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1巻
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あの時――花鶏から茶器を奪って、蘇芳はとりあえず三分の二ほど、薬湯を飲んだ。
毒見役は通常、一口だけで、済んだ後は器を新しいものと交換する。諸々の作法を無視して、蘇芳は自分が飲んだ杯をそのまま花鶏に差し出した。
「さ、殿下。問題ないようです」
花鶏が隔離幽閉されていて宮廷作法に明るくないのが幸いした。
身辺警護もなく、使用人も最低限の人数で、その者たちも花鶏に対する関心が薄い。これも蘇芳には好都合だった。
花鶏は有無を言わさぬ蘇芳に押し負けたように、残り僅かになった薬湯を飲み干し、それを見届けた蘇芳は今度こそ江雪邸を辞したのだった。
当面はこの手でいくことに決めた。しのげるところまでは毒の摂取を減らして、花鶏の健康状態を改善することが喫緊の課題だ。
「と、いうわけだ。とりあえず上手くいったが、ここからが正念場というやつだ。お前も協力してくれ」
言いつつ視線を向けた先には、先ほど吐いていた蘇芳よりもなお顔色を悪くした早蕨が、呆然と佇んでいた。
「……蘇芳様、もう一度お訊ねしますが……ああいや、ちょっと待ってください」
早蕨が目元を覆う。いつも冷静な彼にしては珍しく、相当混乱している様子だった。
言われた通り、蘇芳は早蕨が落ち着くのをしばらく待った。
「大丈夫か? 少しは落ち着いたか?」
「……尋常でない様子に何事かと思って駆け付けてみれば、本当に毒に当たりでもしたように苦しんでおられるから肝が冷えました。……まさかそんな理由だったなんて」
早蕨は理解に苦しむ、とでも言いたげな様子で頭を振った。
「蘇芳様がおっしゃったことは、私の胸の中にしまっておきます。ですからどうか、絶対に他所で口になさらないでください。……不敬罪どころではありませんよ」
「もちろんだ。不敬罪どころか、これは皇族に対する立派な反逆罪だぞ」
「証拠がないではありませんか」
「花柳草のことか。あれは江雪様が調合したものを私が屋敷で受け取っているから、家探しをすればどこかに備蓄があるかもしれない」
「絶対におやめください! 江雪様の耳に入れば、いくら蘇芳様でもただでは済みません」
「そうだな。しばらくは穏便に出方を窺わなくては。殿下と引き離されたら元も子もない」
「……あれだけ虐めておいて、失礼ですが、どういう風の吹き回しですか?」
「それだ。うん、それでいこう。最初から殿下に辛く当たっていたのだから、これからも江雪様に疑われないよう、表向きはこのままでいるのが最善だ。裏ではなんとかして殿下の信頼を得て、なるべく早く屋敷からお救いしたい」
早蕨はもはや話についてこられない様子だった。
「一応お聞きしますが、お救いしたとしてもどこに匿う気ですか? 殿下の処遇を江雪様に委ねたのは主上ですよ? 他に行くあてなどない。まさかここに連れてくるおつもりですか?」
「それも最初は考えたが、何かあった時にここでは護衛もいないし、何より今の殿下が私を頼るとは思えない。物凄く嫌われているからな」
「……自信満々に言うことではないと思いますが」
「なので取り急ぎ」
長椅子の上で身を起こすと、ちょいちょいと早蕨を手招く。そのまま内緒話をするように顔を寄せた。
「殿下には学舎に入っていただこうと思う」
「学舎、ですか」
蘇芳はにっこり笑って、そうだと頷いた。
「だからお前にも、これから色々と手伝ってほしい」
早蕨を計画に巻き込むことは早い段階から決めていた。
というのも、あれは確か黒南風というキャラクターのルートだったと思うが、早蕨が花鶏に対して同情的だったシーンがあるのだ。
彼は蘇芳の支配下から抜けた後、国試を受けて官吏となった。そして、かつての主人とその裏で糸を引いていた黒幕の存在を自分なりに追ううちに真相にたどり着き、それを主人公たちに伝えたのだ。このルートではそれを契機に、江雪一派が捕えられ、暗殺された雨月皇子に代わり黒南風が即位し、主人公は皇妃となる。
もちろん蘇芳も江雪と一緒に処刑されるのだが、早蕨はこの時、かつての主人に向かってこんなことを言う。
「貴方に虐げられても、貴方しか縋るものがなかった子供に、よくもあんな酷い仕打ちができたものだな」
敵対する花鶏に同情的だったキャラクターは他にいなかったから、メインストーリーではないのに印象に残っていた。それを思い出したこともあって、蘇芳は早蕨を味方に引き込もうと決めていた。
それに、彼は一番近くで蘇芳に仕えてきた従者だ。この先蘇芳が一人で動くには限界があるし、彼と江雪を両方出し抜いて花鶏を救済する自信はなかった。
皇位継承者が学舎に入ると、それは体裁上、〈後嗣の儀〉への参列が許されたことを意味する。
つまり、入学はその皇子が皇帝の跡継ぎ候補であると内外に知らしめる第一歩である、というのが暗黙の了解だった。
学舎入りの条件は、心身共に健康であり、聡明であること。
表向きは何とでも言えるが、実際は生家の持つ権力や様々な利権が絡んで、生まれ順が皇位継承に優位に働くとは限らない。宮中の水面下では各皇子の名のもとに、政権派閥が形成されつつあった。
また、神力は本来、皇室直系の男児のみが操るとされている。イレギュラーとして、秘蹟の巫女はこの限りではない。ヒロインのはつり姫は、いろんな意味で特別な存在なのだ。
神力は皇統に不可欠であり、〈後嗣の儀〉はその有無を判別するための意味もある。
皇子たちの中で、筆頭勢力は、第一皇子の雨月派。
(ま、主人公なんだから妥当だな)
蘇芳は別段、花鶏を皇帝にしたいわけではない。むしろその逆だ。
原作では花鶏が傀儡皇帝になったすぐ後に、蘇芳は処刑されている。
雨月がはつり姫と結ばれ皇帝の座に就いてくれたらそれでいいし、実際ゲーム世界の俎上にいるならそうなるに違いない。
蘇芳にとって花鶏の学舎への入学は、もっと別の意味があった。
「学舎への入学を機に、私は花鶏殿下の指南役として後宮に居を移すつもりだ」
「そんな、滅茶苦茶な」
「何がだ。言っておくが、過去に前例はあったぞ」
「調べたのですか?」
「もちろんだ。本来、十歳前後になると生家の計らいで学舎に入り、後宮にそれぞれの宮を与えられて暮らすものだが、殿下にはそうした後ろ盾がないからな。このままでは江雪様の屋敷で飼い殺しにされているのを黙って見過ごすことになる。後宮もまあ、似たり寄ったりだが。私が専属教師として侍る分、まだましになるだろう」
当面の見通しが立って気分が良くなってきた。ぽんと軽快に膝を叩く。
「江雪様の屋敷から殿下を連れ出せたら大きな前進だ。何しろ毒見の度に吐き戻す手間もなくなるわけだからな」
「そんなに上手くいくでしょうか……。入学には表向き、主上の承認が必要ですが」
そこが問題だった。原作では、花鶏は学舎に入学していないのだ。だから正規ルートを外れた思惑がどのように実を結ぶか、あるいは結ばずに地に落ちて腐るのかまでは分からない。
果たして一度見放した病弱な我が子を、皇帝は学舎という公の場に立たせるだろうか。
いや、それ以前に江雪が計画に水を差してくる可能性だって無きにしも非ずだ。上手くいけば、学舎入学は傀儡政権の第一歩にもなるから、江雪にしても悪い話ではないはずだが。
(とはいえ、江雪にとっては花鶏を洗脳してる途中だもんなあ)
本来、あと数年かけてじっくり花柳草を身体に染み込ませて洗脳する予定が、まだ一年と経っていない。
蘇芳が花鶏の分の薬湯を、毒見と称して半分以上飲み続けることで、毒は徐々に身体から抜けていき、洗脳の効果もだいぶ薄まってくるだろう。
「花鶏殿下にも、お心積もりをしてもらわなくてはな」
「随分嫌われ、いえ敬遠されていたようですが、勝算はあるのですか?」
「敬遠も大して意味が変わらないぞ」
蘇芳はふんと鼻を鳴らすと、唇に指を押し当て考え込んだ。
(でも確かに、早蕨の言う通りかもしれない。……関係を改善するために、俺の方から行動を起こさないと駄目だ。花鶏の心を開いて、俺を信じさせるための方策を考えないと)
第三章 懐柔作戦
なんにせよ、まずは花鶏との接触回数を増やすのが先決だろう。そう思い、さっそく次の日の夕刻、蘇芳は花鶏のいる半地下を訪れた。懲りずにまた現れた蘇芳に、花鶏は表情の乏しい顔に明らかな嫌悪を浮かべた。
(嫌われているというより、もっと深刻だな)
蘇芳に向けられた感情は、有り体に言ってしまえば「忌避」だ。これまでの仕打ちを思えば当然だが、それでは困る。なんとしても、今までの蘇芳とこれからの蘇芳は別ものだと、花鶏に理解させなくては。そのためにも、前回のようなヘマはしない。今回はちゃんと「準備」もしてきている。
「殿下、そちらへ行っても構いませんか?」
部屋の入口に立ったまま、まずはお伺いを立てるのを忘れない。
「……はい」
声はか細い。本当はそうしたくないのに諦めたような、無気力な答えだ。今まで、一体どれほど蘇芳によって怯えを刷り込まれてきたのか推し量れるというものだった。
花鶏は相変わらず青白い顔で寝台に上半身を起こしていた。寒々しい部屋には火鉢があるものの、白い灰が残るばかりで、ろくに暖まった形跡もない。
(今晩は冷えるってのに。使用人連中は職務怠慢じゃないか、まったく)
「失礼します」
せめて少しでも怖がらせないようにゆっくり近づくが、花鶏はじっと俯いたままだ。
「殿下、寒くありませんか? 外はもうすぐ木枯らしが吹こうかという季節ですよ。ここは寒いでしょう」
花鶏は何も言わない。薄い布団の端をきゅっと握る指先が、しもやけで赤くなっている。
「今日は殿下にお土産があるんです」
気を取り直して、持ってきた風呂敷包みを寝台の上にのせる。
「殿下が風邪を召されたら大変ですからね。ここに来る時、大きなものは家僕に預けておいたんです」
背後に突っ立っていた家僕に目配せすると、初老の男がおたおたと大きな竹の行李を運んできて、蓋を開けた。中には真新しい布団や毛皮、温石、綿の入った上着が詰め込まれている。取り急ぎ、思いつく限り暖の取れそうなものを見繕ってきた。
「まだありますよ」
言いながら、今度は風呂敷包みを開く。中からごろりと転がり出たものの中から一つ、手に取って花鶏に見せた。
「早蕨に……ああ、私の従者なのですが、彼に市場で買ってこさせたのです。子供の間で流行っているそうなんですが、殿下はこういったものがお好きですか? ほら、これはこうすると……」
木彫りの鳥の玩具だ。止まり木の部分が空洞になっていて、息を吹き込むとピロロロ、と音が鳴る。花鶏は無反応だった。ピロピロ……、という間抜けな音だけが響いた。
最後にピロ、と未練がましく鳴いてから、蘇芳は咳払いをした。
「まあ、音が鳴るだけなんですけれどね……あ、これなんてどうです? ここが覗き穴になっていて、中をくるくる回すと」
万華鏡だ。中には色紙と彩色された砂粒が入っていて……と、いくら蘇芳が一人でくるくる回していても意味がない。
「えっと、ご覧になって……みませんよね」
ちら、と花鶏を窺うが、相変わらず頑なに蘇芳を見ようとしない。小さな肩にはぎゅっと力がこもっていた。
手毬、でんでん太鼓、紙風船、風車、馬の……縫い包みなのか、これは。早蕨は目についたものを片っ端から買い込んできたらしい。
が、どれを見せても、花鶏はうんともすんとも反応しない。まさに梨の礫だった。
「玩具はお嫌いですか? これなんて綺麗だと思いますよ、お部屋に飾っておいたらいかがで」
「……蘇芳殿は」
ふいに、花鶏が口を開いた。聞き逃してしまいそうな小声だったが、待ちに待っていた蘇芳は飛びつくように身を乗り出した。そのせいで、花鶏はまたビクッと身を退いてしまった。
「あ、申し訳ありません、殿下。お返事してもらえたのが嬉しくて、つい」
へらり、と愛想笑いを浮かべた蘇芳を、花鶏が凝視している。
「……こんなにたくさん貰っても、置く場所がありません。いらない、です」
「場所がない?」
首を傾げて、改めて部屋の中を見回した。薄暗くて黴臭い、到底皇子が住むような部屋ではないが、広さに関しては十分すぎるくらいだった。むしろ面積が広い割に、本来あるべき家具や調度品がないせいで、余計に寒々しく感じる。蘇芳が持ってきた玩具なんて、どこにでも置いておけるだろうに。
(もしかして、邪魔だから持ち帰れってことか?)
確かにいらないと言われはしたが、にしては花鶏の態度に違和感を覚える。
蘇芳は心の中でうーん、と唸った。いや、まだ落胆するには早い。昨日の今日なのだ。これまでの〈蘇芳〉と花鶏の関係を思えば、手の平を返して擦り寄ってくる相手を簡単に受け入れられなくて当然だ。気長に行こうではないか。
「殿下、もしかしたら気に入るものがあるかもしれませんから、どうか私が帰った後にでもゆっくりご覧になってみてくださいませんか。ね?」
おもねるように微笑みかけると、花鶏が驚いて目を見開く。
「うん? どうしました?」
蘇芳が首を傾げると、すぐにパッと目を逸らしてしまった。
「これから肌寒くなりますから、毛布や綿入れはお使いくださいね。次に来るときは殿下に喜んでもらえるような土産をお持ちしますよ」
さりげなく次の訪問を宣告されて、花鶏の纏う空気がどんよりと重たくなった。
(俺が会いに来るの、そんなに嫌か。そりゃそうだよな)
これは長期戦を覚悟した方がよさそうだ。
「そうだ、殿下は何か欲しいものがありますか?」
欲しいもの、と花鶏が鸚鵡返しに呟く。
「ええ。僭越ながら私に用意できるものであればなんでも」
「なら……もう来ないでください」
片付けのために動かしていた手を止める。花鶏を見ると、弱々しい言葉とは裏腹に、やけっぱちのように蘇芳を睨んでいた。
「もう会いたくないし、話もしたくないです……来ないで、ください」
言い終わると、丸い頭が重力に引っ張られるように項垂れてしまった。雨に打たれた花のようだ。
「殿下……誰にも会わずにここに一人きりだなんて」
寂しいでしょう、と言いかけたのをかろうじて思い留まった。
〈蘇芳〉は花鶏を虐げていたのだ。そんな人間が自分に会いに来るくらいなら、一人で孤独にしていた方がよっぽど平穏に決まっているではないか。
「殿下……それは、できません。ごめんなさい」
蘇芳の言葉に、花鶏がぎゅっと布団の端を握る。そうしてもう嫌だ、とばかりに壁の方を向いてしまった。
「信じてもらえないかもしれませんが、この先二度と、殿下に嫌な思いをさせないとお約束します。顔を見るのもお嫌でしょうが、心を入れ替えて殿下に尽くします。優しくなりますから」
これも花鶏のためだと、言い訳のような大義名分を掲げた。このままでは薬漬けにされて、傀儡皇帝となった挙句、蘇芳を道連れにして江雪に処刑される運命なのだ。いくらゲームのキャラクターとはいえ、そんな結末は花鶏だって不本意だろう。
(この子にも誰を選ぶのが正解か今に分かるはずだ。それに俺だって、花鶏を江雪から引き離さないと命が危ないんだ)
架空の存在とはいえ、こんな小さな子供に目の前で苦しまれたら寝覚めが悪い。今だけは、花鶏には我慢して蘇芳に靡いてもらわないといけないのだ。
「また来ます。それまでどうか、身体をお大事に」
気まずい空気の中、席を立とうとした蘇芳のもとへおずおずと家僕が近寄ってきた。
「あの、蘇芳殿」
「なんだ」
花鶏にすげなくされた不機嫌が声にのった。さらには家僕が携えている盆の上を見た途端、反射的に顔を歪めそうになった。
「薬湯をお持ちしました。その、今日もお召し上がりに?」
あの薬湯。そうだった。蘇芳の来訪と例の薬――もとい毒はセットになっているのを忘れていた。口元がピクリと引き攣った。これでまた、帰ったら喉に指を突っ込んで吐き出す苦行が待っていると思うとげんなりするが、他にどうしようもない。
「ああ! もちろん、飲むとも」
半ばやけ酒を呷るように茶器をひったくり、一気に嚥下する。どうせだからと、前回よりも多めに飲んでおいた。花鶏の分は底に残った三分の一ほどしかない。
家僕が前回と同じく、理解できないという目で見てくるが、知ったことか。茶器を盆に戻し、ぐいと口元を拭ってから花鶏に向き直った。丁寧に礼をして、念を押すように微笑みかける。
「それでは、殿下。また後日」
いつもより多めに飲んだせいか、帰宅してから妙に胃の調子が悪い気がする。単に吐き戻したせいで胃痙攣を起こしているだけかもしれないが。
(大人の俺の方が薬の影響は少ないはずだ。このまま、しばらくは花鶏より多く飲んで様子を見るか)
早蕨が横から手拭と白湯を差し出す。
「蘇芳様、花鶏殿下を訪問するたびにこんな真似を続ける気ですか? 一体いつまで」
白湯を喉に流し込むと、胃の中が温まり、気分が少しマシになった。
「いつまでかは分からないが、なるべく短く済むように、とっとと殿下を懐柔したいところだな」
長椅子に腰かけながら蘇芳がぼやくと、早蕨は空になった茶器に白湯を注ぎ足した。
「懐柔って、今までのことがあるのにそう簡単には……。そういえば、今日はどうでしたか? 殿下は土産を受け取ってくれましたか?」
脳裏にさっきまでの花鶏とのやり取りが再生された。そうだった。戻ったら早蕨に確認しようと思っていたのだ。
「それなんだが。調達しておいてもらって悪いが、あの玩具は殿下に不評だったぞ。どれもいまいち心惹かれないご様子だった。本当に今時の子供はあれで喜ぶのか? お前の独断と偏見ってことは……」
早蕨は少し考えた後、やがて呆れたように主人を見やって嘆息した。
「なんだ、その目は」
「いえ。蘇芳様、一つ伺いますが、花鶏殿下はそもそも玩具がお好きなんですか?」
玩具が、なんだって? 質問の意図が分からない。
「十歳の子供は皆玩具を与えれば喜ぶだろう? だからお前に市場で色々見繕ってもらったんじゃないか。どれも効果がなかったが」
「……確かに殿下は十歳の子供ですが、生い立ちが特殊でいらっしゃいますし、今いる環境だって普通の子供とは違うのですよ?」
「そんなことは私も知っている」
「子供だからと一括りにせずに、相手が喜ぶものが何かを考えて差し上げる必要があるのでは? というか」
早蕨は言葉を切り、つと目を細めた。
「私を使うのは別に構いませんが、本当に懐柔したい相手なら、贈りものを他人任せにするのはどうかと思いますよ」
蘇芳はうっ、と言葉に詰まった。早蕨の言い分は理路整然としていて、隙がない。
確かに、言われてみればその通りかもしれない。蘇芳が探すべきは「花鶏が喜ぶもの」であって、「子供が喜ぶであろう適当なもの」をリクエストしたのは怠慢だった。
「分かっていたなら、前もって渡す前に教えてくれてもいいじゃないか」
一応文句を口にすると、早蕨はさも当然のようにしれっと答えた。
「いえ、結果が出てからの方がご納得いただけるかと思ったので」
「……ごもっともです」
蘇芳は眉間を揉みながら天井を仰いだ。
花鶏の好きなもの。喜びそうなもの。一番の望みは本人の口から聞いたばかりだ。
『もう会いたくないし、話もしたくないです……来ないで、ください』
(それだけはなしだ! それ以外で何かないのか? 何かヒントは……)
記憶を探るが、そもそも断片的な記憶は入れ替わる前の〈蘇芳〉のものだ。花鶏の性格、趣味、嗜好……記憶の襞のどこにも、手掛かりになりそうなものは残っていない。
花鶏という「キャラクター」はまるで透明人間のように、輪郭がおぼろに霞んだままだった。
(俺が〈花鶏〉について知ってることって、こうしてみると何もないんだな……)
蘇芳は気を取り直すために、パシンと両頬を手で叩いた。
このままでは駄目だ。早蕨の言う通り、花鶏を非実在のキャラではなく生身の人間として見るのだ。そのためにも、たとえ嫌われていようが退くわけにはいかない。
花鶏のことをもっと知る必要がある。蘇芳は決意し、さっそく頭を捻り始めた。
「さて殿下、今日は少し顔色が良いですね。お傍に行っても?」
最初の訪いから早くも半月が経つ頃。花鶏と顔を合わせるのも、両手の指の数を超えた。
にこにこと戸口に立って、いつかのデジャヴを感じながら蘇芳が問うと、いつものように寝台に身を起こした花鶏が鼻の頭にしわを寄せた。
(お、良い兆候だな)
これまで花鶏が蘇芳に向ける表情には怯えと萎縮が入り混じり、窮鼠のようにびくびくしていた。今の花鶏もそれは変わらないが、時折こうして、別の感情も垣間見せるようになっていた。
もし花鶏がその辺にいる生意気小僧であれば、蘇芳に向かって素直に「うるさい」「しつこい」とでも毒づいていたかもしれない。なんにせよ、蘇芳に対して以前より怯えが薄れているなら良い傾向だ。
蘇芳はそう思い、ニマニマと笑みを浮かべた。
「また来たんですか」
「ええ、来ましたとも。そう言ったでしょう。この前差し上げた土産の中にお気に召すものはありましたか?」
言いながら部屋を見回すが、あれから何度か持ち込んだ風呂敷も、その中身も見当たらない。部屋は相変わらずがらんどうで、机や本棚はおろか、箪笥もない。あんなにたくさん持ち込んだ玩具の類はどこにもなかった。
(まさか気に入らないからって全部捨てたのか?)
花鶏ならあり得そうだが、何かが引っかかった。それが何なのか分からずに気を取られていると、花鶏がおもむろに寝台を這い出して床に座り込んだ。
「殿下? どうしました、どこか具合でも」
慌てて駆け寄ると、花鶏は裸足のまま床に這いつくばり、寝台の下に手を突っ込んでいた。
「殿下、お手々が汚れますよ。ああ、お顔にも埃が……こっちへいらっしゃい」
よく分からないが蘇芳も床に膝をついて、袖口で花鶏の頬を拭いてやった。
「はい、汚れは取れました。どうしました? 下にものでも落としましたか?」
花鶏は蘇芳の手を払うと、居心地悪そうに頬を擦った。まるで蘇芳の感触を拭い去ろうとするかのような仕草に苦笑いする。分かっていたが、相当毛嫌いされている。
「……奥に行っちゃって、取れない」
なるほど、子供の手では一番奥に届かなくて焦っていたらしい。
前々から思っていたが、花鶏の言葉はぶっきらぼうというより、会話そのものに慣れていない様子だった。蘇芳と言葉を交わす時も、若干たどたどしい。
「私が取りましょう。足が冷えますから、殿下はお布団に戻ってください」
花鶏が大人しく言うことを聞いたのを見届けて、袖をまくり、頬をぺたんと床にくっつける。そのまま、手探りで花鶏の言う「落としもの」はないかと探した。
(うわ、凄い埃だな。掃除もろくにしてないじゃないか)
と、指先が四角張った物体に触れた。なんだ、これは。
「殿下。ケホッ、ありましたよ。お探しのものはこれですか?」
埃まみれだが、綺麗に綴じられた本だった。よく見れば、蘇芳が持ち込んだ土産ものの中の一つだ。こんなもの、なんであんなところに。わざと奥へ押し込みでもしない限り、あんな場所に勝手に落ちるだろうか。
「殿下。もしかして、わざとあそこへ隠していたんですか?」
半信半疑だったが、花鶏はこくんと頷いた。蘇芳から本を受け取るなり、ぱんぱんと埃を払う。中を開くと、途中に紙切れが挟まっていた。栞代わりのようだ。
「ここから先は難しい字が多くて……聞いても誰も教えてくれないし、置いておくと、捨てられちゃうから」
「……捨てられる?」
蘇芳は眉をひそめた。寝台の傍の椅子に座って、花鶏と目を合わせる。
「殿下、馬鹿な私に教えてくださいませ。今まで何があったのですか」
花鶏は膝上の本に目を落とすと、ぽつりぽつりと話し出した。
どうやら、蘇芳が持ち込んだ土産の中でも、玩具や本といった娯楽品の類はすべて何人かの使用人たちによって処分されたらしい。さすがに、毛布や綿入れだのといった生活品はそのままだが、その他は「花鶏が気に入らなくて自分で捨てた」という言い訳が通るからだろう。
自分の迂闊さが情けなかった。
花鶏は最初から教えてくれていたのだ。「置く場所がありません」と。あれは、置いてもどうせ捨てられてしまうという意味だったのだ。
「いつから……いつから使用人たちは殿下の持ちものを勝手に処分しているのですか? まさかずっと?」
花鶏は小さく頷いてから、すぐに慌てて首を横に振った。
「殿下、誰も殿下を怒ったりはしませんから」
「別に、いい。なくして困るような大事なものなんて、もうないから」
心臓を冷たい手でするりと撫でられたような心地がした。今喋ったら、きっと冷たい声が出てしまう。だから感情を押し殺した。
もうこれ以上、花鶏を怖がらせる真似はしたくなかった。
「でも、その本は気に入ってくださったんですよね。だから私が来るまで、取られないように隠していたのでしょう?」
優しく、優しく。花鶏が安心するように。昔の〈蘇芳〉を思い出さないように。
「殿下は賢いですね。あそこなら誰にも見つからないと知っていたのでしょう」
「……埃がいっぱいあったから。誰も掃除してないってことは、誰にも見つからないと思って」
「本当に、殿下は聡明でいらっしゃる」
花鶏はムッと唇を尖らせて、本を蘇芳へ差し向けた。
「字が読めないところ、読んでください。あ、貴方が持ってきたものなんだから」
責任を取れ、と言っているのだろう。蘇芳の顔に滲むように笑みが広がった。冷え切っていた心臓が、花鶏の言葉でホカホカと温まってくる。
「もちろんですとも。一緒に読みましょうか、殿下」
その日の夜は随分長居をした。
途中、家僕が薬を運んでくると、蘇芳は花鶏に目配せして、本をそっと布団の中に隠した。二人して素知らぬ顔で薬を飲んでから、また本の続きに戻る。蘇芳がいる手前、そんなことをする必要はないのだが、共犯めいたやり取りは案外悪くなかった。
それは花鶏も同じだったのかもしれない。
「殿下は文字の覚えが早いですね。次はまた別の本を持ってきましょう」
「……次って」
言いかけた花鶏がハッと口を噤み、あたふたと布団の中に潜ってしまった。
「殿下? 疲れてしまいましたか? ゆっくりお休みくださいね」
丸まった背中に丁寧にお辞儀してから、少し迷って本を持ち帰ることにした。優秀な学童だった早蕨が選書しただけあって、ちょっと堅苦しい内容だ。花鶏が楽しみながら文字を覚えるなら、もっと手軽な物語の方が良いかもしれない。
そう。できれば主人公が勇猛果敢に成り上がるストーリーより、もっとこう……穏便で平和な読みものはないのだろうか。
冒険活劇は面白いが、いかんせん血の気が多くていけない。花鶏の情操教育に血腥さは不要だ。児童向け図書は慎重に選ぶ必要がある。
ハートフルで、人も動物も死なない平穏な話、かつ勧善懲悪要素もあって……となると。
(恋愛ものとか、ぴったりじゃないか)
うん、我ながら良いアイディアだ。血腥くないし、これなら危ない思考が入り込む余地はない。性格がねじ曲がることもないだろう。
何より花鶏が年頃になった暁には、色恋方面の参考書にもなりそうだ。
「蘇芳殿がいらっしゃいました」
家僕が告げると、花鶏は急いで表情筋を引き締めた。そうしていないと、無意識に頬が緩んでしまいそうになるから、困る。
(今日はちょっと遅かったな。昨日は、来るかと思ってずっと起きて待っていたけど、来なくて……途中で寝ちゃった)
そこまで考えて、慌てて思考を打ち消す。これでは、まるで蘇芳が来るのを心待ちにしていたみたいだ。違う。断じてそんなことはない。
(最近の「あいつ」は変だ。どうしてか分からないけど、いきなり優しくなった)
目が合うと、いつも優しい顔をする。
話しかけた後は、ちょっと首を傾げるみたいにしながら、花鶏の返事を待っているのだ。
花鶏が素っ気ない態度を取っても怒ったりせず、それどころか、一言発するだけでも嬉しそうに微笑まれてしまう。
『殿下は偉い。もうそんな難しい字も読めるなんて』
そんな風に褒められると、どういう顔をしていいか分からない。
(でも、嘘かもしれない。きっとそうだ。罠なんだ。物語にも書いてあった。相手を油断させて、信用させてから、もっと酷いことをするんだ)
以前の蘇芳は意地悪で、恐ろしかった。
使用人たちは皆、蘇芳の味方で、花鶏にとって唯一の味方の江雪は仕事が忙しくて滅多にここには来ない。一日中、誰にも話しかけられず、まるでいない者のように扱われると、本当に自分が消えてしまったように思えた。
それなのに、今はあんなに怖かった蘇芳だけが、花鶏の元を訪れては本を読み聞かせたり、外の世界の話をしたりしてくれる。花鶏に優しい言葉をかけてくれる。
そわそわしてしまうのは、全部蘇芳のせいだ。
(信じちゃ駄目だ。信じなければ裏切られない。大丈夫。あいつのことはちゃんと嫌いなままだから)
戸を叩く音がする。トクン、と心臓が跳ねた。
「殿下。遅くなってすみません。今日は新しいお話をして差し上げます、きっと気に入りますよ」
いつからか、傍へ寄っても良いか、と聞かれなくなった。花鶏が拒否しないと蘇芳は知っているのだ。そう思うと憎らしかった。
花鶏はぐっと堪えるように拳を握った。我慢していないと、蘇芳の綺麗な笑みにつられて、自分も笑ってしまうのが怖かったから。
「――というわけで、人魚のお姫様は王子様に気付いてもらえず、王子様は隣国のお姫様と結婚することになったのです」
蘇芳が本を閉じると、花鶏は予想通りショックを受けていた。ちなみに、本は花鶏が一人でいる時にも読み返せるようにと作った、蘇芳のお手製である。
「……王子を助けたのは魚の怪物なのに、どうして違う人と結婚するの?」
「殿下、怪物ではなく人魚です。上半身が人間で下半身が魚の……ん、確かに怪物かも。うーん、でもそれだとこの話の様式美がイマイチ伝わらない気が……」
「……魚のお姫様、可哀想。何のために王子を助けたんだろう」
「それは違うと思いますよ、殿下。助けてくれた相手を好きにならなくてはいけない決まりはありません。感謝と愛情は別ものです。人の心はままならないものですからね」
花鶏の頭の中で「魚の怪物」が「魚のお姫様」へと変遷していることの方が気になった。ただの魚が比較対象なら、そりゃ王子様も隣国の王女様一択だろう。この世界に存在しない物語を読み聞かせるのは案外難しい。
「話の続きは? この後はどうなる?」
そうそう、この反応が見たかったのだ。恋愛ものをチョイスしようと思い立ったはいいが、この世界には子供向けの寓話自体が希少だった。そこで思いついたのが、物語の「逆輸入」だ。
(俺が知ってる現実世界の童話なら、花鶏の気を惹けるんじゃないか?)
毒見役は通常、一口だけで、済んだ後は器を新しいものと交換する。諸々の作法を無視して、蘇芳は自分が飲んだ杯をそのまま花鶏に差し出した。
「さ、殿下。問題ないようです」
花鶏が隔離幽閉されていて宮廷作法に明るくないのが幸いした。
身辺警護もなく、使用人も最低限の人数で、その者たちも花鶏に対する関心が薄い。これも蘇芳には好都合だった。
花鶏は有無を言わさぬ蘇芳に押し負けたように、残り僅かになった薬湯を飲み干し、それを見届けた蘇芳は今度こそ江雪邸を辞したのだった。
当面はこの手でいくことに決めた。しのげるところまでは毒の摂取を減らして、花鶏の健康状態を改善することが喫緊の課題だ。
「と、いうわけだ。とりあえず上手くいったが、ここからが正念場というやつだ。お前も協力してくれ」
言いつつ視線を向けた先には、先ほど吐いていた蘇芳よりもなお顔色を悪くした早蕨が、呆然と佇んでいた。
「……蘇芳様、もう一度お訊ねしますが……ああいや、ちょっと待ってください」
早蕨が目元を覆う。いつも冷静な彼にしては珍しく、相当混乱している様子だった。
言われた通り、蘇芳は早蕨が落ち着くのをしばらく待った。
「大丈夫か? 少しは落ち着いたか?」
「……尋常でない様子に何事かと思って駆け付けてみれば、本当に毒に当たりでもしたように苦しんでおられるから肝が冷えました。……まさかそんな理由だったなんて」
早蕨は理解に苦しむ、とでも言いたげな様子で頭を振った。
「蘇芳様がおっしゃったことは、私の胸の中にしまっておきます。ですからどうか、絶対に他所で口になさらないでください。……不敬罪どころではありませんよ」
「もちろんだ。不敬罪どころか、これは皇族に対する立派な反逆罪だぞ」
「証拠がないではありませんか」
「花柳草のことか。あれは江雪様が調合したものを私が屋敷で受け取っているから、家探しをすればどこかに備蓄があるかもしれない」
「絶対におやめください! 江雪様の耳に入れば、いくら蘇芳様でもただでは済みません」
「そうだな。しばらくは穏便に出方を窺わなくては。殿下と引き離されたら元も子もない」
「……あれだけ虐めておいて、失礼ですが、どういう風の吹き回しですか?」
「それだ。うん、それでいこう。最初から殿下に辛く当たっていたのだから、これからも江雪様に疑われないよう、表向きはこのままでいるのが最善だ。裏ではなんとかして殿下の信頼を得て、なるべく早く屋敷からお救いしたい」
早蕨はもはや話についてこられない様子だった。
「一応お聞きしますが、お救いしたとしてもどこに匿う気ですか? 殿下の処遇を江雪様に委ねたのは主上ですよ? 他に行くあてなどない。まさかここに連れてくるおつもりですか?」
「それも最初は考えたが、何かあった時にここでは護衛もいないし、何より今の殿下が私を頼るとは思えない。物凄く嫌われているからな」
「……自信満々に言うことではないと思いますが」
「なので取り急ぎ」
長椅子の上で身を起こすと、ちょいちょいと早蕨を手招く。そのまま内緒話をするように顔を寄せた。
「殿下には学舎に入っていただこうと思う」
「学舎、ですか」
蘇芳はにっこり笑って、そうだと頷いた。
「だからお前にも、これから色々と手伝ってほしい」
早蕨を計画に巻き込むことは早い段階から決めていた。
というのも、あれは確か黒南風というキャラクターのルートだったと思うが、早蕨が花鶏に対して同情的だったシーンがあるのだ。
彼は蘇芳の支配下から抜けた後、国試を受けて官吏となった。そして、かつての主人とその裏で糸を引いていた黒幕の存在を自分なりに追ううちに真相にたどり着き、それを主人公たちに伝えたのだ。このルートではそれを契機に、江雪一派が捕えられ、暗殺された雨月皇子に代わり黒南風が即位し、主人公は皇妃となる。
もちろん蘇芳も江雪と一緒に処刑されるのだが、早蕨はこの時、かつての主人に向かってこんなことを言う。
「貴方に虐げられても、貴方しか縋るものがなかった子供に、よくもあんな酷い仕打ちができたものだな」
敵対する花鶏に同情的だったキャラクターは他にいなかったから、メインストーリーではないのに印象に残っていた。それを思い出したこともあって、蘇芳は早蕨を味方に引き込もうと決めていた。
それに、彼は一番近くで蘇芳に仕えてきた従者だ。この先蘇芳が一人で動くには限界があるし、彼と江雪を両方出し抜いて花鶏を救済する自信はなかった。
皇位継承者が学舎に入ると、それは体裁上、〈後嗣の儀〉への参列が許されたことを意味する。
つまり、入学はその皇子が皇帝の跡継ぎ候補であると内外に知らしめる第一歩である、というのが暗黙の了解だった。
学舎入りの条件は、心身共に健康であり、聡明であること。
表向きは何とでも言えるが、実際は生家の持つ権力や様々な利権が絡んで、生まれ順が皇位継承に優位に働くとは限らない。宮中の水面下では各皇子の名のもとに、政権派閥が形成されつつあった。
また、神力は本来、皇室直系の男児のみが操るとされている。イレギュラーとして、秘蹟の巫女はこの限りではない。ヒロインのはつり姫は、いろんな意味で特別な存在なのだ。
神力は皇統に不可欠であり、〈後嗣の儀〉はその有無を判別するための意味もある。
皇子たちの中で、筆頭勢力は、第一皇子の雨月派。
(ま、主人公なんだから妥当だな)
蘇芳は別段、花鶏を皇帝にしたいわけではない。むしろその逆だ。
原作では花鶏が傀儡皇帝になったすぐ後に、蘇芳は処刑されている。
雨月がはつり姫と結ばれ皇帝の座に就いてくれたらそれでいいし、実際ゲーム世界の俎上にいるならそうなるに違いない。
蘇芳にとって花鶏の学舎への入学は、もっと別の意味があった。
「学舎への入学を機に、私は花鶏殿下の指南役として後宮に居を移すつもりだ」
「そんな、滅茶苦茶な」
「何がだ。言っておくが、過去に前例はあったぞ」
「調べたのですか?」
「もちろんだ。本来、十歳前後になると生家の計らいで学舎に入り、後宮にそれぞれの宮を与えられて暮らすものだが、殿下にはそうした後ろ盾がないからな。このままでは江雪様の屋敷で飼い殺しにされているのを黙って見過ごすことになる。後宮もまあ、似たり寄ったりだが。私が専属教師として侍る分、まだましになるだろう」
当面の見通しが立って気分が良くなってきた。ぽんと軽快に膝を叩く。
「江雪様の屋敷から殿下を連れ出せたら大きな前進だ。何しろ毒見の度に吐き戻す手間もなくなるわけだからな」
「そんなに上手くいくでしょうか……。入学には表向き、主上の承認が必要ですが」
そこが問題だった。原作では、花鶏は学舎に入学していないのだ。だから正規ルートを外れた思惑がどのように実を結ぶか、あるいは結ばずに地に落ちて腐るのかまでは分からない。
果たして一度見放した病弱な我が子を、皇帝は学舎という公の場に立たせるだろうか。
いや、それ以前に江雪が計画に水を差してくる可能性だって無きにしも非ずだ。上手くいけば、学舎入学は傀儡政権の第一歩にもなるから、江雪にしても悪い話ではないはずだが。
(とはいえ、江雪にとっては花鶏を洗脳してる途中だもんなあ)
本来、あと数年かけてじっくり花柳草を身体に染み込ませて洗脳する予定が、まだ一年と経っていない。
蘇芳が花鶏の分の薬湯を、毒見と称して半分以上飲み続けることで、毒は徐々に身体から抜けていき、洗脳の効果もだいぶ薄まってくるだろう。
「花鶏殿下にも、お心積もりをしてもらわなくてはな」
「随分嫌われ、いえ敬遠されていたようですが、勝算はあるのですか?」
「敬遠も大して意味が変わらないぞ」
蘇芳はふんと鼻を鳴らすと、唇に指を押し当て考え込んだ。
(でも確かに、早蕨の言う通りかもしれない。……関係を改善するために、俺の方から行動を起こさないと駄目だ。花鶏の心を開いて、俺を信じさせるための方策を考えないと)
第三章 懐柔作戦
なんにせよ、まずは花鶏との接触回数を増やすのが先決だろう。そう思い、さっそく次の日の夕刻、蘇芳は花鶏のいる半地下を訪れた。懲りずにまた現れた蘇芳に、花鶏は表情の乏しい顔に明らかな嫌悪を浮かべた。
(嫌われているというより、もっと深刻だな)
蘇芳に向けられた感情は、有り体に言ってしまえば「忌避」だ。これまでの仕打ちを思えば当然だが、それでは困る。なんとしても、今までの蘇芳とこれからの蘇芳は別ものだと、花鶏に理解させなくては。そのためにも、前回のようなヘマはしない。今回はちゃんと「準備」もしてきている。
「殿下、そちらへ行っても構いませんか?」
部屋の入口に立ったまま、まずはお伺いを立てるのを忘れない。
「……はい」
声はか細い。本当はそうしたくないのに諦めたような、無気力な答えだ。今まで、一体どれほど蘇芳によって怯えを刷り込まれてきたのか推し量れるというものだった。
花鶏は相変わらず青白い顔で寝台に上半身を起こしていた。寒々しい部屋には火鉢があるものの、白い灰が残るばかりで、ろくに暖まった形跡もない。
(今晩は冷えるってのに。使用人連中は職務怠慢じゃないか、まったく)
「失礼します」
せめて少しでも怖がらせないようにゆっくり近づくが、花鶏はじっと俯いたままだ。
「殿下、寒くありませんか? 外はもうすぐ木枯らしが吹こうかという季節ですよ。ここは寒いでしょう」
花鶏は何も言わない。薄い布団の端をきゅっと握る指先が、しもやけで赤くなっている。
「今日は殿下にお土産があるんです」
気を取り直して、持ってきた風呂敷包みを寝台の上にのせる。
「殿下が風邪を召されたら大変ですからね。ここに来る時、大きなものは家僕に預けておいたんです」
背後に突っ立っていた家僕に目配せすると、初老の男がおたおたと大きな竹の行李を運んできて、蓋を開けた。中には真新しい布団や毛皮、温石、綿の入った上着が詰め込まれている。取り急ぎ、思いつく限り暖の取れそうなものを見繕ってきた。
「まだありますよ」
言いながら、今度は風呂敷包みを開く。中からごろりと転がり出たものの中から一つ、手に取って花鶏に見せた。
「早蕨に……ああ、私の従者なのですが、彼に市場で買ってこさせたのです。子供の間で流行っているそうなんですが、殿下はこういったものがお好きですか? ほら、これはこうすると……」
木彫りの鳥の玩具だ。止まり木の部分が空洞になっていて、息を吹き込むとピロロロ、と音が鳴る。花鶏は無反応だった。ピロピロ……、という間抜けな音だけが響いた。
最後にピロ、と未練がましく鳴いてから、蘇芳は咳払いをした。
「まあ、音が鳴るだけなんですけれどね……あ、これなんてどうです? ここが覗き穴になっていて、中をくるくる回すと」
万華鏡だ。中には色紙と彩色された砂粒が入っていて……と、いくら蘇芳が一人でくるくる回していても意味がない。
「えっと、ご覧になって……みませんよね」
ちら、と花鶏を窺うが、相変わらず頑なに蘇芳を見ようとしない。小さな肩にはぎゅっと力がこもっていた。
手毬、でんでん太鼓、紙風船、風車、馬の……縫い包みなのか、これは。早蕨は目についたものを片っ端から買い込んできたらしい。
が、どれを見せても、花鶏はうんともすんとも反応しない。まさに梨の礫だった。
「玩具はお嫌いですか? これなんて綺麗だと思いますよ、お部屋に飾っておいたらいかがで」
「……蘇芳殿は」
ふいに、花鶏が口を開いた。聞き逃してしまいそうな小声だったが、待ちに待っていた蘇芳は飛びつくように身を乗り出した。そのせいで、花鶏はまたビクッと身を退いてしまった。
「あ、申し訳ありません、殿下。お返事してもらえたのが嬉しくて、つい」
へらり、と愛想笑いを浮かべた蘇芳を、花鶏が凝視している。
「……こんなにたくさん貰っても、置く場所がありません。いらない、です」
「場所がない?」
首を傾げて、改めて部屋の中を見回した。薄暗くて黴臭い、到底皇子が住むような部屋ではないが、広さに関しては十分すぎるくらいだった。むしろ面積が広い割に、本来あるべき家具や調度品がないせいで、余計に寒々しく感じる。蘇芳が持ってきた玩具なんて、どこにでも置いておけるだろうに。
(もしかして、邪魔だから持ち帰れってことか?)
確かにいらないと言われはしたが、にしては花鶏の態度に違和感を覚える。
蘇芳は心の中でうーん、と唸った。いや、まだ落胆するには早い。昨日の今日なのだ。これまでの〈蘇芳〉と花鶏の関係を思えば、手の平を返して擦り寄ってくる相手を簡単に受け入れられなくて当然だ。気長に行こうではないか。
「殿下、もしかしたら気に入るものがあるかもしれませんから、どうか私が帰った後にでもゆっくりご覧になってみてくださいませんか。ね?」
おもねるように微笑みかけると、花鶏が驚いて目を見開く。
「うん? どうしました?」
蘇芳が首を傾げると、すぐにパッと目を逸らしてしまった。
「これから肌寒くなりますから、毛布や綿入れはお使いくださいね。次に来るときは殿下に喜んでもらえるような土産をお持ちしますよ」
さりげなく次の訪問を宣告されて、花鶏の纏う空気がどんよりと重たくなった。
(俺が会いに来るの、そんなに嫌か。そりゃそうだよな)
これは長期戦を覚悟した方がよさそうだ。
「そうだ、殿下は何か欲しいものがありますか?」
欲しいもの、と花鶏が鸚鵡返しに呟く。
「ええ。僭越ながら私に用意できるものであればなんでも」
「なら……もう来ないでください」
片付けのために動かしていた手を止める。花鶏を見ると、弱々しい言葉とは裏腹に、やけっぱちのように蘇芳を睨んでいた。
「もう会いたくないし、話もしたくないです……来ないで、ください」
言い終わると、丸い頭が重力に引っ張られるように項垂れてしまった。雨に打たれた花のようだ。
「殿下……誰にも会わずにここに一人きりだなんて」
寂しいでしょう、と言いかけたのをかろうじて思い留まった。
〈蘇芳〉は花鶏を虐げていたのだ。そんな人間が自分に会いに来るくらいなら、一人で孤独にしていた方がよっぽど平穏に決まっているではないか。
「殿下……それは、できません。ごめんなさい」
蘇芳の言葉に、花鶏がぎゅっと布団の端を握る。そうしてもう嫌だ、とばかりに壁の方を向いてしまった。
「信じてもらえないかもしれませんが、この先二度と、殿下に嫌な思いをさせないとお約束します。顔を見るのもお嫌でしょうが、心を入れ替えて殿下に尽くします。優しくなりますから」
これも花鶏のためだと、言い訳のような大義名分を掲げた。このままでは薬漬けにされて、傀儡皇帝となった挙句、蘇芳を道連れにして江雪に処刑される運命なのだ。いくらゲームのキャラクターとはいえ、そんな結末は花鶏だって不本意だろう。
(この子にも誰を選ぶのが正解か今に分かるはずだ。それに俺だって、花鶏を江雪から引き離さないと命が危ないんだ)
架空の存在とはいえ、こんな小さな子供に目の前で苦しまれたら寝覚めが悪い。今だけは、花鶏には我慢して蘇芳に靡いてもらわないといけないのだ。
「また来ます。それまでどうか、身体をお大事に」
気まずい空気の中、席を立とうとした蘇芳のもとへおずおずと家僕が近寄ってきた。
「あの、蘇芳殿」
「なんだ」
花鶏にすげなくされた不機嫌が声にのった。さらには家僕が携えている盆の上を見た途端、反射的に顔を歪めそうになった。
「薬湯をお持ちしました。その、今日もお召し上がりに?」
あの薬湯。そうだった。蘇芳の来訪と例の薬――もとい毒はセットになっているのを忘れていた。口元がピクリと引き攣った。これでまた、帰ったら喉に指を突っ込んで吐き出す苦行が待っていると思うとげんなりするが、他にどうしようもない。
「ああ! もちろん、飲むとも」
半ばやけ酒を呷るように茶器をひったくり、一気に嚥下する。どうせだからと、前回よりも多めに飲んでおいた。花鶏の分は底に残った三分の一ほどしかない。
家僕が前回と同じく、理解できないという目で見てくるが、知ったことか。茶器を盆に戻し、ぐいと口元を拭ってから花鶏に向き直った。丁寧に礼をして、念を押すように微笑みかける。
「それでは、殿下。また後日」
いつもより多めに飲んだせいか、帰宅してから妙に胃の調子が悪い気がする。単に吐き戻したせいで胃痙攣を起こしているだけかもしれないが。
(大人の俺の方が薬の影響は少ないはずだ。このまま、しばらくは花鶏より多く飲んで様子を見るか)
早蕨が横から手拭と白湯を差し出す。
「蘇芳様、花鶏殿下を訪問するたびにこんな真似を続ける気ですか? 一体いつまで」
白湯を喉に流し込むと、胃の中が温まり、気分が少しマシになった。
「いつまでかは分からないが、なるべく短く済むように、とっとと殿下を懐柔したいところだな」
長椅子に腰かけながら蘇芳がぼやくと、早蕨は空になった茶器に白湯を注ぎ足した。
「懐柔って、今までのことがあるのにそう簡単には……。そういえば、今日はどうでしたか? 殿下は土産を受け取ってくれましたか?」
脳裏にさっきまでの花鶏とのやり取りが再生された。そうだった。戻ったら早蕨に確認しようと思っていたのだ。
「それなんだが。調達しておいてもらって悪いが、あの玩具は殿下に不評だったぞ。どれもいまいち心惹かれないご様子だった。本当に今時の子供はあれで喜ぶのか? お前の独断と偏見ってことは……」
早蕨は少し考えた後、やがて呆れたように主人を見やって嘆息した。
「なんだ、その目は」
「いえ。蘇芳様、一つ伺いますが、花鶏殿下はそもそも玩具がお好きなんですか?」
玩具が、なんだって? 質問の意図が分からない。
「十歳の子供は皆玩具を与えれば喜ぶだろう? だからお前に市場で色々見繕ってもらったんじゃないか。どれも効果がなかったが」
「……確かに殿下は十歳の子供ですが、生い立ちが特殊でいらっしゃいますし、今いる環境だって普通の子供とは違うのですよ?」
「そんなことは私も知っている」
「子供だからと一括りにせずに、相手が喜ぶものが何かを考えて差し上げる必要があるのでは? というか」
早蕨は言葉を切り、つと目を細めた。
「私を使うのは別に構いませんが、本当に懐柔したい相手なら、贈りものを他人任せにするのはどうかと思いますよ」
蘇芳はうっ、と言葉に詰まった。早蕨の言い分は理路整然としていて、隙がない。
確かに、言われてみればその通りかもしれない。蘇芳が探すべきは「花鶏が喜ぶもの」であって、「子供が喜ぶであろう適当なもの」をリクエストしたのは怠慢だった。
「分かっていたなら、前もって渡す前に教えてくれてもいいじゃないか」
一応文句を口にすると、早蕨はさも当然のようにしれっと答えた。
「いえ、結果が出てからの方がご納得いただけるかと思ったので」
「……ごもっともです」
蘇芳は眉間を揉みながら天井を仰いだ。
花鶏の好きなもの。喜びそうなもの。一番の望みは本人の口から聞いたばかりだ。
『もう会いたくないし、話もしたくないです……来ないで、ください』
(それだけはなしだ! それ以外で何かないのか? 何かヒントは……)
記憶を探るが、そもそも断片的な記憶は入れ替わる前の〈蘇芳〉のものだ。花鶏の性格、趣味、嗜好……記憶の襞のどこにも、手掛かりになりそうなものは残っていない。
花鶏という「キャラクター」はまるで透明人間のように、輪郭がおぼろに霞んだままだった。
(俺が〈花鶏〉について知ってることって、こうしてみると何もないんだな……)
蘇芳は気を取り直すために、パシンと両頬を手で叩いた。
このままでは駄目だ。早蕨の言う通り、花鶏を非実在のキャラではなく生身の人間として見るのだ。そのためにも、たとえ嫌われていようが退くわけにはいかない。
花鶏のことをもっと知る必要がある。蘇芳は決意し、さっそく頭を捻り始めた。
「さて殿下、今日は少し顔色が良いですね。お傍に行っても?」
最初の訪いから早くも半月が経つ頃。花鶏と顔を合わせるのも、両手の指の数を超えた。
にこにこと戸口に立って、いつかのデジャヴを感じながら蘇芳が問うと、いつものように寝台に身を起こした花鶏が鼻の頭にしわを寄せた。
(お、良い兆候だな)
これまで花鶏が蘇芳に向ける表情には怯えと萎縮が入り混じり、窮鼠のようにびくびくしていた。今の花鶏もそれは変わらないが、時折こうして、別の感情も垣間見せるようになっていた。
もし花鶏がその辺にいる生意気小僧であれば、蘇芳に向かって素直に「うるさい」「しつこい」とでも毒づいていたかもしれない。なんにせよ、蘇芳に対して以前より怯えが薄れているなら良い傾向だ。
蘇芳はそう思い、ニマニマと笑みを浮かべた。
「また来たんですか」
「ええ、来ましたとも。そう言ったでしょう。この前差し上げた土産の中にお気に召すものはありましたか?」
言いながら部屋を見回すが、あれから何度か持ち込んだ風呂敷も、その中身も見当たらない。部屋は相変わらずがらんどうで、机や本棚はおろか、箪笥もない。あんなにたくさん持ち込んだ玩具の類はどこにもなかった。
(まさか気に入らないからって全部捨てたのか?)
花鶏ならあり得そうだが、何かが引っかかった。それが何なのか分からずに気を取られていると、花鶏がおもむろに寝台を這い出して床に座り込んだ。
「殿下? どうしました、どこか具合でも」
慌てて駆け寄ると、花鶏は裸足のまま床に這いつくばり、寝台の下に手を突っ込んでいた。
「殿下、お手々が汚れますよ。ああ、お顔にも埃が……こっちへいらっしゃい」
よく分からないが蘇芳も床に膝をついて、袖口で花鶏の頬を拭いてやった。
「はい、汚れは取れました。どうしました? 下にものでも落としましたか?」
花鶏は蘇芳の手を払うと、居心地悪そうに頬を擦った。まるで蘇芳の感触を拭い去ろうとするかのような仕草に苦笑いする。分かっていたが、相当毛嫌いされている。
「……奥に行っちゃって、取れない」
なるほど、子供の手では一番奥に届かなくて焦っていたらしい。
前々から思っていたが、花鶏の言葉はぶっきらぼうというより、会話そのものに慣れていない様子だった。蘇芳と言葉を交わす時も、若干たどたどしい。
「私が取りましょう。足が冷えますから、殿下はお布団に戻ってください」
花鶏が大人しく言うことを聞いたのを見届けて、袖をまくり、頬をぺたんと床にくっつける。そのまま、手探りで花鶏の言う「落としもの」はないかと探した。
(うわ、凄い埃だな。掃除もろくにしてないじゃないか)
と、指先が四角張った物体に触れた。なんだ、これは。
「殿下。ケホッ、ありましたよ。お探しのものはこれですか?」
埃まみれだが、綺麗に綴じられた本だった。よく見れば、蘇芳が持ち込んだ土産ものの中の一つだ。こんなもの、なんであんなところに。わざと奥へ押し込みでもしない限り、あんな場所に勝手に落ちるだろうか。
「殿下。もしかして、わざとあそこへ隠していたんですか?」
半信半疑だったが、花鶏はこくんと頷いた。蘇芳から本を受け取るなり、ぱんぱんと埃を払う。中を開くと、途中に紙切れが挟まっていた。栞代わりのようだ。
「ここから先は難しい字が多くて……聞いても誰も教えてくれないし、置いておくと、捨てられちゃうから」
「……捨てられる?」
蘇芳は眉をひそめた。寝台の傍の椅子に座って、花鶏と目を合わせる。
「殿下、馬鹿な私に教えてくださいませ。今まで何があったのですか」
花鶏は膝上の本に目を落とすと、ぽつりぽつりと話し出した。
どうやら、蘇芳が持ち込んだ土産の中でも、玩具や本といった娯楽品の類はすべて何人かの使用人たちによって処分されたらしい。さすがに、毛布や綿入れだのといった生活品はそのままだが、その他は「花鶏が気に入らなくて自分で捨てた」という言い訳が通るからだろう。
自分の迂闊さが情けなかった。
花鶏は最初から教えてくれていたのだ。「置く場所がありません」と。あれは、置いてもどうせ捨てられてしまうという意味だったのだ。
「いつから……いつから使用人たちは殿下の持ちものを勝手に処分しているのですか? まさかずっと?」
花鶏は小さく頷いてから、すぐに慌てて首を横に振った。
「殿下、誰も殿下を怒ったりはしませんから」
「別に、いい。なくして困るような大事なものなんて、もうないから」
心臓を冷たい手でするりと撫でられたような心地がした。今喋ったら、きっと冷たい声が出てしまう。だから感情を押し殺した。
もうこれ以上、花鶏を怖がらせる真似はしたくなかった。
「でも、その本は気に入ってくださったんですよね。だから私が来るまで、取られないように隠していたのでしょう?」
優しく、優しく。花鶏が安心するように。昔の〈蘇芳〉を思い出さないように。
「殿下は賢いですね。あそこなら誰にも見つからないと知っていたのでしょう」
「……埃がいっぱいあったから。誰も掃除してないってことは、誰にも見つからないと思って」
「本当に、殿下は聡明でいらっしゃる」
花鶏はムッと唇を尖らせて、本を蘇芳へ差し向けた。
「字が読めないところ、読んでください。あ、貴方が持ってきたものなんだから」
責任を取れ、と言っているのだろう。蘇芳の顔に滲むように笑みが広がった。冷え切っていた心臓が、花鶏の言葉でホカホカと温まってくる。
「もちろんですとも。一緒に読みましょうか、殿下」
その日の夜は随分長居をした。
途中、家僕が薬を運んでくると、蘇芳は花鶏に目配せして、本をそっと布団の中に隠した。二人して素知らぬ顔で薬を飲んでから、また本の続きに戻る。蘇芳がいる手前、そんなことをする必要はないのだが、共犯めいたやり取りは案外悪くなかった。
それは花鶏も同じだったのかもしれない。
「殿下は文字の覚えが早いですね。次はまた別の本を持ってきましょう」
「……次って」
言いかけた花鶏がハッと口を噤み、あたふたと布団の中に潜ってしまった。
「殿下? 疲れてしまいましたか? ゆっくりお休みくださいね」
丸まった背中に丁寧にお辞儀してから、少し迷って本を持ち帰ることにした。優秀な学童だった早蕨が選書しただけあって、ちょっと堅苦しい内容だ。花鶏が楽しみながら文字を覚えるなら、もっと手軽な物語の方が良いかもしれない。
そう。できれば主人公が勇猛果敢に成り上がるストーリーより、もっとこう……穏便で平和な読みものはないのだろうか。
冒険活劇は面白いが、いかんせん血の気が多くていけない。花鶏の情操教育に血腥さは不要だ。児童向け図書は慎重に選ぶ必要がある。
ハートフルで、人も動物も死なない平穏な話、かつ勧善懲悪要素もあって……となると。
(恋愛ものとか、ぴったりじゃないか)
うん、我ながら良いアイディアだ。血腥くないし、これなら危ない思考が入り込む余地はない。性格がねじ曲がることもないだろう。
何より花鶏が年頃になった暁には、色恋方面の参考書にもなりそうだ。
「蘇芳殿がいらっしゃいました」
家僕が告げると、花鶏は急いで表情筋を引き締めた。そうしていないと、無意識に頬が緩んでしまいそうになるから、困る。
(今日はちょっと遅かったな。昨日は、来るかと思ってずっと起きて待っていたけど、来なくて……途中で寝ちゃった)
そこまで考えて、慌てて思考を打ち消す。これでは、まるで蘇芳が来るのを心待ちにしていたみたいだ。違う。断じてそんなことはない。
(最近の「あいつ」は変だ。どうしてか分からないけど、いきなり優しくなった)
目が合うと、いつも優しい顔をする。
話しかけた後は、ちょっと首を傾げるみたいにしながら、花鶏の返事を待っているのだ。
花鶏が素っ気ない態度を取っても怒ったりせず、それどころか、一言発するだけでも嬉しそうに微笑まれてしまう。
『殿下は偉い。もうそんな難しい字も読めるなんて』
そんな風に褒められると、どういう顔をしていいか分からない。
(でも、嘘かもしれない。きっとそうだ。罠なんだ。物語にも書いてあった。相手を油断させて、信用させてから、もっと酷いことをするんだ)
以前の蘇芳は意地悪で、恐ろしかった。
使用人たちは皆、蘇芳の味方で、花鶏にとって唯一の味方の江雪は仕事が忙しくて滅多にここには来ない。一日中、誰にも話しかけられず、まるでいない者のように扱われると、本当に自分が消えてしまったように思えた。
それなのに、今はあんなに怖かった蘇芳だけが、花鶏の元を訪れては本を読み聞かせたり、外の世界の話をしたりしてくれる。花鶏に優しい言葉をかけてくれる。
そわそわしてしまうのは、全部蘇芳のせいだ。
(信じちゃ駄目だ。信じなければ裏切られない。大丈夫。あいつのことはちゃんと嫌いなままだから)
戸を叩く音がする。トクン、と心臓が跳ねた。
「殿下。遅くなってすみません。今日は新しいお話をして差し上げます、きっと気に入りますよ」
いつからか、傍へ寄っても良いか、と聞かれなくなった。花鶏が拒否しないと蘇芳は知っているのだ。そう思うと憎らしかった。
花鶏はぐっと堪えるように拳を握った。我慢していないと、蘇芳の綺麗な笑みにつられて、自分も笑ってしまうのが怖かったから。
「――というわけで、人魚のお姫様は王子様に気付いてもらえず、王子様は隣国のお姫様と結婚することになったのです」
蘇芳が本を閉じると、花鶏は予想通りショックを受けていた。ちなみに、本は花鶏が一人でいる時にも読み返せるようにと作った、蘇芳のお手製である。
「……王子を助けたのは魚の怪物なのに、どうして違う人と結婚するの?」
「殿下、怪物ではなく人魚です。上半身が人間で下半身が魚の……ん、確かに怪物かも。うーん、でもそれだとこの話の様式美がイマイチ伝わらない気が……」
「……魚のお姫様、可哀想。何のために王子を助けたんだろう」
「それは違うと思いますよ、殿下。助けてくれた相手を好きにならなくてはいけない決まりはありません。感謝と愛情は別ものです。人の心はままならないものですからね」
花鶏の頭の中で「魚の怪物」が「魚のお姫様」へと変遷していることの方が気になった。ただの魚が比較対象なら、そりゃ王子様も隣国の王女様一択だろう。この世界に存在しない物語を読み聞かせるのは案外難しい。
「話の続きは? この後はどうなる?」
そうそう、この反応が見たかったのだ。恋愛ものをチョイスしようと思い立ったはいいが、この世界には子供向けの寓話自体が希少だった。そこで思いついたのが、物語の「逆輸入」だ。
(俺が知ってる現実世界の童話なら、花鶏の気を惹けるんじゃないか?)
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だが妹リディアナが王太子の許嫁でありながら、王太子が心奪われたのは庶民の少女リーシャ・グレイヴェル。
嫉妬と憎悪が社交界を揺るがす愚行へと繋がり、王宮での婚約破棄、王の御前での一族追放へと至る。
混乱の只中、妹を庇おうとするレイモンドの前に立ちはだかったのは、王国騎士団副団長にしてリーシャの異母兄、ヴィンセント・グレイヴェル。
琥珀の瞳に嗜虐を宿した彼は言う――
「この才を捨てるは惜しい。ゆえに、我が手で飼い馴らそう」
知略と支配欲を秘めた騎士と、没落した宰相家の天才青年。
耽美と背徳の物語が、冷たい鎖と熱い口づけの中で幕を開ける。
転生したら、主人公の宿敵(でも俺の推し)の側近でした
リリーブルー
BL
「しごとより、いのち」厚労省の過労死等防止対策のスローガンです。過労死をゼロにし、健康で充実して働き続けることのできる社会へ。この小説の主人公は、仕事依存で過労死し異世界転生します。
仕事依存だった主人公(20代社畜)は、過労で倒れた拍子に異世界へ転生。目を覚ますと、そこは剣と魔法の世界——。愛読していた小説のラスボス貴族、すなわち原作主人公の宿敵(ライバル)レオナルト公爵に仕える側近の美青年貴族・シリル(20代)になっていた!
原作小説では悪役のレオナルト公爵。でも主人公はレオナルトに感情移入して読んでおり彼が推しだった! なので嬉しい!
だが問題は、そのラスボス貴族・レオナルト公爵(30代)が、物語の中では原作主人公にとっての宿敵ゆえに、原作小説では彼の冷酷な策略によって国家間の戦争へと突き進み、最終的にレオナルトと側近のシリルは処刑される運命だったことだ。
「俺、このままだと死ぬやつじゃん……」
死を回避するために、主人公、すなわち転生先の新しいシリルは、レオナルト公爵の信頼を得て歴史を変えようと決意。しかし、レオナルトは原作とは違い、どこか寂しげで孤独を抱えている様子。さらに、主人公が意外な才覚を発揮するたびに、公爵の態度が甘くなり、なぜか距離が近くなっていく。主人公は気づく。レオナルト公爵が悪に染まる原因は、彼の孤独と裏切られ続けた過去にあるのではないかと。そして彼を救おうと奔走するが、それは同時に、公爵からの執着を招くことになり——!?
原作主人公ラセル王太子も出てきて話は複雑に!
見どころ
・転生
・主従
・推しである原作悪役に溺愛される
・前世の経験と知識を活かす
・政治的な駆け引きとバトル要素(少し)
・ダークヒーロー(攻め)の変化(冷酷な公爵が愛を知り、主人公に執着・溺愛する過程)
・黒猫もふもふ
番外編では。
・もふもふ獣人化
・切ない裏側
・少年時代
などなど
最初は、推しの信頼を得るために、ほのぼの日常スローライフ、かわいい黒猫が出てきます。中盤にバトルがあって、解決、という流れ。後日譚は、ほのぼのに戻るかも。本編は完結しましたが、後日譚や番外編、ifルートなど、続々更新中。
悪役神官の俺が騎士団長に囚われるまで
二三@冷酷公爵発売中
BL
国教会の主教であるイヴォンは、ここが前世のBLゲームの世界だと気づいた。ゲームの内容は、浄化の力を持つ主人公が騎士団と共に国を旅し、魔物討伐をしながら攻略対象者と愛を深めていくというもの。自分は悪役神官であり、主人公が誰とも結ばれないノーマルルートを辿る場合に限り、破滅の道を逃れられる。そのためイヴォンは旅に同行し、主人公の恋路の邪魔を画策をする。以前からイヴォンを嫌っている団長も攻略対象者であり、気が進まないものの団長とも関わっていくうちに…。
キュートなモブ令息に転生したボク。可愛さと前世の知識で悪役令息なお義兄さまを守りますっ!
をち。「もう我慢なんて」書籍発売中
BL
これは、あざと可愛い悪役令息の義弟VS.あざと主人公のおはなし。
ボクの名前は、クリストファー。
突然だけど、ボクには前世の記憶がある。
ジルベスターお義兄さまと初めて会ったとき、そのご尊顔を見て
「あああ!《《この人》》、知ってるう!悪役令息っ!」
と思い出したのだ。
あ、この人ゲームの悪役じゃん、って。
そう、俺が今いるこの世界は、ゲームの中の世界だったの!
そして、ボクは悪役令息ジルベスターの義弟に転生していたのだ!
しかも、モブ。
繰り返します。ボクはモブ!!「完全なるモブ」なのだ!
ゲームの中のボクには、モブすぎて名前もキャラデザもなかった。
どおりで今まで毎日自分の顔をみてもなんにも思い出さなかったわけだ!
ちなみに、ジルベスターお義兄さまは悪役ながら非常に人気があった。
その理由の第一は、ビジュアル!
夜空に輝く月みたいにキラキラした銀髪。夜の闇を思わせる深い紺碧の瞳。
涼やかに切れ上がった眦はサイコーにクール!!
イケメンではなく美形!ビューティフル!ワンダフォー!
ありとあらゆる美辞麗句を並び立てたくなるくらいに美しい姿かたちなのだ!
当然ながらボクもそのビジュアルにノックアウトされた。
ネップリももちろんコンプリートしたし、アクスタももちろん手に入れた!
そんなボクの推しジルベスターは、その無表情のせいで「人を馬鹿にしている」「心がない」「冷酷」といわれ、悪役令息と呼ばれていた。
でもボクにはわかっていた。全部誤解なんだって。
ジルベスターは優しい人なんだって。
あの無表情の下には確かに温かなものが隠れてるはずなの!
なのに誰もそれを理解しようとしなかった。
そして最後に断罪されてしまうのだ!あのピンク頭に惑わされたあんぽんたんたちのせいで!!
ジルベスターが断罪されたときには悔し涙にぬれた。
なんとかジルベスターを救おうとすべてのルートを試し、ゲームをやり込みまくった。
でも何をしてもジルベスターは断罪された。
ボクはこの世界で大声で叫ぶ。
ボクのお義兄様はカッコよくて優しい最高のお義兄様なんだからっ!
ゲームの世界ならいざしらず、このボクがついてるからには断罪なんてさせないっ!
最高に可愛いハイスぺモブ令息に転生したボクは、可愛さと前世の知識を武器にお義兄さまを守りますっ!
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ご拝読頂きありがとうございます!
コメント、エール、いいねお待ちしております♡
「もう我慢なんてしません!家族からうとまれていた俺は、家を出て冒険者になります!」書籍発売中!
連載続いておりますので、そちらもぜひ♡
悪役令嬢の兄に転生!破滅フラグ回避でスローライフを目指すはずが、氷の騎士に溺愛されてます
水凪しおん
BL
三十代半ばの平凡な会社員だった俺は、ある日、乙女ゲーム『君と紡ぐ光の協奏曲』の世界に転生した。
しかも、最推しの悪役令嬢リリアナの兄、アシェルとして。
このままでは妹は断罪され、一家は没落、俺は処刑される運命だ。
そんな未来は絶対に回避しなくてはならない。
俺の夢は、穏やかなスローライフを送ること。ゲームの知識を駆使して妹を心優しい少女に育て上げ、次々と破滅フラグをへし折っていく。
順調に進むスローライフ計画だったが、関わると面倒な攻略対象、「氷の騎士」サイラスになぜか興味を持たれてしまった。
家庭菜園にまで現れる彼に困惑する俺。
だがそれはやがて、国を揺るがす陰謀と、甘く激しい恋の始まりを告げる序曲に過ぎなかった――。
悪役令息の七日間
リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。
気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】
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