『処刑されたはずの悪役令嬢は、3回目の人生で『完璧な悪女』を目指して嫌われたい〜なのに、なぜか今度は王太子殿下から求婚されています〜』

ラムネ

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第3話 嫌がらせの定番「教科書への落書き」

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光陰矢の如し。 その言葉の通り、残酷なほどあっという間に月日は流れた。

あの日、七歳の私が「完璧な悪女」としてデビュー(失敗)してから、八年の歳月が経過していた。 私、リリス・フォン・ローゼンバーグは十五歳になり、晴れて王立学園の高等部に入学することとなったのだ。

この八年間を一言で表すなら、『地獄』だった。 いえ、正確には『甘ったるすぎて胃もたれする地獄』だ。

王太子アレクセイ様からの求愛は、年を追うごとにエスカレートしていった。 朝起きれば枕元に山のような花束(彼が自ら摘んだもの)があり、昼食時には王宮のシェフが作った特製弁当が届き、夜には「月が綺麗だね。君のことを想っていたよ」というポエムのような手紙が届く。

私が「迷惑ですわ! こんなに花があっても虫が湧くだけです!」と突き返せば、「そうか、君は自然の生態系を憂いているのだね。ならば専用の温室を作ろう」と斜め上の解釈で温室が建設された。 「お弁当なんて重くて持てません!」と文句を言えば、「僕配慮が足りなかった。これからは僕が食べさせてあげるよ」と、公務の合間を縫って「あーん」をしに来ようとした(全力で阻止した)。

何をしても、何を言っても、全てが「愛」と「善意」に変換される。 私の悪評は立つどころか、「王太子殿下を支える慈愛の聖女」「未来の国母に相応しい賢女」として、国民の支持率は鰻登りだった。

「……おかしい」

真新しい制服に袖を通しながら、私は鏡の中の自分を睨みつけた。 成長した私の容姿は、自画自賛になるが、悪役令嬢として申し分ないものになっていた。

腰まで伸びたプラチナブロンドの髪は、縦ロールでゴージャスに。 アメジストの瞳は、より鋭く、人を射抜くような強さを増している。 身体のラインも出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだ、妖艶なプロポーション。 どこからどう見ても、物語の後半で主人公をいじめる「高慢ちきなライバルキャラ」だ。

「見た目は完璧なのに……どうして中身が伴わないのよ!」

バン、と鏡台を叩く。 いや、中身も伴っているはずなのだ。私はいつだって性悪で、意地悪で、自己中心的な思考をしている。 それなのに、結果が伴わない。 この世界の世界線(ワールドライン)がおかしいのか、それともアレクセイ様の脳内フィルターが強固すぎるのか。

「お嬢様、そろそろ馬車のお時間です」

「ええ、わかっているわ」

私は扇を手に取り、不敵な笑みを浮かべた。

学園。 そこは、貴族の子弟たちが集う社交の場であり、同時に「悪役令嬢」が最も輝く舞台でもある。 大人の目が届きにくいこの場所なら、私の悪行も「若気の至り」や「性格の不一致」として、正しくマイナス評価されるはずだ。 そして、婚約破棄へと繋がる決定的な亀裂を生むことができる。

「待っていなさい、アレクセイ。この学園生活で、あなたのその色眼鏡を叩き割ってやるわ」

          ◇

王立学園の教室は、私が足を踏み入れた瞬間に静まり返った。

カツン、カツン、とヒールの音が響く。 私は顎を上げ、誰とも目を合わせずに自分の席へと向かう。 周囲の生徒たちが、さっと道を開ける。 恐怖? 畏怖? いいえ、聞こえてくるのはこんな声だ。

「ああ、なんてお美しい……」 「あの気品あふれる歩き方、まさに公爵令嬢の鑑だわ」 「隣を通られただけで、空気が浄化された気がする」

(……チッ)

心の中で舌打ちをする。 なぜだ。なぜ道を開けるのが「恐怖」ではなく「敬意」なのか。 もっと「うわ、来たよあの女……」みたいな顔をしなさいよ!

私は指定された席――当然のように最前列の中央、アレクセイ様の隣――にドカッと座った。 隣を見ると、すでに着席していたアレクセイ様が、教科書を読みながら優雅に微笑んだ。

「おはよう、リリス。今日の君も眩しいくらいに美しいね」

十五歳になった彼は、その美貌に磨きがかかっていた。 背は伸び、肩幅も広くなり、少年特有の儚さは消えて、頼りがいのある青年の色気を纏っている。 銀色の髪が窓からの光を受けて輝き、氷のような瞳は、私を見る時だけ春の日差しのように温かくなる。 クラス中の女子生徒が、彼を見て頬を染めているのがわかる。

「……おはようございます、殿下。朝から歯の浮くようなセリフ、ごちそうさまですわ」

「君のためなら、詩集を丸暗記してきてもいいくらいだよ」

「結構です。耳が腐りますわ」

「ははは、君のその冷たいツッコミを聞くと、今日も一日頑張ろうという活力が湧いてくるよ」

ダメだ。会話が成立しない。 この男、私の罵倒を「愛の鞭」か「朝の挨拶」くらいにしか思っていない。

授業が始まるまで、あと十分。 私はカバンの中から筆記用具を取り出しながら、虎視眈々と「チャンス」を狙っていた。 今日の作戦は、シンプルかつ卑劣。 地味だが精神的ダメージの大きい嫌がらせ。

『教科書への落書き』だ。

王太子の教科書といえば、国から支給された特別なものや、王家に代々伝わる貴重な資料であることも多い。 それを汚すというのは、勉学への冒涜であり、王家への不敬にあたる。 しかも、中身が読めなくなるくらい汚してやれば、彼は授業についていけなくなり、恥をかくことになる。 さすがの彼も「僕の勉強を妨害するなんて、なんて向上心のない、配慮に欠けた女だ」と激怒するに違いない!

(チャンスは今よ……!)

アレクセイ様が、クラスメートに話しかけられて少し席を外した。 教科書は机の上に置かれたままだ。

私は素早く周囲を見回す。 誰も私を見ていない。みんな、王太子殿下のほうを見ている。

私はサッと手を伸ばし、彼の教科書を引き寄せた。 表紙には『古代魔法学・上級理論』と書かれている。 パラパラとページをめくる。 難解な数式や魔法陣がびっしりと書かれていて、見ているだけで頭が痛くなりそうだ。 よし、この一番難しそうで、重要そうなページを汚してやる。

私は羽ペンを取り出し、たっぷりとインクをつけた。

「(ふふふ……これでもくらいなさい!)」

狙うは、ページ全体に描かれた巨大な魔法陣の中心部。 ここに、見るも無惨な落書きをしてやる。 私の画力は壊滅的だ。 前世では「画伯」と呼ばれ、描いた猫が「新種の妖怪」と間違われたこともある。 今世でもその才能(?)は健在だ。 私が描く落書きは、見る者に生理的な嫌悪感と混乱を与える、ある種の精神攻撃兵器となるだろう。

カリカリカリッ!

私は躊躇なくペンを走らせた。 イメージしたのは、私がもっとも嫌いな「毛虫」と「骸骨」を融合させたようなモンスター。 それを、魔法陣の上に大胆に、かつ執拗に書き殴る。 インクが飛び散り、神聖な図形が黒く塗りつぶされていく。

「(できた……!)」

数秒後。 そこには、黒い線が複雑に絡み合い、のたうち回るような、不気味な模様が完成していた。 どう見ても落書き。 それも、子供が癇癪を起こして書きなぐったような、品のない汚れだ。

私は満足げに頷き、教科書を閉じて元の位置に戻した。 指先にインクがついているが、そんなことは気にならない。 高揚感で胸がいっぱいだ。

戻ってきたアレクセイ様が教科書を開いた時の顔が楽しみだわ。 きっと青ざめて、怒りに震えて、「リリス! なんてことを!」と叫ぶはず。 そうしたら私は、「あら、手が滑りましたの。でも、そのほうが味があってよろしいのではなくて?」と嘲笑ってやるのだ。

          ◇

キーンコーンカーンコーン。

チャイムが鳴り、老齢の教師が入ってきた。 魔法学の権威、グランディ教授だ。 彼は厳しいことで有名で、生徒の些細なミスも許さない。 もし教科書に落書きなんてしてあるのがバレたら、雷が落ちるだろう。 ……アレクセイ様に。

「えー、では授業を始める。今日は124ページの『失われた第三術式』について解説する」

教授の声が響く。 来た。 124ページ。 私がさっき、念入りに汚したページだ!

「この術式は、数百年前の資料の散逸により、魔法陣の一部が欠損しておる。ゆえに現代の魔法使いは、この術式を完全な形で再現することができん。未だ解明されていない『魔法学のミッシングリンク』と呼ばれておる難問じゃ」

教授が黒板に魔法陣を描き始める。 中心部分が空白になっている。

「さあ、教科書を開いて。この不完全な魔法陣の構造をよく理解するように」

クラス中の生徒が教科書を開く音。 バサッ、バサッ。

そして、私の隣でも。 アレクセイ様が、何気ない動作で教科書を開いた。

(……3、2、1……)

私は心の中でカウントダウンをしながら、横目で彼の反応を伺った。

開かれた124ページ。 そこには、私の渾身の「黒いグチャグチャ」が鎮座している。

アレクセイ様の動きが止まった。 視線が釘付けになる。 美しい眉がピクリと動く。

(よし! 気づいた! さあ怒りなさい! 軽蔑しなさい!)

「……これは」

アレクセイ様が小さな声を漏らす。 その声は震えていた。 怒りではない。 驚愕と、ある種の畏敬を含んで。

「先生」

アレクセイ様が静かに手を挙げた。

「なんだね、殿下」

「教科書の……この記述について、質問というより、確認したいことがあります」

「ほう?」

「この欠損している中心部ですが……もし、ここに『魔力の逆流を防ぐための安全弁』ではなく、『魔力を増幅させて循環させるための無限回廊』が組み込まれていたとしたら、どうなりますか?」

「なに? 無限回廊だと? バカな。そんな複雑な構造、二次元の魔法陣に組み込めるはずが……」

「ですが、見てください。この……追記された図形を」

アレクセイ様は立ち上がり、教科書を教授に見せた。 教授が眼鏡の位置を直し、覗き込む。

「なっ……!?」

教授の目が飛び出しそうになった。

「こ、これは……!!」

教授は震える手で教科書を受け取り、食い入るように見つめ始めた。 教室中がざわつく。 「なんだ?」「何が起きたんだ?」

私は冷や汗をかき始めた。 え? なに? 怒られないの? 「汚い落書きだ!」って放り投げられる展開じゃないの?

「す、すばらしい……!!」

教授が叫んだ。 歓喜の叫びだった。

「この線! 一見すると無秩序に見えるこの曲線が、既存の魔法陣の欠陥を縫うようにして繋がっておる! これはただの線ではない、多次元的な魔力干渉を表す『トポロジー変換式』じゃ!」

「は?」

私は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。

「ト、トポロジー……?」

「そうだ! 見てみろ、この黒いインクの染みのような部分! これは魔力の淀みをあえて作ることで、全体の流速を調整する『抵抗帯』の役割を果たしておる! そしてこのギザギザした線は、外部からの干渉を弾く障壁のルーンを崩して再構築したもの……!」

教授は興奮のあまり、黒板に向かって猛烈な勢いで数式を書き始めた。 私の落書き(毛虫と骸骨)を、数学的に解釈し、補完していく。

カッカッカッカッ!

黒板が埋め尽くされていく。 そして、最後に一本の線が引かれた瞬間。

ブゥンッ!

黒板に描かれた魔法陣が、淡い光を放ち始めた。 未完成だったはずの術式が、起動したのだ。 教室内に爽やかな風が吹き抜け、光の粒子が舞う。

「か、完成した……! 数百年もの間、誰も解けなかった『失われた第三術式』が、今ここで完成したのじゃ!!」

教授は涙を流しながら、アレクセイ様の机に駆け寄った。

「殿下! これはあなたが解いたのですか!? いつの間にこのような高度な理論を!?」

「いいえ」

アレクセイ様は首を横に振り、静かに、しかし誇らしげに私を見た。

「これを描いたのは、僕ではありません。……リリス。君だね?」

全員の視線が私に突き刺さる。 私は金縛りにあったように動けない。

「さっき、君が僕の教科書を借りていたのを知っているよ。君が返してくれた後、この『修正』が施されていた」

「ち、違います! あれはただの落書きで……!」

「謙遜はいらない!」

教授が私の手を取り、ブンブンと上下に振った。

「落書き? とんでもない! 一見落書きに見えるほどカモフラージュしながら、その実、魔法学の真理を突く解答を記すとは……なんと奥ゆかしい! そしてなんと天才的な発想力!」

「えっ、あの、あれは毛虫で……」

「ケムシ? ああ、『KEMUSHI(ケムシ)』理論と名付けるつもりか! 『Kinetic Energy Modulation Using Spiral Harmonics Interaction(螺旋調和相互作用を用いた運動エネルギー変調)』の略だな! 素晴らしいネーミングセンスだ!」

嘘でしょう。 なんでそうなるの。 私の「毛虫」が、なんかすごい科学用語の頭文字みたいになってる!

「リリス嬢……君は、天才だ」

クラスメートたちが、尊敬の眼差しで私を見る。

「公爵令嬢として完璧なだけでなく、魔法学の才能まであるなんて」 「わざわざ殿下の教科書を使ってヒントを与えるなんて、なんてロマンチックな内助の功なんだ」 「二人の愛が、歴史的な発見を生んだんだわ!」

拍手が起こる。 スタンディングオベーションだ。 私は教室内で一人、顔面蒼白で立ち尽くしていた。

(違う……違うのよぉぉぉ!!)

私はただ、彼を困らせたくて、汚い絵を描いただけなの。 それがなんで、世紀の大発見になっちゃうのよ! 古代の魔法使い、性格が悪すぎるわ! なんで正解の術式が「毛虫と骸骨」みたいな形してるのよ!?

アレクセイ様が、私に近づいてくる。 その瞳は、今まで見たことがないほどキラキラと輝いている。 尊敬、崇拝、そして深い愛。

「リリス。君の頭脳には、僕も敵わないな」

彼は私の髪を優しく撫でた。

「君はいつも、僕の想像を遥かに超えてくる。君の隣に立つに相応しい男になるために、僕ももっと努力しなければ」

「で、殿下、買いかぶりすぎですわ……」

「いいや。君は僕の光だ。……この教科書は、一生の宝物にするよ」

「捨てて! お願いだからその汚い教科書は捨ててーッ!」

私の心の絶叫は、歓喜の渦にかき消された。

          ◇

放課後。 私は憔悴しきって、廊下をトボトボと歩いていた。

作戦は大失敗だ。 教科書を汚して嫌われるどころか、「魔法学の天才」という余計な称号まで手に入れてしまった。 おまけに、あのページは切り取られて額縁に入れられ、王立博物館に寄贈されるという話まで出ているらしい。 公開処刑だ。 私の描いた下手くそな毛虫が、国宝級の資料として展示されるなんて。

「……はぁ」

深いため息をつく。 もう、小手先の嫌がらせではダメなのかもしれない。 もっと直接的で、もっとフィジカルで、誰が見ても「これはひどい」と思うようなことをしなければ。

「おや、リリス嬢。浮かない顔をして、どうされたのかな?」

声をかけられ、顔を上げる。 そこにいたのは、数人の男子生徒たちだった。 彼らはどこか影があり、制服を着崩し、目つきが悪い。 いわゆる「不良」あるいは「学園のはぐれ者」と呼ばれるグループだ。

彼らの中心にいるのは、メガネをかけた陰気な少年。 確か、子爵家の三男で、成績は優秀だが性格が暗く、誰とも馴染めずにいる……という噂の生徒だ。

(……待って)

私の悪役レーダーが反応した。

彼らは、社会に不満を持っている。 現状に満足していない。 つまり、「悪の手先」としてのポテンシャルがある!

私の取り巻き(親衛隊)になってくれそうな人材だ。 彼らを手懐けて、私の悪事を手伝わせればいい。 一人でやるから失敗するのだ。 組織的に嫌がらせを行えば、きっとアレクセイ様も音を上げるはず!

「あら、ごきげんよう」

私は扇を広げ、彼らに近づいた。 高圧的に、女王様のように。

「あなたたち、暇そうね。どう? わたくしの『下僕』にならない?」

直球すぎる勧誘。 普通なら「ふざけんな」と怒るか、バカにされて終わるだろう。 さあ、私を罵って。 「何様のつもりだ」って言って。

しかし、メガネの少年は、ビクリと肩を震わせた後、ゆっくりと顔を上げた。 その瞳の奥に、暗い炎のようなものが見えた。

「……下僕、ですか」

「ええ。わたくしの手足となって、学園を恐怖のズンドコ……いえ、どん底に突き落とす手伝いをしてほしいの。報酬は弾むわよ?」

私は悪そうな顔(練習済み)で微笑んだ。

少年たちは顔を見合わせた。 そして、次の瞬間。 彼らは一斉にその場に跪いたのだ。

「「「喜んで!!」」」

「……はい?」

メガネの少年が、熱っぽい口調で語り出した。

「僕たちは見ていました! 今日の授業でのあなたの偉業を! 既存の権威(教授)に媚びず、教科書というルールを破壊し、独自の発想で真理を掴み取るその姿勢……! それこそが、僕たちが求めていた『革命』です!」

「か、革命?」

「そうです! 僕たちはこの学園の閉鎖的な空気に窒息しそうでした。でも、あなたなら! あなたという圧倒的なカリスマなら、この腐った学園を変えられる! 僕たちを導いてください、ジャンヌ・ダルク……いえ、リリス様!」

「一生ついていきます、姉さん!」 「俺たちのパトロンになってください!」

違う。 そうじゃない。 私はあなたたちを「いじめの実行犯」や「パシリ」に使いたかっただけなのに。 なんで「学園改革の同志」みたいになってるのよ!

「待ちなさい! 私はそんな高尚な目的じゃないの! ただ、王太子に嫌がらせをしたいだけで……」

「わかります。体制側(王太子)への反逆ですね。なんてロックなんだ……!」 「愛ゆえに刃を向ける……深い。深すぎる」

ダメだ。 こいつらも「アレクセイ病」に感染している。 私の言葉が、全て都合よく解釈されていく。

こうして、私の周りには、 「王太子率いるキラキラ生徒会」 だけでなく、 「学園の裏社会を牛耳る(予定の)闇の親衛隊」 まで結成されてしまったのだった。

          ◇

翌日の昼休み。 私は新たな作戦を実行に移すことにした。

頭脳戦(教科書)がダメなら、肉体戦だ。 シンプルに、わかりやすく、物理的なダメージを与える。

場所は学生食堂。 多くの生徒が見ている前で、アレクセイ様に恥をかかせる。

ターゲットは、彼がトレイを持って歩いている時。 私が足を出し、彼を転ばせる。 スープや料理が床にぶちまけられ、彼の制服は汚れ、無様な姿を晒すことになる。 私が「あら、ごめんなさい。足が長すぎて邪魔だったかしら?」と嘲笑えば、さすがに彼もブチ切れるだろう。

(今度こそ……今度こそ完璧よ!)

私は食堂の入り口近くの席を確保し、その時を待った。 親衛隊(昨日勧誘した彼ら)が、遠くから私を見守っている。 「姉さんが何かデカイことをやる気だ」「援護の準備をしろ」とか言っているのが聞こえるが、無視だ。邪魔だけはしないでね。

アレクセイ様がやってきた。 彼はいつものように優雅にランチセットを受け取り、こちらに向かって歩いてくる。 手には熱々のオニオングラタンスープ。 絶好のターゲットだ。

彼が私の席の横を通る瞬間。

(いまだッ!)

私はテーブルの下から、勢いよく右足を突き出した。 タイミングは完璧。 彼の足が私の足に引っかかり、バランスを崩す――

はずだった。

「危ないッ!」

誰かの叫び声が響いた。

私の足が伸びたその瞬間。 アレクセイ様の後ろを歩いていた男子生徒が、濡れた床(清掃中だったらしい)で足を滑らせ、持っていたトレイごと前方にダイブしたのだ。 そのトレイの上には、真っ赤なトマトシチューがたっぷり入った皿があった。

放物線を描いて飛んでいくシチュー。 その着地点は、間違いなくアレクセイ様の背中。

(あ、ぶつかる!)

私はとっさに動いてしまった。 足を引っ込めるどころか、反射的に椅子を蹴って立ち上がり、アレクセイ様の背中を庇うように飛び出したのだ。 二度も死んでいるせいで、「死角からの攻撃」に対する危機察知能力が無駄に高くなっていた弊害だ。

バシャアアアアン!!

激しい音と共に、熱い液体が私を襲った。 トマトシチューが、私の自慢の制服を、プラチナブロンドの髪を、真っ赤に染め上げる。

「きゃっ……!?」

「リリス!?」

アレクセイ様が振り返る。 そこには、全身シチューまみれになり、呆然と立ち尽くす私の姿があった。

「あ……あ……」

最悪だ。 転ばせるはずが、自分が被弾した。 しかも、よりによってトマトシチュー。 まるで返り血を浴びた殺人鬼のような見た目になっているはずだ。 臭い。熱い。ベタベタする。

恥ずかしい。 穴があったら入りたい。 これは悪女の所業ではない。ただの「ドジで間抜けな被害者」だ。

「リリス! 大丈夫か!?」

アレクセイ様が血相を変えて私を抱きとめる。 彼の真っ白な制服に、私のシチューが移ってしまう。

「で、殿下、離れてください! 汚れますわ!」

「服などどうでもいい! 火傷は!? 怪我はないか!?」

彼はハンカチを取り出し、私の顔についたシチューを必死に拭い始めた。 その必死な形相に、食堂中の生徒が息を飲む。

「……リリス、君は」

アレクセイ様が、震える声で言った。

「僕を庇ってくれたのか……?」

「は?」

「後ろから飛んできたシチューに気づき、身を挺して僕を守ってくれたんだね。……自分の身が汚れるのも厭わずに」

「ち、違います! 私は足を……」

「なんて勇敢なんだ。そして、なんて深い愛なんだ」

彼は私を強く抱きしめた。 シチューまみれの私を、躊躇なく。

「許さない」

アレクセイ様の声が、地を這うような低音に変わった。 空気が凍りつく。 彼は私を抱きしめたまま、食堂全体を睨みつけた。 その瞳は、文字通り「氷の貴公子」のそれだった。激しい怒りを孕んだ氷河だ。

「僕の婚約者を傷つけたのは誰だ。……僕の大切なリリスを、こんな目に遭わせたのは」

食堂内の温度が5度くらい下がった気がした。 転んだ男子生徒は、顔面蒼白で失神寸前だ。

「リリス。君の足……」

アレクセイ様が、私が突き出していた右足に気づいた。 シチューで汚れた靴。

「そうか。君はとっさに踏ん張って、僕への衝撃を和らげようとしてくれたんだね」

違う。 それはあなたを転ばせるための足です。 トリッピングという反則行為です。

「もういい。行こう、リリス」

アレクセイ様は、私をひょいとお姫様抱っこした。 シチューまみれの私を。

「で、殿下!? 下ろしてください! 重いですし、汚いですし!」

「君は羽のように軽いよ。それに、君を守れなかった僕のほうが、よほど汚れている」

彼はスタスタと食堂を出て行く。 残された生徒たちは、感動と恐怖で震えていた。

「すげぇ……殿下を庇って……」 「公爵令嬢としての矜持を見たわ」 「あのお二人の絆は、誰にも引き裂けない」

遠ざかる背中を見送りながら、親衛隊のメガネ君が呟いたのが聞こえた。

「……姉さん。あえて汚名を被ることで、殿下のカリスマ性を高め、同時に学園の安全管理の甘さを告発したんですね。……さすがです」

違うって言ってるでしょうがーッ!!

私はアレクセイ様の腕の中で、天井を仰いだ。 神様。 もしいるなら教えてください。 私はあと何回、善行を積めば悪女になれるのでしょうか?
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