『「あんな化け物と結婚なんて嫌!」と妹が泣くので私が身代わりになりました。……あの、化け物どころか、国一番の美形で紳士な旦那様なんですけど?

ラムネ

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第9話『社交界への招待状』

建国記念の大夜会まで、残すところあと一日となりました。

王都にある辺境伯家の別邸は、嵐の前の静けさに包まれていました。 手入れが行き届いた庭園には、小鳥のさえずりが響き、窓からは穏やかな日差しが差し込んでいます。

しかし、一歩屋敷の外に出れば、そこは魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈する社交界という名の戦場です。 王都中の貴族たちが、明日の夜会に向けて着々と準備を進め、あるいは敵対者を蹴落とすための策謀を巡らせているのです。

「……旦那様、ネクタイが曲がっておりますわ」

私は、姿見の前で身支度を整えているジークハルト様に近づき、首元のクラバットを直しました。

今日の彼は、王城へ事前の挨拶回りに行くために、正装をしています。 漆黒のフロックコートに、銀の刺繍が施されたベスト。 そして顔には、いつもの鉄仮面。 その威圧感たるや、魔王が人間界の視察に行くような趣です。

「ああ、すまない。……どうも、王都の空気は肌に合わん。ネクタイ一つでさえ、首を締め付ける鎖のように感じる」

ジークハルト様は不快そうに首を振りました。 彼の魔力は、王都に充満する雑多な欲望や悪意に敏感に反応してしまうのです。 屋敷の中では私の「魔力無効化」効果で安定していますが、外に出れば再びストレスとの戦いになります。

「ご無理はなさらないでくださいね。もし誰かが失礼なことを言ったら、コッソリ教えてください。後で私が、その方の家の庭に雑草の種を蒔いておきますから」

私が冗談めかして言うと、仮面の奥からクックッという低い笑い声が聞こえました。

「それは恐ろしい報復だ。……だが、俺にはお前という最強の盾がある。誰も俺の心を傷つけることはできんよ」

彼は私の手を取り、革手袋越しに甲へとキスを落としました。

「行ってくる。夜までには戻るから、大人しく待っていてくれ。……間違っても、勝手に実家に行ったりするなよ」

「行きませんよ。あんな家、もう私の記憶の中では『更地』になっていますから」

「はは、頼もしいな」

ジークハルト様は機嫌よく笑い、護衛の騎士たちを引き連れて出かけていきました。 その背中を見送りながら、私はふっと表情を引き締めました。

旦那様は、私に心配をかけまいとして気丈に振る舞っていますが、王城での風当たりが強いことは想像に難くありません。 「北の化け物」を心よく思わない保守派の貴族たちは、ここぞとばかりに嫌味を言ったり、無視を決め込んだりするでしょう。

(私も、戦わなくては)

私は拳を握りしめました。 明日の夜会は、ただのお披露目ではありません。 ジークハルト様の名誉を回復し、私たちが「幸せな夫婦」であることを証明するための決戦の場なのです。

                  ◇

一方その頃。 王都の貴族街の一角にある、伯爵家のタウンハウス。

そこには、かつての栄華の面影もなく、どんよりとした空気が淀んでいました。

「どういうことなのよ! 新しいドレスが買えないって!」

金切り声とともに、重そうな花瓶が壁に叩きつけられました。 ガシャン!という破壊音。

部屋の中で暴れ回っているのは、私の妹、マリアです。 美しい金髪は振り乱れ、青い瞳は血走っていました。 床には、破られたカタログや、散乱した宝石箱が転がっています。

「お、落ち着きなさい、マリア。今、資金繰りをどうにかしようとしているところで……」

父がオロオロとなだめようとしますが、マリアの怒りは収まりません。

「うるさい! お父様の役立たず! 明日は夜会なのよ!? 国中の貴族が集まる、一番大事な日なのよ!? なのに、去年のドレスを着ていけって言うの!?」

「しかしなぁ……北の辺境伯からの援助が切れてしまって、我が家にはもう現金が……」

「だったら借金すればいいじゃない! 領地の一部を売るとか、なんとかしなさいよ!」

マリアはヒステリックに叫び、ソファーのクッションを引き裂きました。

伯爵家の財政は、火の車でした。 私が身代わり婚で家を出た際、ジークハルト様から支払われた多額の支度金。 本来なら、それを借金の返済や領地の経営に充てるべきでした。 しかし、マリアと義母はそれを「臨時収入」と勘違いし、湯水のように浪費してしまったのです。

新しい馬車、宝石、毎日のように開くお茶会。 お金なんて、湧いてくるものだと思っていたのでしょう。 そのツケが、今、最悪のタイミングで回ってきていました。

「ああ、許せない……許せないわ、エルサ……!」

マリアは爪を噛みながら、憎悪に満ちた声で唸りました。

「あの地味で能無しのお姉様が、辺境伯夫人? ふざけないでよ。その座は、本来ならこの私が座るはずだったのよ! 私が北に行って、ちやほやされて、莫大な富を手に入れるはずだったのに!」

彼女の記憶の中では、すでに事実は歪曲されていました。 自分が「行きたくない」と泣き叫んで姉を押し付けたことなど忘れ去り、「姉に騙されて幸福な結婚の権利を奪われた」という被害妄想にすり替わっているのです。

「奥様、お嬢様……。お客様がお見えです」

怯えた様子のメイドが、部屋の入り口から声をかけました。

「誰よ! 今、機嫌が悪いって見てわからないの!?」

「そ、それが……お嬢様がお呼びになった、薬師の方だと……」

その言葉を聞いた瞬間、マリアの表情が変わりました。 激情がすっと引き、代わりに爬虫類のような冷たく粘着質な笑みが浮かび上がります。

「……通して。すぐに」

部屋に入ってきたのは、全身を鼠色のローブで覆った、小柄な男でした。 顔は見えませんが、鼻を突くような薬品の臭いと、不気味な魔力の気配を漂わせています。 明らかに、まともな商売人ではありません。 裏社会の人間、あるいは禁忌とされる闇魔法の研究者。

「ヒヒッ……ごきげんよう、麗しのマリアお嬢様」

男は卑屈な笑い声を上げ、マリアの前に跪きました。

「例のモノ、ご用意できましたよ」

「本当!?」

マリアが目を輝かせて身を乗り出しました。

男は懐から、小さな小瓶を取り出しました。 手のひらに収まるほどの、ガラスの瓶。 中には、妖しくピンク色に光る液体が入っています。 それは液体というよりは、生き物のようにドロドロと蠢いていました。

「これが……『魅了の香水(チャーム・パフューム)』?」

「ええ、左様でございます。しかも、ただの魅了薬ではありません。古代の遺跡から発掘された、禁断の秘薬……その名も『愛欲の檻』」

男は小瓶を光にかざし、うっとりと説明しました。

「これを一振りすれば、どんなに意志の強い男でも、理性を失い、本能のままに貴女様を求めるようになるでしょう。たとえ相手が聖職者だろうと、国王だろうと……あるいは、人外の魔力を持つ者だろうとね」

「人外の……」

マリアはごくりと唾を飲み込みました。 彼女の脳裏に浮かぶのは、北の辺境伯、ジークハルトの姿です。 噂では恐ろしい化け物とされていますが、最近の王都では「実は絶世の美男子らしい」という噂もまことしやかに囁かれています。

もし、その噂が本当なら。 そして、その彼をこの薬で意のままに操ることができれば。

莫大な財産も、強大な権力も、すべてマリアのものになります。 そして、姉のエルサを目の前で捨てさせ、絶望のどん底に叩き落とすこともできるのです。

「……素晴らしいわ」

マリアは震える手で小瓶を受け取りました。 冷たいガラスの感触。 その奥に潜む、甘く危険な誘惑。

「ただし、ご注意を」

男が声を低くしました。

「効果が強力すぎるあまり、副作用もございます。相手の魔力が強ければ強いほど、理性が飛んだ時の反動も大きい。最悪の場合……暴走して、周囲を破壊し尽くすかもしれません」

「あら、そんなのどうでもいいわ」

マリアはケラケラと笑いました。

「私さえ愛してくれれば、周りがどうなろうと知ったことじゃないもの。壊れたら壊れたで、また新しいのを買えばいいわ」

彼女の瞳には、狂気の色が宿っていました。 もはや、正常な判断能力は失われています。 あるのは、姉への嫉妬と、自分だけが特別でありたいという肥大化した自己愛だけ。

「それに、もし暴走したら……それはそれで見ものじゃない? 『やっぱりあの男は化け物だった』って、みんなが納得するわ。そうしたら、私が『可哀想な被害者』として同情を集められるし」

「ヒヒッ……さすがお嬢様。悪魔も裸足で逃げ出しそうだ」

男は満足げに笑い、報酬の金貨袋を受け取ると、影のように消え去りました。

部屋に残されたマリアは、小瓶を胸に抱きしめ、恍惚とした表情で天井を見上げました。

「待っていてね、お姉様。明日の夜会は、私のためのステージよ。貴女には、せいぜい『引き立て役』として、惨めに這いつくばってもらうから」

彼女の歪んだ笑い声が、没落寸前の屋敷に虚しく響き渡りました。

                  ◇

夜会当日の朝。 私は、小鳥のさえずりではなく、ジークハルト様の熱い抱擁で目を覚ましました。

「……おはよう、エルサ」

「……んぅ、おはようございます、旦那様。苦しいです……」

朝から全開の溺愛モードです。 彼は昨夜、遅くまで王城での根回しをしていたはずなのに、疲れも見せず爽やかな笑顔(ただし目は本気)で私を見つめています。

「いよいよ今日だな」

彼は私の髪を梳きながら、真剣な眼差しになりました。

「昨日の挨拶回りで、大体の敵味方は判別できた。……やはり、伯爵家と繋がりのある派閥が、何か仕掛けてくる気配がある」

「そうですか……」

「だが、心配するな。俺がすべて弾き返す。お前はただ、俺の隣で笑っていてくれればいい」

「はい。……でも、旦那様」

私は彼の方を向き、その頬に手を添えました。

「守られるだけなのは嫌です。私も、貴方様の妻として、一緒に戦います。私の『武器』で」

「お前の武器?」

「ええ。このドレスと、貴方様が愛してくれたこの笑顔です」

私がニッコリと笑うと、ジークハルト様は一瞬動きを止め、それから愛おしさに耐えきれないように私を抱きしめました。

「……ああ、本当に。お前には敵わないな」

                  ◇

夕刻。 身支度の時間になりました。

数人の侍女たちが、恭しく「星屑のドレス」を運んできます。 深い夜の色をしたそのドレスは、部屋の灯りを受けてキラキラと輝き、まるで宇宙そのものを切り取ってきたかのようでした。

「さあ、奥様。最高に美しく仕上げさせていただきます」

侍女たちの手によって、私は生まれ変わっていきました。 髪は複雑に編み込まれ、ダイヤモンドの髪飾りが散りばめられます。 肌には真珠の粉を混ぜたパウダーがはたかれ、陶器のような光沢を帯びます。 そして、最後にドレスに袖を通すと……。

鏡の中にいたのは、私ではありませんでした。 かつて「地味」「灰色の娘」と呼ばれた少女の面影はどこにもありません。 そこに立っていたのは、夜の女神のような気品と、内側から溢れ出る自信を纏った、一人の女性でした。

「……これが、私?」

「はい、奥様。世界で一番お美しいです」

侍女たちが涙ぐみながら拍手をしてくれました。

そこへ、準備を終えたジークハルト様が入ってきました。 彼は、漆黒の礼服に身を包み、肩には辺境伯家の証である黒いマントを羽織っています。 顔には、装飾の施された儀礼用の仮面。 その姿は、恐ろしいというよりは、神秘的で厳格な美しさを湛えていました。

彼は私を見た瞬間、入り口で立ち尽くしました。

「……」

「旦那様? あの、似合いませんか?」

私が不安になって尋ねると、彼はハッとして、ゆっくりと近づいてきました。

「……言葉が出ないというのは、こういうことを言うのだな」

彼は私の前に跪き、ドレスの裾に恭しく口づけをしました。

「美しい。俺の想像を遥かに超えている。……これでは、会場中の男がお前に恋をしてしまうだろう。やはり、俺だけの檻に閉じ込めておきたい気分だ」

「もう、またそんなことを。私が恋をしているのは、貴方様だけですよ」

「知っている。だが、不安になるほど綺麗なんだ」

彼は立ち上がり、私の手を取りました。

「行こう、エルサ。俺たちの戦場へ」

                  ◇

王城の大広間は、すでに数百人の貴族たちで埋め尽くされていました。 シャンデリアの輝き、グラスが触れ合う音、楽団の奏でるワルツ。 むせ返るような熱気と香水の匂い。

しかし、入り口の衛兵が高らかに告げた瞬間、その喧騒が一瞬にして静まり返りました。

「北の守護者、ジークハルト辺境伯閣下! ならびに、辺境伯夫人、エルサ様ご入場!」

重厚な扉が、ギギギ……と音を立てて開きます。

すべての視線が、私たちに注がれました。 好奇心、恐怖、嘲笑、嫉妬。 様々な感情がないまぜになった視線の槍。

しかし、私たちは怯みませんでした。 ジークハルト様は私の腰に手を回し、堂々と胸を張って歩き出しました。 私も背筋を伸ばし、彼の隣を歩きます。

ザッ、ザッ、ザッ。

私たちの足音が、静寂に包まれた広間に響きます。

「あれが……ジークハルト辺境伯?」 「なんと禍々しいオーラだ……やはり仮面をつけている」 「でも、見ろよ。隣の女性を」 「なんて……美しいんだ」

ざわめきが、波紋のように広がっていきました。 最初はジークハルト様の異形さに向けられていた視線が、次第に私へと、そして二人の間に流れる「圧倒的な空気感」へと移っていきます。

私の星屑のドレスが、シャンデリアの光を反射して煌めきました。 ジークハルト様の漆黒のマントが、闇のようにそれを引き立てます。 光と闇。 対照的でありながら、完全に調和した二人の姿は、見る者を圧倒する迫力を持っていました。

「ふん。雑魚どもが」

ジークハルト様が、私にだけ聞こえる声で囁きました。 仮面の奥の瞳は、周囲の有象無象など意に介していません。

私たちは広間の中央まで進み、そこで足を止めました。 そこは、ダンスホールの中心であり、今夜の主役が立つべき場所。

すると、人垣が割れ、向こう側から数人の人物が近づいてきました。

派手なピンク色のドレスを着た、金髪の少女。 そして、その両脇を固める、高慢そうな中年夫婦。

マリアと、父、義母でした。

マリアの目は、私を見た瞬間、驚愕に見開かれました。 そして次に、どす黒い嫉妬の炎が燃え上がりました。

「……エルサ」

彼女の唇が動きました。 声には出していませんが、その形ははっきりと読み取れました。

『死ねばいいのに』

彼女の手には、扇子が握られていました。 しかし、その扇子の影に、小さなガラスの小瓶が隠されていることを、私はまだ知りませんでした。

「ごきげんよう、お姉様」

マリアが、作り笑顔を張り付けて近づいてきました。 その声は甘ったるく、毒を含んでいます。

「まさか、本当にいらっしゃるとは思いませんでしたわ。てっきり、北の寒さで凍えて、見るも無残な姿になっているかと思いましたのに」

周囲の貴族たちが、息を呑んで見守ります。 身代わり婚の噂は、すでに周知の事実。 捨てられた姉と、奪った妹の対決。 これ以上の見世物はありません。

私は、マリアの挑発を柳のように受け流しました。 そして、優雅に扇を開き、口元を隠して微笑みました。

「ええ、ごきげんよう、マリア。心配してくれてありがとう。でも、見ての通り、私はとても幸せよ。だって、こんなに素敵な旦那様に愛されていますもの」

私はジークハルト様の腕に、ギュッとしがみつきました。 それだけで、ジークハルト様から「愛の波動」が放出され、周囲の空気が甘く震えます。

マリアの笑顔が引きつりました。

「……ふん。仮面をつけた化け物のどこがいいのやら。強がりもいい加減になさったら?」

「化け物ではありません。私の最愛の人です」

きっぱりと言い放つ私に、マリアの額に青筋が浮かびました。 彼女の指が、隠し持った小瓶の蓋にかかります。

いよいよ、開戦の合図です。 この夜会は、ただのダンスパーティーでは終わりそうにありません。

ジークハルト様が、私の肩を抱く手に力を込めました。 『いつでもやれるぞ』という合図です。

さあ、マリア。 あなたの浅はかな悪意が勝つか。 私たちの愛の絆が勝つか。 勝負の時は、今です。
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