13 / 18
第十三巻
ー(真田一族)ー
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が死去する。死後の豊臣政権に於いては五大老筆頭の家康が台頭し影響力を強めることになる。
慶長3年(1598年)6月から慶長5年(1600年)7月までの2年間にわたり、昌幸の上田城での発給文書は皆無であり、この頃は上京していたと推測されている。
昌幸は表向き家康に従っていたようであり、家康が大坂城西の丸に移ると、昌幸も他の諸大名に伴って伏見から大坂に移る支度をしている旨の書状を国許にいる信幸に向けて送っている。
慶長5年(1600年)7月、家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、在京していた昌幸もこれに従っている。
家康の留守中に五奉行の石田三成が挙兵し、三成は諸大名に家康弾劾の13ヵ条の書状を送り多数派工作を始める。
昌幸は下野国犬伏で書状を受け取ったと言われている。
この時、昌幸は信幸・信繁と去就を決めるため会議を開き、昌幸は宇多氏を通じて三成と姻戚にあった関係から次男・信繁と共に西軍に、信幸は正室の小松姫が本多忠勝の娘である事を理由に東軍に与することとなり、真田家存続のために父子訣別した。
上田城へ引き返した昌幸は、その途上で、信幸の居城・沼田城を奪おうと画策し、沼田の留守を預かっていた小松姫に、「孫の顔が見たい」として開門を請うたが、小松姫は、昌幸の知略を恐れて拒絶したのだ。小松姫はこの時鉢巻姿で薙刀を構えていたのだ。
昌幸は、「さすが本多忠勝の娘」と笑って沼田を通り過ぎたという話が『滋野世記』他の後世の編纂書で伝えられている。
7月から8月にかけて、昌幸は豊臣系大名(西軍)と書状での交信を繰り返している。ただ8月10日の書状を最後に交信は確認されておらず、昌幸も大坂の西軍も戦備に追われていたものと推測されている。
決起後の三成が、真田氏に発給した書状のうち、七月晦日付の昌幸充書状に、「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」( 真田宝物館所蔵文書)と頼んでおり、石田と上杉の仲介をしていたことが読み取れる。
そして家康の三男・徳川秀忠が率いる約38,000の部隊が江戸を発して中山道を下り、9月6日(10月12日)には上田城攻略を開始し、昌幸は2,000の兵力で篭城して迎え撃った。これが第二次上田合戦である。
秀忠はまず、真田信幸と本多忠政を使者にして昌幸の帰順を勧告している。
しかし昌幸はこの交渉で帰順すると思わせぶりな態度を見せながら土壇場になって態度を翻して抗戦の意思を示して秀忠を挑発。秀忠軍を城攻めに集中させる手をとった。
昌幸は信幸が上田の支城である戸石城に攻めてくると、信幸に功を挙げさせるためと同族の流血を避けるため、同城の守備を担当していた信繁に城を放棄させて上田に撤退させたのである。
昌幸は徹底した籠城策を取り、時には出撃して奇策を用いて秀忠軍を散々に翻弄し、秀忠は城攻めに手を焼いて9月9日に小諸に撤退した。
この際の徳川軍の惨敗ぶりは徳川方の史料にも「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と伝えられている。
中山道制圧の任にあった秀忠軍は8月29日付で家康から上洛を命じられ、上田攻略を諦めたのだ。
この時、上洛を命じる家康の使者は利根川の増水で到着が遅れ、秀忠軍は9月15日(10月21日)の関ヶ原の戦い本戦に遅参することになる。よって上田合戦は本戦遅参の原因ではない。一方『真田家文書』では、従軍していた信幸に対して秀忠は、8月23日付の書状で昌幸の籠もる上田城を攻略する予定を伝え、小県郡に集結するように命じている上、小山を出陣してからかなりのんびりした行軍を重ねて小諸には9月2日に着陣している。
ただし第二次上田合戦の大規模な合戦と秀忠軍大敗を裏付ける当時の史料は無く、家譜類に刈田を起因とする小競り合いが記載されるのみである。
また森忠政宛秀忠文書から秀忠が上洛の報を受けたのは8日の上田で、その後に撤退している。
その後、関ヶ原での石田三成敗戦の報が届いてもすぐには降伏せず、海津城主・森忠政の家臣である城代・井戸宇右衛門配下の兵の守る葛尾城に対して上田城から9月18日と23日の2度に渡って信繁を出撃させて夜討ちと朝駆けの攻撃を加えている。
しかしながらもはや西軍の敗北は明らかで同月中には徳川からの降伏・開城要請に応じた。
関ヶ原の戦後処理に於いて徳川家康より昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下される。
昌幸は討死覚悟で籠城する決意を固めるが、東軍に属した長男の信幸(後の信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居が決められた(『上田軍記』)。
信濃上田の真田領に関しては信幸に与えられ、信幸は沼田27,000石、上田38,000石、加増30,000石の合わせて95,000石を領する大名となり、真田家の存続に尽くしたのであった。
昌幸は慶長5年(1600年)12月13日に上田城を発して高野山に向かった。
昌幸の正室は上田に残留し、次男の信繁とその妻子、さらに池田長門・原出羽・高梨内記・小山田治左衛門・田口久左衛門・窪田作之丞・関口角左衛門・関口忠右衛門・河野清右衛門・青木半左衛門・飯嶋市之丞・石井舎人・前島作左衛門・三井仁左衛門・大瀬儀八・青柳清庵ら16人が従った(『滋野世記』)。
昌幸の去った上田城は徳川方に接収され、家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却された。
なお信之と別れの対面をした際に、恐ろしげな目からはらはらと涙を流して「さてもさても口惜しきかな。内府(家康)をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」と無念の胸中を語ったと伝わっている(『真田御武功記』)。
高野山での昌幸の配所は1里ほど麓の細川という場所であった。しかし、間もなく配所は九度山に代わる。
信繁が妻を伴っていたため「女人禁制」の関係で代わったとも、冬の高野山の寒さに耐えかねて代わったとも言われている。
なお、流人ではあるが昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され(真田庵)、家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようである。
昌幸の生活費に関しては国許の信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長からの援助で賄った。しかし生活費に困窮し、国許の信之に援助金を催促するため10年余の間に20余通の書状を出している。このことからも、昌幸が上田を去った後も、信之との関係が疎遠にならず、親密な仲を維持していた事が窺える。
10年余り続いた流人生活は昌幸の気力を萎えさせた。
晩年の3月25日付(年次不明)の信之宛書状では「此の一両年は年積もり候ゆえ、気根くたびれ候(中略)、ここもと永々の山居、よろず御不自由御推察なさらるるべく候」とある。
また配流当初には信之を通して赦免運動を展開している。
慶長8年(1603年)3月15日付で国許の信綱寺へ宛てた書状があり、その内容から赦免されて国許に帰還する希望を持っていたようである。また国許の家臣との関係も親密で、家臣が昌幸を頼って九度山に逃れてきた事もあるのだ。
最晩年の昌幸は病気がちだった。信之宛の書状では信之の病気平癒の祝言を述べると共に自らも患っている事を伝えている。
また書状では「此の方別儀なく候、御心安くべく候、但し此の一両年は年積もり候故、気根草臥れ候、万事此の方の儀察しあるべく候」とあり、さらに「大草臥」と繰り返しており、配流生活は年老いた昌幸を苦しめたようである。
昌幸は、慶長16年(1611年)6月4日、九度山で病死した。享年65歳。
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が死去する。死後の豊臣政権に於いては五大老筆頭の家康が台頭し影響力を強めることになる。
慶長3年(1598年)6月から慶長5年(1600年)7月までの2年間にわたり、昌幸の上田城での発給文書は皆無であり、この頃は上京していたと推測されている。
昌幸は表向き家康に従っていたようであり、家康が大坂城西の丸に移ると、昌幸も他の諸大名に伴って伏見から大坂に移る支度をしている旨の書状を国許にいる信幸に向けて送っている。
慶長5年(1600年)7月、家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、在京していた昌幸もこれに従っている。
家康の留守中に五奉行の石田三成が挙兵し、三成は諸大名に家康弾劾の13ヵ条の書状を送り多数派工作を始める。
昌幸は下野国犬伏で書状を受け取ったと言われている。
この時、昌幸は信幸・信繁と去就を決めるため会議を開き、昌幸は宇多氏を通じて三成と姻戚にあった関係から次男・信繁と共に西軍に、信幸は正室の小松姫が本多忠勝の娘である事を理由に東軍に与することとなり、真田家存続のために父子訣別した。
上田城へ引き返した昌幸は、その途上で、信幸の居城・沼田城を奪おうと画策し、沼田の留守を預かっていた小松姫に、「孫の顔が見たい」として開門を請うたが、小松姫は、昌幸の知略を恐れて拒絶したのだ。小松姫はこの時鉢巻姿で薙刀を構えていたのだ。
昌幸は、「さすが本多忠勝の娘」と笑って沼田を通り過ぎたという話が『滋野世記』他の後世の編纂書で伝えられている。
7月から8月にかけて、昌幸は豊臣系大名(西軍)と書状での交信を繰り返している。ただ8月10日の書状を最後に交信は確認されておらず、昌幸も大坂の西軍も戦備に追われていたものと推測されている。
決起後の三成が、真田氏に発給した書状のうち、七月晦日付の昌幸充書状に、「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」( 真田宝物館所蔵文書)と頼んでおり、石田と上杉の仲介をしていたことが読み取れる。
そして家康の三男・徳川秀忠が率いる約38,000の部隊が江戸を発して中山道を下り、9月6日(10月12日)には上田城攻略を開始し、昌幸は2,000の兵力で篭城して迎え撃った。これが第二次上田合戦である。
秀忠はまず、真田信幸と本多忠政を使者にして昌幸の帰順を勧告している。
しかし昌幸はこの交渉で帰順すると思わせぶりな態度を見せながら土壇場になって態度を翻して抗戦の意思を示して秀忠を挑発。秀忠軍を城攻めに集中させる手をとった。
昌幸は信幸が上田の支城である戸石城に攻めてくると、信幸に功を挙げさせるためと同族の流血を避けるため、同城の守備を担当していた信繁に城を放棄させて上田に撤退させたのである。
昌幸は徹底した籠城策を取り、時には出撃して奇策を用いて秀忠軍を散々に翻弄し、秀忠は城攻めに手を焼いて9月9日に小諸に撤退した。
この際の徳川軍の惨敗ぶりは徳川方の史料にも「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と伝えられている。
中山道制圧の任にあった秀忠軍は8月29日付で家康から上洛を命じられ、上田攻略を諦めたのだ。
この時、上洛を命じる家康の使者は利根川の増水で到着が遅れ、秀忠軍は9月15日(10月21日)の関ヶ原の戦い本戦に遅参することになる。よって上田合戦は本戦遅参の原因ではない。一方『真田家文書』では、従軍していた信幸に対して秀忠は、8月23日付の書状で昌幸の籠もる上田城を攻略する予定を伝え、小県郡に集結するように命じている上、小山を出陣してからかなりのんびりした行軍を重ねて小諸には9月2日に着陣している。
ただし第二次上田合戦の大規模な合戦と秀忠軍大敗を裏付ける当時の史料は無く、家譜類に刈田を起因とする小競り合いが記載されるのみである。
また森忠政宛秀忠文書から秀忠が上洛の報を受けたのは8日の上田で、その後に撤退している。
その後、関ヶ原での石田三成敗戦の報が届いてもすぐには降伏せず、海津城主・森忠政の家臣である城代・井戸宇右衛門配下の兵の守る葛尾城に対して上田城から9月18日と23日の2度に渡って信繁を出撃させて夜討ちと朝駆けの攻撃を加えている。
しかしながらもはや西軍の敗北は明らかで同月中には徳川からの降伏・開城要請に応じた。
関ヶ原の戦後処理に於いて徳川家康より昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下される。
昌幸は討死覚悟で籠城する決意を固めるが、東軍に属した長男の信幸(後の信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居が決められた(『上田軍記』)。
信濃上田の真田領に関しては信幸に与えられ、信幸は沼田27,000石、上田38,000石、加増30,000石の合わせて95,000石を領する大名となり、真田家の存続に尽くしたのであった。
昌幸は慶長5年(1600年)12月13日に上田城を発して高野山に向かった。
昌幸の正室は上田に残留し、次男の信繁とその妻子、さらに池田長門・原出羽・高梨内記・小山田治左衛門・田口久左衛門・窪田作之丞・関口角左衛門・関口忠右衛門・河野清右衛門・青木半左衛門・飯嶋市之丞・石井舎人・前島作左衛門・三井仁左衛門・大瀬儀八・青柳清庵ら16人が従った(『滋野世記』)。
昌幸の去った上田城は徳川方に接収され、家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却された。
なお信之と別れの対面をした際に、恐ろしげな目からはらはらと涙を流して「さてもさても口惜しきかな。内府(家康)をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」と無念の胸中を語ったと伝わっている(『真田御武功記』)。
高野山での昌幸の配所は1里ほど麓の細川という場所であった。しかし、間もなく配所は九度山に代わる。
信繁が妻を伴っていたため「女人禁制」の関係で代わったとも、冬の高野山の寒さに耐えかねて代わったとも言われている。
なお、流人ではあるが昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され(真田庵)、家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようである。
昌幸の生活費に関しては国許の信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長からの援助で賄った。しかし生活費に困窮し、国許の信之に援助金を催促するため10年余の間に20余通の書状を出している。このことからも、昌幸が上田を去った後も、信之との関係が疎遠にならず、親密な仲を維持していた事が窺える。
10年余り続いた流人生活は昌幸の気力を萎えさせた。
晩年の3月25日付(年次不明)の信之宛書状では「此の一両年は年積もり候ゆえ、気根くたびれ候(中略)、ここもと永々の山居、よろず御不自由御推察なさらるるべく候」とある。
また配流当初には信之を通して赦免運動を展開している。
慶長8年(1603年)3月15日付で国許の信綱寺へ宛てた書状があり、その内容から赦免されて国許に帰還する希望を持っていたようである。また国許の家臣との関係も親密で、家臣が昌幸を頼って九度山に逃れてきた事もあるのだ。
最晩年の昌幸は病気がちだった。信之宛の書状では信之の病気平癒の祝言を述べると共に自らも患っている事を伝えている。
また書状では「此の方別儀なく候、御心安くべく候、但し此の一両年は年積もり候故、気根草臥れ候、万事此の方の儀察しあるべく候」とあり、さらに「大草臥」と繰り返しており、配流生活は年老いた昌幸を苦しめたようである。
昌幸は、慶長16年(1611年)6月4日、九度山で病死した。享年65歳。
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
義姉と押し入れに隠れたら、止まれなくなった
くろがねや
恋愛
父の再婚で、義姉ができた。
血は繋がっていない。でも——家族だ。そう言い聞かせながら、涼介はずっと沙耶から距離を取ってきた。
夏休み。田舎への帰省。甥っ子にせがまれて始まったかくれんぼ。急いで飛び込んだ押し入れの中に、先客がいた。
「……涼介くん」
薄い水色の浴衣。下ろした髪。橙色の光に染まった、沙耶の顔。
逃げ場のない暗闇の中で、二人分の体温が混ざり合う。
夜、来て。
その一言が——涼介の、全部を壊した。
甘くて、苦しくて、止まれない。
これは、ある夏の、秘密の話。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~
川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる
…はずだった。
まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか?
敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。
文治系藩主は頼りなし?
暴れん坊藩主がまさかの活躍?
参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。
更新は週5~6予定です。
※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?