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18.名前のない想い
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夜更けの神殿は、日中の喧噪が嘘のように静まり返っていた。
窓の外では、雲が月を覆い隠し、わずかな灯火が執務机の上を照らしている。
セト・ロセッティは、筆を置いて背もたれに身を預けた。
ふ、と息をつく。薄く開いた書簡の束は、結界石の魔力減衰を報せる各地の報告。
その重さは常に肩にのしかかるが、今、彼の心を占めているのは――別のことだった。
(……聖女マナ)
指の間を滑る羊皮紙の手触り。けれど、意識は遠く別の場所へと向かっていた。
マナがこの世界に現れてから、もうすぐひと月が経とうとしている。
初めて目を開いたあの日の、怯えた瞳と震える声。
その後、何も口にせずただ眠り、やがて涙を流しながら母を呼んだ少女――。
(正直に言えば、最初は“責任”だった)
この国を救う存在として召喚された聖女。
異世界から強引に呼び寄せたという負い目、神官長としての務め。
彼女を導くのは自分の義務――そう自分に言い聞かせてきた。
(けれど)
マナは違った。
召喚されたばかりの頃の不安定さが嘘のように、今ではひたむきに学び、慣れない魔力の制御にも真剣に取り組んでいる。
少しずつ、だが確実に前を向こうとしているのが分かる。
(思っていた以上に……強い子だ)
本来なら、まだ十六歳。
異世界という過酷な環境に放り込まれた身でありながら、彼女は与えられた役割に懸命に応えようとしている。
――今朝もそうだった。
魔力の扱いに成功したとき、ほんの一瞬だけ浮かんだ笑顔。
あの笑みは、確かに“希望”の光だった。
(あれを守るのが、今の自分の務めなのだろう)
「……“務め”と呼ぶことで、どこか安心している自分がいるのかもしれない」
ぽつりとこぼれた言葉が、静かな部屋に溶けていく。
彼女を導くことは神官としての役目。
だが、どこかで自分自身も、彼女の健気な姿に――少なからず影響され始めている気がしていた。
それは情ではない。けれど、任務とは少し違う感情が、ふと胸をかすめることがある。
「……セト様?」
控えめな声が、扉の向こうから届いた。
続いて軽くノックの音が響き、副神官長ディセルが静かに姿を現す。
「失礼します。執務室に灯りが見えましたので……まだお仕事中かと」
「ああ。少し考えごとをしていただけだ」
セトが体を起こすと、ディセルは躊躇いがちに数歩近づいた。
「差し出がましいようですが……聖女様、今日の訓練後にひとり静かに庭で本を読んでおられました。少し、顔色も良かったように見えました」
セトは目を細めて、その報せを聞く。
「……そうか。それは良かった」
「はい。ただ……無理をなさっていないか、少し気になります。あのご年齢で、あれほどの責任を背負うのは……」
ディセルは言葉を選びながら、慎重に続けた。
「……セト様も、あまりご無理はなさらぬように……やはり、少しお疲れのように見えます」
セトは微かに苦笑しながら、頷いた。
「……そこまで顔に出ているなら、せめて“休んでいるふり”でもしておいた方が良さそうだな」
「ええ。……そうしてくださると、周囲も少し安心いたします」
ディセルは一礼し、空気を乱さぬよう静かに扉のほうへ向かった。
「お休みなさいませ、セト様」
「……ああ。ありがとう、ディセル」
扉が静かに閉まると、セトは再び背を椅子に預けた。
(……気を引き締めなければ)
灯火が、静かに揺れた。
それは、ほんのわずかに心の中に生まれた“ためらい”を映したかのようだった。
窓の外では、雲が月を覆い隠し、わずかな灯火が執務机の上を照らしている。
セト・ロセッティは、筆を置いて背もたれに身を預けた。
ふ、と息をつく。薄く開いた書簡の束は、結界石の魔力減衰を報せる各地の報告。
その重さは常に肩にのしかかるが、今、彼の心を占めているのは――別のことだった。
(……聖女マナ)
指の間を滑る羊皮紙の手触り。けれど、意識は遠く別の場所へと向かっていた。
マナがこの世界に現れてから、もうすぐひと月が経とうとしている。
初めて目を開いたあの日の、怯えた瞳と震える声。
その後、何も口にせずただ眠り、やがて涙を流しながら母を呼んだ少女――。
(正直に言えば、最初は“責任”だった)
この国を救う存在として召喚された聖女。
異世界から強引に呼び寄せたという負い目、神官長としての務め。
彼女を導くのは自分の義務――そう自分に言い聞かせてきた。
(けれど)
マナは違った。
召喚されたばかりの頃の不安定さが嘘のように、今ではひたむきに学び、慣れない魔力の制御にも真剣に取り組んでいる。
少しずつ、だが確実に前を向こうとしているのが分かる。
(思っていた以上に……強い子だ)
本来なら、まだ十六歳。
異世界という過酷な環境に放り込まれた身でありながら、彼女は与えられた役割に懸命に応えようとしている。
――今朝もそうだった。
魔力の扱いに成功したとき、ほんの一瞬だけ浮かんだ笑顔。
あの笑みは、確かに“希望”の光だった。
(あれを守るのが、今の自分の務めなのだろう)
「……“務め”と呼ぶことで、どこか安心している自分がいるのかもしれない」
ぽつりとこぼれた言葉が、静かな部屋に溶けていく。
彼女を導くことは神官としての役目。
だが、どこかで自分自身も、彼女の健気な姿に――少なからず影響され始めている気がしていた。
それは情ではない。けれど、任務とは少し違う感情が、ふと胸をかすめることがある。
「……セト様?」
控えめな声が、扉の向こうから届いた。
続いて軽くノックの音が響き、副神官長ディセルが静かに姿を現す。
「失礼します。執務室に灯りが見えましたので……まだお仕事中かと」
「ああ。少し考えごとをしていただけだ」
セトが体を起こすと、ディセルは躊躇いがちに数歩近づいた。
「差し出がましいようですが……聖女様、今日の訓練後にひとり静かに庭で本を読んでおられました。少し、顔色も良かったように見えました」
セトは目を細めて、その報せを聞く。
「……そうか。それは良かった」
「はい。ただ……無理をなさっていないか、少し気になります。あのご年齢で、あれほどの責任を背負うのは……」
ディセルは言葉を選びながら、慎重に続けた。
「……セト様も、あまりご無理はなさらぬように……やはり、少しお疲れのように見えます」
セトは微かに苦笑しながら、頷いた。
「……そこまで顔に出ているなら、せめて“休んでいるふり”でもしておいた方が良さそうだな」
「ええ。……そうしてくださると、周囲も少し安心いたします」
ディセルは一礼し、空気を乱さぬよう静かに扉のほうへ向かった。
「お休みなさいませ、セト様」
「……ああ。ありがとう、ディセル」
扉が静かに閉まると、セトは再び背を椅子に預けた。
(……気を引き締めなければ)
灯火が、静かに揺れた。
それは、ほんのわずかに心の中に生まれた“ためらい”を映したかのようだった。
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