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第五章その6 ~やっと平和になったのに!~ 不穏分子・自由の翼編

夏木の回想2

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 夏木は彼女との日々を思い出してみる。

 鳴瀬少尉達が避難区をめぐり、人々を助けて回っていた頃。

 岩凪監察官はこちらに命じて『あきしま』を動かし、彼らの戦いを海からこっそり見守っていたのだ。

 艦橋ブリッジの椅子に腰掛け、彼女は何度も念押ししてきた。

「よいか夏木。くれぐれも鶴達には、私が船でついて行ってる事は言うなよ?」

「ど、どうしてでしょう? 支援の有無を伝えた方が、緊急時の連携がスムーズなのでは……」

「親とはそういうものだからだ……あっ、いやその、子を産んだ事の無い私が言うのもアレだがな」

 彼女は珍しく焦ったように、気まずそうに腕組みした。

「そ、想像ではあるが、親は何でもかんでも口出しない……と思う。子の自立を影から見守り、しゃしゃり出て手柄を奪ったりしない……のだろう? あの子達が自信を付けて、成長すればそれでいい……はずだ」

 彼女は自分を納得させるように、何度もうんうん頷いた。

「もちろん自信が過信となり、人の痛みが分からぬ程に増長すれば、その時は叱りに行くがな」

「人の痛みですか」

 夏木はそこで、祖母の言葉を思い出した。

 いつもにこにこして小言こごとも言わなかった祖母は、夏木によくこう言っていたのだ。

『信吾、1つだけ約束してな。人の痛みが分かるようにおなり』

 皺だらけの硬い手で夏木の頭を撫で、祖母は笑った。

『うちの家訓。それが出来たらどうとでもなる』

 成長した夏木は、良く言えば古風、悪く言えばバカ正直であり、うまく世の中に馴染めなかった。

 人がしいたげられているのを真っ向から止めて、結果的に何度も痛い目に遭った。信じた相手に陰で嘲笑われた事も、1度や2度ではきかない。

 それでも人の役に立ちたい、誰かを守る仕事に就きたい、という思いを抱き、防衛大学に入った。

 だがその学びの最中、あの混乱が起きたのだ。

 家ほどもある巨大な活動死体ゾンビが街を破壊し、どんどん人々を喰い殺していく。

 若者達が苦しんでいるのに、こちらに迎撃命令すら出さない上層部に、何度も歯がゆい思いをしてきた。

 ……そんな時、ふと疑問が頭をもたげたのだ。

『人の痛みが分からない奴らの方が、大手を振ってこの世を謳歌おうかしている』

『相手の事を考えない方が、本当は楽なのではないか?』

 いっそ鬼や修羅になってしまえば、この世は生き易いのかもしれない。

 そんなふうに思う事はあったが、だからといって実行出来る程、夏木は器用にも冷徹にもなれなかったのだ。



「……ふむ」

 目の前に座る岩凪監察官は、少し面白そうに笑みを浮かべた。

「祖母殿との約束か。なかなか殊勝しゅしょうではないか」

「ええっ!?」

 夏木はさすがに驚いた。

「じ、自分は今、口に出しておりましたか?」

「いや、思い出が見えたのでな。悪くない家訓だと思う」

「み、見えましたか……読唇術か何かですかね……?」

 夏木は若干引き気味に納得したが、そこで彼女の言葉が引っかかった。

「悪くない家訓……ですか?」

「そうだ」

「どうしてそう思われますか」

「それが破滅を避けるまじないだからだ」

 彼女は頬杖をついて答える。

「目先の事だけであれば、人の痛みを気にせぬ方が強い。だがいかな成功を手にしようと、人を虐げ、恨まれれば恐ろしい最後を迎えるだろう。その報いがこの世で来るのか、子孫に来るのか、あの世でまとめて来るのかは別としてな」

 あの世の存在を信じている、意外とロマンチックな岩凪監察官だったが、ともかく彼女は話を続ける。

「お前がこの先どのような道を歩むかは知らぬ。けれどどう進もうとも、不要な恨みを集めれば、そこには破滅が待っているし、幸せとは程遠い未来となるだろう」

「………………」

 夏木はしばらく考えていたが、やがて顔を上げて尋ねた。

「……し、失礼を……承知の上なのですが。岩凪監察官の思う幸せとは、どのようなものでしょう」

「わっ、私かっ!? 私の幸せだと!?」

 彼女は驚いたような顔をした。

 先程までの余裕は消え失せ、急激にそわそわしている。

「ええいっ、私の話はよせっ! トラウマには事欠かぬのでなっ」

「し、失礼しましたっ!」

 夏木が敬礼すると、彼女は自嘲するように微笑んだ。

「……ま、まあ他ならぬ私だからな。望んでもうまくいかんし、あまり多くは望まぬさ。この国から化け物どもを追い払い、皆が平和に暮らせるようになったら、静かに酒でも飲んで暮らそう。私はそれで十分だ」

「そう……ですか」

 夏木はその時の彼女の顔が忘れられなかった。

 微笑んでいるのに、どこか寂しそうで。長い長い年月を生き、沢山の経験をしてきたような表情だった。

 まだ20代の後半ぐらいだろうし、生身の女性にそんな顔が出来るのだろうか?

 考えれば考える程、この奇妙な上官の事が気になってきた。

 なぜこの人は、こうも人々のために身を尽くせるのだろう。

 まるでそれが使命だと言わんばかりに、当然のように公平フェアな目で世の中を見つめ、時に優しく、時に厳しい決断を下す。

 夏木は自らの胸に、不思議な感情が芽生えるのを感じた。
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