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第十四巻 真田昌幸の人物像 恐るべし真田昌幸!
【真田昌幸の人物像 恐るべし真田昌幸!】
ー(真田昌幸は表裏比興の者)ー
これは真田昌幸は表裏比興の者と言われていた。
本来なら卑怯はこの漢字を使うのだが、同時代の武将達は昌幸を狡猾な策略家で表も裏もある人物であると見られていたがその知略も認められた上での評価であったのだ。
これは天正14年(1586年)の上杉景勝の上洛を秀吉が労う内容の文書で、同日付で豊臣家奉行の石田三成・増田長盛が景勝へ宛てている添書条に記されてもいる。
これは家康上洛に際して家康と敵対していた昌幸の扱いが問題となり、家康の真田攻めで景勝が昌幸を後援することを禁じた際の表現で比興は現在では卑怯の当て字で用いられる言葉だが『くわせもの』或いは老獪といった意味で使われ、武将としては褒め言葉である。これは地方の小勢力に過ぎない昌幸が、周囲の大勢力間を渡り歩きながら勢力を拡大させていった手腕(知謀・策略)と場合によっては大勢力との衝突(徳川との上田合戦等)も辞さない手強さ(武勇)を合わせて評したものである。実際、昌幸を比興の者と評したと目される三成は、真田家と縁を結んでいるのである。
ー(昌幸の知略・統率力)ー
昌幸は現代の歴史小説において『謀略家』『謀将』として描かれる傾向が非常に根強い。誤りとまでは言わないがこの従来の人物像の基礎になっているのは江戸時代中期の享保16年(1731年)に成立した松代藩士・竹内軌定の『真武内伝』である。
その為確実な一次史料の存在が乏しく、昌幸の人物像や個性に関しては不明な点も少なくないのである。
文人としての知識や興味は乏しかった為かどうかは不明だが、昌幸の著作や詩歌に関連する物は皆無の状態である。『真武内伝』が信頼できるかどうかには疑問も持たれているが、これから昌幸の人物像を紹介すると、『昌幸卒去』の項に死に臨んで信繁に対し、昌幸は九度山幽閉中に家康が近い将来豊臣氏を滅ぼすことを予期していたと言われ、その際には青野ヶ原(大垣市を中心とする西美濃一帯・関ヶ原とほぼ同地点)で徳川軍を迎撃する策などを画し、徳川軍が攻めてくれば巧妙に撤退しながら隙を見ては反撃し、最後は瀬田の唐橋を落として守り、多くの大名を味方に付けるように策す事を遺言したとされているのだ。恐るべし真田昌幸!ただこの作戦は寡兵で多勢の敵軍に何度も勝利した楠木正成が採用した策略や陽動作戦そのものであり、昌幸が死に臨んで披露したかどうかには疑問をもたれている。
昌幸の策略は常に少数の味方で大兵力を抱える敵を破る事にあった。『真武内伝』で
は、
「古今の英雄で、武略は孫子呉子の深奥を究め、寡をもって衆を制し、神川の軍前には碁を囲んで強敵といえどもものともせず、その勇は雷霆にも動じない」
と評している。
同書によると昌幸は策略に於いて常に楠木正成を手本にしていたとされているのである。
また策略だけではなく、家臣や領民を糾合して大敵に当たった昌幸の統率力は高く評価されているのである。
ー(昌幸の武田信玄に対する忠義・敬愛)ー
昌幸は最初の主君である武田信玄を生涯において敬愛し、絶対の忠誠を誓っていた。天正13年(1585年)12月に昌幸は信玄の墓所を自領である真田郷内に再興しようとした。また『真武内伝』によると昌幸は信玄に幼少期から仕え、信玄全盛期の軍略や外交を見て模範にしていたとされる。同書によると、秀吉と昌幸が碁を打っていた際、秀吉が「信玄は身構えばかりする人だった」と評した。それに対して昌幸は「信玄公は敵を攻めて多くの城を取ったが、合戦に手を取る事なくして勝ちを取ったもので、敵に押しつけをした事は一度もない」と答えたと伝わっている。このことから昌幸は信玄を師事していたことが伺えるのである。
ー(昌幸の豊臣秀吉に対する恩顧)ー
昌幸は大名となる過程で秀吉の支援を受けていた為、秀吉に対して一定の恩顧心があったとされている。しかし領主としての昌幸に関しては不明な点が多い。
ー(昌幸は筆まめ)ー
昌幸は非常に筆まめだったとされている。大名時代から信之、家臣の河原氏などに対する書状が確認され、流人時代には信之や近臣に頻繁に書状を送っている。流人時代には彼らから生活の援助を受けており答礼を記したものもあるが、書状の中では旧主として振る舞っているようにも見られ、昌幸の芯の強さが窺える。一方で昌幸は我が子を愛しており、死去する1か月前には信之に何としても会いたいという気持ちを吐露する書状を送っていたのである。
ー(昌幸の関ヶ原合戦)ー
徳川秀忠が西軍についた真田昌幸の篭る上田城に前進を阻まれていた時、秀忠は冠が岳にいる先陣の石川玄蕃、日根野徳太郎に連絡する必要に迫られ、島田兵四郎という者を伝令として出した。兵四郎は地理がよくわからなかったうえ、上田城を避けて迂回していたのでは時間がかかりすぎると思い、なんと上田城の大手門前に堂々と馬を走らせ、城の番兵に向かって「私は江戸中納言(=秀忠)の家来の島田兵四郎という者。君命を帯びて、我が先陣の冠が岳まで連絡にいくところです。急ぎますので、どうか城内を通してくだされ」と叫んだ。味方に連絡するために、現在交戦中の敵城を通してくれ、というのだから、とんでもない話である。番兵たちもあまりのことに仰天してしまい、真田昌幸に報告すると、「なんと肝っ玉の太い武士だろう。通してやらねばこちらの料簡の狭さになる。門を開けてやれ」と門を開けるように指示した。「かたじけない」と城内を駆け抜け裏門を抜ける際、島田兵四郎はちゃっかりと「帰りももう一度来ますので、また通してくだされ」と言った。その言葉通り、再び島田兵四郎が帰りに城に立ち寄った時、真田昌幸はいたく感服し、兵四郎に会い、「そなたは城内を通過したので、我が城内の様子を見ただろう。しかし様々な備えはあれど、それは城の本当の守りではない。真の守りは、城の大将の心の中にあるのだ」と、自ら直々に案内して城内を詳しく見せてやり、その後門を開けて帰してやったという。
ー(昌幸の墓所)ー
善名称院、昌幸を祀った真田地主大権現昌幸の葬儀に関しては不明である[88]。
死後、遺体は九度山に付き従った河野清右衛門らによって火葬にされ、慶長17年(1612年)8月に分骨を上田に運んだという。墓所は長野市松代町松代の真田山長国寺で、上田(長野県上田市)の真田家廟所である真田山長谷寺に納骨された経緯が記されている。また九度山(和歌山県伊都郡九度山町)の真田庵にも法塔が造立され昌幸墓所とされており、後に尼寺である佉(人偏に「去」)羅陀山善名称院が開かれている。別称の真田庵というのは、大安が建立した善名称院の事で、いつの頃からか、後世に真田庵と呼ばれるようになった。
ー(昌幸の予言)ー
昌幸は死の間際、息子の幸村に遺言として、「やがて大坂城の豊臣方と徳川幕府との間で戦いが起こるだろう。その時は大阪方について戦うように。そして、戦いに勝利するには、大坂城を出て尾張に攻め寄せ、東海道と中山道を塞いでしまえ。当然、家康は反撃してくるだろうが、軍勢を近江、京都に展開して敵を攪乱せよ。そのうえで大坂城に籠城すれば、徳川方の士気が下がって諸大名の中で動揺や不満が生じる。結果的には長期間の戦いに耐えきれなくなり、必ず陣を引くだろう。そこに大坂方の勝機がある」と語ったという。また、昌幸はこの作戦は徳川軍を二度も撤退させた名声がある自身が提案すれば、大坂方が受け入れるだろうが、ほとんど実績がない幸村では受け入れられず、実現が難しいだろうと付け足したと言う。(『名将言行録』)。
ー(昌幸は徳川家康を恐れさせた存在であった)ー
昌幸の死後、信之はその葬儀について、徳川家康の側近である本多正信に尋ねた。それに対して正信は「昌幸は重罪人であるから幕府の意向を確かめてから対応するように」と忠告している。死してなお、昌幸は容易に許されなかったのである。
家康は大坂の陣に先立ち、「真田が大坂城に入城した」との知らせを受けると、「親の方か?子の方か?」と訊ねたと言われる。これは当代随一の戦術家である昌幸の病死を家康を始め当時の武将達が疑っていたことを示唆している。またその時、家康の手は震えていたと伝えられ、家康がそれだけ昌幸に恐怖していたとされる。実際は昌幸ではなく、当時は無名の信繁と知って安堵したとも伝わる。
家康とは相容れぬ関係にあり、家名存続のために信之を送り込んでいるが、一定の距離は保った。2度の上田合戦で勝利した事からも、昌幸の自負心の高さがうかがえるのである。
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