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青居月祈

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七夕徒然

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 それは涼しい夏の昼下がりのことだった。五つ年が離れた義弟に、珍しく夏祭りに誘われたのだ。
「二宮で夏祭りやってんだって。行かない?」
 いつもなら元気よく扉を蹴破るかと思うくらいに勢いのいい義弟は、そんなふうに大人しくて、体調でも悪いのかと雪彦は心配した。けれど当の本人は「へいき」と言うだけで、その後はなにも語ろうとはしなかった。
 雪彦は祭りをあまり経験したことがない。あるとしたら、希に見るセクシャルマイノリティのパレードくらいだ。雪彦は性別の正しい知識は持っているが、意識はそれに伴っていない。華やぐ顔立ちをしていることもあって、祭りなるものに出掛ければ一定の男女に声を掛けられるせいで、楽しむどころではなくなってしまうのだ。
 浴衣を着て玄関で彼を待つ。濃い灰色の羽織に紅矢絣の浴衣は、三年前に恋人に誂えてもらったもので雪彦も気にいっていた。数分待っていれば、紺の露芝柄の浴衣を着た義弟が姿を現した。着慣れていないのが目に見えていて、襟が曲がっていたり帯が緩んでいたりする。手早く直してやると「あんがと」と彼は素直に礼を言った。
 この義弟は、名前を嵐志あらしという。今年で十七になり、その名の通り暴風みたいな少年だ。元来からとてつもなく足が速くて、現在は県立高校の陸上部に所属している。
 祭りと聞けば屋台を全て制覇するくらいがデフォルメの彼だが、それにしても本日はアンニュイが過ぎる。先ほど暴風と形容したのが、間違いみたいに聞こえるかもしれない。いつもはそうなのだ。ただ今日が違うだけ。
 雪彦は五年前から、ある事情で一之瀬家で暮らし始めた。本来の姓は「影崎」だ。雪彦にとっては恋人の生家であり、新しい家であり、新しい家族だ。この義弟と暮らし始めてまだ五年。それ以前の彼を知らないし、気にもしない。義弟も多くは語らない。小学生の時の無邪気さは残っているものの、話していいこととそうでないことの区別もきちんとわきまえていた。
 からころと音を立てながら歩いていると、よく近所の人に声を掛けられる。都心からも田舎からもちょうどいい具合の位置にある住宅街に一之瀬家はある。そこは良くも悪くも近所づきあいが多く、五年前に突如として現れた雪彦もすっかり馴染んでいた。それに、一之瀬家の四兄妹、といったらこの地域では有名だ。その三番目である嵐志を知らない者はいない。雪彦は愛想よく返事をしながら、義弟と共に駅に向かった。
 まだ日も暮れてないというのに、電車が二宮駅に近づく度に人が多く乗り込んでくる。年齢はそれぞれ。でも浴衣で晴れやかに粧し込んだ女性が多い。戸口に嵐志と向かい合って立っていると、やけに視線がうるさく感じられた。
「友だちと来なくてよかったの?」
「いいの」
 問えばぶっきらぼうに答えが返ってくる。これは喧嘩でもしたのかもしれない。嵐志はその素直さから、よく友人と仲違いを起こす。間違いを間違いだとぶつけることができるのだ。それが自分より年上であろうとも。
 嵐志が中学の時には、こんなこともあった。嵐志のクラスメイトが野良猫を保護した。しかしその生徒は避妊の処置もせず、次々と子どもを産み増やし、とうとう多頭飼育崩壊を起こしてしまった。しかもあろうことか、その生徒は増えた猫や生まれたばかりの子猫を保健所に引き渡してしまった。そのやりとりの一部始終を、嵐志は目撃してしまったのだ。その時の嵐志の荒れ様は酷かった。相手に馬乗りになって正面から何度も何度も殴りつけていた。「責任とれないなら最初から拾うな!」とものすごい剣幕で、雪彦が止めなければ、危うく傷害事件で訴えられるところだった。
 扉にもたれかかる嵐志は、なにやらじっと窓の外を眺めていた。なにも話さないなら、こちらから無理に聞くこともない。話したいときに話せばいい。懐から扇子を出し、首筋に風を送りながら雪彦も窓の外に視線を投げた。
 二宮の駅でどっと人が降りていく流れに乗って、雪彦と嵐志も車両を降りた。はき慣れない下駄によろけて、嵐志が雪彦の袖を掴んだ。大丈夫? 平気。そんなやりとりをしていると、ふつふつとした祭りの高揚感と、むっとした夏の熱気が混ざって妙に肌がべたつく感じがした。
「嵐志くん、お手」
 改札を出てすぐに、雪彦は懐に手を突っ込んだ。急に何事かと訝しげに嵐志が手のひらを出す。その手のひらに、シュッと制汗剤を吹き付けた。炭酸スプレーのパチパチするやつ。夏みかんのすっきりとした香りが咲く。
「うぉっ、つめたっ」
「首とかにつけなね? 嵐志くん、蚊に刺されやすいでしょ。柑橘系は虫除けにもなる」
 自分も手のひらに出して、首筋や鎖骨、足首にも少し付けた。雪彦をまねて、嵐志もぺたぺたと肌に馴染ませる。
「パチパチする」
 そう言った嵐志の表情が、楽しそうに和らいでいた。頬に少し赤みが差している。
「不思議。ラムネみたい」
「いいね。ラムネ、飲もうか」
「飲む」
 駅を出てすぐの出店でラムネを二つ買って、二つとも嵐志に渡す。
「あーけて」
 可愛く首を傾げてみせると嵐志は「いーよ」と器用に片手で瓶を二本持って、いとも簡単に開けてしまった。プシュッ、とガラス玉が押し込まれて、たちまち瓶の中に涼しげな泡が立つ。
「ゆき兄は開けるのヘッタくそだもんな」
「えへへ」
 雪彦がやろうとすると、なにを間違えるのか、どうしても吹きこぼしてしまう。それになかなかガラス玉を押し込むことが出来ない。あれにはコツがいるんだと、恋人が教えてくれた。でも正直開けてもらった方が早いことに気がついて、それ以来、誰かに開けてもらっている。
 ラムネをこぼさないように掲げて、街灯の光にかざしてみる。液体を通して、光が揺れて顔に降りかかってくる。眩しいのに、眩しくない。ゆらゆらと柔く揺れて、そこにガラス玉の屈折がいくつも入って、瓶の中に虹が見えた。
「綺麗。ラムネの瓶って、どうしてこうも綺麗なんだろうね」
「わかんない」
 綺麗で、爽やかで、涼やかで、懐かしくてちょっとばかり切ない香りがする、しゅわしゅわした不思議な飲み物。それを飲むなら夏。そのほかの季節に飲めば、たちまち味や香りが崩れてしまう、儚い液体。清少納言が『枕草子』で「夏は夜。月のころはさらなり、~」と詠っているけれど、そこにラムネを飲むことも追加しておいてほしい。
「最近のラムネはいろんな味があるんだね」
 よく見る定番の碧色に混じって、紅だったり翠だったり、黄金色だったりと、色とりどりの瓶が氷水の中で冷やされていた。水の上から見ると、カラフルなゼリーがソーダの中に落とし込まれているようにも見える。
「紅は苺かな。黄金は檸檬かも。黄金も捨てがたかったな。嵐志くんは碧でよかったの?」
 嵐志は「碧がいいの」と一言だけこぼしてくぴくぴと喉を鳴らしてラムネを飲んでいた。「なんか、」と言いかけて黙ってしまう。続きを待っていると、もういいや、とさっさと歩き出してしまった。言葉が出てこなくて気まずくなったのか、耳が紅くなっていた。
「嵐志くん嵐志くん」
 引き留めると、彼が持っていたラムネの瓶に自分の瓶をカツン、とぶつける。
「乾杯。少し飲んじゃった後だけど」
「あ、忘れてた」と彼も笑った。
「それじゃ、再度」
「乾杯」
 もう一度同じ高さに瓶を持って、カツン、とぶつけた。互いの碧い瓶の中で、ガラス玉がカリン……カリン……と夢の始まりのような音を立てて揺れた。

 射的をやって、ヨーヨー釣りをやって。それだけですっかり疲れてしまう。神社に続く商店街の隅に腰掛けて、扇子でぱたぱたと風を送る。
「ん」
 どこかへ行っていた嵐志が帰ってきて、手にしていたものをずいっと雪彦の目の前に突き出した。ソースと目玉焼きの香ばしい香り。たませんだ。
「ありがとう」
 さくっ、と簡単に割れるたこせんべいを囓ると、中からさらにソースとマヨネーズのいい香りが出てきた。大きなたこせんべいにお好み焼きのソースを塗って、つぶした目玉焼きとマヨネーズを挟んだだけのB級グルメ。簡単に言えばジャンクな味わいの食べ物だ。
 嵐志もどかっと隣に座って、もしゃもしゃともう一つのたませんを囓った。
「うまっ。やっぱり祭りっつったらたませんだろ」
 そう嵐志や他の兄妹は言うのだけれど、調べてみるとここの地域のみの食べ物らしく、全国区ではないらしい。実際、雪彦も三年前に祭りに来て、その存在を知ったばかりだ。
「次、どうする?」
 三口でたませんを食べてしまった嵐志は、辺りをきょろきょろと見回す。まだ雪彦は半分も食べてないというのに。
「金魚掬い」
 嵐志がぽつりと言った。その視線の先に、金魚が入った袋を持った女の子が、父親に手を引かれて嬉しそうに歩いていた。
「やりたい?」
「やりたい」
「いいよ、やろっか」
 ショッピングモールみたいにどこにどの屋台があるのかわからない。それを探すのもまた一興だった。数分もせずに金魚掬いの屋台が見つかった。嵐志がお金を払って、二つのポイ受け取って、そのうちの一つを雪彦に渡した。
「勝負」
「構わないよ。負けたら?」
「なんでも言うこと一つ聞く」
「男に二言は?」
「なしッ」
「受けて立とう」
 その結果、嵐志の器には白い金魚が一匹。雪彦の器には紅い金魚が三匹、黒い金魚が二匹、赤と白の金魚が二匹が入っていた。「なんで……?」自分の手の中で揺れる白い金魚を見ながら、嵐志が呆然と呟く。
「嵐志くんは慎重すぎ。慎重すぎて、ポイが水でふやけちゃったのが敗因」
 ビニール袋に入れてもらうと、嵐志が大事そうに持った。時々、目の前に掲げて金魚の具合が悪くないか、喧嘩してないかを確認していた。
「金魚、大事にしようね」
「うん」
「明日、水槽を買いに行こう。喧嘩しないように、大きめのやつ」
「うん」
 頷いた嵐志は、小学生の時みたいに頬を紅くして嬉しそうに目が潤んでいたみたいに見えた。
「さて、約束だけど……すぐに思いつかないからもう少し考えさせてくれる?」
 嵐志は「いーよ」と言いながら、まだ金魚を見ていた。大きい青年が金魚を嬉しそうに目をきらきらさせて見ているのは、なかなかにおもしろい光景だ。祭りは人を子どもに戻すとは、誰が言ったか。
「あ、りんご飴」
 大きいりんご飴を一つ買って、夕陽にかざしてみる。飴がきらきらと光を散らす。こういうのに胸がわくわくといつもと違う音を立てていた。そうやって懐かしいものを見つけて、心の音を聞いて、少しだけ子どもに戻っていくのを再確認する。あの頃を思い出しては、今と繋がっていることを確かめていく。
 神社に続く石段に座って、りんご飴を交互に二人で囓った。嵐志の一口は大きくて、雪彦の一口の五倍は持っていかれる。そのうち、食の少ない雪彦は半分くらいに残ったりんご飴を嵐志に全部あげた。嵐志は五口で平らげた。
「すごい、あっという間になくなった」
「ゆき兄の一口が小さいからだよ」
 割り箸に付いた飴をまだ舐めている。育ち盛りの高校生は、これくらいではまだ足りないようだ。食べ物の屋台を見かける度に足を止めるものだから、ついつい食べるのに付き合ってしまう。
「すごい、ダイソンの掃除機も顔負けの食欲だ」
「現役高校生なめんな」
「それじゃあこれもあげちゃうね、はい、あーん」
 食べかけのわたあめを口に押し込む。
「あっまい」
「わたあめだもの」
 ふわふわの薄桃色のわたあめは、大きさの割にはすぐに溶けて消えてしまう。甘くて、儚くて、まるで夢みたいな食べ物にまた胸がときめく。
「わたあめって、かわいいよね」
「でもすぐなくなっちまう。腹は膨れねぇ」
 駄菓子の屋台で、金平糖を小さな袋に詰めてもらった。桃色、水色、黄色、翠色。袋の中でざらりと音を立てた。すぐに嵐志に見つかって、もらっていい? とねだられる。
「いいよ。歳の数分だけね」
「じゃあ十七個だ」
「はいはい」
 大きな手のひらに小さな金平糖が十七粒。物足りなく感じたのか、やっぱりもっと、とねだられて倍の数をあげた。
「そういえば今日、七夕だったね」
「そーだね」
「見て、短冊がいっぱい」
 神社の境内に飾ってある笹に、短冊がたくさん吊してある。近くの東屋にはペンと折り紙が置いてあって、願い事を書けるスペースが設けられていた。
「たくさんのお願い事があるね。書いてく?」
 聞くとまた嵐志は拗ねた顔して「いい」と突っぱねるように拒否した。
「ほんとになんでもいいの?」
「ん?」
「お願い」
「いい。男に二言はない」
 そうは言っているものの、悔しいのが顔ににじみ出ていた。口を尖らせて我慢しているのが丸見えでおかしかった。「それじゃ、遠慮なく」と雪彦は呪文を唱えるようにそっと口に出した。
「大樹に会いたい」
 隣を歩く気配がなくなった。振り向いてみると、嵐志はなんとも言えないような表情をして立ちすくんでいた。緑がかった目が大きく見開かれて、雪彦を見ていた。
「うーそ」と笑ってみせる。
「無理」
「嘘だよ?」
「無理」
「だから、」
「今の顔っ」嵐志が泣きそうな声を出した。「…………嘘じゃない」
 どんな顔してたんだろう。頬に手をやって、ぎこちなく口角が下がっているのに気づいた。笑うように努めたのに。そっと息を吐いた。夕陽の茜色の中で緑がかった目が鮮やかに見えた。
「うん、嘘じゃない」
「でも無理」
「無理? さっきなんでもいいって言った」
「大樹兄者は、今イギリスだ」
“大樹”は雪彦の恋人ので、嵐志の六つ上の兄だ。現在英国に留学中。ここ二年、嵐志も雪彦も会えていない。
「今日は、七夕なのに?」
 顔を近づける。
「織姫と彦星の、一年に一度の逢瀬の日なのに?」
 嵐志の目が惑っているのが間近に見える。
「俺は、愛する人に会うことさえも、できないの?」
 嵐志はなにも言わない。眉を寄せて、目を少し潤ませて雪彦を見ている。
 かわいそうなことしたかな。
「ごめんね、今のは意地が悪かった。あんまり気にしないで。これは、神様だって叶えてくれない願いだから」
 嵐志の頭にそっと手を置いた。
「気にするよ」
 嵐志は懐からくしゃくしゃの、紙切れを一枚出した。
「短冊にこんなふうに書かれていたらさ」
 それを見て雪彦は息を詰めた。『大樹に会いたい』そう書かれた薄紅色の短冊が、丁寧に伸ばされている。昼間、家の七夕飾りを作っているときに戯れに書いて、そのまま飾らずに、部屋のゴミ箱に捨てたものだ。
「部屋に入ったの? イケない子」
 今度は雪彦が困った顔をした。
「今は、無理。もう少し、待って。ぜったい、叶えるから」
 その真剣な表情が、知っている人に似ていて、思わず笑みがこぼれた。
「嵐志くんは、大樹に似てるね」
「誤魔化すな」
「ごめん」
「俺が欲しいのは『ごめん』じゃない」
「ありがとう」
 もう一度、嵐志の頭に手を置いた。指切りをして「ぜったい」と約束する。ぜったい。期待しないで待ってるよ。
「行こう」
 嵐志は、うん、とだけ答えた。

 陽が暗くなるにつれて人の数が多くなる。雪彦は嵐志とはぐれないようにゆっくりと歩幅を合わせて歩いた。歩き回って背中がしっとりと濡れてきたのを感じたり、しゃりしゃりと下駄の下で砂利が音を立てるのを心地よく思ったりしながら、神社に続く道を人の流れに乗って歩いた。
「さっきさ、神様も叶えてくれないって言ったよね?」
 嵐志が口を開いた。
「なんで俺なら叶えてくれるって思ったの?」
「さぁ……どうしてだろうね」
 曖昧にして答えると「ちゃんと答えてよ」と腕を引かれた。おっとっと、とバランスを崩すけど、すぐに体勢を立て直す。
「俺にもわかんないんだ。なんとなく、嵐志くんなら叶えてくれるかなって思っただけ」
 これは嘘じゃない。彼ならなんとかしてくれるんじゃないかって。彼はまっすぐで、優しくて、人の願いを無下にできないことを知っている。その優しさに甘えて、付け込んでとも言えることを言ったのだ。少し申し訳なくなった。
「そんなもんか」
 そう嵐志が言うので「そんなもんだよ」と返した。目眩のような蝉の声が消えて、遠くで蜩の声が虚しく聞こえていた。
 鳥居の前でお辞儀をしてから、御手水に立ち寄る。右手、左手、口を濯いで、柄杓の柄から余った水を流す。嵐志はこうした作法を丁寧にこなしてみせた。雪彦と嵐志が作法順に手を洗うのを隣で見ていた小学生くらいの男の子たちが、倣う様子が横目で見えた。
「ほほえましいね」
「そうか?」
「嵐志くんは誰に教わったの?」
「兄者のを見よう見まね」
「そっか」
「ゆき兄は?」
「俺? 俺は弓道の師範から」
 灯籠に明かりがついて、参道が紅く色づき始めた。花火があがるのもあと一時間。刻々と近づいていた。
「花火、見たい?」
「見る」
「じゃ、お参りしてから場所探そう」
 雪彦と嵐志はお参りを済ませてから、来た道を戻り始めた。手を合わせているとき、嵐志はなにを願っていたのだろう。嵐志はなにも聞いてこなかったから、雪彦も聞かなかった。話したかったら、彼から話してくれるだろう。きっと、ぎこちなく。
 そういえば、義弟はここ五年の間にすっかりおしゃべりをやめた。五年の歳月は早くて、変化は大きい。初めて会ったときの小学六年生だった少年はもういない。その代わり思慮深い額をした、背の高い、真剣な眼差しをした男子高校生になっていた。思ったことを率直に言うのは変わっていないけど、その節々に、大人びたなにかが垣間見えていた。
 自分もこうして大人になったのだろうか。成人を迎えた自分は、果たして大人になれているんだろうか。
 花火を見るためか、人の流れが変わった。その流れに乗じて雪彦と嵐志も歩き出した。夏の夜のラピスラズリに見まがうほどのグローなエフェクトに、灯籠のカーネリアンのぼんやりとした明かりが加わって、鮮やかな色彩を描いている。
「足痛くない?」
「へーき」
「痛くなったら言うんだよ。嵐志くんなら抱えられるからね」
「その前にゆき兄が抱えられてるかもよ?」
「あはは、それは情けないから嫌だなぁ」
 情けないと自分では言ったものの、先ほどから右の足が痛い。少し前に人とぶつかったとき足を踏まれたかもしれない。足の甲に血がにじんでいる。人が多くて、嵐志もこれには気づいていない。
 そう思った矢先、ひょいっと腰に手を回された。え、と声を上げるまもなく片手で嵐志に抱えられる。
「こ、こらっ」
「言ってる傍から抱えられてやんの」
「嵐志くんっ、こら、下ろしなさい……おや、これはいい眺め」
 はいはい、ちょっとどいてねー。そんなふうに人をかき分けながらも、嵐志は道行く人に水道の在処を聞き出していた。雪彦を抱えていても、嵐志は生まれ持った身軽さでひょいひょいと人を分けて、人目の付かない場所にある水道のところまでたどり着いた。
「はい、足出してー ちょっと痛いよー」
 ざらざらと最大限に水を出して傷口を洗ってもらう。なんかシンデレラみたいと茶化したら、ゆき兄なら似合うな、と言われた。
「いつ気づいたの?」
「さっき。ゆき兄が足痛くないかって言ったとき。ゆき兄が誰かを心配するときは、その心配が自分に当てはまるときだ」
 すっかり見透かされていて、雪彦は乾いた笑い声しか出せなかった。嵐志が痛くないかと聞いてくる。花火は諦めて帰ろうかと提案すると、彼は不思議そうな目で雪彦を見上げた。
「ゆき兄、花火はいいのか?」
「俺はどっちでも。嵐志くんが見たいのなら付き合うよ」
「帰りたい?」
「嵐志くんは帰りたい?」
 それを聞いた嵐志は「帰りたくない」と唇をすぼめた。それから「ずるい」と言った。
「ゆき兄は俺に聞いて合わせてばっかり。これじゃ俺のわがままに付き合わせてるようなもんじゃんか」
「俺のわがままならさっき言ったとおりだよ」
 嵐志はさらに頬を膨らませる。
「ほんっとうのワガママだな」
「だから、それに見合うだけ俺は嵐志くんに付き合ってるんだよ」
 なんだそれ。紅絹のハンカチで足を包みながら、嵐志は笑った。そういえば、と雪彦はふと思う。嵐志は何故自分を祭りに誘ったのだろう。
「ねぇ、嵐志く――」
 ドンッ
 声は突如起こった華咲く音にかき消された。嵐志と共にそちらを向くと、ちょうど鮮やかな赤色の花が、光を散らして落ちていくところだった。続いていくつもの花火が夜空に咲いて散っていった。心臓に響く重低音の後に、ぱらぱらと粗目を床に零したみたいな音が続く。そのまぶしさに雪彦は目を細めた。
「……星祭りの夜に花火か」嵐志が口を開いた。「これじゃあ、星の光がかき消されちまうな」
「君も風流なことを言うんだね」
「思ったこと言ったまでだ」
 興醒めなふうに言ってるものの、嵐志は花火から目を離さなかった。零れる火の粉が切なげに消えていく様子は、なぜだか夏の終わりを感じさせた。今宵は七月七日。夏はまだ、始まったばかりなのに。
「……人の一生も、こんなふうに一瞬なんだろうな。今は永遠に続くと感じていても、後から考えたらほんとにちっぽけな時間なんだ。一瞬一瞬を楽しく生きたいだけのに、なんだか世界は悲しいことばかりだ」
「ずいぶんと悲観的だ」
「命が目の前で終わっていくからね」
 花火を命に見立てるなんて、彼らしい。新しい見方を彼はごく自然にやってのけ、それを全く否定せず、信じ切っている。
「ずいぶんとあっけないよなぁ。花火だけじゃない。全部終わりが来るらしい。人だけじゃなくて、犬も猫も、花も、星も……気持ちだって。みんな生まれて、生きていて、みんな死んでいく。ただ寿命が違うだけ。気持ちだって、いつか」
「嵐志くん……」
「気持ちの永遠なんて絶対にないのは俺だって知ってる。いつかきっと変わっていく。そんなことないって言うやつもいるけどさ、だったらどうして、一度愛し合った人同士なのにみんな別れるのさ。離婚なんて言葉もあるくらい、この世界は出会いと別ればっかり。生死と同じだ」
 詩人になれると言ったら、馬鹿言うな、と言われた。笑っていたけど笑ってなかった。
 さっきの発言で少し、気づいた。
 嵐志は、普通の子だ。少し運動神経がいい、ただの男の子だ。感情的に動いて、偽りを嫌って、それでも頑張って背伸びをして、手に入れたいものを手を伸ばす。彼は憧れていたのだ。誰に。自分に。その気持ちが、揺れているのだ。
「ゆき兄は、ほんとわかりにくいことばかり言う。でもそれが憧れだったんだ。まっすぐ本心をぶつけてくる大樹兄者じゃなくて、そうやって嘘ついて、はぐらかして、気持ちを隠して、嘘を本当だと思い込ませる。その余裕が、欲しかった」
「その憧れた俺は、幻想だったとでも?」
「そんなことない」嵐志は左右に首を振った。「まだまだ俺の憧れだ」

  §

 花火がまだ上がっているうちに、二人は帰路についた。花火に背を向けて、まだ少ない人通りをてくてくと歩いて駅まで向かう。そっと隣を歩く嵐志の横顔を盗み見る。時折花火の光が背中が明るく照らして、正面の側を一層暗く陰り、その際に顔の輪郭がくっきりと浮き彫りになった。それが美しくて、目が離せなかった。五年前の彼は、もっとやんちゃで悪童で背の低い少年だった。
「……大きくなったなぁ」
「なに?」と訝しげに眉を寄せて嵐志が見上げてくる。花火の音はまだ大きくて、聞かれなかったらしい。
「いや、なんでもないよ」
「またそう言う」
「嵐志くん、大きくなったなって言ったの」
 彼は一瞬だけぽかんとしてから、「ま、まあな!」と照れたのを隠すように大声を出した。
「一之瀬家の男子は、高校生になってから一気にぐんと背が伸びるんだ。大樹兄者だってそうさ。俺もすぐに兄者に追いついてみせるからな。今よりもっとでかくなる。そしたら、ゆき兄も見上げないで真正面で話すことができる」
 そう早口で喋った後、ふと瞼を伏せて口元を緩ませる。口元を手で隠して、雪彦から視線を逸らした。
「でも、なんかおかしいな。ゆき兄にそう言われるの、なんかくすぐったくて、変な気分だ」
 以前、彼は血が繋がらなくても家族になれるとなんの衒いもなく豪語していたことがある。家族だと思えた瞬間から家族なんだと。それでもなんとなくの違和感はあるのだろう。はーぁ、と嵐志は大きなため息をついた。
「俺さぁ、高校生になったらゆき兄みたいになれると思ってたんだ。クールで、涼しそうで、かっこよくて、遠くの遠くまで見通せるみたいで。でも、なんか違った。俺、全然ゆき兄みたいになれない」
 なんとなく嵐志が静かな理由がわかって、ふふっ、と声が漏れた。すべて背伸びだったのだ。憧れを自分のものにしようとした、ほんの少しの大人のふりだったのだ。雪彦はそれに気づかないふりをした。
「………俺みたいにならないでいいよ」
 小声は大きく咲いた花火の音にかき消された。
 冷えたラムネの鮮やかな硝子の色と炭酸の泡が弾けたとして、金魚の絹のような紅の尾ひれが艶めかしく翻ったとして、一瞬一瞬を華やく夏の祭りは簡単に色褪せず、しかし瞬間が過ぎてしまえば、あっという間に切なさを持って花火の彼方に消える。星祭りの逢瀬も一夜限りで忘れ去られるのであれば、なにもかも忘れて、一緒に笑い合えばいい。未来なんていずれ来たるものだから、その時になってから考えればいい。だからその不安は、今は花火の音にかき消してしまおう。
 花火の音が、遠くで大きく終幕を迎えた。
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