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第2部
花鶏の懊悩
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これを先生に、と言って艶のある木箱を差し出す。それは細長い長方形をしており、上蓋を横にずらすことで開閉する仕組みだった。
「開けても?」と問われ、花鶏は勿論だと頷いた。
花鶏は居室に置かれた長椅子に並んで腰かけ、隣の蘇芳に全神経を集中している。
先に湯浴みを済ませた蘇芳のしっとり濡れた黒髪と、少し上気した良い匂いのする白磁の肌が襟元から覗いており、目の毒だ。しかし甘い甘い毒だということも分かっているので、どうしようもなかった。
(先生が、あんな人だったなんて。……俺は先生のことを何でも分かった気になってたけど、とんだ傲慢だ)
花鶏が蘇芳に男としての恋着を行動で示し始めたのは、多分成人してすぐの頃だったように思う。
とっくに自覚はあったけれど、蘇芳は自分を「可愛い大事な花鶏」としか見ていないと知っていたし、それで十分だと思っていた時期もある。
しかし、年月が経ち周りが見えてくると、蘇芳に秋波を送る者が後を絶たないことを知った。
思えば蘇芳はそういう醜聞を、教育上よろしくないとして花鶏の耳に入れないよう注意していたのだ。
それでも風の噂や花浴にせがんで教えてもらい、貴族や豪族の娘、花街の妓女、はては宮中の同じ文官まで、真偽は定かでないが蘇芳に熱を上げていたり、気楽にちょっかいをかける女や男たちの名前が出るわ出るわ……。
16歳になったばかりで慣れない公務に忙殺されていた花鶏はすっかり焦ってしまい、本当なら都へ飛んで帰ってずっと蘇芳の側にいて見張りたかった。
しかし公務を疎かにすれば蘇芳をいくらかでも失望させるだろう。それは嫌だった。花鶏にとって一番の褒賞は、現地役人からの感謝でも地方に住む民からの評価でもない。ましてや父帝や自分を捨てた母の愛情など論外。ただ、蘇芳に頭に手を置いて「よく頑張りましたね」と、微笑んでもらえたらそれでいい。
だからもう、なり振り構っていられない。いきなりは無理でも、少しずつ、花鶏という男を蘇芳に意識してもらえるよう気持ちを態度に出すようにしてきた。
蘇芳は最初こそ気付きもしなかったので、花鶏も徐々に大胆になっていった自覚がある。すると今度は、こちらの意図に勘付いた蘇芳が逃げ腰になって警戒するようになった。警戒する癖に、子供の頃からの癖が抜けないのか、相変わらず花鶏には甘い。それがまた、花鶏に諦める、という選択肢を与えてくれない。
もうちょっと、あとちょっと押してみよう。駄目か、いったん退こう、今日は大丈夫そうだ……そんな一進一退の気分で蘇芳という愛しい難題に取り組んでいた。……はず、だった。
(それが、どうしてこうなったんだ)
誘拐事件の後、また平行線を辿るかに見えた攻防は、少しだけ進展したように見えた。少なくとも花鶏は、それだけで舞い上がるほど嬉しかったのだ。何年かかっても、いつか先生に俺を自分のものだと言わせたい。そんな思いが、一瞬で城壁の彼方まで飛んでいきそうな、衝撃。
(先生に襲われるかと思った……)
色事なんて読み本や、後宮で見聞きする醜聞くらいしか知らない。恋愛小説は自分と蘇芳を当てはめて想像するだけで赤面してしまうし、もし先生と恋人になれたなら、本の中の主人公たちのように過ごしてみたかった。
手を繋いで見つめ合ったり、髪に触れたり、口吸いを……してみたり。
昔、蘇芳に「貴方にはまだ早い」と言われた、肌を見せ合うような行為は……さすがに赤面どころではなく蘇芳で想像することは申し訳なさもあり、出来なかった。
だから蘇芳と口吸いした瞬間、それだけで頭が真っ白になり、必死にその感覚と相手に夢中になった。やり方は本で読んだ見様見真似。それさえ、物心ついた頃から焦がれた相手とだ。興奮して頭の中が煮え滾りそうだったというのに……。
突然蘇芳が、まるでそれまでの殻を破り捨てるように、花鶏の口に舌を入れ、慌てた花鶏を抑え込み、息継ぎも許さず……。まるでよく見知った蘇芳が羽化して、内から艶めかしい別の蘇芳が花鶏に向かって手を伸ばしたような錯覚さえ起きた。
思い出し赤面する。あの時の先生は、尋常ではないほど妖しくて、怖いくらいに官能的で、強引で不遜だった。
それまで、蘇芳に優しく包み込むような愛し方しかされてこなかった花鶏には、刺激が強すぎた。
清廉、忠節、礼儀、慈愛……そんな蘇芳の纏う空気が一気に塗りかえられ、かわりにぎらぎらした双眸が、獲物の首を咥えて巣穴に引きずり込むような、これから取って食うとでもいうような、そんな色を宿していた。
それなのに朝の光の中で、先に起きた蘇芳は花鶏に爽やかに笑いかけるのだ。
ーおはようございます殿下。朝ですよ、起きる支度をなさいませ。
その落差に呆然としていたら、ふいに身を乗り出して頬にちゅっと口づけて、すぐに離れる。
頬を抑えて固まっている花鶏にはお構いなし。さっさと自分は寝台から降りて顔を洗いに手水場へ行ってしまう。
そして今までの同じように「可愛い花鶏」として大事にされ、かと思えば自分を花鶏の男、恋人だと宣い、誘うように触れてくる。
耳を甘噛みされたときなんて、思わずうわぁと叫びそうになった。
恥を忍んで小出しにしてとお願いしたら、あっさり断られてしまい、それ以来、蘇芳の一挙手一投足に神経が集中して頭がおかしくなりそうだった。
(先生は経験がおありなんだ……俺なんて餓鬼に見えて当然だ、つまらないと思われてないだろうか)
天に昇るほどの幸福の渦中に居ながら、そんな心配が尽きない。蘇芳が知ったらまた可愛さゆえに悶絶しそうなことを、そうとは知らず花鶏は悶々と悩んでいた。
「これは、硝子で出来た筆?」
どことなく興奮した声に思考を引き戻され、蘇芳を見ると、彼はうっとりと細い指先で箱の中のビロードの台座に置かれた品をなぞっている。
その日常動作にさえ、喉をくすぐるときの手癖を思い出してしまい、ゴクッと唾を呑んだ。まずい、頭がおかしなことになっている。さすがに色惚けが過ぎれば、蘇芳にも幻滅されてしまうかもしれない。
「ええ。墨壺に立てると、中の空洞が墨を吸い上げて、足さなくても自動で書けるんだそうです」
瀧華国で用いる書体は止め払いを多用するので毛筆以外は考えられないが、蘇芳には喜んで貰えそうな気がして、アジラヒムからこれの話を聞いてあちこち探し回ってようやく見つけたのだ。本体は色硝子で出来ており、花鶏も実物は初めて目にした。毛筆と似た形だが、それより短く、まして毛の部分が先の尖った硝子なので、どうやって墨で文字を書くのか説明されるまで見当もつかなかった。
細工も凝っていて、透き通る雪解け水に空を映したような淡色は、工芸品としても美しい。何より。
(先生、壊滅的に字が下手なんだよな……)
その昔、早蕨に悪し様に言われたと聞いて可哀想に思ったが、実際その書手を見ると、難読というより難解だ。文字が原型を留めているようでいてそうでない。一文の中には判読できる文字も何個かあるので、それで前後の文脈を推察する暗号解読のようになってしまっている。
青葉や波瀬は慣れたのか、上司の悪筆を「これが難なく読めればうちでは一人前」「面倒臭いので口述を自分たちで筆記して書印だけもらうほうが早い」などと言われているらしい。
早蕨は「昔は流麗な筆致だったのにいきなりこうなった」と嘆息していた。
怖いことに、蘇芳本人はその自覚がない。自分ではちょっと人より下手かも、くらいにしか思っていないので練習なんて勿論しない。
もしや毛筆が扱いずらいとか……?
ほんの思い付きだったが、蘇芳は予想以上に嬉しそうで、さっそく箱から出して備え付け墨壺を組み立てている。
半紙を机に広げると、立ち膝になってさっそく文字を走らせ始めた。蘇芳は見たことのない筆の持ち方をしていた。
小指の付け根がぺたんと半紙の上についているのだ。
(瀧華国に無いものなのに、先生はなんですぐ使い方が分かるんだ)
一見書き難そうだが、すらすらと文字を綴る速度は毛筆よりも速い。しかし書かれている文字を覗き込むと花鶏は思わずぷっと噴き出してしまった。
半紙があっという間に同じ文字で埋まっていた。
ー花鶏花鶏花鶏花鶏花鶏
書き心地を確かめるように何個も連なった自分の名前。ちなみに残念ながら、毛筆よりは大分ましだが、上手下手で言えば下手だった。
「なんで俺の名前?先生、自分の名前を書いたらいいのに」
笑いながら言うと、蘇芳はきょとんとした顔で手を止めて、半紙を見下ろしながら
「あ。そうか、そうですね。……頭に浮かんだ最初の言葉がこれだったから」
そう言って恥ずかしそうに苦笑する蘇芳の顔から、目が離せない。
殿下?と、じっとこちらを見ながら固まった花鶏を呼ぶ声に、はっとなる。
「いえ、何でも。先生、ほんとは字がそこそこお上手だったんですね。今まで人外の文字だなと思っていてごめんなさい」
「さすがにそこまで言われたことないので、そのまま秘めておいて欲しかったです。……そんなにですか?最近では術府の皆も前ほど文句言わず流してくれるからマシになってきたとばかり」
「先生それはね、周りが気を遣ってるだけです。先生の字はね、芸術的なまでにのたうってて判読は疎か、凡人は文字とすら認識できないんですよ」
慰めるように言うと「そうなんですね」と蘇芳は寂し気に頷いた。
だから書の練習をしよう、と続けたかった花鶏は
「私の芸術にその他の凡人の感性が追いつくまで、気長に待つとしましょう」と微笑む蘇芳を見て口をつぐんだ。
花鶏は無言で、筆を箱にしまうと蘇芳に手渡した。
「そうだね先生、それがいい。その時までどうぞ大事に使ってくださいね」
「ありがとうございます、花鶏。とても嬉しい。大事にします」
箱を大事そうに引き寄せ、心から嬉しそうな蘇芳の笑顔に、手に入れるまでの苦労なんて一瞬にして報われてしまう。
何ならこれを探すために出歩いていたせいで誘拐されたが、そんなことどうだっていい。賊が捕まり蘇芳に塁も及ばず一石二鳥ではないか。
じいん、と胸を震わせる花鶏に、蘇芳はそういえばと首を傾げた。
「これを受け取ったからには貴方からの求婚を受け入れたことになるのでは?」
「開けても?」と問われ、花鶏は勿論だと頷いた。
花鶏は居室に置かれた長椅子に並んで腰かけ、隣の蘇芳に全神経を集中している。
先に湯浴みを済ませた蘇芳のしっとり濡れた黒髪と、少し上気した良い匂いのする白磁の肌が襟元から覗いており、目の毒だ。しかし甘い甘い毒だということも分かっているので、どうしようもなかった。
(先生が、あんな人だったなんて。……俺は先生のことを何でも分かった気になってたけど、とんだ傲慢だ)
花鶏が蘇芳に男としての恋着を行動で示し始めたのは、多分成人してすぐの頃だったように思う。
とっくに自覚はあったけれど、蘇芳は自分を「可愛い大事な花鶏」としか見ていないと知っていたし、それで十分だと思っていた時期もある。
しかし、年月が経ち周りが見えてくると、蘇芳に秋波を送る者が後を絶たないことを知った。
思えば蘇芳はそういう醜聞を、教育上よろしくないとして花鶏の耳に入れないよう注意していたのだ。
それでも風の噂や花浴にせがんで教えてもらい、貴族や豪族の娘、花街の妓女、はては宮中の同じ文官まで、真偽は定かでないが蘇芳に熱を上げていたり、気楽にちょっかいをかける女や男たちの名前が出るわ出るわ……。
16歳になったばかりで慣れない公務に忙殺されていた花鶏はすっかり焦ってしまい、本当なら都へ飛んで帰ってずっと蘇芳の側にいて見張りたかった。
しかし公務を疎かにすれば蘇芳をいくらかでも失望させるだろう。それは嫌だった。花鶏にとって一番の褒賞は、現地役人からの感謝でも地方に住む民からの評価でもない。ましてや父帝や自分を捨てた母の愛情など論外。ただ、蘇芳に頭に手を置いて「よく頑張りましたね」と、微笑んでもらえたらそれでいい。
だからもう、なり振り構っていられない。いきなりは無理でも、少しずつ、花鶏という男を蘇芳に意識してもらえるよう気持ちを態度に出すようにしてきた。
蘇芳は最初こそ気付きもしなかったので、花鶏も徐々に大胆になっていった自覚がある。すると今度は、こちらの意図に勘付いた蘇芳が逃げ腰になって警戒するようになった。警戒する癖に、子供の頃からの癖が抜けないのか、相変わらず花鶏には甘い。それがまた、花鶏に諦める、という選択肢を与えてくれない。
もうちょっと、あとちょっと押してみよう。駄目か、いったん退こう、今日は大丈夫そうだ……そんな一進一退の気分で蘇芳という愛しい難題に取り組んでいた。……はず、だった。
(それが、どうしてこうなったんだ)
誘拐事件の後、また平行線を辿るかに見えた攻防は、少しだけ進展したように見えた。少なくとも花鶏は、それだけで舞い上がるほど嬉しかったのだ。何年かかっても、いつか先生に俺を自分のものだと言わせたい。そんな思いが、一瞬で城壁の彼方まで飛んでいきそうな、衝撃。
(先生に襲われるかと思った……)
色事なんて読み本や、後宮で見聞きする醜聞くらいしか知らない。恋愛小説は自分と蘇芳を当てはめて想像するだけで赤面してしまうし、もし先生と恋人になれたなら、本の中の主人公たちのように過ごしてみたかった。
手を繋いで見つめ合ったり、髪に触れたり、口吸いを……してみたり。
昔、蘇芳に「貴方にはまだ早い」と言われた、肌を見せ合うような行為は……さすがに赤面どころではなく蘇芳で想像することは申し訳なさもあり、出来なかった。
だから蘇芳と口吸いした瞬間、それだけで頭が真っ白になり、必死にその感覚と相手に夢中になった。やり方は本で読んだ見様見真似。それさえ、物心ついた頃から焦がれた相手とだ。興奮して頭の中が煮え滾りそうだったというのに……。
突然蘇芳が、まるでそれまでの殻を破り捨てるように、花鶏の口に舌を入れ、慌てた花鶏を抑え込み、息継ぎも許さず……。まるでよく見知った蘇芳が羽化して、内から艶めかしい別の蘇芳が花鶏に向かって手を伸ばしたような錯覚さえ起きた。
思い出し赤面する。あの時の先生は、尋常ではないほど妖しくて、怖いくらいに官能的で、強引で不遜だった。
それまで、蘇芳に優しく包み込むような愛し方しかされてこなかった花鶏には、刺激が強すぎた。
清廉、忠節、礼儀、慈愛……そんな蘇芳の纏う空気が一気に塗りかえられ、かわりにぎらぎらした双眸が、獲物の首を咥えて巣穴に引きずり込むような、これから取って食うとでもいうような、そんな色を宿していた。
それなのに朝の光の中で、先に起きた蘇芳は花鶏に爽やかに笑いかけるのだ。
ーおはようございます殿下。朝ですよ、起きる支度をなさいませ。
その落差に呆然としていたら、ふいに身を乗り出して頬にちゅっと口づけて、すぐに離れる。
頬を抑えて固まっている花鶏にはお構いなし。さっさと自分は寝台から降りて顔を洗いに手水場へ行ってしまう。
そして今までの同じように「可愛い花鶏」として大事にされ、かと思えば自分を花鶏の男、恋人だと宣い、誘うように触れてくる。
耳を甘噛みされたときなんて、思わずうわぁと叫びそうになった。
恥を忍んで小出しにしてとお願いしたら、あっさり断られてしまい、それ以来、蘇芳の一挙手一投足に神経が集中して頭がおかしくなりそうだった。
(先生は経験がおありなんだ……俺なんて餓鬼に見えて当然だ、つまらないと思われてないだろうか)
天に昇るほどの幸福の渦中に居ながら、そんな心配が尽きない。蘇芳が知ったらまた可愛さゆえに悶絶しそうなことを、そうとは知らず花鶏は悶々と悩んでいた。
「これは、硝子で出来た筆?」
どことなく興奮した声に思考を引き戻され、蘇芳を見ると、彼はうっとりと細い指先で箱の中のビロードの台座に置かれた品をなぞっている。
その日常動作にさえ、喉をくすぐるときの手癖を思い出してしまい、ゴクッと唾を呑んだ。まずい、頭がおかしなことになっている。さすがに色惚けが過ぎれば、蘇芳にも幻滅されてしまうかもしれない。
「ええ。墨壺に立てると、中の空洞が墨を吸い上げて、足さなくても自動で書けるんだそうです」
瀧華国で用いる書体は止め払いを多用するので毛筆以外は考えられないが、蘇芳には喜んで貰えそうな気がして、アジラヒムからこれの話を聞いてあちこち探し回ってようやく見つけたのだ。本体は色硝子で出来ており、花鶏も実物は初めて目にした。毛筆と似た形だが、それより短く、まして毛の部分が先の尖った硝子なので、どうやって墨で文字を書くのか説明されるまで見当もつかなかった。
細工も凝っていて、透き通る雪解け水に空を映したような淡色は、工芸品としても美しい。何より。
(先生、壊滅的に字が下手なんだよな……)
その昔、早蕨に悪し様に言われたと聞いて可哀想に思ったが、実際その書手を見ると、難読というより難解だ。文字が原型を留めているようでいてそうでない。一文の中には判読できる文字も何個かあるので、それで前後の文脈を推察する暗号解読のようになってしまっている。
青葉や波瀬は慣れたのか、上司の悪筆を「これが難なく読めればうちでは一人前」「面倒臭いので口述を自分たちで筆記して書印だけもらうほうが早い」などと言われているらしい。
早蕨は「昔は流麗な筆致だったのにいきなりこうなった」と嘆息していた。
怖いことに、蘇芳本人はその自覚がない。自分ではちょっと人より下手かも、くらいにしか思っていないので練習なんて勿論しない。
もしや毛筆が扱いずらいとか……?
ほんの思い付きだったが、蘇芳は予想以上に嬉しそうで、さっそく箱から出して備え付け墨壺を組み立てている。
半紙を机に広げると、立ち膝になってさっそく文字を走らせ始めた。蘇芳は見たことのない筆の持ち方をしていた。
小指の付け根がぺたんと半紙の上についているのだ。
(瀧華国に無いものなのに、先生はなんですぐ使い方が分かるんだ)
一見書き難そうだが、すらすらと文字を綴る速度は毛筆よりも速い。しかし書かれている文字を覗き込むと花鶏は思わずぷっと噴き出してしまった。
半紙があっという間に同じ文字で埋まっていた。
ー花鶏花鶏花鶏花鶏花鶏
書き心地を確かめるように何個も連なった自分の名前。ちなみに残念ながら、毛筆よりは大分ましだが、上手下手で言えば下手だった。
「なんで俺の名前?先生、自分の名前を書いたらいいのに」
笑いながら言うと、蘇芳はきょとんとした顔で手を止めて、半紙を見下ろしながら
「あ。そうか、そうですね。……頭に浮かんだ最初の言葉がこれだったから」
そう言って恥ずかしそうに苦笑する蘇芳の顔から、目が離せない。
殿下?と、じっとこちらを見ながら固まった花鶏を呼ぶ声に、はっとなる。
「いえ、何でも。先生、ほんとは字がそこそこお上手だったんですね。今まで人外の文字だなと思っていてごめんなさい」
「さすがにそこまで言われたことないので、そのまま秘めておいて欲しかったです。……そんなにですか?最近では術府の皆も前ほど文句言わず流してくれるからマシになってきたとばかり」
「先生それはね、周りが気を遣ってるだけです。先生の字はね、芸術的なまでにのたうってて判読は疎か、凡人は文字とすら認識できないんですよ」
慰めるように言うと「そうなんですね」と蘇芳は寂し気に頷いた。
だから書の練習をしよう、と続けたかった花鶏は
「私の芸術にその他の凡人の感性が追いつくまで、気長に待つとしましょう」と微笑む蘇芳を見て口をつぐんだ。
花鶏は無言で、筆を箱にしまうと蘇芳に手渡した。
「そうだね先生、それがいい。その時までどうぞ大事に使ってくださいね」
「ありがとうございます、花鶏。とても嬉しい。大事にします」
箱を大事そうに引き寄せ、心から嬉しそうな蘇芳の笑顔に、手に入れるまでの苦労なんて一瞬にして報われてしまう。
何ならこれを探すために出歩いていたせいで誘拐されたが、そんなことどうだっていい。賊が捕まり蘇芳に塁も及ばず一石二鳥ではないか。
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