎昌、馬場信春、高坂昌信、真田幸隆、
上杉謙信率いる上杉軍は次の通りである。
上杉政虎、直江実綱、柿崎景家、甘粕長重(景持)、中条藤資、色部勝長、本庄繁長、村上義清、高梨政頼
戦力は武田軍は二万。上杉軍は一万三千。
戦死者は、武田軍は、武田信繁、諸角虎定、山本勘助など他四千人死傷。
上杉軍の戦死者は、志田義時、大川忠秀など他三千人死傷。
1542年(天文11年)に武田信玄が甲斐国の実権掌握後に信濃国に侵攻して各地を制圧し、さらに北信濃に侵攻したことで越後の上杉謙信との間に軍事的な緊張が生まれた。
武田信玄と上杉謙信の対立は、北信濃の覇権を巡る戦いとなり、その後の武田軍と上杉軍は川中島の地域を主戦場にして戦うことになったのである。
最大の激戦となった第四次の戦は千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島の八幡原史跡公園周辺が主戦場だったと推定されている。また、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いとされている。
川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に川中島で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に川中島の戦いと言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日〈18日〉)を指すことが多い。
第一次合戦:天文22年(1553年)
第二次合戦:天文24年(1555年)
第三次合戦:弘治3年(1557年)
第四次合戦:永禄4年(1561年)
第五次合戦:永禄7年(1564年)
ただし、古文書や古記録の研究の進展から、北信濃地域ではこの5回の他にも武田・上杉両軍による軍事行動が確認されているのである。
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