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第十八巻 三方ヶ原の戦い
元亀3年(1573)12月22日に日本の遠江国三方ヶ原で行われた、武田信玄と徳川家康・織田信長連合軍の間の戦いである。
この戦いは信玄の勝利に終わった。
この三方ヶ原の戦いは遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市中央区三方原町近辺)で戦われた。
さて、徳川家康はその生涯に於いて数多くの戦さをしている。
寺部城 桶狭間 善明堤 藤波畷 三河一向一揆 姉川 一言坂 二俣城 三方ヶ原 野田城 長篠 高天神城 甲州征伐 伊賀越え 甲州発向 小牧・長久手 上田 小田原 関ヶ原 大坂の陣。
彼らの一生は、まさに戦国乱世に生きる象徴であったと言える。
抑々この三方ヶ原の戦いは信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃った戦さであったが敗退した。
徳川・織田の連合軍は総崩れとなり、家康は命からがら浜松城へ逃げ帰ったのである。この時、家康は馬上で糞を漏らしていた。糞をする暇もないくらい危うかったのであった。
三方ヶ原の合戦前夜のことである。
戦国期に甲斐国の武田信玄は信濃侵攻を行い領国を拡大。越後の上杉氏と対決していたが、永禄4年の川中島の戦いを契機に方針を転換した。信玄はそれまで同盟国であった駿河国の今川領国への侵攻を開始する。駿河侵攻である。
なお、桶狭間の戦いに於いて今川義元が尾張の織田信長に討ち取られると、今川義元に臣従していた三河の松平元康は三河に於いて織田信長と同盟関係を結び独立していた。
駿河侵攻により武田信玄は駿河に於いて三河の徳川家康や今川氏の同盟国であった相模の北条氏に挟撃される形となった。やがて武田信玄は北条氏を退けて今川領国を確保し、徳川領国である三河・遠江方面への侵攻を開始する。武田信玄の侵攻に対して徳川家康は同盟関係にある織田信長の後援を受け、東海地域に於いては武田信玄と織田・徳川勢の対決が勃発する。
元亀2年(1571年)、室町幕府15代将軍・足利義昭は織田信長討伐令を出した。第二次信長包囲網である。それに応える形で信玄は翌元亀3年に徳川領国である遠江国・三河国に侵攻を開始する。しかし、武田信玄と織田信長は同盟関係は維持していたため、当初織田信長は徳川家康に援軍を送らなかった。なお、近年で歴史学者の間では元亀2年の義昭による信長討伐の動きそのものを否定する見解もある。同年末には北条氏康の死をきっかけに北条氏は武田信玄と和睦して甲斐・相模同盟が復活し、後顧の憂いを絶った信玄は、翌元亀3年に上洛の一環として西上作戦を開始する。
当時上洛は天下統一を目指す武将にとって重要な意味を持った。京都への入京は、権力の象徴であり、自らの支配を確立するための重要な一歩であった。信玄もまさにその思いであった。
元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄は兵を2つの隊に分けて、遠江国・三河国への同時侵攻を開始する。
山県昌景は、『当代記』によれば秋山虎繁とともに別働隊を率いて信濃から三河へ侵攻したと言われている。軍勢は5,000人とされる。9月29日、信濃国・諏訪より東三河に侵攻、徳川氏の支城・武節城の攻略を初めとして南進。東三河の重要な支城である長篠城を攻略した後、遠江国に侵攻。
武田信玄率いる22,000人の本隊(うち北条氏の援軍2,000人)は10月3日、甲府より出陣し、山県隊と同じく諏訪へ迂回した後、青崩峠から遠江国に侵攻。途中、犬居城で馬場信春隊5,000人を別働隊として西の只来城に向かわせて別れ、南進して要所・二俣城へ向かう。
総計2万7千人の軍勢は、当時の武田信玄の最大動員兵力であった。本来小さな支城1つ落とすのにも1ヶ月近くかかるところを、平均3日で陥落させていった。一方の徳川家康の動員兵力は最大でも15,000人ほどに過ぎず、しかも三河国に山県隊が侵攻していたため、遠江国防衛のためには実際には8,000人余しか動員できなかった。さらに盟友の織田信長は、いわゆる信長包囲網に参加した近畿の各勢力との戦いの最中であった。織田信長は身動きが取れなかった。
ー(一言坂・二俣城の戦い)ー
10月13日に只来城を落とした馬場信春隊はその後、徳川家康の本城・浜松城と支城・掛川城・高天神城を結ぶ要所・二俣城を包囲し、信玄率いる武田軍本隊も二俣城に向かっていた。
10月14日、二俣城を取られることを避けたい家康がひとまず武田信玄の動向を探るために威力偵察に出たが、一言坂で武田信玄本隊と遭遇し敗走する。一言坂の戦いである。
10月16日には武田信玄本隊も包囲に加わり、徳川方に降伏勧告を行う。二俣城は1,200人の兵力しか無かったがこれを拒否したため、10月18日から武田信玄の攻撃が開始される。11月初旬に山県昌景隊も包囲に加わり、そして城の水の手を絶たれたことが致命的となって、12月19日、助命を条件に開城・降伏した。二俣城の戦い。これにより、遠江国の北部が武田領となった。
ー(三方ヶ原の戦い)ー
織田信長による援軍は、二俣城落城の少し前に派遣された。この織田家から派遣された武将には諸説が有り、
(信長公記 )
佐久間右衛門・平手甚左衛門・水野下野守大将トシテ、
(松平記 )
平手(汎秀)・水野(信元)・林(秀貞)・佐久間(信盛)、
(佐久間軍記)
佐久間右衛門尉ヲ為大将、七頭ヲサシコサル
(明智軍記 )
佐久間右衛門尉・林佐渡守・滝川左近将監、五千余騎ヲ卒シ、
(総見記 )
佐久間右衛門尉・平手甚左衛門ヲ両将トシ、林佐渡守・水野下野守・毛利河内守・美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)、都合三千ノ人数ヲ遣ハサレ、
となっている。
谷口克広氏は「佐久間は織田軍の最有力武将、平手は織田家代々の家老の家柄、水野は尾張から三河にかけて大きな勢力を持つ水野一族の惣領である。それを合計してわずか3千の兵というのは信じがたい。おそらく信長は、彼らの兵をほとんど尾張・美濃方面に残しておいたのだろう。」と援軍の武将と兵数を評している。
ー(織田信長の援軍数)ー
家康以下主だった武将達は「織田の援軍はまだか、まだか、いつ来るのじゃ!」と
苛立ちを覚えていた。
織田家の援軍の数も諸説が有り、
(佐久間軍記)
七頭(約1.5万人:1頭は2,100人とされる)
(明智軍記 )5,000人
(総見記(織田軍記) - 3,000人
(甲陽軍鑑 )
「信長加勢を九頭まで仕る」(約1.9万人)
(前橋酒井家旧蔵聞書 )
信玄軍2.8万、徳川6千、織田の援軍2万。(国立公文書館蔵 紅葉山文庫)
となっている。
磯田道史は、文献調査の結果として織田の援軍を2万とし、織田の援軍は岡崎城(岡崎市)から吉田城(豊橋市)を経て白須賀(湖西市)へ分散配置されていたとする説を述べている。
ー(三方ヶ原に於ける合戦の経緯)ー
当初、徳川家康と佐久間信盛は、武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると考え、籠城戦に備えていた。一方の武田軍は、二俣城攻略から3日後の12月22日に二俣城を出発すると、遠州平野内を西進する。これは浜名湖に突き出た庄内半島の北部に位置する堀江城を標的とするような進軍であり武田軍は浜松城を素通りしてその先にある三方ヶ原台地を目指しているかにみえた。
これを知った家康は、一部家臣の反対を押し切って、籠城策を三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、織田からの援軍を加えた連合軍を率いて浜松城から追撃に出た。
なお、近世の軍記物では、軍議は浜松城で開かれたことになっているが、本人は参戦していないものの兄が参戦している大久保忠教の『三河物語』では家康が浜松城から出陣した後(つまり武田軍により近い場所)に開かれたと記されている。
そして同日夕刻に三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は魚鱗の陣を敷き万全の構えで待ち構えていた。眼前にいるはずのない敵の大軍を見た家康は鶴翼の陣をとり両軍の戦闘が開始された。しかし、不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた徳川と織田の連合軍は武田軍に撃破され、日没までのわずか2時間ほどの会戦で連合軍は多数の武将が戦死して敗走する。
当時の記録によると武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍は死傷者2,000人を出した。特に、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真、田中義綱といった有力な家臣をはじめ、先の二俣城の戦いでの恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治や、家康の身代わりとなった夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣、また織田軍の平手汎秀といった武将を失った。このように野戦に持ち込んだことを含めて、全て武田軍の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったことや内藤信成、本多忠勝などの武将の防戦により、家康本人を討ち取ることはできなかったのだ。
ー(家康の敗走と犀ヶ崖の戦い)ー
武田軍によって徳川軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。この敗走は後の伊賀越えと並んで人生最大の危機とも言われる。浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行ったと伝えられている。家康自身は湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだとも伝わる。この、心の余裕を取り戻した家康の姿を見て、将兵は皆安堵したとされている。浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城計によって警戒心を煽られ城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げた。
同夜、一矢報いようと考えた家康は大久保忠世、天野康景らに命令し、浜松城の北方約1キロにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲させた(犀ヶ崖の戦い)。
この時、混乱した武田軍の一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落したり、崖に誘き寄せるために徳川軍が崖に布を張って橋に見せかけ、これを誤認した武田勢が殺到して崖下に転落したなどの策を講じ、その結果、多数の死傷者を出したという。
ただし、上記の「犀ヶ崖の戦い」は後世に徳川氏の江戸幕府によって編纂された史料が初出であり、同時代の史料にはない。「幅100mの崖に短時間で布を渡した」、「十数丁の鉄砲と100人の兵で歴戦の武田勢3万を狼狽させた」、「武田勢は谷風になびく布を橋と誤認した」という、荒唐無稽な逸話である。
また、戦死者数も書籍がどちらの側に立っているかによって差があり、『織田軍記』では徳川勢535人、甲州勢409人と互角に近い数字になっている。
このことからも『史実は小説より奇なり』である。
この戦いは信玄の勝利に終わった。
この三方ヶ原の戦いは遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市中央区三方原町近辺)で戦われた。
さて、徳川家康はその生涯に於いて数多くの戦さをしている。
寺部城 桶狭間 善明堤 藤波畷 三河一向一揆 姉川 一言坂 二俣城 三方ヶ原 野田城 長篠 高天神城 甲州征伐 伊賀越え 甲州発向 小牧・長久手 上田 小田原 関ヶ原 大坂の陣。
彼らの一生は、まさに戦国乱世に生きる象徴であったと言える。
抑々この三方ヶ原の戦いは信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃った戦さであったが敗退した。
徳川・織田の連合軍は総崩れとなり、家康は命からがら浜松城へ逃げ帰ったのである。この時、家康は馬上で糞を漏らしていた。糞をする暇もないくらい危うかったのであった。
三方ヶ原の合戦前夜のことである。
戦国期に甲斐国の武田信玄は信濃侵攻を行い領国を拡大。越後の上杉氏と対決していたが、永禄4年の川中島の戦いを契機に方針を転換した。信玄はそれまで同盟国であった駿河国の今川領国への侵攻を開始する。駿河侵攻である。
なお、桶狭間の戦いに於いて今川義元が尾張の織田信長に討ち取られると、今川義元に臣従していた三河の松平元康は三河に於いて織田信長と同盟関係を結び独立していた。
駿河侵攻により武田信玄は駿河に於いて三河の徳川家康や今川氏の同盟国であった相模の北条氏に挟撃される形となった。やがて武田信玄は北条氏を退けて今川領国を確保し、徳川領国である三河・遠江方面への侵攻を開始する。武田信玄の侵攻に対して徳川家康は同盟関係にある織田信長の後援を受け、東海地域に於いては武田信玄と織田・徳川勢の対決が勃発する。
元亀2年(1571年)、室町幕府15代将軍・足利義昭は織田信長討伐令を出した。第二次信長包囲網である。それに応える形で信玄は翌元亀3年に徳川領国である遠江国・三河国に侵攻を開始する。しかし、武田信玄と織田信長は同盟関係は維持していたため、当初織田信長は徳川家康に援軍を送らなかった。なお、近年で歴史学者の間では元亀2年の義昭による信長討伐の動きそのものを否定する見解もある。同年末には北条氏康の死をきっかけに北条氏は武田信玄と和睦して甲斐・相模同盟が復活し、後顧の憂いを絶った信玄は、翌元亀3年に上洛の一環として西上作戦を開始する。
当時上洛は天下統一を目指す武将にとって重要な意味を持った。京都への入京は、権力の象徴であり、自らの支配を確立するための重要な一歩であった。信玄もまさにその思いであった。
元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄は兵を2つの隊に分けて、遠江国・三河国への同時侵攻を開始する。
山県昌景は、『当代記』によれば秋山虎繁とともに別働隊を率いて信濃から三河へ侵攻したと言われている。軍勢は5,000人とされる。9月29日、信濃国・諏訪より東三河に侵攻、徳川氏の支城・武節城の攻略を初めとして南進。東三河の重要な支城である長篠城を攻略した後、遠江国に侵攻。
武田信玄率いる22,000人の本隊(うち北条氏の援軍2,000人)は10月3日、甲府より出陣し、山県隊と同じく諏訪へ迂回した後、青崩峠から遠江国に侵攻。途中、犬居城で馬場信春隊5,000人を別働隊として西の只来城に向かわせて別れ、南進して要所・二俣城へ向かう。
総計2万7千人の軍勢は、当時の武田信玄の最大動員兵力であった。本来小さな支城1つ落とすのにも1ヶ月近くかかるところを、平均3日で陥落させていった。一方の徳川家康の動員兵力は最大でも15,000人ほどに過ぎず、しかも三河国に山県隊が侵攻していたため、遠江国防衛のためには実際には8,000人余しか動員できなかった。さらに盟友の織田信長は、いわゆる信長包囲網に参加した近畿の各勢力との戦いの最中であった。織田信長は身動きが取れなかった。
ー(一言坂・二俣城の戦い)ー
10月13日に只来城を落とした馬場信春隊はその後、徳川家康の本城・浜松城と支城・掛川城・高天神城を結ぶ要所・二俣城を包囲し、信玄率いる武田軍本隊も二俣城に向かっていた。
10月14日、二俣城を取られることを避けたい家康がひとまず武田信玄の動向を探るために威力偵察に出たが、一言坂で武田信玄本隊と遭遇し敗走する。一言坂の戦いである。
10月16日には武田信玄本隊も包囲に加わり、徳川方に降伏勧告を行う。二俣城は1,200人の兵力しか無かったがこれを拒否したため、10月18日から武田信玄の攻撃が開始される。11月初旬に山県昌景隊も包囲に加わり、そして城の水の手を絶たれたことが致命的となって、12月19日、助命を条件に開城・降伏した。二俣城の戦い。これにより、遠江国の北部が武田領となった。
ー(三方ヶ原の戦い)ー
織田信長による援軍は、二俣城落城の少し前に派遣された。この織田家から派遣された武将には諸説が有り、
(信長公記 )
佐久間右衛門・平手甚左衛門・水野下野守大将トシテ、
(松平記 )
平手(汎秀)・水野(信元)・林(秀貞)・佐久間(信盛)、
(佐久間軍記)
佐久間右衛門尉ヲ為大将、七頭ヲサシコサル
(明智軍記 )
佐久間右衛門尉・林佐渡守・滝川左近将監、五千余騎ヲ卒シ、
(総見記 )
佐久間右衛門尉・平手甚左衛門ヲ両将トシ、林佐渡守・水野下野守・毛利河内守・美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)、都合三千ノ人数ヲ遣ハサレ、
となっている。
谷口克広氏は「佐久間は織田軍の最有力武将、平手は織田家代々の家老の家柄、水野は尾張から三河にかけて大きな勢力を持つ水野一族の惣領である。それを合計してわずか3千の兵というのは信じがたい。おそらく信長は、彼らの兵をほとんど尾張・美濃方面に残しておいたのだろう。」と援軍の武将と兵数を評している。
ー(織田信長の援軍数)ー
家康以下主だった武将達は「織田の援軍はまだか、まだか、いつ来るのじゃ!」と
苛立ちを覚えていた。
織田家の援軍の数も諸説が有り、
(佐久間軍記)
七頭(約1.5万人:1頭は2,100人とされる)
(明智軍記 )5,000人
(総見記(織田軍記) - 3,000人
(甲陽軍鑑 )
「信長加勢を九頭まで仕る」(約1.9万人)
(前橋酒井家旧蔵聞書 )
信玄軍2.8万、徳川6千、織田の援軍2万。(国立公文書館蔵 紅葉山文庫)
となっている。
磯田道史は、文献調査の結果として織田の援軍を2万とし、織田の援軍は岡崎城(岡崎市)から吉田城(豊橋市)を経て白須賀(湖西市)へ分散配置されていたとする説を述べている。
ー(三方ヶ原に於ける合戦の経緯)ー
当初、徳川家康と佐久間信盛は、武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると考え、籠城戦に備えていた。一方の武田軍は、二俣城攻略から3日後の12月22日に二俣城を出発すると、遠州平野内を西進する。これは浜名湖に突き出た庄内半島の北部に位置する堀江城を標的とするような進軍であり武田軍は浜松城を素通りしてその先にある三方ヶ原台地を目指しているかにみえた。
これを知った家康は、一部家臣の反対を押し切って、籠城策を三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、織田からの援軍を加えた連合軍を率いて浜松城から追撃に出た。
なお、近世の軍記物では、軍議は浜松城で開かれたことになっているが、本人は参戦していないものの兄が参戦している大久保忠教の『三河物語』では家康が浜松城から出陣した後(つまり武田軍により近い場所)に開かれたと記されている。
そして同日夕刻に三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は魚鱗の陣を敷き万全の構えで待ち構えていた。眼前にいるはずのない敵の大軍を見た家康は鶴翼の陣をとり両軍の戦闘が開始された。しかし、不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた徳川と織田の連合軍は武田軍に撃破され、日没までのわずか2時間ほどの会戦で連合軍は多数の武将が戦死して敗走する。
当時の記録によると武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍は死傷者2,000人を出した。特に、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真、田中義綱といった有力な家臣をはじめ、先の二俣城の戦いでの恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治や、家康の身代わりとなった夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣、また織田軍の平手汎秀といった武将を失った。このように野戦に持ち込んだことを含めて、全て武田軍の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったことや内藤信成、本多忠勝などの武将の防戦により、家康本人を討ち取ることはできなかったのだ。
ー(家康の敗走と犀ヶ崖の戦い)ー
武田軍によって徳川軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。この敗走は後の伊賀越えと並んで人生最大の危機とも言われる。浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行ったと伝えられている。家康自身は湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだとも伝わる。この、心の余裕を取り戻した家康の姿を見て、将兵は皆安堵したとされている。浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城計によって警戒心を煽られ城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げた。
同夜、一矢報いようと考えた家康は大久保忠世、天野康景らに命令し、浜松城の北方約1キロにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲させた(犀ヶ崖の戦い)。
この時、混乱した武田軍の一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落したり、崖に誘き寄せるために徳川軍が崖に布を張って橋に見せかけ、これを誤認した武田勢が殺到して崖下に転落したなどの策を講じ、その結果、多数の死傷者を出したという。
ただし、上記の「犀ヶ崖の戦い」は後世に徳川氏の江戸幕府によって編纂された史料が初出であり、同時代の史料にはない。「幅100mの崖に短時間で布を渡した」、「十数丁の鉄砲と100人の兵で歴戦の武田勢3万を狼狽させた」、「武田勢は谷風になびく布を橋と誤認した」という、荒唐無稽な逸話である。
また、戦死者数も書籍がどちらの側に立っているかによって差があり、『織田軍記』では徳川勢535人、甲州勢409人と互角に近い数字になっている。
このことからも『史実は小説より奇なり』である。
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今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
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