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第二章 花鶏
「花鶏」という名は、彼の生みの母が付けた。彼女の名は朝月夜。没落した地方貴族の娘で、奉公先の多々良姫に仕えていた。彼女が十六歳の時、多々良姫が側室として後宮入りし、彼女もそれに付き従った。
表向き、花鶏は多々良姫と皇帝・紫雲の間に生まれた子だ。しかし、実際は皇帝が朝月夜に産ませた双子を、多々良姫が偽って自分の子としたのではないか、とまことしやかに囁かれていた。
多々良姫の出産後、朝月夜が後宮から消息を絶ったことも、ほどなく知る人ぞ知るところとなった。
この件はシナリオには深く関与しないので、蘇芳も設定資料集で事実を知ったに過ぎない。それによると、多々良姫は朝月夜が産んだ双子の赤ん坊を無理やり彼女から取り上げて、自分の立場を優位にしようとしたらしい。
側室であろうが、次期皇帝となる可能性がある男児を産めば、正妃と並ぶ権力を持つ。この時、すでに皇位継承が目された皇子は二人いたが、先のことは誰にも断言できない。周りに怪しまれながらも十月十日、身重のふりをし続けた多々良姫は大したものだ。
ともあれ、母親から意に染まぬ形で奪われた双子の赤ん坊は四歳まで、多々良姫とお付きの者たちによって掌中の珠のごとく大切にされ、それは今後も続くと思われた。
双子の運命が変わったのは、五歳を迎えた年だった。
多々良姫の父親が、不祥事を起こして失墜した。波紋は一族全体に及び、後ろ盾をなくした多々良姫がいくら皇子を擁立しようとて、もはや立場を保てる状況ではなくなったのだ。
後ろ盾をなくした姫が後宮で生きていくことは生半可なことではない。しかも苦心して手元で養育した赤ん坊は、自分を差し置いて側仕えの女が皇帝の寵を得てできた子供である。
子供たちは、多々良姫にとって無用の長物となった。花鶏の人生は、この瞬間歯車が狂ったと言っていいだろう。実母の記憶はなく、多々良姫を母と慕っていた花鶏たち双子を気に掛ける者は誰もいなくなった。
正妃が産んだ皇子が一人、もう二人の側室にも男児が一人ずついる状況では、没落の憂き目を見た側室の皇子皇女など、どれほどの価値があるのか。
後宮において、誰を支持するのか、これに勝る重要な選択はない。見誤れば、自分や一族が路頭に迷うこともあり得るからだ。
だからこそ、花鶏たち姉弟は放逐された。最低限の世話だけを受け、仮にも皇帝の血を引いているのは間違いのない尊い身でありながら、荒れた後宮の片隅で飢えと寒さを味わった。
この時、すでに多々良姫は心を病んでおり、花鶏たちを直接苛むことも珍しくなかった。諫める者はおろか、前途のない主人を見限って古参の使用人まで主のもとを去る始末だった。後宮の一画で、身分の低い下人にまで無視されること数年。
さらなる決定的な不幸は、花鶏たちが八歳の時。唯一の片割れである双子の姉、花雲が病死したことによって、幼い皇子の心身は完全に崩壊した。
お互いだけが心の支え。この世でただ一人の愛する家族。優しい姉。
(これがきっかけで、花鶏は心の底ですべての人間を憎んでいるんだよな。江雪以外は)
ゲームの設定とはいえ、酷な人生だ。
そんな彼を救って、自分の手元での養育を買って出たのが、他ならぬ江雪だった。姉以外で唯一、幼い少年を認めて、励まし、慈しんで、皇帝にまで押し上げた男。いっそ実の父親よりも慕っていたはずだ。結局、用済みになって毒殺されるのだが。
(手を下すのは俺なんだよな……。俺というか、〈蘇芳〉だけど)
早朝。蘇芳は知識を整理しながら、早蕨に手伝わせて着替えをしつつ、やるせなく溜息を吐いた。
「お気に召しませんか?」
帯を結んでくれていた早蕨に訊ねられて、え、と首を傾げた。ややして、〈蘇芳〉がかなりの着道楽で、用意された衣装に毎回ごちゃごちゃ文句をつける習慣があったのを思い出した。蘇芳の溜息を、用意した衣装が気に入らないせいだと思ったらしい。
芦屋自身は着るものにはそれほど拘りがなく、品質が良いもの数着を着回していた。その方が楽だからだ。〈蘇芳〉との価値観の違いはこんなところにも転がっている。
「いや、これで構わない。殿下に目通りするから、髪も適当に結ってもらえるか」
「江雪様とのお約束の時間はどうなさるのですか?」
「まだ早いから、先に殿下にご挨拶してから向かおう。先触れをしておいてくれ」
早蕨はおや、という顔をした。彼の考えている内容が手に取るように分かる。
珍しいこともあるものだ。これまで一度も、先触れなんてしたこともない癖に――とまあ、そんなところだろう。
(まずはこれを何とかしなくちゃいけないよな。仮にも皇族に対して、蔑ろにして当然って風潮が浸透してるのはまずいだろ)
長く艶のある黒髪を耳の後ろから掬うようにして後頭部でまとめ、翠玉をはめ込んだ冠でまとめると、貴族の青年文官「蘇芳」の完成だ。
さて、気合を入れるとしよう。何せこちらは一応「予習」もばっちり。だが油断は禁物だ。どんな仕事もミスをした後のリカバリーは早急な着手が望ましい。
花鶏が江雪の邸宅に保護されて半年足らず。
可哀想な少年の洗脳を解いて、まっとうで健やかな大人にすべく布石を敷いてやるには、たっぷり時間が残されているはずだった。
「殿下。蘇芳様がご面会の許可に使者を遣わしてまいりました。いかがされますか」
家僕の言葉に、少年は黴臭い湿った寝台の上でたちまち表情を強張らせた。思わず全身に力が入り、背中には嫌な汗も流れてくる。
江雪が言うには、自分は病気で、回復するまで日光は浴びない方が良いらしい。そのため部屋は窓がない半地下にあり、いつも薄暗かった。
もし明るければ、少年の顔にまぎれもない嫌悪が浮かんでいるのが分かっただろう。
その、嫌悪の根源とも言うべき男が、ここに向かっているという。
しかも、普段はしない先触れをして。まるで貴人に対して礼儀を尽くすように。
ここで否と言う権利は自分にはない。奴の前で生意気な態度を取り、少しでも機嫌を損ねたり怒らせたりすれば、どんな仕打ちがあるか、もう知っている。
真っ暗闇の地下室に一昼夜放り込まれたことはまだ我慢ができた。が、大きな酒樽に鼠と一緒に閉じ込められた時は――。前の晩に、鼠を使って罪人を拷問する話を蘇芳本人から聞かされたばかりだった。泣いてここから出してくれと懇願したが、当然のごとく無視された。
それ以来、蘇芳は花鶏にとって抗えない恐怖の象徴となった。みっともなく泣く姿を見られたことが、憎しみの火に油を注いだ。
後宮にいた頃は母親でさえ花鶏たちを蔑ろにしたが、どちらかと言えば無視して放っておかれることが多かった。何故、それまで会ったこともない蘇芳から執拗に加虐されるのか花鶏には理解できず、不可解な執着が気味悪かった。
――半刻後。
薄暗がりを優雅に歩んできた蘇芳は、部屋に入るやいなや、寝台の上の花鶏と目が合うよりも早く床に叩頭した。
花鶏は驚きのあまり身体が硬直した。そんな真似、江雪以外にされたことがなかった。ましてや蘇芳なら、死んでもしないはずだった。
すぐに視線を合わせずに済んだおかげで、よくよく蘇芳を観察できた。これまで、二人の間には一方的な加虐の空気が張り詰めていて、そんな余裕はなかったのだ。
蘇芳の雰囲気はいつもと違っているように思えた。何が、と言われてもすぐには言葉にできないが。
床の上に広がった淡い浅黄色の裾と、藍色の帯、綺麗に結われた長い艶のある黒髪。
いつもの華美な衣装ではない。むしろ地味と言っていい色合いだ。帯玉も重ね襟も、その他の宝飾も精緻な刺繍もない。案内してきた家僕も変化を感じ取ってか、ちらちらと蘇芳を盗み見ている。
身なりが簡素になったといえばそれまでだが、普段の蘇芳を知る者からすると、纏う雰囲気が一変して見えた。
「殿下」
呼ばれて、花鶏はハッとした。花鶏を呼んだのは蘇芳ではなく、部屋の隅に控えた家僕だ。
「……顔を上げてよい」
花鶏は警戒しながら声を振り絞った。
蘇芳がゆっくりと顔を上げて花鶏を見た。その瞬間、何故か驚いたような表情が青年の美しい顔に浮かんだ。
見開いた目と、小さく息を呑む気配。
「――?」
訝しむ少年の前で、なんと彼の仇敵は突然ホロ、と涙を零した。
――就寝前。
蘇芳は寝間着に着替えて寝台に横になっていた。
場所は江雪邸に間借りした部屋ではなく、城下にある古い民家だ。入れ替わったその日のうちに、蘇芳は江雪邸から、古いが周囲の目を気にしなくて済むこの「自宅」へ移り住んだ。長らく不在にしていた割には、家の中は埃も積もっておらず綺麗な状態だった。早蕨が何度か掃除に通ってくれていたおかげである。
江雪邸にあったような豪華な造りの寝台ではないが、蘇芳にはこれで十分だった。眠りに落ちる前に、花鶏との対面について思い返す。
江雪は何故、決して快適とは言えない穴倉のような半地下に花鶏を住まわせ、見張りを立てて出歩けなくさせているのか。まともな人間が見たら、誰だっておかしいと思うはずだ。放逐され、後ろ盾がないとはいえ、少年は皇位継承権三位の身である。
答えは明白だ。江雪は花鶏を支配下に置き、いずれ来るべき時に向けて、自身の傀儡として操る準備をしている。このまま行けば、花鶏は江雪の思惑通り兄皇子と対立し、挙句の果てに自身も江雪に毒を盛られてしまう。
〈蘇芳〉が江雪の目を盗んで皇子を虐待していたという事実は、江雪には筒抜けだったろう。むしろ好都合だったはずだ。虐げる者の存在により、江雪の慈愛は花鶏にとってまさに天からのクモの糸にも等しかったに違いない。
江雪にとって使い捨ての駒に過ぎなかったという点では、〈蘇芳〉も花鶏と同じだった。
目下、江雪が花鶏を引き取り、軟禁し始めて半年ほど経っている。その間、蘇芳は大なり小なり陰湿な虐待で少年を傷つけてきたはずだ。
(見た感じだと、怪我の類はなかったな。さすがに周りの目もあるから当然か。でも服の下や見えない場所に痣があるのは、虐待事件でよくあるケースだ)
少年がこのまま江雪によって洗脳されて闇落ちしたとしよう。ゆくゆくは残虐な王となって人民を虐げ、江雪に処刑される。最後には蘇芳も同じ末路を辿ることになるだろう。
話自体は簡単なのだ。要は、少年が悪に染まらなければいい。
十歳の子供を純粋なまま育てて、大人になったら放流してやればいい。そこから先は兄の雨月皇子を支える皇族臣下になるもよし、領地に引っ込んで美人の嫁さんや、場合によっては側室を迎えて悠々自適に暮らすもよし。好きにやってくれて構わない。
その時には、蘇芳も元の世界に戻る何らかの方法を見つけられていれば万々歳だが、贅沢は言わない。少なくとも処刑ルートを回避できれば、いかようにも道は開けるはずだ。
しかし障害もある。
江雪の目がある中で、突然それまでの態度を翻して花鶏を保護するのは容易ではないだろう。絶対に怪しまれる。裏切りがバレたら、江雪は子飼いの蘇芳にも何をするか分かったものではない。
(本当ならすぐにでもこの家に花鶏を連れてきたい……けど、一介の官吏が皇子の身柄を引き受けるなんて到底無理だ)
そうなると、せめて江雪に悟られぬように陰ながら花鶏を支えてやって、何とか持ち堪えさせるしかないのか。
今日は花鶏に面会したものの、盛大に失敗してしまった。せっかく簡素な服に着替えて、印象操作を狙うつもりだったのに。
気休めに過ぎないが、見た目の印象というのは結構強いのだ。その違和感に気を取られているうちに、どさくさに紛れて人払いしてから花鶏に謝罪し、じわじわ懐柔していくつもりだった。
けれど、いざ小さな花鶏を目の前にした瞬間、蘇芳は思考停止に陥ってしまったのだ。
子供が酷い扱いを受けて荒んだ目をしていることに、現代人の心が予想外にショックを受けてしまったのかもしれない。そうでなければ、いきなり花鶏の姿を見ただけで涙が流れた件に説明がつかなかった。
いくら目の前で動いて喋っていても、花鶏もまた「ゲームのキャラクター」の一人に過ぎないというのに。
(虐待を受けてきた子供って、あんなに生気がないものなのか……)
結局、用意していた口上は吹っ飛んで、いきなり大の男が涙を零して慌てて立ち去るという奇行に走ってしまった。最悪だ。
花鶏からすれば挙動不審極まりない。初手から失敗した。
しかし挫けるわけにはいかない。なんてったって、こちらも命が懸かっているのだ。
一朝一夕にはいかないことは百も承知だが、開き直って着手するしかない。
花鶏との二度目の対面は、思いのほか早く叶った。というのも、蘇芳の方でぐずぐずしていたら、向こうの家僕から催促があったのだ。
用向きはこうだった。
『薬はご用意できていますでしょうか。間が空くと殿下のお身体によくありません。二日は空けずにお持ちいただく約束であったと存じます』
(くすり? 薬ってなんだ?)
嫌な予感がした。そしてすぐにハッと思い当たった。
(薬ってあれのことか!)
ゲームには登場しない、原作小説でのみ触れられていた内容だったので失念していた。
(俺としたことが、原作の方を忘れるなんて迂闊だった!)
「薬」の原材料は通称、花柳草と呼ばれている。名前から連想される通り、かつて娼館が遊女たちに用いたとされる洗脳薬だった。
表向き、虚弱体質の花鶏に処方する滋養薬と言われているが、その実態は花柳草の根と、滋養強壮に効くとされる生薬を混ぜ合わせたもので、江雪はこれを頻繁に花鶏に与えるよう、蘇芳に命じていた。
日頃から少量ずつ摂取させることで、慢性的な思考力の低下、無気力、不眠などの症状を引き起こす。
この間、外部からの刺激に過敏に反応するようになるため、接し方によっては強い依存心を植え付けることもできた。
江雪は自分で調合したこの薬――毒を、必ず蘇芳手ずから花鶏に飲ますよう厳命した。
もちろん、後々毒の存在が露見したりした際、罪を蘇芳に被せて自分はしらを切るためだ。江雪を盲信していた蘇芳はそんなこととは露ほども思わず、花鶏に飲ませていた。
(この薬のせいで、花鶏は〈後嗣の儀〉に出たのに、霊獣を呼び出すことができなかったんだよな)
この世界では、皇族は生まれつき神力を備えている。
それは身体の中を巡る「気力」のようなもので、基本的には生まれ持った資質に左右され、さらに心身の力が横溢していればいるほど強く発露する。この神力がどれほどのものか臣民に示すことが、王として選ばれるための布石になると言ってよかった。
〈後嗣の儀〉は、予定では今から四年後、花鶏が満十四歳を迎える年に、国の重鎮たちが観覧する中で執り行われる盛大な式典だ。
花鶏は長い軟禁生活で体力も気力も弱っていた。外見も実年齢より小さく見えた。それでも、〈後嗣の儀〉の舞台に上がる権利を父帝から与えられて、内心では喜んでいたに違いない。この辺はゲームにも原作にも描かれないから、蘇芳の想像でしかないが。
他の皇子たちが霊獣の召還を成功させる中、最後に壇上に上がった花鶏の呼びかけに応える霊獣はおらず、小さな彼は観衆の前で一人、頭を垂れて恥辱に耐えるしかなかった。
ゲームではそのことを知っても、本筋と関係ないただの補足事項にしか思っていなかった。何なら薬のことだって忘れていた。でも、今は実在の花鶏がいるのだ。この小さな子供が、近い将来そんなみじめで辛い思いをするとわかっているのに、何も思うなという方が無理な話だ。
「殿下、本日は薬をお持ちしました」
蘇芳は小瓶に入った液体を茶器に注いだ。黒っぽい液体を杯の半分ほど満たすと、ツンと鼻を刺す匂いがした。
花鶏は前回と同様に寝台の上で半身だけ起こして、暗い表情で杯を見つめた。傍らの椅子に腰かけて差し出す蘇芳の顔は見ようとしない。
やがて諦めたように受け取ると、鼻の頭にしわを寄せて、健気にも飲み下そうとする。
「お待ちください、殿下」
蘇芳が小さな手を押しとどめた。急に触れられたことに対する緊張で花鶏がびくりと固まった。幼い瞳が訝しそうに蘇芳を見上げる。
「何をしている。お毒見役はどうした」
蘇芳の居丈高な声は、後方に控えていた家僕の男に向けてのものだった。
「へ、あ、毒見でございますか?」
おろおろと蘇芳を見ている。
「当然だ。殿下が口にされる食べもの、飲みものにはすべて毒見が必要だ。何を驚いている」
「え、でもそんなこと、これまでは……」
ごもっともである。むしろ嬉々として毒を盛っていそうな相手が突然毒見を用意しろとは、意味が分からなくて当然だ。
「それについては私も気が利かなかった」
「え、はあ」
「私や江雪殿の目の届く場所で殿下に毒を盛るような不埒な輩はいないだろう」
「も、もちろんでございますとも」
「だが、それ以外の者はどうだ?」
え、と家僕が言葉に詰まる。何を言われているのか理解できないという顔だ。
「たとえば、ここに出入りしていた若い娘だ……帆世といったか」
花鶏がピクリと反応したが、気付かない振りをした。
「帆世、ですか? あの娘が何か」
「下働きの下女の身分をわきまえず、随分と殿下に馴れ馴れしくしていた。殿下が年若く身分を鼻にかけないことを理由に侮っていたのだろう。まだ世間を知らぬ娘とはいえ、少々度が過ぎたので私が江雪様に上申してお役御免にしたのだが」
花鶏がぎゅっと布団の端を握り込んだ。
(優しくしてくれた唯一の人間を悪し様に言われるのは嫌だよな。ごめんな)
今ここにいない帆世を貶めてでも、この薬――いや、毒は飲ませられない。
「その娘が毒見と何の関係が? まさか、帆世が毒を盛っていたとでも?」
「そんなことありえない! でたらめ言うな」
我慢できないとばかりに、花鶏が声を荒らげた。家僕は驚いたように少年を見たが、すぐに煩わしそうに顔をしかめた。
蘇芳は家僕のあからさまな態度に嫌な感情がせり上がってくるのを堪え、先を続けた。
「殿下、落ち着いてください。私はそんなことは思っておりません」
花鶏は不安そうな、怒りと焦りが滲む目で蘇芳を見つめている。そこには追い詰められた鼠が猫を前にして怯えているような痛ましさがあった。
蘇芳は少年を見つめ返して、ゆっくり言葉を紡いだ。
「殿下。私の宮中での仕事は、この国で起こる巫術に関する様々な事件を取り締まり、悪用した者を処罰することなのです」
花鶏はそれまでの怯えとは別の不安を顔にのせた。いきなり何の話が始まったのか、ついていけなくて混乱している様子だ。
「……巫術」
「そうです。殿下のような皇族の方がお持ちの神力には及びませんが、私たち瀧華国の民の中には、大気の中に漂うとてもたくさんの塵を操って、まじないができる者もいるのです。ご存知ですか?」
花鶏は躊躇いがちに頷いた。
「聡明でいらっしゃいますね、殿下」
蘇芳が微笑むと、少年が驚きに目を見開く。
「神力ほど偉大な力ではないので、占いができたり、ちょっとした怪我や病気を治したり、簡単な先見をしたり。そんな程度のものですが、中には何人も集まって、操る塵の量を増やして悪いことをしようとする奴らがいるのです」
蘇芳は言葉を切って、茶器に入った液体に目を落とす。家僕と花鶏、二人の視線もつられたようにそちらへ向かった。
「少し前、城下で蟲除けの札と偽って、実際には家の者たちが病にかかるまじない札を売っている悪い奴らが捕まりました」
「……むし」
独り言のように花鶏が呟く。すぐにハッとして俯いてしまった。まるで蘇芳からの攻撃を恐れるかのように。
「〈蟲〉というのは、昆虫のことではありません。殿下」
花鶏はまたしても驚いて蘇芳を見上げた。
敵であるはずの男が、今日はやけに優しい。果ては教師のように花鶏の疑問を拾って教えまでしてくる……何故なのか。そんな戸惑いが蘇芳にも伝わってきた。
「〈蟲〉も、元は巫術の一種なのです。ただし巫術を悪用したり、人を殺めたりすること……もっと分かりやすく言えば、巫監術府が認可していない巫術は、すべて〈蟲術〉と呼ばれて処罰の対象になります」
こほん、と咳払いする。
「とにかく、そういう悪い奴らが今、城下で民を苦しめています。その中の下っ端何人かが、捕史に捕まりました」
それまで黙っていた家僕が、苛立ったように口を挟んだ。
「蘇芳様、話が見えません。市井の捕りものと今回の毒見とが、何の関係があるのです?」
蘇芳はじろり、と肩越しに男を睨んだ。
「私は今殿下と話しているのだ。私の話を遮るは、殿下に対する無礼でもある。わかっているのか」
背後が静かになったので、蘇芳は驚いた様子の花鶏ともう一度目を合わせた。
「〈蟲〉は巫術を悪用した人為的なものがほとんどですが、稀に自然発生する場合もあります。それらは大抵、水害や疫害の形を取り、酷ければ〈水蟲〉や〈疫蟲〉と呼ばれ、我々巫監術府の職員が対処します」
〈蘇芳〉の知識が脳内に流れ込んできて、こうして必要な時に引っ張り出せるのは便利だが、まるで目の前の花鶏たちを騙しているような気分だ。居心地の悪さを無視して、説明を続けた。
「そうした〈蟲〉を防いで安全に暮らすために、行政は各家に〈蟲札〉を発行して年の初めと半年後に配ります。まあ実際は、使わずに済んで紙が古びて効力がなくなることが多いですね。滅多に〈蟲〉の被害などないので」
ちらっと花鶏を窺うと、突然わけのわからない話をされたにもかかわらず、戸惑いつつも耳を傾けてくれていた。根が素直な子なのかもしれない。もしも蘇芳が教師だったら、クラスにこんな子が一人でもいてくれたら授業がしやすそうだ。
「ところが今年の半ば、城下で何件か続いて〈蟲〉の被害がありました。被害を受けたのはどれも羽振りの良い商家や、貴族。ちょうど二回目の配布前だったので、追加の注文が間に合わずに効力の弱まった蟲札でしのいでいたのですが」
蘇芳は一度言葉を切って、もったいつけるように一呼吸置いた。
「そこへ新しく強い蟲札をやると言って、さっき話した悪い奴らが法外な値段で札を売りさばいていたのです」
買い手は裕福な商人や貴族だから、凶事が起こるよりは、家人が病気になるよりはと言い値で買った。
「殿下はこれをどう思われますか?」
そんな風に質問されると考えていなかったのだろう。花鶏はおどおどと目を泳がせた。
「……いけないことだと思います。でも、勝手にまじないを作ったり、売ったりすることは法で禁じられているわけじゃないから……?」
蘇芳は頷いた。
「そうですね。確かに、我が国の法はそこまで厳しく取り締まってはいません。では、何故捕まったのかというと、その札が全く効力のない偽物だったからなのです」
「……本物を作れないから、偽物を売ってお金を騙し取った?」
「いいえ、札は本物でした」
花鶏が何か言おうとしたのを遮って、蘇芳ははっきり口にした。背後にもよく聞こえるように。
「あれは蟲札ではなく、徳の高い人物を呪うための呪殺の札です」
花鶏の目が大きく見開かれる。
瀧華国含め、この世界の大陸には四つの国がある。
春夏秋冬をイメージしたと思われる各国には異なる民族が暮らしているが、呼び方は違えども、国民は巫術――大気中の神気を帯びた塵を操るまじないの力を持っている。能力には個人差があるため、ほとんどは生きていく上で支障がない代わりに、恩恵もない。ごく稀に力が強い者が巫術師として巫監術府の傘下に入り、国のために働くくらいだ。
ちなみに皇族が神力を持つのは、大陸の中でも瀧華国だけだ。蘇芳に言わせれば、これはいわゆるご都合主義である。
「今回、捕らわれた者たちの中に草見という名の男がいました。調べたところ、帆世はその男の遠縁に当たります」
ここにきて、やっと話がつながった。少なくとも花鶏と家僕はそう思ったはずだ。
間違ってはいないが、蘇芳にとっては帆世も草見も、正直どうでもいい。
そもそも、二人の血縁関係など、全部蘇芳のでっち上げだ。裏を取られたら困るが、幸いにして帆世は行方を眩ましているし、目の前の二人がわざわざ追及するとは思えない。蟲札の件にしたって、全部が嘘とは言わないが、巫術を悪用したこの手の犯罪は今に始まったことではないし、毒見の口実に仕えそうな案件は何かないかと探るうちに引き当てただけだった。
要は九割方、蘇芳の口から出たでまかせである。
「帆世が花鶏殿下のお命を狙っていたと? いやしかし、そんなことが……」
家僕が訝しむのも当然だ。花鶏は今の時点ではまだ〈後嗣の儀〉に参加を許されるかも怪しい。母親の身分は低くなかったが、今は没落して後ろ盾もない。
虚弱で神力も弱く、江雪の庇護で何とか生きながらえているようなもの。わざわざ呪殺を企てて間者を忍び込ませて、誰が得をする?
「失礼ですが……本当に帆世が殿下を? 誰の差し金で、それに何の目的で」
「それは知らん」
「は?」
蘇芳は呆れる家僕に胸を張ってみせた。はったりをかます時ほど、堂々としている必要がある。さもお前が間違っているんだぞと決めつけるように、蘇芳は家僕を見つめ返した。
「帆世が本当に殿下に危害を加えようとしたのか、それは分からん。だが問題なのは、当の本人が行方を眩まし、かつ私が調べるまで、誰もこのことに気付かなかったということだ」
「え」と花鶏が声を上げた。彼は今まで、帆世を遠ざけたのが〈蘇芳〉だと思っていたのだから驚いて当然である。実際、記憶がないから断言できないが、〈蘇芳〉がそうさせたのだろうと思う。ここで言う蘇芳とは無論、芦屋が入れ替わる前の〈蘇芳〉だ。
「これまで殿下の身辺に置く者は江雪殿の采配で人選されておりましたので、私も特に気に留めておりませんでした。ですが今回のことがあって、もしも大事な殿下の身に何か起きれば取り返しがつきません。今後、殿下のお世話をする者は来歴や人物を調査し、本心から殿下に仕える者のみをお傍に置くべきかと存じます」
束の間、白けた空気が室内に漂った。
――その場合、真っ先に追い出されるのはお前ではないのか?
そんな声が聞こえてきそうだったが、気にしてはいられない。
さりげなく江雪の株を下げておこうという目論見もあったが、さすがにそれは欲張りだろう。まだ十歳の子供にこちらの意図が通じるとは思えなかった。
「殿下の身辺を今一度、安全に整える必要があると思うのですが、いかがでしょうか」
「僕は……僕のことは全部、江雪様が」
「殿下」
蘇芳は優しく、けれどもきっぱりと言葉を被せた。ここで言いくるめて、少年の言質を取っておく必要がある。
「江雪殿は殿下の後ろ見ですが、臣下の一人に過ぎないことをお忘れなきよう」
「臣下……」
「そうです。この私も殿下より下の身分です。そのうち、おいそれと殿下と言葉を交わしたり会ったりすることもできなくなります」
花鶏は、この日一番驚いた顔を見せた。そんなことは思ってもみなかったという表情で蘇芳を凝視している。
外側からストレスを与えられ続けている人間は、得てして今より先のことを想像できないことが多いと、何かで読んだ記憶があった。
辛い時期に誰も助けてくれない状態で長く過ごしていると、その状況からの脱却や改善がイメージできなくなる、というのだ。
できないから、自分の心の方を麻痺させる。そうすることで、少しでも苦痛をしのげるように誤魔化す。
今の花鶏の心理状態はまさにそれだろう。それに加えて、少量ずつ花柳草の毒を摂取することで、神経衰弱と鬱が促進されつつある。
「お側仕えの者たちのことは、いったん私から江雪殿に上申いたしましょう。取り急ぎこの薬は」
蘇芳は茶器を自分の方に引き寄せた。
「私が毒見役を勤めましょう」
(……気持ち悪い)
蘇芳は苦悶の表情を浮かべ、床に置いた盥の上に覆い被さった。喉の奥に指を突っ込んでは、胃の中のものを吐き出す。水を飲む。また指を突っ込んで吐く。
そうしてやっと胃の中が空っぽの状態になると、ぐったりと寝椅子の上に突っ伏した。
花柳草は常習性が低い。だから摂取自体をやめてしまえば、その効果は徐々に薄れていくし、一度口にしたくらいでは大した影響はない。
とはいえ、体内に「薬物」が残留しているのは気分の良いものではない。結局、無理にでも体外に出すことを選んだ。
水差しの水で口をゆすぎ、げっそりした顔で髪を結っていた紐を解く。はらりと解放された長髪が背中に落ちた。
(あの子はどれくらいの期間、薬を飲んでいるんだっけ?)
ざっと指を折って計算してみる。
(えっと、俺がこの世界に来たときは十歳で、江雪に引き取られて半年だから……)
常飲を始めて、およそ三ヶ月といったところだろうか。それが短いのか長いのか、蘇芳には判然としなかった。
ゲームの中では特に言及されていないが、普通に考えれば継続して薬を盛られていただろうから、十八歳くらいまでは薬漬けだったということになる。
それを思えば、この時期から摂取量を減らせただけでも多少はマシと言えるだろう。
――量を減らす。
それこそが蘇芳の当面の目的だった。常飲をやめさせたいのはやまやまだが、すぐには実行できない。
毒見役を引き受けるまでは予定通りだったが、いざ飲んでみて蘇芳は思った。これを毒だと騒ぎ立てるのは無理がある、と。味も匂いも不審な点はなく、しかも効果は遅効性ときている。蘇芳が毒だと騒ぎ立てても、誰も取り合ってくれないどころか、江雪に蘇芳の離反がバレてしまう可能性の方が高い。
(もういっそ、俺が全部飲んで空の杯をあの子に渡すとか?)
――いや、無理だ。
(あの子は江雪を疑ってないし、そんなことしたらさすがに不信がって江雪に告げ口するに決まってる)
花鶏の中では江雪が味方で、蘇芳は敵なのだ。これに関しては、余計な真似をして足を引っ張ってくれた本物の〈蘇芳〉をぶん殴りたい。
蘇芳との関係性がプラスとはいかずとも、せめてゼロだったら、花鶏に江雪の真意を伝えて、二人で協力して状況を打開できたかもしれないのに。
(落ち着け。まだチャンスはある。むしろ今までどん底だった分、ここからの蘇芳は花鶏にとって好感度プラスにしか転じないぞ)
こうやって無理にでも自分を鼓舞しなくてはやっていられない。
「花鶏」という名は、彼の生みの母が付けた。彼女の名は朝月夜。没落した地方貴族の娘で、奉公先の多々良姫に仕えていた。彼女が十六歳の時、多々良姫が側室として後宮入りし、彼女もそれに付き従った。
表向き、花鶏は多々良姫と皇帝・紫雲の間に生まれた子だ。しかし、実際は皇帝が朝月夜に産ませた双子を、多々良姫が偽って自分の子としたのではないか、とまことしやかに囁かれていた。
多々良姫の出産後、朝月夜が後宮から消息を絶ったことも、ほどなく知る人ぞ知るところとなった。
この件はシナリオには深く関与しないので、蘇芳も設定資料集で事実を知ったに過ぎない。それによると、多々良姫は朝月夜が産んだ双子の赤ん坊を無理やり彼女から取り上げて、自分の立場を優位にしようとしたらしい。
側室であろうが、次期皇帝となる可能性がある男児を産めば、正妃と並ぶ権力を持つ。この時、すでに皇位継承が目された皇子は二人いたが、先のことは誰にも断言できない。周りに怪しまれながらも十月十日、身重のふりをし続けた多々良姫は大したものだ。
ともあれ、母親から意に染まぬ形で奪われた双子の赤ん坊は四歳まで、多々良姫とお付きの者たちによって掌中の珠のごとく大切にされ、それは今後も続くと思われた。
双子の運命が変わったのは、五歳を迎えた年だった。
多々良姫の父親が、不祥事を起こして失墜した。波紋は一族全体に及び、後ろ盾をなくした多々良姫がいくら皇子を擁立しようとて、もはや立場を保てる状況ではなくなったのだ。
後ろ盾をなくした姫が後宮で生きていくことは生半可なことではない。しかも苦心して手元で養育した赤ん坊は、自分を差し置いて側仕えの女が皇帝の寵を得てできた子供である。
子供たちは、多々良姫にとって無用の長物となった。花鶏の人生は、この瞬間歯車が狂ったと言っていいだろう。実母の記憶はなく、多々良姫を母と慕っていた花鶏たち双子を気に掛ける者は誰もいなくなった。
正妃が産んだ皇子が一人、もう二人の側室にも男児が一人ずついる状況では、没落の憂き目を見た側室の皇子皇女など、どれほどの価値があるのか。
後宮において、誰を支持するのか、これに勝る重要な選択はない。見誤れば、自分や一族が路頭に迷うこともあり得るからだ。
だからこそ、花鶏たち姉弟は放逐された。最低限の世話だけを受け、仮にも皇帝の血を引いているのは間違いのない尊い身でありながら、荒れた後宮の片隅で飢えと寒さを味わった。
この時、すでに多々良姫は心を病んでおり、花鶏たちを直接苛むことも珍しくなかった。諫める者はおろか、前途のない主人を見限って古参の使用人まで主のもとを去る始末だった。後宮の一画で、身分の低い下人にまで無視されること数年。
さらなる決定的な不幸は、花鶏たちが八歳の時。唯一の片割れである双子の姉、花雲が病死したことによって、幼い皇子の心身は完全に崩壊した。
お互いだけが心の支え。この世でただ一人の愛する家族。優しい姉。
(これがきっかけで、花鶏は心の底ですべての人間を憎んでいるんだよな。江雪以外は)
ゲームの設定とはいえ、酷な人生だ。
そんな彼を救って、自分の手元での養育を買って出たのが、他ならぬ江雪だった。姉以外で唯一、幼い少年を認めて、励まし、慈しんで、皇帝にまで押し上げた男。いっそ実の父親よりも慕っていたはずだ。結局、用済みになって毒殺されるのだが。
(手を下すのは俺なんだよな……。俺というか、〈蘇芳〉だけど)
早朝。蘇芳は知識を整理しながら、早蕨に手伝わせて着替えをしつつ、やるせなく溜息を吐いた。
「お気に召しませんか?」
帯を結んでくれていた早蕨に訊ねられて、え、と首を傾げた。ややして、〈蘇芳〉がかなりの着道楽で、用意された衣装に毎回ごちゃごちゃ文句をつける習慣があったのを思い出した。蘇芳の溜息を、用意した衣装が気に入らないせいだと思ったらしい。
芦屋自身は着るものにはそれほど拘りがなく、品質が良いもの数着を着回していた。その方が楽だからだ。〈蘇芳〉との価値観の違いはこんなところにも転がっている。
「いや、これで構わない。殿下に目通りするから、髪も適当に結ってもらえるか」
「江雪様とのお約束の時間はどうなさるのですか?」
「まだ早いから、先に殿下にご挨拶してから向かおう。先触れをしておいてくれ」
早蕨はおや、という顔をした。彼の考えている内容が手に取るように分かる。
珍しいこともあるものだ。これまで一度も、先触れなんてしたこともない癖に――とまあ、そんなところだろう。
(まずはこれを何とかしなくちゃいけないよな。仮にも皇族に対して、蔑ろにして当然って風潮が浸透してるのはまずいだろ)
長く艶のある黒髪を耳の後ろから掬うようにして後頭部でまとめ、翠玉をはめ込んだ冠でまとめると、貴族の青年文官「蘇芳」の完成だ。
さて、気合を入れるとしよう。何せこちらは一応「予習」もばっちり。だが油断は禁物だ。どんな仕事もミスをした後のリカバリーは早急な着手が望ましい。
花鶏が江雪の邸宅に保護されて半年足らず。
可哀想な少年の洗脳を解いて、まっとうで健やかな大人にすべく布石を敷いてやるには、たっぷり時間が残されているはずだった。
「殿下。蘇芳様がご面会の許可に使者を遣わしてまいりました。いかがされますか」
家僕の言葉に、少年は黴臭い湿った寝台の上でたちまち表情を強張らせた。思わず全身に力が入り、背中には嫌な汗も流れてくる。
江雪が言うには、自分は病気で、回復するまで日光は浴びない方が良いらしい。そのため部屋は窓がない半地下にあり、いつも薄暗かった。
もし明るければ、少年の顔にまぎれもない嫌悪が浮かんでいるのが分かっただろう。
その、嫌悪の根源とも言うべき男が、ここに向かっているという。
しかも、普段はしない先触れをして。まるで貴人に対して礼儀を尽くすように。
ここで否と言う権利は自分にはない。奴の前で生意気な態度を取り、少しでも機嫌を損ねたり怒らせたりすれば、どんな仕打ちがあるか、もう知っている。
真っ暗闇の地下室に一昼夜放り込まれたことはまだ我慢ができた。が、大きな酒樽に鼠と一緒に閉じ込められた時は――。前の晩に、鼠を使って罪人を拷問する話を蘇芳本人から聞かされたばかりだった。泣いてここから出してくれと懇願したが、当然のごとく無視された。
それ以来、蘇芳は花鶏にとって抗えない恐怖の象徴となった。みっともなく泣く姿を見られたことが、憎しみの火に油を注いだ。
後宮にいた頃は母親でさえ花鶏たちを蔑ろにしたが、どちらかと言えば無視して放っておかれることが多かった。何故、それまで会ったこともない蘇芳から執拗に加虐されるのか花鶏には理解できず、不可解な執着が気味悪かった。
――半刻後。
薄暗がりを優雅に歩んできた蘇芳は、部屋に入るやいなや、寝台の上の花鶏と目が合うよりも早く床に叩頭した。
花鶏は驚きのあまり身体が硬直した。そんな真似、江雪以外にされたことがなかった。ましてや蘇芳なら、死んでもしないはずだった。
すぐに視線を合わせずに済んだおかげで、よくよく蘇芳を観察できた。これまで、二人の間には一方的な加虐の空気が張り詰めていて、そんな余裕はなかったのだ。
蘇芳の雰囲気はいつもと違っているように思えた。何が、と言われてもすぐには言葉にできないが。
床の上に広がった淡い浅黄色の裾と、藍色の帯、綺麗に結われた長い艶のある黒髪。
いつもの華美な衣装ではない。むしろ地味と言っていい色合いだ。帯玉も重ね襟も、その他の宝飾も精緻な刺繍もない。案内してきた家僕も変化を感じ取ってか、ちらちらと蘇芳を盗み見ている。
身なりが簡素になったといえばそれまでだが、普段の蘇芳を知る者からすると、纏う雰囲気が一変して見えた。
「殿下」
呼ばれて、花鶏はハッとした。花鶏を呼んだのは蘇芳ではなく、部屋の隅に控えた家僕だ。
「……顔を上げてよい」
花鶏は警戒しながら声を振り絞った。
蘇芳がゆっくりと顔を上げて花鶏を見た。その瞬間、何故か驚いたような表情が青年の美しい顔に浮かんだ。
見開いた目と、小さく息を呑む気配。
「――?」
訝しむ少年の前で、なんと彼の仇敵は突然ホロ、と涙を零した。
――就寝前。
蘇芳は寝間着に着替えて寝台に横になっていた。
場所は江雪邸に間借りした部屋ではなく、城下にある古い民家だ。入れ替わったその日のうちに、蘇芳は江雪邸から、古いが周囲の目を気にしなくて済むこの「自宅」へ移り住んだ。長らく不在にしていた割には、家の中は埃も積もっておらず綺麗な状態だった。早蕨が何度か掃除に通ってくれていたおかげである。
江雪邸にあったような豪華な造りの寝台ではないが、蘇芳にはこれで十分だった。眠りに落ちる前に、花鶏との対面について思い返す。
江雪は何故、決して快適とは言えない穴倉のような半地下に花鶏を住まわせ、見張りを立てて出歩けなくさせているのか。まともな人間が見たら、誰だっておかしいと思うはずだ。放逐され、後ろ盾がないとはいえ、少年は皇位継承権三位の身である。
答えは明白だ。江雪は花鶏を支配下に置き、いずれ来るべき時に向けて、自身の傀儡として操る準備をしている。このまま行けば、花鶏は江雪の思惑通り兄皇子と対立し、挙句の果てに自身も江雪に毒を盛られてしまう。
〈蘇芳〉が江雪の目を盗んで皇子を虐待していたという事実は、江雪には筒抜けだったろう。むしろ好都合だったはずだ。虐げる者の存在により、江雪の慈愛は花鶏にとってまさに天からのクモの糸にも等しかったに違いない。
江雪にとって使い捨ての駒に過ぎなかったという点では、〈蘇芳〉も花鶏と同じだった。
目下、江雪が花鶏を引き取り、軟禁し始めて半年ほど経っている。その間、蘇芳は大なり小なり陰湿な虐待で少年を傷つけてきたはずだ。
(見た感じだと、怪我の類はなかったな。さすがに周りの目もあるから当然か。でも服の下や見えない場所に痣があるのは、虐待事件でよくあるケースだ)
少年がこのまま江雪によって洗脳されて闇落ちしたとしよう。ゆくゆくは残虐な王となって人民を虐げ、江雪に処刑される。最後には蘇芳も同じ末路を辿ることになるだろう。
話自体は簡単なのだ。要は、少年が悪に染まらなければいい。
十歳の子供を純粋なまま育てて、大人になったら放流してやればいい。そこから先は兄の雨月皇子を支える皇族臣下になるもよし、領地に引っ込んで美人の嫁さんや、場合によっては側室を迎えて悠々自適に暮らすもよし。好きにやってくれて構わない。
その時には、蘇芳も元の世界に戻る何らかの方法を見つけられていれば万々歳だが、贅沢は言わない。少なくとも処刑ルートを回避できれば、いかようにも道は開けるはずだ。
しかし障害もある。
江雪の目がある中で、突然それまでの態度を翻して花鶏を保護するのは容易ではないだろう。絶対に怪しまれる。裏切りがバレたら、江雪は子飼いの蘇芳にも何をするか分かったものではない。
(本当ならすぐにでもこの家に花鶏を連れてきたい……けど、一介の官吏が皇子の身柄を引き受けるなんて到底無理だ)
そうなると、せめて江雪に悟られぬように陰ながら花鶏を支えてやって、何とか持ち堪えさせるしかないのか。
今日は花鶏に面会したものの、盛大に失敗してしまった。せっかく簡素な服に着替えて、印象操作を狙うつもりだったのに。
気休めに過ぎないが、見た目の印象というのは結構強いのだ。その違和感に気を取られているうちに、どさくさに紛れて人払いしてから花鶏に謝罪し、じわじわ懐柔していくつもりだった。
けれど、いざ小さな花鶏を目の前にした瞬間、蘇芳は思考停止に陥ってしまったのだ。
子供が酷い扱いを受けて荒んだ目をしていることに、現代人の心が予想外にショックを受けてしまったのかもしれない。そうでなければ、いきなり花鶏の姿を見ただけで涙が流れた件に説明がつかなかった。
いくら目の前で動いて喋っていても、花鶏もまた「ゲームのキャラクター」の一人に過ぎないというのに。
(虐待を受けてきた子供って、あんなに生気がないものなのか……)
結局、用意していた口上は吹っ飛んで、いきなり大の男が涙を零して慌てて立ち去るという奇行に走ってしまった。最悪だ。
花鶏からすれば挙動不審極まりない。初手から失敗した。
しかし挫けるわけにはいかない。なんてったって、こちらも命が懸かっているのだ。
一朝一夕にはいかないことは百も承知だが、開き直って着手するしかない。
花鶏との二度目の対面は、思いのほか早く叶った。というのも、蘇芳の方でぐずぐずしていたら、向こうの家僕から催促があったのだ。
用向きはこうだった。
『薬はご用意できていますでしょうか。間が空くと殿下のお身体によくありません。二日は空けずにお持ちいただく約束であったと存じます』
(くすり? 薬ってなんだ?)
嫌な予感がした。そしてすぐにハッと思い当たった。
(薬ってあれのことか!)
ゲームには登場しない、原作小説でのみ触れられていた内容だったので失念していた。
(俺としたことが、原作の方を忘れるなんて迂闊だった!)
「薬」の原材料は通称、花柳草と呼ばれている。名前から連想される通り、かつて娼館が遊女たちに用いたとされる洗脳薬だった。
表向き、虚弱体質の花鶏に処方する滋養薬と言われているが、その実態は花柳草の根と、滋養強壮に効くとされる生薬を混ぜ合わせたもので、江雪はこれを頻繁に花鶏に与えるよう、蘇芳に命じていた。
日頃から少量ずつ摂取させることで、慢性的な思考力の低下、無気力、不眠などの症状を引き起こす。
この間、外部からの刺激に過敏に反応するようになるため、接し方によっては強い依存心を植え付けることもできた。
江雪は自分で調合したこの薬――毒を、必ず蘇芳手ずから花鶏に飲ますよう厳命した。
もちろん、後々毒の存在が露見したりした際、罪を蘇芳に被せて自分はしらを切るためだ。江雪を盲信していた蘇芳はそんなこととは露ほども思わず、花鶏に飲ませていた。
(この薬のせいで、花鶏は〈後嗣の儀〉に出たのに、霊獣を呼び出すことができなかったんだよな)
この世界では、皇族は生まれつき神力を備えている。
それは身体の中を巡る「気力」のようなもので、基本的には生まれ持った資質に左右され、さらに心身の力が横溢していればいるほど強く発露する。この神力がどれほどのものか臣民に示すことが、王として選ばれるための布石になると言ってよかった。
〈後嗣の儀〉は、予定では今から四年後、花鶏が満十四歳を迎える年に、国の重鎮たちが観覧する中で執り行われる盛大な式典だ。
花鶏は長い軟禁生活で体力も気力も弱っていた。外見も実年齢より小さく見えた。それでも、〈後嗣の儀〉の舞台に上がる権利を父帝から与えられて、内心では喜んでいたに違いない。この辺はゲームにも原作にも描かれないから、蘇芳の想像でしかないが。
他の皇子たちが霊獣の召還を成功させる中、最後に壇上に上がった花鶏の呼びかけに応える霊獣はおらず、小さな彼は観衆の前で一人、頭を垂れて恥辱に耐えるしかなかった。
ゲームではそのことを知っても、本筋と関係ないただの補足事項にしか思っていなかった。何なら薬のことだって忘れていた。でも、今は実在の花鶏がいるのだ。この小さな子供が、近い将来そんなみじめで辛い思いをするとわかっているのに、何も思うなという方が無理な話だ。
「殿下、本日は薬をお持ちしました」
蘇芳は小瓶に入った液体を茶器に注いだ。黒っぽい液体を杯の半分ほど満たすと、ツンと鼻を刺す匂いがした。
花鶏は前回と同様に寝台の上で半身だけ起こして、暗い表情で杯を見つめた。傍らの椅子に腰かけて差し出す蘇芳の顔は見ようとしない。
やがて諦めたように受け取ると、鼻の頭にしわを寄せて、健気にも飲み下そうとする。
「お待ちください、殿下」
蘇芳が小さな手を押しとどめた。急に触れられたことに対する緊張で花鶏がびくりと固まった。幼い瞳が訝しそうに蘇芳を見上げる。
「何をしている。お毒見役はどうした」
蘇芳の居丈高な声は、後方に控えていた家僕の男に向けてのものだった。
「へ、あ、毒見でございますか?」
おろおろと蘇芳を見ている。
「当然だ。殿下が口にされる食べもの、飲みものにはすべて毒見が必要だ。何を驚いている」
「え、でもそんなこと、これまでは……」
ごもっともである。むしろ嬉々として毒を盛っていそうな相手が突然毒見を用意しろとは、意味が分からなくて当然だ。
「それについては私も気が利かなかった」
「え、はあ」
「私や江雪殿の目の届く場所で殿下に毒を盛るような不埒な輩はいないだろう」
「も、もちろんでございますとも」
「だが、それ以外の者はどうだ?」
え、と家僕が言葉に詰まる。何を言われているのか理解できないという顔だ。
「たとえば、ここに出入りしていた若い娘だ……帆世といったか」
花鶏がピクリと反応したが、気付かない振りをした。
「帆世、ですか? あの娘が何か」
「下働きの下女の身分をわきまえず、随分と殿下に馴れ馴れしくしていた。殿下が年若く身分を鼻にかけないことを理由に侮っていたのだろう。まだ世間を知らぬ娘とはいえ、少々度が過ぎたので私が江雪様に上申してお役御免にしたのだが」
花鶏がぎゅっと布団の端を握り込んだ。
(優しくしてくれた唯一の人間を悪し様に言われるのは嫌だよな。ごめんな)
今ここにいない帆世を貶めてでも、この薬――いや、毒は飲ませられない。
「その娘が毒見と何の関係が? まさか、帆世が毒を盛っていたとでも?」
「そんなことありえない! でたらめ言うな」
我慢できないとばかりに、花鶏が声を荒らげた。家僕は驚いたように少年を見たが、すぐに煩わしそうに顔をしかめた。
蘇芳は家僕のあからさまな態度に嫌な感情がせり上がってくるのを堪え、先を続けた。
「殿下、落ち着いてください。私はそんなことは思っておりません」
花鶏は不安そうな、怒りと焦りが滲む目で蘇芳を見つめている。そこには追い詰められた鼠が猫を前にして怯えているような痛ましさがあった。
蘇芳は少年を見つめ返して、ゆっくり言葉を紡いだ。
「殿下。私の宮中での仕事は、この国で起こる巫術に関する様々な事件を取り締まり、悪用した者を処罰することなのです」
花鶏はそれまでの怯えとは別の不安を顔にのせた。いきなり何の話が始まったのか、ついていけなくて混乱している様子だ。
「……巫術」
「そうです。殿下のような皇族の方がお持ちの神力には及びませんが、私たち瀧華国の民の中には、大気の中に漂うとてもたくさんの塵を操って、まじないができる者もいるのです。ご存知ですか?」
花鶏は躊躇いがちに頷いた。
「聡明でいらっしゃいますね、殿下」
蘇芳が微笑むと、少年が驚きに目を見開く。
「神力ほど偉大な力ではないので、占いができたり、ちょっとした怪我や病気を治したり、簡単な先見をしたり。そんな程度のものですが、中には何人も集まって、操る塵の量を増やして悪いことをしようとする奴らがいるのです」
蘇芳は言葉を切って、茶器に入った液体に目を落とす。家僕と花鶏、二人の視線もつられたようにそちらへ向かった。
「少し前、城下で蟲除けの札と偽って、実際には家の者たちが病にかかるまじない札を売っている悪い奴らが捕まりました」
「……むし」
独り言のように花鶏が呟く。すぐにハッとして俯いてしまった。まるで蘇芳からの攻撃を恐れるかのように。
「〈蟲〉というのは、昆虫のことではありません。殿下」
花鶏はまたしても驚いて蘇芳を見上げた。
敵であるはずの男が、今日はやけに優しい。果ては教師のように花鶏の疑問を拾って教えまでしてくる……何故なのか。そんな戸惑いが蘇芳にも伝わってきた。
「〈蟲〉も、元は巫術の一種なのです。ただし巫術を悪用したり、人を殺めたりすること……もっと分かりやすく言えば、巫監術府が認可していない巫術は、すべて〈蟲術〉と呼ばれて処罰の対象になります」
こほん、と咳払いする。
「とにかく、そういう悪い奴らが今、城下で民を苦しめています。その中の下っ端何人かが、捕史に捕まりました」
それまで黙っていた家僕が、苛立ったように口を挟んだ。
「蘇芳様、話が見えません。市井の捕りものと今回の毒見とが、何の関係があるのです?」
蘇芳はじろり、と肩越しに男を睨んだ。
「私は今殿下と話しているのだ。私の話を遮るは、殿下に対する無礼でもある。わかっているのか」
背後が静かになったので、蘇芳は驚いた様子の花鶏ともう一度目を合わせた。
「〈蟲〉は巫術を悪用した人為的なものがほとんどですが、稀に自然発生する場合もあります。それらは大抵、水害や疫害の形を取り、酷ければ〈水蟲〉や〈疫蟲〉と呼ばれ、我々巫監術府の職員が対処します」
〈蘇芳〉の知識が脳内に流れ込んできて、こうして必要な時に引っ張り出せるのは便利だが、まるで目の前の花鶏たちを騙しているような気分だ。居心地の悪さを無視して、説明を続けた。
「そうした〈蟲〉を防いで安全に暮らすために、行政は各家に〈蟲札〉を発行して年の初めと半年後に配ります。まあ実際は、使わずに済んで紙が古びて効力がなくなることが多いですね。滅多に〈蟲〉の被害などないので」
ちらっと花鶏を窺うと、突然わけのわからない話をされたにもかかわらず、戸惑いつつも耳を傾けてくれていた。根が素直な子なのかもしれない。もしも蘇芳が教師だったら、クラスにこんな子が一人でもいてくれたら授業がしやすそうだ。
「ところが今年の半ば、城下で何件か続いて〈蟲〉の被害がありました。被害を受けたのはどれも羽振りの良い商家や、貴族。ちょうど二回目の配布前だったので、追加の注文が間に合わずに効力の弱まった蟲札でしのいでいたのですが」
蘇芳は一度言葉を切って、もったいつけるように一呼吸置いた。
「そこへ新しく強い蟲札をやると言って、さっき話した悪い奴らが法外な値段で札を売りさばいていたのです」
買い手は裕福な商人や貴族だから、凶事が起こるよりは、家人が病気になるよりはと言い値で買った。
「殿下はこれをどう思われますか?」
そんな風に質問されると考えていなかったのだろう。花鶏はおどおどと目を泳がせた。
「……いけないことだと思います。でも、勝手にまじないを作ったり、売ったりすることは法で禁じられているわけじゃないから……?」
蘇芳は頷いた。
「そうですね。確かに、我が国の法はそこまで厳しく取り締まってはいません。では、何故捕まったのかというと、その札が全く効力のない偽物だったからなのです」
「……本物を作れないから、偽物を売ってお金を騙し取った?」
「いいえ、札は本物でした」
花鶏が何か言おうとしたのを遮って、蘇芳ははっきり口にした。背後にもよく聞こえるように。
「あれは蟲札ではなく、徳の高い人物を呪うための呪殺の札です」
花鶏の目が大きく見開かれる。
瀧華国含め、この世界の大陸には四つの国がある。
春夏秋冬をイメージしたと思われる各国には異なる民族が暮らしているが、呼び方は違えども、国民は巫術――大気中の神気を帯びた塵を操るまじないの力を持っている。能力には個人差があるため、ほとんどは生きていく上で支障がない代わりに、恩恵もない。ごく稀に力が強い者が巫術師として巫監術府の傘下に入り、国のために働くくらいだ。
ちなみに皇族が神力を持つのは、大陸の中でも瀧華国だけだ。蘇芳に言わせれば、これはいわゆるご都合主義である。
「今回、捕らわれた者たちの中に草見という名の男がいました。調べたところ、帆世はその男の遠縁に当たります」
ここにきて、やっと話がつながった。少なくとも花鶏と家僕はそう思ったはずだ。
間違ってはいないが、蘇芳にとっては帆世も草見も、正直どうでもいい。
そもそも、二人の血縁関係など、全部蘇芳のでっち上げだ。裏を取られたら困るが、幸いにして帆世は行方を眩ましているし、目の前の二人がわざわざ追及するとは思えない。蟲札の件にしたって、全部が嘘とは言わないが、巫術を悪用したこの手の犯罪は今に始まったことではないし、毒見の口実に仕えそうな案件は何かないかと探るうちに引き当てただけだった。
要は九割方、蘇芳の口から出たでまかせである。
「帆世が花鶏殿下のお命を狙っていたと? いやしかし、そんなことが……」
家僕が訝しむのも当然だ。花鶏は今の時点ではまだ〈後嗣の儀〉に参加を許されるかも怪しい。母親の身分は低くなかったが、今は没落して後ろ盾もない。
虚弱で神力も弱く、江雪の庇護で何とか生きながらえているようなもの。わざわざ呪殺を企てて間者を忍び込ませて、誰が得をする?
「失礼ですが……本当に帆世が殿下を? 誰の差し金で、それに何の目的で」
「それは知らん」
「は?」
蘇芳は呆れる家僕に胸を張ってみせた。はったりをかます時ほど、堂々としている必要がある。さもお前が間違っているんだぞと決めつけるように、蘇芳は家僕を見つめ返した。
「帆世が本当に殿下に危害を加えようとしたのか、それは分からん。だが問題なのは、当の本人が行方を眩まし、かつ私が調べるまで、誰もこのことに気付かなかったということだ」
「え」と花鶏が声を上げた。彼は今まで、帆世を遠ざけたのが〈蘇芳〉だと思っていたのだから驚いて当然である。実際、記憶がないから断言できないが、〈蘇芳〉がそうさせたのだろうと思う。ここで言う蘇芳とは無論、芦屋が入れ替わる前の〈蘇芳〉だ。
「これまで殿下の身辺に置く者は江雪殿の采配で人選されておりましたので、私も特に気に留めておりませんでした。ですが今回のことがあって、もしも大事な殿下の身に何か起きれば取り返しがつきません。今後、殿下のお世話をする者は来歴や人物を調査し、本心から殿下に仕える者のみをお傍に置くべきかと存じます」
束の間、白けた空気が室内に漂った。
――その場合、真っ先に追い出されるのはお前ではないのか?
そんな声が聞こえてきそうだったが、気にしてはいられない。
さりげなく江雪の株を下げておこうという目論見もあったが、さすがにそれは欲張りだろう。まだ十歳の子供にこちらの意図が通じるとは思えなかった。
「殿下の身辺を今一度、安全に整える必要があると思うのですが、いかがでしょうか」
「僕は……僕のことは全部、江雪様が」
「殿下」
蘇芳は優しく、けれどもきっぱりと言葉を被せた。ここで言いくるめて、少年の言質を取っておく必要がある。
「江雪殿は殿下の後ろ見ですが、臣下の一人に過ぎないことをお忘れなきよう」
「臣下……」
「そうです。この私も殿下より下の身分です。そのうち、おいそれと殿下と言葉を交わしたり会ったりすることもできなくなります」
花鶏は、この日一番驚いた顔を見せた。そんなことは思ってもみなかったという表情で蘇芳を凝視している。
外側からストレスを与えられ続けている人間は、得てして今より先のことを想像できないことが多いと、何かで読んだ記憶があった。
辛い時期に誰も助けてくれない状態で長く過ごしていると、その状況からの脱却や改善がイメージできなくなる、というのだ。
できないから、自分の心の方を麻痺させる。そうすることで、少しでも苦痛をしのげるように誤魔化す。
今の花鶏の心理状態はまさにそれだろう。それに加えて、少量ずつ花柳草の毒を摂取することで、神経衰弱と鬱が促進されつつある。
「お側仕えの者たちのことは、いったん私から江雪殿に上申いたしましょう。取り急ぎこの薬は」
蘇芳は茶器を自分の方に引き寄せた。
「私が毒見役を勤めましょう」
(……気持ち悪い)
蘇芳は苦悶の表情を浮かべ、床に置いた盥の上に覆い被さった。喉の奥に指を突っ込んでは、胃の中のものを吐き出す。水を飲む。また指を突っ込んで吐く。
そうしてやっと胃の中が空っぽの状態になると、ぐったりと寝椅子の上に突っ伏した。
花柳草は常習性が低い。だから摂取自体をやめてしまえば、その効果は徐々に薄れていくし、一度口にしたくらいでは大した影響はない。
とはいえ、体内に「薬物」が残留しているのは気分の良いものではない。結局、無理にでも体外に出すことを選んだ。
水差しの水で口をゆすぎ、げっそりした顔で髪を結っていた紐を解く。はらりと解放された長髪が背中に落ちた。
(あの子はどれくらいの期間、薬を飲んでいるんだっけ?)
ざっと指を折って計算してみる。
(えっと、俺がこの世界に来たときは十歳で、江雪に引き取られて半年だから……)
常飲を始めて、およそ三ヶ月といったところだろうか。それが短いのか長いのか、蘇芳には判然としなかった。
ゲームの中では特に言及されていないが、普通に考えれば継続して薬を盛られていただろうから、十八歳くらいまでは薬漬けだったということになる。
それを思えば、この時期から摂取量を減らせただけでも多少はマシと言えるだろう。
――量を減らす。
それこそが蘇芳の当面の目的だった。常飲をやめさせたいのはやまやまだが、すぐには実行できない。
毒見役を引き受けるまでは予定通りだったが、いざ飲んでみて蘇芳は思った。これを毒だと騒ぎ立てるのは無理がある、と。味も匂いも不審な点はなく、しかも効果は遅効性ときている。蘇芳が毒だと騒ぎ立てても、誰も取り合ってくれないどころか、江雪に蘇芳の離反がバレてしまう可能性の方が高い。
(もういっそ、俺が全部飲んで空の杯をあの子に渡すとか?)
――いや、無理だ。
(あの子は江雪を疑ってないし、そんなことしたらさすがに不信がって江雪に告げ口するに決まってる)
花鶏の中では江雪が味方で、蘇芳は敵なのだ。これに関しては、余計な真似をして足を引っ張ってくれた本物の〈蘇芳〉をぶん殴りたい。
蘇芳との関係性がプラスとはいかずとも、せめてゼロだったら、花鶏に江雪の真意を伝えて、二人で協力して状況を打開できたかもしれないのに。
(落ち着け。まだチャンスはある。むしろ今までどん底だった分、ここからの蘇芳は花鶏にとって好感度プラスにしか転じないぞ)
こうやって無理にでも自分を鼓舞しなくてはやっていられない。
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『悪役令息を改めたら皆の様子がおかしいです?』のカイの師匠も
『悪役令息の伴侶(予定)に転生しました』のトマの師匠も、このお話の主人公、透夜です!(笑)
大陸中に、かっこいー激つよ従僕たちを輸出して、悪役令息たちをたすける透夜(笑)
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
転生したら、主人公の宿敵(でも俺の推し)の側近でした
リリーブルー
BL
「しごとより、いのち」厚労省の過労死等防止対策のスローガンです。過労死をゼロにし、健康で充実して働き続けることのできる社会へ。この小説の主人公は、仕事依存で過労死し異世界転生します。
仕事依存だった主人公(20代社畜)は、過労で倒れた拍子に異世界へ転生。目を覚ますと、そこは剣と魔法の世界——。愛読していた小説のラスボス貴族、すなわち原作主人公の宿敵(ライバル)レオナルト公爵に仕える側近の美青年貴族・シリル(20代)になっていた!
原作小説では悪役のレオナルト公爵。でも主人公はレオナルトに感情移入して読んでおり彼が推しだった! なので嬉しい!
だが問題は、そのラスボス貴族・レオナルト公爵(30代)が、物語の中では原作主人公にとっての宿敵ゆえに、原作小説では彼の冷酷な策略によって国家間の戦争へと突き進み、最終的にレオナルトと側近のシリルは処刑される運命だったことだ。
「俺、このままだと死ぬやつじゃん……」
死を回避するために、主人公、すなわち転生先の新しいシリルは、レオナルト公爵の信頼を得て歴史を変えようと決意。しかし、レオナルトは原作とは違い、どこか寂しげで孤独を抱えている様子。さらに、主人公が意外な才覚を発揮するたびに、公爵の態度が甘くなり、なぜか距離が近くなっていく。主人公は気づく。レオナルト公爵が悪に染まる原因は、彼の孤独と裏切られ続けた過去にあるのではないかと。そして彼を救おうと奔走するが、それは同時に、公爵からの執着を招くことになり——!?
原作主人公ラセル王太子も出てきて話は複雑に!
見どころ
・転生
・主従
・推しである原作悪役に溺愛される
・前世の経験と知識を活かす
・政治的な駆け引きとバトル要素(少し)
・ダークヒーロー(攻め)の変化(冷酷な公爵が愛を知り、主人公に執着・溺愛する過程)
・黒猫もふもふ
番外編では。
・もふもふ獣人化
・切ない裏側
・少年時代
などなど
最初は、推しの信頼を得るために、ほのぼの日常スローライフ、かわいい黒猫が出てきます。中盤にバトルがあって、解決、という流れ。後日譚は、ほのぼのに戻るかも。本編は完結しましたが、後日譚や番外編、ifルートなど、続々更新中。
余命僅かの悪役令息に転生したけど、攻略対象者達が何やら離してくれない
上総啓
BL
ある日トラックに轢かれて死んだ成瀬は、前世のめり込んでいたBLゲームの悪役令息フェリアルに転生した。
フェリアルはゲーム内の悪役として15歳で断罪される運命。
前世で周囲からの愛情に恵まれなかった成瀬は、今世でも誰にも愛されない事実に絶望し、転生直後にゲーム通りの人生を受け入れようと諦観する。
声すら発さず、家族に対しても無反応を貫き人形のように接するフェリアル。そんなフェリアルに周囲の過保護と溺愛は予想外に増していき、いつの間にかゲームのシナリオとズレた展開が巻き起こっていく。
気付けば兄達は勿論、妖艶な魔塔主や最恐の暗殺者、次期大公に皇太子…ゲームの攻略対象者達がフェリアルに執着するようになり…――?
周囲の愛に疎い悪役令息の無自覚総愛されライフ。
※最終的に固定カプ
悪役神官の俺が騎士団長に囚われるまで
二三@冷酷公爵発売中
BL
国教会の主教であるイヴォンは、ここが前世のBLゲームの世界だと気づいた。ゲームの内容は、浄化の力を持つ主人公が騎士団と共に国を旅し、魔物討伐をしながら攻略対象者と愛を深めていくというもの。自分は悪役神官であり、主人公が誰とも結ばれないノーマルルートを辿る場合に限り、破滅の道を逃れられる。そのためイヴォンは旅に同行し、主人公の恋路の邪魔を画策をする。以前からイヴォンを嫌っている団長も攻略対象者であり、気が進まないものの団長とも関わっていくうちに…。
悪役令息(Ω)に転生した俺、破滅回避のためΩ隠してαを装ってたら、冷徹α第一王子に婚約者にされて溺愛されてます!?
水凪しおん
BL
前世の記憶を持つ俺、リオネルは、BL小説の悪役令息に転生していた。
断罪される運命を回避するため、本来希少なΩである性を隠し、出来損ないのαとして目立たず生きてきた。
しかし、突然、原作のヒーローである冷徹な第一王子アシュレイの婚約者にされてしまう。
これは破滅フラグに違いないと絶望する俺だが、アシュレイの態度は原作とどこか違っていて……?
ブラコンすぎて面倒な男を演じていた平凡兄、やめたら押し倒されました
あと
BL
「お兄ちゃん!一肌脱ぎます!」
完璧公爵跡取り息子許嫁攻め×ブラコン兄鈍感受け
可愛い弟と攻めの幸せのために、平凡なのに面倒な男を演じることにした受け。毎日の告白、束縛発言などを繰り広げ、上手くいきそうになったため、やめたら、なんと…?
攻め:ヴィクター・ローレンツ
受け:リアム・グレイソン
弟:リチャード・グレイソン
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