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~プロローグ~ いざ、本州上陸

能登半島に退避せよ

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(あとちょっと……あとちょっとだけ頑張って、あたしの体……!!!)

 ともすれば遠退きそうになる意識を保つべく、嵐山紅葉あらしやまもみじはぎゅっと腕に爪を立てた。

 ……痛い。とてつもなく痛い。

 我ながら原始的な行動だったが、おかげで意識がこの世にしがみつけている。

(……よしっ、まだ痛い。だったら生きてる、いけるじゃん?)

 嵐山は意味不明の理屈で納得し、ぐっと拳を握った。


 彼女がいる場所は、日本海に浮かぶ第4船団の旗艦『出雲いずも』。その戦闘発令所である。

 正面の巨大モニターに映された地図上には、日本海沿岸を北上し、能登半島のとはんとうの避難区を目指す被災者達の位置が表示されていた。

 彼らを狙う『餓霊がりょう』……つまり、人喰いの巨大な活動死体ゾンビどもの追撃は苛烈かれつである。

 自軍は勇敢に戦っていたが、敵は次々内陸から押し寄せ、海沿いの道路を寸断しながら被災者達を追い詰めていた。

 餓霊が吐き出す特殊な霧、いわゆる通信妨害ジャミング粒子がレーダーを撹乱かくらんするので、敵の陣容じんよう皆目かいもく見当がつかない。

 霧の中から突然相手が襲ってくるため、どうしても人間側こちらの対処が後手後手になるのだ。

(このままじゃ、また大勢の人が犠牲になってしまう……!)

 気ばかり焦り、椅子から立ち上がる嵐山だったが、体はまるで言う事を聞かないじゃじゃ馬だった。

 視界はぐらぐらと揺れ、足は他人のそれのように不確かである。

 無理に力んで耐えてみるも、のどに鉄サビの匂いが込み上げて来た。

「…………っ!」

 耐え切れず背を曲げると、ハンカチで口元を覆い、小さくむせた。

 吐血を隠すようにくしゃくしゃとハンカチを握ると、左手の甲にある青い細胞片が目に入る。

 かつて人型重機の操縦者パイロットだった頃、移植した初期型プロトタイプの『逆鱗げきりん細胞』……すなわち、機体の人工筋肉との神経接続リンクに用いる生体細胞型バイオセル通信端末リンクシステムは、今はだいぶ色がくすみ、ひび割れてしまっていた。

 もう再び機体に乗る事も無いし、逆鱗この子も役目を終えているのだ。

 磨き抜かれたテーブルに映る顔は、28歳にしては随分と険しい。

 飾り気にとぼしいショートカットの髪、いかにも強気そうな目元。バレー部と間違われたほど、頑丈で背の高い体。

 京女きょうおんなと自称するのもおこがましいし、誰かさんが別れ際に、凶暴女と呼んだ通りだ。

 戦いの世界に身を置いて、もう10年の月日が経った。

 色んなものを諦めて、死に物狂いで駆け抜けて。もうすぐ終わりの時が来る。

 だからせめて、何かを未来に残したいし、出来ればそれは希望でありたい……!

 気合を入れ、長身の背筋を伸ばす嵐山だったが、横手の若年兵がささやいてきた。

「……あの、船団長。口元に、少し……」

「……っ! ありがとね」

 嵐山は急いでハンカチで口をぬぐい、兵は再び自分の作業に没頭している。

 指揮所には、他にも大勢の歳若い兵員がいた。誰もが皆、優しくて勇敢な子達である。

 よく『今時の若者は』なんて言うが、嵐山からすればとんでもない話だ。

 確かに経験は足りないかもしれない。思慮しりょもまだ浅いかも知れない。

 それでも彼らの心根は、始めは必ず無垢むくである。

 もし彼らが濁ってしまったなら、それは先人達の責任。つまり自分達大人が、正しい背中を見せていないだけなのだ。

(弱気になるな、この子達を守らなきゃ。まだやれる、まだ生きてるじゃん……!)

 周囲の人目が無かったら、自分の頬を引っぱたいていただろう。

 名前通り紅葉型の手形がつけば、閻魔大王えんまだいおうもこちらの名を呼びやすいだろうし。

(そうだ、今更何をへこたれてんのよ。あの日『始まりの2人』に志願した時から、こうなる事は覚悟してたでしょ……!)

 必死に自らを鼓舞こぶする嵐山だったが、状況は悪化の一途を辿っている。

 やがて発令所に、悲痛な叫びが響き渡った。

千里浜ちりはま一帯を北上中の第16班から24班、餓霊の突出により前進出来ず! 完全に進路を塞がれています!」

「後方からも多数の敵が接近中、このままでは全滅です!」

 嵐山は歯噛みしたが、素早く配下に指示を送る。

「すぐに救援を! 羽咋はくい七尾ななお防衛ラインの守備隊からも戦力を回して!」

「りょ、了解! しかし、既に防衛線付近にも餓霊が多数接近しています。突破には相当の時間を要するかと……」

「…………で、出来るだけ、対処……!」

 嵐山はなんとかそう答えた。

 千里浜を逃げる被災者達と守備隊は、長くは持ちこたえられないだろう。

 避難区から救援部隊を出そうにも、敵の別働隊がそれを許さない。

(これじゃもう、どうやっても……)

 さしもの嵐山も絶望が胸をよぎるが、その時。不意に通信兵が声を上げた。

「あっ、嵐山船団長っ、申し上げますっ!」

 彼は興奮した様子で振り返り、嵐山の方を見る。

「だ、第5船団からの増援、来ましたっ!」

 嵐山は弾けるようにテーブルに手をかけ、彼の方に身を乗り出す。

「本当に!? 予想より早いわね。詳細は?」

「先行するのは1機です」

「1機?」

 嵐山は目を丸くする。

「はい。1機ですが、その……」

 青年は興奮したように目を輝かせた。

「とびきりの1機でありますっ!!!」

「あっ……!!!」

 次の瞬間、メインモニターに映された機体に、嵐山は目を見開いた。

 曇天どんてんを駆け抜ける勇姿は、鎧姿の騎士のようだ。

 全身を白い装甲に覆われ、関節からのぞく人工筋肉は、青い光を帯びて輝いている。

 それはかつて嵐山と共に日本中を駆け巡り、人々を守ってきた伝説の人型重機『心神しんしん』だったのだ。

 懐かしき白い機体は翼を光らせ、全速力で向かってくる。
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