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第五章その10 ~何としても私が!~ 岩凪姫の死闘編

あなたが好きです…!

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 岩凪姫は、1人闇の中に歩を進めた。

 避難所の外に出て、人気の無い所までなんとか歩く。

 しばし後ろの気配を探っていたが、黒鷹や鳳が追いかけてくる様子もない。

「…………ぐっ……!」

 急激に力が抜けて、耐え切れずしゃがみ込んでしまった。

(……仕方ない。ここに来るまで、随分力を使ったからな)

 体のあちこちに痛みを感じる。かなりの邪気を浴び続け、霊力を消耗してしまっていたのだ。

(このような姿、黒鷹達には見せられぬ。見せれば必ず心配し、一緒に行こうとするからな)

 だが彼女がそこまで考えた時、唐突に闇の中から声がかかった。

「……えっ!? 岩凪さんですか!?」

「っっっ!!!???」

 思わず飛び上がりそうになった。

 顔を上げると、白い将校服をまとった凛々しい青年が。つまりは夏木が駆け寄ってきたのだ。

「なっ、夏木!? どうしてここへ……」

 岩凪姫はうろたえる。

 体が一気に熱くなって、疲れの事も忘れてしまった。鏡を出すまでも無い、きっと真っ赤になっているだろう。

「成り行きです。部隊と一緒に移動していて」

 言いながらしゃがみ込むと、夏木は手を差し出した。

「それより早く救護班に。具合が悪いんですよね?」

「い、いや、構わぬ。私は子供を連れ戻しに行く」

 岩凪姫は首を振ると、無理やりに身を起こした。

「子供を……まさかお1人でですか!?」

 夏木は目を丸くして驚いた。

「無茶だ、そんなフラフラなのに!」

「無茶でもいい。元より逃げれぬ立場なのだ。幼子1人助けられねば、ととさまにも妹にも笑われよう」

「笑うわけないでしょう!?」

 一歩踏み出す岩凪姫の進路に、夏木は立ち塞がった。

「だったら……だったら僕が行きますっ! あなたはここで休んで下さい!」

「なっ……!?」

 岩凪姫は絶句した。眼前の青年を見つめるが、彼の瞳は真剣だった。

 真っ直ぐなその目にうろたえ、思わず視線を逸らせながらも、何とか女神は口を開いた。

「……なっ、ならぬ! バカな事を申すな、お前では無理なのだ……!」

「無理でも構いません! 仲間が大勢逝ったんだ。命を捨てる覚悟ぐらい、とっくの昔に出来てます」

「ええいっ、ならぬと言っておろうがっ!!」

 強引に行き過ぎようとする女神だったが、不意に後ろから手を掴まれた。

「……っ!!?」

 恐る恐る振り返ると、夏木は前のめりに手をさしのべ、こちらの左手を掴んでいる。

 白い手袋をはめた彼の手から、真っ直ぐな心の波動が流れ込んできた。

(だ、だめだっ、やめろ……そんな思念おもいを流すな……!)

 顔が熱い。無いはずの鼓動がはやるかのようだ。

 燃えるような目で見つめられ、最早どうしていいか分からなくなる。

 岩凪姫はそれでも何とか首を振った。

「……や、やめろっ、何故そこまで私に構うのだ……私などに命を使うな……! 私などどうなってもいいのだっ!」

「嫌だっ、あなたを守ると決めたんです! あなたが僕を嫌いでもいい、僕はあなたを守りたい! そう決めたんです!」

「か、勝手な事を……」

 そう呟く唇が震えた。

 声が上擦うわずり、自分でも驚くほどに戸惑ってしまう。

 だめだ、これ以上はもう駄目だ。

 これ以上この男と話せば、私の勇気が消えてしまう。

 折角覚悟を決めたのに、弱く泣き虫な自分が顔を出してしまうかもしれない。

 そうなる前に、なんとかこの場を離れなければ……!

「ええい、放せっ!」

 手を振り払い、ずかずかと歩みを進める。

 夏木は諦めず、走って前に回り込んだ。

 そのまま通せんぼをするように両手を広げた。

「どけと言っておろうがっ!!!」

「嫌だっっっ!!!!!」

 岩凪姫の怒声に、夏木も負けずに叫び返した。

「あなた1人が不幸になってどうするんですか! それで鶴ちゃんや、鳴瀬少尉が喜ぶんですか!?」

 頭上を覆う暗雲のせいだろうか、いつしか雨が降り始めていた。

 雨粒が少しずつ大地を叩き……やがて見る間に激しくなった。

「僕はずっと見てきた。あなたは世のため人のために、ずっと頑張ってきたじゃないですか! だから、どうなってもいいなんて言わないで下さい!」

 白い帽子から、そして将校服から水を滴らせながら、夏木は懸命に訴えかける。

「僕は知ってます、あなたは素敵な人だって! 例え世界中の人があなたを笑っても、僕だけは笑いません!」

 自らの胸に手を当て、夏木は声を限りに叫んだ。

「僕は、あなたに幸せになって欲しいんです! だってあなたが……あなたが好きだからっ!!!」

「……………………っ!!!!!」

 その言葉を聞いた時、岩凪姫はびくりと震えた。

 肉の体でないはずなのに、胸の辺りが脈打つように感じられた。

 心臓ではなく魂が……神としての霊魂そのものが震えているのだ。

 枯れ果てていた川に、再び水が流れ込むように……ひび割れてささくれだっていた己の心に、暖かな何かが流れ込んできていた。

『あなたが好き』

 ただそれだけの言葉を、心の中で何度も反芻はんすうした。

 何1つ飾らず、魂の全てをぶつけるような全力の言霊ことだまだった。

 もう一度、岩凪姫は夏木を見つめる。

 彼の身から発せられる思念の波動は、ただただ清らかなものだった。

 嘘偽りない、一点の曇りもなく相手を思いやる強い愛情が、じんじんと痛いぐらい伝わってくる。

(嬉しい……そうだ……多分、私は嬉しいのだ……)

 そう素直に感じられた。

 神として相応しくない感情かもしれない。それでも確かに嬉しかった。

 誰かに認められ、慕われるという事が、これほどまでに感慨深い事だなんて……何千年も知らずにいたのだ。

(私は……どうしたらいいのだろう……?)

 夢心地のような感覚の中、岩凪姫は考えた。

 このままこの思いに浸ればいいのだろうか。それとも断ち切るべきなのだろうか。

 どうしていいか分からない。

 …………だが甘い思索は唐突に終わりを告げた。

 どこか遠い場所にて、新たな爆発が起こったのだ。
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