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16話:天使の泉
しおりを挟む一夜明け、クリフはベッドから身体を起こせるまでに回復した。
薬がよく効いたのか、声の張りも出て、いつもの快活な笑顔も戻っている。
この調子なら明日にでも退院できるだろうと、マーサのお墨付きだ。
「天使の泉?知ってるぜ」
面会の椅子に座るアルフレッドと会話するクリフは、なんでもない顔をして頷く。
「そうなの?」
「おう、ってか村人なら皆知ってると思うぜ?」
母親が剥いてくれた林檎にかぶりつきながら、クリフはあの丘の向こうの森にあるんだよと指をさす。
病室の窓から見える丘は、確かにアルフレッドも知っていたが、行ったことはなかった。
興味深そうに窓を覗き込むと、クリフの母親がお茶を差し出す。
「アル君、お茶どうぞ」
「ありがとうございます!」
「母さんも泉によく行くよな」
クリフの声に、クリフの母親は頬に手を当てて微笑む。
「天使の泉でしょ?あそこのお水、美味しいのよね~」
「マーサさんも行ったことある?」
アルフレッドの声に、隣にいたマーサもしみじみと頷く。
「疲労回復、筋肉痛、さらに美肌にいいときたら、利用するしかないさね」
「わかります、我が家もお風呂に入れたりしてます」
温泉のような扱いに、アルフレッドはちゃんと手が治るか不安になる。
そんな彼の横で、マーサは思い出したように声を上げた。
「大体フェリシアちゃんに聞かなかったのかい?あの子昔はよく行ってたじゃないか」
「お母さん知らないって」
「チビの頃、友達に会いに行くって毎日行ってたんだけどね~」
跳ねるように丘に向かって駆けていく小さな背中を思い出しながら、首を傾げた。
まあ、行ってみたら思い出すだろうと自己完結させると、マーサは改めてアルフレッドに尋ねる。
「アル君、本当にお母さん達を行かなくて良かったのかい?」
その言葉に思うことがあったのか、アルフレッドは顔を俯かせた。
そして恥ずかしそうに小さな手をモジモジさせながら、小さく呟く。
「うん、なんとなくだけど・・・二人にした方がいいかなって」
子供の粋な心遣いに、マーサとクリフの母親が胸を打たれた。
なんていい子!
マーサとクリフの母親は、それぞれアルフレッドの頭を撫でる。
それを横目で見ながら、クリフは呆れたようにため息をついた。
「それに」
アルフレッドは言葉を続ける。
伏せていた目を開き、クリフを見上げる。
「クリフといっぱいおしゃべりしたかったしね」
黒髪を揺らし、青い目を柔らかく細めながら微笑むアルフレッドの言葉に、クリフは思わず照れた。
「お前すげぇな」
「何が?」
首を傾げるアルフレッドの純粋な瞳に、クリフは感心したように頷いた。
わざとじゃないのが逆にすごい。
クリフの母親とマーサも、アルフレッドのプレイボーイの素質を垣間見て頬を染めた。
**
一方その頃、フェリシア達は丘の向こうの森までたどり着いた。
快晴の空、暖かな風、丘の上は草原が広がり、道の奥に森が見える。
僕がいなくて寂しくても頑張ってね!と笑顔で手を振る息子を思い出し、フェリシアは肩を落とした。
「お母さん、すでに寂しい・・・」
そんなフェリシアを慰めるように、白馬のシロが小さく鳴きながら顔を寄せる。
「ありがとう、シロ。いい子ね」
家からここまで運んでくれた上に気遣いまで出来るなんて立派ねと、柔らかな白い毛に頬を寄せる彼女の横で、トーシャは馬を木に繋ぐ。
彼もまた空を仰ぐと、馬と戯れるフェリシアへ近づき、手を差し出した。
まるでエスコートされているようだと、彼女は照れくさそうに包帯を巻いた手を添える。
冷たい籠手の感触、けれど優しい心遣いは温かかった。
**
丘の上の森に入って少し歩くと、目的の場所に辿り着いた。
木々が開けた草原には色とりどりの花が咲いており、その先に泉が湧いている。
泉は透明度が高く、ターコイズブルーに輝き、中央から揺れる水面から水が湧いていることが窺えた。
「すごく綺麗!ねぇアルー」
あまりの美しさに、フェリシアは感嘆の声を上げた。
「・・・・・・」
「ごめん、つい・・・」
何度も繰り返すやり取りに、トーシャはやれやれと肩を揺らす。
その仕草に頬をかきながら、早速とばかりにフェリシアは靴を脱ぎ、スカートの裾を上げると岸辺に腰を下ろした。
そっと足先を水面につけると、ひんやりとして気持ちが良い。
「冷たくて気持ちいい!って、トーシャ?」
傍にいたはずのトーシャは後方に下がっており、マジックボードを彼女の方に突き出す。
『はしたいない』
「別にいいじゃない」
フェリシアはトーシャの抗議など素知らぬふりをして足を揺らし、水の感触を楽しんだ。
反省の色の無いフェリシアに、彼は暫し沈黙すると自身の鎧の金具を外し出した。
「ちょっと!トーシャさん!?」
本人にそんな気が無いのはわかっているが、それでも急に脱ぎ出されると驚く。
自分のことは棚に上げて、自覚はないのだろうかとヒヤヒヤするフェリシア。
そんな彼女の抗議を無視して、トーシャは鎧を脱ぐとラフな黒服の格好になった。
影のような身体は、木漏れ日の中でも浮き立つように暗い。
異質さを感じさせる風貌だとトーシャは暗い気持ちになりながらも持ち靴を脱ぎ、泉に足を入れる。
泉の岸辺は水面が足首程と浅いが、中央に行くほど深くなっているようだ。
トーシャは腰に浸かるほどの高さまで進むと、懐から短冊形の紙を取り出し、水面に浮かべる。
小さな魔法陣が描かれたその紙は淡く光ると、溶けるように消えた。
「魔法?」
岸辺から尋ねるフェリシアに、トーシャは首を横に振る。
『許しを得ただけだ』
差し出されたマジックボードの言葉に、フェリシアはゴクリと喉を鳴らす。
怪談が苦手な彼女は、誰に許してもらったのか怖くて聞けなかった。
『患部を見せてくれ』
「え?うん」
フェリシアは素直に服の裾を上げて両腕を出し、包帯をとった。
手には傷跡と火傷の跡が痛々しいほど残っている。
彼は近くで生えている木から大きな葉を取ると、少し曲げて水を掬い、彼女の両手にかけた。
「え?」
泉の水が彼女の肌にあたると、瞬く間に傷が癒えていく。
「凄い!」
というか、温泉というレベルではない。
ここまでの回復力なら、クリフも薬が無くてもどうにか出来たのではないかとフェリシアは思った。
そんな彼女の思考を読んだように、トーシャは首を横に振り、自身を指でさす。
『万能薬なんてないのは君も知っているだろう』
「そっか・・・」
だからといって、トーシャ自身を引き合いに出すのは悲しい。
フェリシアは頷くも、複雑な気持ちだった。
岸辺に座り、泉に足をつけたまま、彼女は花々を踏まないように上半身を倒した。
柔らかな草原のクッション、花の香り、木々の揺れる音、泉のひんやりとした感覚は、人を眠りに誘うには十分すぎるものだった。
ウトウトとする瞼を手で擦ると、横で座るトーシャがマジックボードを出す。
『時間はまだ大丈夫だから、少し眠ったほうがいい』
「うん・・・ありがとう・・・」
お礼を言いながら、フェリシアはゆっくり瞼を閉じた。
夢に落ちる浮遊感の中、彼女は自身の意気地の無さが憎たらしく感じた。
本当は彼女は、彼に聞きたいことがあったのだ。
二人きりになることは少ない。
今日は絶好の機会だというのに、彼女は言い出せなかった。
この優しい時間が消えるかもしれない。
それがあまりにも恐ろしくて、口に出すことができなかった。
**
程なく、泉には小さな寝息が聞こえた。
トーシャはそんな彼女を労わるように見下ろす。
鱗病の一連で、疲労が蓄積していたのだろう。
特に彼女は、村に着く前から、着いてからも休む間もなく動いていた。
熟睡している彼女を見下ろしていると、ふとトーシャは彼女の亜麻色の髪が風に揺れて頬にあたっているのに気付いた。
寝苦しくないよう、彼女の頬に手を伸ばす。
しかし、その指先の影色に動きを止めた。
黒々とした肌。
自身が彼女に触れるには、あまりにも汚らしいと手を引っ込めると、トーシャは周囲を見渡した。
どれ程の年月が経とうとも、美しい景観を損なわない泉。
その汚れなき水面の上を、小さな蛍のような光が瞬く。
それはアルフレッドが見た光と同じもの。
瞬くそれらはフェリシアの周囲を守るように漂い、トーシャの指先にも触れると儚く消えた。
その姿があまりにも寂しくて、トーシャは懺悔のように顔を俯かせた。
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