『公爵令嬢の優雅な復讐』

ラムネ

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第十一話:ジャスミンティー

王宮から財産という財産が運び出されてから、三日が過ぎた。 かつては栄華を極めたこの場所は、今や巨大な廃墟と化していた。 家具のない広大な部屋は、歩くたびに虚しい足音を反響させ、割れた窓から吹き込む風が、床に積もった埃を巻き上げている。

アルフォンスは、国王の寝室だった部屋の隅で目を覚ました。 背中が痛い。 執行官たちが慈悲で残していった薄いマットレスは、冷たい石床の硬さを防ぐにはあまりにも頼りなかった。 カーテンのない窓から差し込む朝日が、容赦なく彼の顔を焼き、強制的に現実に引き戻す。

「……水……」

寝起きの一声は、ここ数日変わらない。 渇き。 それが今の彼を支配する唯一の感覚だった。

隣では、ミナがまだ眠っている。 毛布代わりのボロボロのタペストリー(差し押さえ対象外のゴミ同然のもの)にくるまり、イビキをかいている。 その口元からはよだれが垂れ、髪は脂で固まり、かつての「守ってあげたくなる可憐な少女」の面影はどこにもない。 今の彼女は、ただの薄汚れた、意地汚い同居人でしかなかった。

アルフォンスは重い体を起こし、部屋の中を見渡した。 何もない。 父王の遺体は、昨日のうちにハイゼンベルク家の手配した葬儀業者が引き取っていった。 「衛生上の問題」という事務的な理由で、最低ランクの棺桶に入れられ、荷馬車で運ばれていく父を見送った時、アルフォンスは涙さえ出なかった。 ただ、「ああ、これで死臭が消える」と安堵した自分に気づき、戦慄しただけだ。

「……腹が減ったな」

彼はふらふらと立ち上がり、何か食べられるものを探そうとした。 だが、厨房には何もないことを知っている。 ネズミさえ寄り付かないほど、今の王宮には食料がないのだ。

ふと、部屋の隅に転がっている小さな木箱が目に入った。 それは、ミナが以前「宝物」だと言って隠し持っていた茶葉の残りだった。 バザーで失敗したあのジャムの瓶の横にあったものだ。

アルフォンスはそれを拾い上げた。 蓋を開けると、乾燥した茶葉の中から、微かに、本当に微かに、甘い花の香りが漂ってきた。

「……ジャスミン?」

鼻を近づけてみる。 埃とカビの臭いに混じって、確かにジャスミンの香りがする。 それは、古びて酸化した匂いだったが、今のアルフォンスの脳裏にある記憶を強烈に呼び覚ます引き金となった。

          ***

記憶の中の光景は、あまりにも鮮やかで、眩しかった。

ある日の午後。 まだ彼が王太子としての地位を疑わず、世界が自分のために回っていると信じていた頃のことだ。 場所は、セレスティアが好んで使っていた、王宮のサンルーム。 そこは常に完璧な温度に保たれ、美しい花々が咲き誇っていた。

『アルフォンス様、お疲れのようですね』

セレスティアの声が蘇る。 鈴を転がすような、しかし落ち着きのあるアルトボイス。

『公務が立て込んでいらっしゃると伺いました。……少し、頭を休められてはいかがですか?』

彼女はそう言って、僕をソファに座らせた。 そのソファは、最高級の革張りで、座ると体が包み込まれるように沈み込んだ。 そして、彼女自らがポットを傾け、カップに注いでくれたのが、この香りだった。

『ジャスミンティーですわ。最高級の銀毫(インハオ)……若芽だけを使い、ジャスミンの花で何度も香り付けをしたものです』

湯気と共に立ち上る、濃厚で官能的な花の香り。 それは、疲れた脳を優しく包み込み、凝り固まった神経を解きほぐしてくれる魔法のような香りだった。

『ジャスミンの香りには、自律神経を整え、不安を取り除く効果がございます。……今の殿下に一番必要なものですわ』

彼女は微笑んでいた。 その笑顔は、決して甘ったるい媚びたものではなく、凛としていて、それでいて慈愛に満ちていた。 彼女の指先は白く美しく、カップを差し出す所作一つとっても、芸術品のように洗練されていた。

僕はそのお茶を飲み、言ったんだ。 『ああ、いい香りだ。……セレスティア、君がいると、空気が澄んでいくような気がするよ』

そう言うと、彼女は少し照れたように視線を落とし、扇子で口元を隠した。 『……光栄ですわ。殿下が心安らかに過ごせるよう環境を整えるのが、わたくしの務めですから』

務め。 彼女はいつもそう言っていた。 それが、愛などという不確かな感情ではなく、確固たる意志と能力に裏打ちされた「献身」であったことに、僕は気づいていなかった。 いや、気づこうともしなかった。 それが当たり前だと思っていたから。 蛇口をひねれば水が出るように、セレスティアがいれば、完璧な安らぎが提供されるのが当然だと思っていたのだ。

          ***

「……っ」

アルフォンスは、木箱を握りしめたまま、うずくまった。 記憶の中のジャスミンの香りが鮮烈であればあるほど、現実の悪臭が鼻につく。

埃の臭い。 下水の臭い。 そして、自分の体から発せられる汗と垢の臭い。

「戻りたい……」

初めて、明確な言葉としてそれが口から漏れた。

「あの頃に……あの、清潔で、静かで、良い香りのする場所に……」

「……んぅ……うるさいなぁ……」

その時、背後で不快な声がした。 ミナが起きたのだ。 彼女は大きくあくびをし、ボリボリと頭を掻きながら起き上がった。

「あーあ、最悪の目覚め。お腹すいたし、体中痒いし。……ねえアルフォンス様、なんか食べるもの見つけた?」

その声には、セレスティアのような知性も、気遣いも、品位もなかった。 あるのは、ただの動物的な欲求と、幼児のような甘えだけ。

「……ないよ」

「ないの? 役立たずねぇ。王子様なんでしょ? なんとかしてよ」

ミナは鼻を鳴らし、アルフォンスの手にある木箱に気づいた。

「あら、それお茶? いいじゃない、淹れてよ。喉渇いてるの」

「……水がない」

「中庭の池の水でいいじゃない。昨日も飲んだでしょ?」

ミナは平然と言った。 昨日、喉の渇きに耐えかねた二人は、泥と藻が浮いた中庭の池の水を啜ったのだ。 その結果、また腹を下したのだが、今の彼女には学習能力というものが欠落しているらしい。

「ほら、貸して」

ミナは木箱をひったくると、部屋の隅にあった汚れた鍋(昨日の残りの水が入っている)に茶葉を放り込んだ。 火などないから、水出しだ。 しかも、茶葉は古びてカビ臭い。

「少し待てば色が出るでしょ。……ああ、なんかいい匂い。これ飲めば、少しはマシな気分になれるかも」

ミナは鍋を揺らしながら、ニタニタと笑った。 その笑顔を見て、アルフォンスの中にあった何かが、音を立てて冷えていくのを感じた。

(……違う)

彼は心の中で否定した。

(これはジャスミンティーじゃない。こんな……泥水にゴミを浮かべたようなものは、あのお茶とは似ても似つかない)

そして、それを淹れている目の前の女。 かつては「天真爛漫で可愛い」「堅苦しいセレスティアとは違う癒やしがある」と思っていたミナ。 彼女の無知さ、無作法さ、そして浅はかさ。 それらが全て、今は耐え難い「ノイズ」としてアルフォンスの神経を逆撫でする。

「……ねえ、ミナ」

アルフォンスは低い声で言った。

「君は、どうして僕を選んだんだ?」

「え? なに急に」

ミナは鍋の中の茶葉を指で突きながら、適当に答えた。

「だって王子様だし。お金持ちだし。将来王妃様になれるし。……あ、でも今は貧乏だからダメね。早くなんとかしてよね、私のために」

「……それだけか?」

「それだけって? 他に何があるのよ。愛? ふふっ、愛があればお金なんて、って言ったけど、あれは嘘よ嘘。お金がない愛なんて、ただの惨めな共同生活じゃない」

ミナは悪びれもなく言い放った。 彼女にとって、アルフォンスという人間そのものには何の興味もないのだ。 彼に付随していた「王子」という肩書きと「資産」だけを見ていた。 それがなくなった今、彼女の態度は透けるように冷淡で、残酷なほど正直だった。

アルフォンスは、自分がいかに愚かだったかを思い知らされた。 セレスティアは、僕のダメなところも、未熟なところも全て理解した上で、それを補い、支え、導こうとしてくれていた。 彼女の厳しさは、僕を王として大成させるための愛だったのだ。 「計算が合いませんわ」という口癖も、僕が道を踏み外さないための警告だったのだ。

それを「可愛げがない」「口うるさい」と切り捨て、この薄っぺらい女の甘い言葉に逃げ込んだ。 その結果が、このザマだ。

「……君には、香りがないな」

「はぁ? 何言ってんの? 私、香水つけてないから臭いのは当たり前でしょ。あんたも臭いわよ」

「違う……そうじゃない」

アルフォンスは立ち上がった。 足元のゴミを蹴り飛ばす。

「君には、品性という香りがない。知性という香りがない。……君は、ただの空っぽな器だ。中身のない、ヒビの入った器だ」

「なっ……! なんですって!?」

ミナが顔を真っ赤にして立ち上がった。

「誰に向かってそんな口聞いてんのよ! 私がここまで付き合ってあげてるのに! 感謝しなさいよ!」

「付き合ってる? 寄生してるだけだろう!」

アルフォンスの怒りが爆発した。

「君がいるから! 君が余計なことをするから、事態は悪化する一方だ! バザーの時も、あの時もおとなしくしていれば、まだゴルドンに情けをかけてもらえたかもしれない! 君は疫病神だ!」

「ひどい! あんたこそ無能なくせに! セレスティアに捨てられた負け犬のくせに!」

「ああ、そうだ! 僕は負け犬だ! そして君は、その負け犬にたかるノミだ!」

「キーッ!!」

ミナが鍋を持ち上げ、中身をアルフォンスにぶちまけた。 バシャッ! 冷たい、泥臭い水と、古びた茶葉がアルフォンスの顔にかかる。

「……ッ」

アルフォンスは動かなかった。 顔から滴る泥水を拭おうともせず、ただ冷ややかにミナを見据えた。

「……出て行け」

「え?」

「出て行けと言ったんだ。もう君の顔も見たくない。……婚約は破棄だ」

その言葉は、かつて夜会でセレスティアに放ったものと同じだった。 だが、重みが違った。 あの時は酔ったような高揚感の中にいたが、今は、底冷えするような絶望の中にいる。

「は、はぁ!? 今さら何言ってんのよ! 行く当てなんてないわよ!」

「知るか。実家にでも帰れ。……ああ、実家も破産したんだったな。なら、どこへなりとも野垂れ死ねばいい」

アルフォンスは、濡れた髪をかき上げた。 その手についた茶葉――かつてジャスミンだったものの成れの果て――を振り払う。

「僕は一人になりたい。……君のその、キンキン喚く声を聞いていると、頭がおかしくなりそうだ」

「……あんたなんか……あんたなんか……!」

ミナは唇を噛み締め、涙目でアルフォンスを睨みつけた。 そして、足元にあった石ころを拾って投げつけた。

「死んじゃえ! バカ王子!」

彼女は泣き叫びながら、部屋を飛び出していった。 廊下を走る足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

静寂が戻ってきた。 しかし、それは安らぎの静寂ではなく、完全なる孤独の静寂だった。

アルフォンスは、濡れた床に座り込んだ。 顔にかかった水が、涙と混じって口に入る。 泥の味。カビの味。そして、微かに残るジャスミンの香り。 それが、彼にとっての「後悔の味」だった。

「セレスティア……」

彼は膝に顔を埋めた。

「ごめん……ごめんなさい……」

誰もいない廃墟の中心で、彼は初めて、心の底からの謝罪を口にした。 だが、それを聞くべき人は、もう彼の世界にはいない。 彼女は、遥か高みにある「本物の世界」へと去ってしまったのだから。

          ***

同じ頃。 ハイゼンベルク公爵邸の庭園では、優雅なガーデンパーティーが開かれていた。 招かれているのは、アークライト帝国の使節団と、ハイゼンベルク派の有力貴族たちだ。

青空の下、真っ白なテーブルクロスの上には、洗練された料理と、最高級の紅茶が並ぶ。 その中心で、セレスティアは輝いていた。

「……素晴らしいお茶ですね、セレスティア嬢」

隣に座るジークフリートが、カップを傾けながら微笑む。 今日のお茶は、もちろんジャスミンティー。 それも、最高級の「銀毫」の中でも、さらに希少な、満月の夜に摘まれた花だけで香り付けされた逸品だ。

「ありがとうございます、殿下。……ジャスミンには『愛想が良い』という花言葉の他に、『官能的』という意味もございますの」

セレスティアは、少し挑発的な視線を彼に向けた。 今日の彼女のドレスは、ジャスミンの花びらのような純白だが、そのデザインは背中が大きく開いた、大人の魅力を引き立てるものだった。

「ほう。……それは私への誘いかな?」

「さあ、どうでしょう? ……ただ、良い香りというものは、それにふさわしい器と、それを理解できる方のそばにあってこそ、真価を発揮するものですわ」

彼女は遠く、王宮の方角を一瞬だけ見た。 そこにあるのは、香りを失い、腐敗していくだけの過去の遺物。

「腐った器には、腐った水がお似合いです。……わたくしは、もう振り返りません」

セレスティアはきっぱりと言い切り、ジークフリートに向き直った。

「過去の記憶は、香りとともに風に流しました。……これからは、新しい香りを、あなたと共に紡いでいきたいのです」

「……ああ。約束しよう」

ジークフリートは彼女の手を取り、甲に口づけをした。

「君の人生を、最高に香り高いものにすると」

周囲から、感嘆のため息と拍手が湧き起こる。 光と祝福に満ちたその場所は、アルフォンスがいる暗闇とは、もはや別の次元にある世界のようだった。

          ***

一方、王宮。 一人残されたアルフォンスは、震えていた。 孤独。 飢え。 そして寒さ。

「寒い……」

真夏だというのに、体の芯が凍えるようだ。 これが、セレスティアが言っていた「愛がなければ耐えられない寒さ」なのか。 いや、愛があったとしても、この寒さは耐えられない。 ましてや、愛も金も信用も失った今、この寒さは死に至る病そのものだ。

ふと、彼は床に落ちていた一枚の紙切れを見つけた。 それは、ミナが破り捨てた、かつての夜会の招待状の切れ端だった。 そこには、セレスティアの美しい筆跡で、こう書かれていた。

『殿下の未来が、輝かしいものでありますように』

それは、まだ婚約者だった頃に彼女が添えたメッセージだ。 アルフォンスは、その紙切れを握りしめ、慟哭した。

彼女は、僕の未来を信じてくれていた。 僕を輝かせようとしてくれていた。 それを踏みにじり、泥を塗り、自らドブに捨てたのは、僕自身だ。

「あぁぁぁぁぁぁっ!!」

彼の叫び声が、廃墟の王宮に響き渡る。 しかし、その声に応えるのは、不気味な風の音と、遠くで鳴くカラスの声だけだった。

ジャスミンの香りは、もうしない。 あるのは、鼻をつく腐臭と、取り返しのつかない後悔の苦味だけ。

彼は理解した。 自分はもう、主人公ではない。 物語の舞台から転がり落ちた、名もなき敗残者なのだと。

涙が枯れるまで泣いた後、彼は虚ろな目で立ち上がった。 王宮にはもう、水も食料もない。 ここにいれば死ぬだけだ。

「……行こう」

どこへ? 分からない。 だが、ここではないどこかへ。

彼はよろめきながら、王宮の出口へと歩き出した。 その背中は小さく、丸まり、かつての王子の威厳など欠片もなかった。 足元には、こぼれた茶葉が黒くへばりつき、まるで彼の罪のように、いつまでも彼を放そうとしなかった。
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