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二 光
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今日は二十七歳の俺が長野に戻って中学校に通う初日だ。 こんなことはどう表現してもおかしいようだ。 しかし、俺以外には誰も異常な姿を示さなかった。すべては十三年前の様子だ。記憶に頼って曲がりくねった路地裏の家を見つけると、部屋の中は依然としてビールと安いインスタントラーメンの臭いだけが漂っていた。リュックはどこに捨てられたのかさっぱりわからなかった。やっと見つけた時には気持ちの悪い汚れがついていた。それは親父が投げたビール瓶が床に当たって飛び散った跡だったはず。 こんなリュックは背負わないほうがましだ。俺はため息をついて、隅で酔い潰れている父を避け、「行ってきます」と呟いて学校へ向かった。
机の引き出しから黄ばんだ東京地図を取り出した。 浅草周辺は赤いマーカーで囲まれていて、その時は浅草という名前の響きがいいと思っただけだ。 地図の余白には「頑張れ三浦蓮!」と歪んだ字が書かれていた。
夢じゃなかったのか。 苦笑いしながら思った。
「東京」は俺が長野で黙々と努力の支えになった。十八歳の夜に夜行バスに乗った時、俺は長野に関するすべてを忘れようと決めた。 東京都の賑やかさは圧倒的で、繁華街の中心にいた時、過去十八年間が夢だったかのように感じられた。 いや、その後は夢の中でさえ長野に戻ったことがなかった。 目の前のこの黄ばんだ地図と幼稚な字だけが「過去のすべては夢じゃない」と伝えている。 もしかしたら東京でのすべてが夢だったのか? それはいい夢か悪夢か。
「ねえ、ご飯の時間だよ。 みんな弁当を持って屋上に行ったよ」
「……腹が空いていません。」 俺は机に伏せてもぐもぐと言った。
「もうぺこぺこでしょう? お腹が鳴くの聞こえたよ。蓮は朝から何も食べてないでしょ?」 夕凪は俺の手を引いたが、俺は何と言われてもしつこくてそこから離れたくなかった。
「……会いたくない人がいるの?」
顔を上げた時、夕凪は俺の真ん前の位置に座って、少し悲しい目で俺を見つめていた。 風が彼のシャツの裾を揺らし、俺は目を細めた。
「……いません」
「嘘つき。 蓮が嘘をつく時はこうして人と目を合わせない。知ってる。」
「……」深くため息をつき、夕凪を連れて外に出た。
「この時間、屋上はもう満員だろう。近くのコンビニに行こう。」
「……またコンビニ? ! そんなに好きなの?」夕凪は目を見開いた。「またマグロおにぎりかよ……」
「ふふ、カツ丼だったのか」 夕凪は安心したような笑顔を浮かべ、頷いて俺のそばに座った。「僕にも一口させて」
箸を持った手が動かなくなり、数秒間黙った後でやっと夢から覚めたようにゆっくりと頭を横に向けた。
「神様も……食べますか?」
「本当に僕を幽霊みたいなものだと思ってるの? 視覚的には似てるかもしれないけど、神もぺこぺこするよ」 夕凪は拒むことができない笑みを浮かべてゆっくりと近づいてきた。
おかしいな、彼の笑顔に全然抵抗できない。まるでもう何度も彼の笑顔を見てきたかのようだ。
「今日の昼ごろだと思いますが……十三年前の今日のことですけど。屋上に食事に行く途中、急いでいたせいで三年生の男の子にぶつかりました。」
その男の子は俺より1歳年上なのに、俺よりずっとやせていて、髪の色が日光の下でわずかにきれいな栗色に見え、彼の美しい瞳と同じ色だった。 彼が顔を上げて俺を見た時、俺は足元にこぼれた弁当も忘れ、ただその年齢に相応しくない美しい顔つきを見つめて、息をのんでいた。
彼はまばたきをして、小声で「申し訳ありません」、屈んでこぼした料理の中に落ちた文庫本を拾い上げた。
「すみません……」俺は髪を掻きながらお辞儀をし、「どうか弁償させていただきます……」
スプートニクの恋人。 トマト炒め卵と野菜サラダをつけたスプートニクの恋人。
「大丈夫です。この本はもうすぐ読み終えるところです」
「『遠くから見ると流星のように美しいが、実際にはその中に閉じ込められて、どこへも行けない囚人に等しいんだ』……あ、ごめんなさい。なんだか独り言を言ってしまった。 いや、あの、この本のこのセリフがとても好きで、つい……」
「……『二つの衛星の軌道がたまたま交差するとき、僕たちはこうして出会う。』」 男の子はほんのり笑顔を浮かべて、「僕もこの部分が大好きです。 それではお先に失礼します……」
「あ、さっきは申し訳ありませんでした……」と俺は小声で言った。
男の子は俺とすれ違った。俺は階段の上にこぼれた形にならないの料理を見つめながら、どうしようもなくなった。今月のお小遣いはもう残り少ないし、コンビニで何か買っていこうか。それともこのまま空腹に耐えようか……
解決策を思いつく前に、俺は振り返り、『スプートニクの恋人』を持ち、俺とは反対方向へ一人で歩いていく男の子を呼び止めた。
「君の名前は何ですか?」
「君野楓咲」 俺はほとんど震えながらあの言いにくいが美しい名前を口にした。 ただこの名前を言うだけで、体中の力が尽きそうだった。 その人はそんなにやせていて、静かに見えたが、こんな輝かしく鮮やかな名前を持っていた。 天成園の晩秋のカエデの葉のように鮮やかで、一度見れば決して忘れられない。
「彼は本当に綺麗です。一度見ればわかります。」 弁当の中に残った三分の一のポークカツを見つめて、突然喉が詰まるように感じた。
「でも蓮の方が綺麗だと思うよ。」
夕凪は右手で俺の頬を撫でて、君野と同じ栗色の瞳で静かに俺を見つめた。
「バカなことを言って……」顔をそらした。「男性を『きれい』って本当に褒めるの?」
「でも蓮も君野のことをこう言っているじゃないか」と夕凪は笑って手を下ろした。「蓮、君野という人を見せてくれない?蓮が美しいと思う人に会いたい」
夕凪は立ち上がって離れようとした。
「……駄目、行かないで。」
「そもそも、君は彼と同じ目をしていますね。」と俺は下手に話をそらして、「初めて君に会った時に気づきました。 偶然なの?それとも君が人間の形になった時、外見を自由に選ぶことができるのか……など、漫画みたいな設定?」
夕凪の手首をしっかりと掴んだ。彼が俺を見下ろした瞬間、俺の頭に浮かんだのは夕日の下で血海の中で倒れ動かない君野の姿だった。小刀を握っていた彼の右手は力を抜いて離れ、左手首は刺すような紅と既に乾いた赤褐色に覆われていて、曼珠沙華が咲き乱れているようで、彼の名前のように鮮やかだった。
俺はその血海の中に腰を下ろし、すべてが悪夢にすぎないと思った。 だが余光で机の上に置かれた紅葉のしおりを挟んだ『金閣寺』を見た時、これが現実だと悟った。どんなに彼の唇にキスしても、彼は再び目を覚ますことはなく、二度と彼の美しい声で俺の名前を呼ぶこともできない。
「もしその時、彼の名前を聞かなければ良かったのに…… 彼にその本を贈らなければ良かったのに…… 最後に会った時、彼にキスをしていれば良かったのに……」
夕凪が涙を拭いてくれた時、初めて自分が泣いていることに気づいた。
「そんなことはない。 蓮が現れたことは、君野にとっては救いだったかもしれない」
もし今回、俺が君野とすれ違うことを選んだら、彼はそんなに苦しくて命を終えなくて済むのだろうか? 俺たちはより良い人生を過ごせるのだろうか? 俺はわからないが、夕凪がここからやり直す機会を与えてくれたのだから、試してみたい。
今でもはっきりと覚えている、十三年前の平成十八年の十二月一日、午後四時ごろから窓の外に雪が舞い始めた。 最後の授業が終わると、俺はリュックを背負って急いで三年生の階に上がって、君野がどのクラスにいるか尋ねた。
しばらくすると、君野は困惑した表情を浮かべて俺の前に立った。俺は少しお辞儀をして手に持っている本を彼に差し出した。
「平気です……」
向こうの人の視線が表紙に落ちた時、少し驚いた顔を見せた。
「ありがとうございます。 ずっとこれを読みたかったんだけど、学校の図書室のものはいつも貸し出し中だ……一週間後に返します。」
「これは君野先輩に送るものです。えっと、ゆっくり読んでいいですよ…… こっちはもう読み終えました」
「……で、図書館のその本は蓮が借りていたの?」
「……すみません。」
「謝ることないよ」君野は俺の頭をそっと叩きながら言った。「行こう、放課後だ」
「あ、俺は部活に行かないと……」俺は顎を掻いた。
「どの部?」
「中華料理部……」声はどんどん小さくなっていった。
「? うちの学校にそんな部があるの?」君野の俺を見る表情が、まるでこの部が俺の適当に作り上げたもののようだ。俺は照れくさそうに笑った。こんな反応には慣れていた。
「本当ですよ、実は俺は部長で、もう一人の部員がいます。 人数がずっと足りないので、今月末には解散する予定です……元々文芸部に入りたかったんですが、入学した時はもう満員でした……」
「ああ、文芸部の奴らは…… 彼らはそんなに文学に興味があるわけじゃないよ。ただ文学という名前を借りて出しゃばりたいだけだ。入らなくても損はない」君野は少し考えた後、言った。「中華料理部に連れてくれますか?」
「もちろん!喜んで。」
人数が少ないので、俺たちは独立した部活室がなく、囲碁部が使わない小さな部屋を一時的に借りていた。着いた時、小林はもう麺を捏ね始めた。
「ああ、三浦! 今日早いね……え、こちらは?」
「彼は見学にいらしゃった三年生の君野楓咲先輩です。 君野先輩、こちらは小林拓也です。同級生の中華料理マニアで、卒業後は専門学校へ行きたいって、それから横浜中華街に中華料理店を開きたいっす。」
「本当ですか? 先輩も入部するのですか……! 俺たちの部は生き残れるのですか?!」小林は泣きそうに興奮していた。
「まさか、君野先輩はもう他の部に参加しているはずっす……」
「そーか」 小林はがっかりして頭を垂れた。
「餃子を作ってるの?」君野は俺たちの活動室を一周しながら、引き出しと戸棚を全部開けて、刃物や食材を思い思いに手に取って見た。「活動室は小さいけど、器材は意外とそろっていますね……」
「なんだか似合ってると思うよ。雪、どんどん降ってきたし」小林は口笛を吹きながら言った。「雪の日はやっぱり餃子だよ」
君野は何度も手伝おうとしたが、最後はいつも手伝いどころか迷惑をかけてしまう。皿を割るくらいはどうでもいいが、刃物でけがをしたら困る。そこで俺は彼に隣の椅子に座るようレシピや料理雑誌をめくるように勧めた。君野は少し渋るようだったが、最後はあきらめて従った。
「先輩、時間があれば来てください。俺達はよく変わった中華料理を作るんです。三浦はいつも俺の料理を美味しいと褒めてくれるので、今では自分の実力が把握できなくなっちゃいました」
「本当に美味しかったよ。一昨日の麻婆豆腐、改良したのはよかったじゃないか?俺は中華料理店の麻婆豆腐はいつも辛さが足りないと思ってたんだ」
「え、麻婆豆腐まで作れるんですか?」
「三浦、先輩の目が輝いてるよ」
「え?あ、本当だ、輝いてるよ、ハハハ。じゃあ来週もう一度作ろう。君野先輩、興味があれば試食に来てもいいですよ」
「先輩、他に好きな料理はありますか?」
「え、僕が注文してもいいんですか?ちょっと…… 迷惑じゃないですか?」
「大丈夫ですよ!中華料理が好きな人から意見を聞きたいんです」
「じゃ、唐辛子エビとピーマン炒め肉を作ってくれませんか?」
「スー……」俺と小林は思いがけず、ガス漏れのような声を漏らした。
「え、難しいんですか?じゃ……」
「先輩がエビと豚肉を持ってきてくれれば、作れますよ」俺が言った。
小林も頷いた。「実は、俺は中華料理店であまり見かけない料理も試しに作ってるんです。例えば砂鍋料理や、酢豚エビみたいなの」
「聞いたこともないですね ——」君野は驚いたように言った。
「こいつの母さんは中国人ですよ」俺が言った。「超上手に中華料理を作れるんです。俺も食べたことがあります」
「すごいんだ……」
「フフフ」小林は得意げに鼻を鳴らした。「先輩、時間があればうちに食べに来てもいいですよ。でも条件は俺たちの部に入ることですよ」
「なんか詐欺みたいだな……」
「いいよ、問題ない。君たちの部の雰囲気、すごく好きだ。今の僕の部よりずっといい」
「そういえば、先輩はどの部にいますか?」
「文芸部だ」
「ええ、突然こっちに来ちゃって、ギャップが大きくないですか……」
君野は笑いながら首を振った。
「ところで、俺、もうぺこぺこだ」俺は肉を刻みながら天を仰いで嘆いた。
「三浦さんも料理ができるんですか?」
「できるよ。普段は俺たちで協力して作ることが多いんだ、効率が高いから。でも意見が合わない時は別々に作ることもある。彼は時折レシピを書いてきて、俺に作らせることもある」
「三浦さんの手料理も食べてみたいですね」
「こいつの料理は俺のほど美味しくない」
「!なんで勝手に結論付けるんだよ!」
「さて、審査員さんも来たし。よし、この日を一年待ってたんだ。勝負をつけよう、三浦!」
小林は袖をまくり上げ、頭を高く上げて餃子の汁を一碗飲んだ。
「いや、俺は今でもこのものの美味しさが理解できないんだ……」俺は困惑して言った。
「お前には説明しきれない」小林は手を振った。
「ねえ、君野先輩も……?」
君野は既に碗を取って餃子の汁を飲んだ。
「やめてよ、君野先輩 ——」
「—— やはり不味い」君野は複雑な表情で餃子の汁を見つめた。
小林は残念そうな表情を浮かべた。
突然君野が笑い出した。俺と小林は揃った困惑した表情で彼を見た。少し憂いのように見えた君野が、こんな明るく笑うなんて、信じられない。
「小林、餃子の汁に変な薬とか入れてないよな?」俺は少し呆然した。
「本当にそうなら、何で俺が平気よ?」
「何で笑ってるかは分からないけど、まず一つ食べてみるか?」
俺はできたの餃子を箸で挟んで君野の口元に差し出した。
「熱いから気をつけてくださいね」
君野は手を箸にかけた。指先が触れた瞬間、俺は小さくふるえた。
寒い雪の日に、他人から伝わる温度。不思議だな。
「どう?」
「熱い!…… 酸っぱい…… え?美味い、わ、すごく香りますね!」
「妙な反応だな」小林は笑いを抑えきれなかった。
「お前の作ったものは、味が複雑すぎるよ」俺は評価した。
「先輩はお腹空いたでしょう?先に食べていいよ。俺と小林はもう一鍋煮るから」
「あなたたちはお腹空いてないの?」
「三浦は料理を作りながらこっそり食べちゃうから、料理が終わったら大体お腹いっぱいになってるよ」
「あれは味見だよ!」
「え?…… そ、う、か、な ——」
「三浦さんも中華料理の大ファンですか?」
「実は…… 最初はただ、楽しく料理ができる場所を作りたかっただけだ。でも部員がなかなか集まらなくて。で、今年の初めに、同級生が「丸々して肌白くて眼鏡をかけた、ちょっとオタクっぽい人が君を指名して探してるよ」と言ってきたんだ。当時は『ヤバい、告白されるのか?』って思ってた —— ハハハ、幸いそうじゃなかったけど、本当に心臓が止まるかと思った。彼は『部名を中華料理部に変えて、中華料理だけを専門に研究しないか』って俺に聞いた。『もし変えるなら、俺も入る』。俺はその時、嬉しくて泣きそうになって、通りかかったクラスメイトの前で彼に抱きついちゃった —— きっと『告白を受け入れたんだ、よかったね』って思われたんだろう —— 翌日には部名を変えたよ」
君野は笑いすぎて咳き込んだ。
「またそのクソユーモアを乱用するなら、切り刻んでやるからね」
「許してくれ」
「なので三浦さんは単純に料理が好きなだけですか?昨日の昼の弁当に入ってた、とても美味しそうだった料理も自分で作ったものですか?」
俺は恥ずかしくてうなずいた。
「でも『好き』って言うと…… ちょっと違うかな。最初は家で誰も料理を作ってくれなくて、毎日家族とラーメンや冷凍食品ばかり食べて、胃を壊しちゃったんだ。病院で治った後、味にすごく敏感になって、食べ物にもうるさくなってきた。それから自分で料理を学び始めて、部で作ったものは家に持ち帰ることもできるし。実は家でも作れるんだけど、小林と一緒だと新しいことを学べるから」
俺は茹でた餃子を鍋からすくい上げながら言った。「実は意外と簡単なんだ。食材を揃えて、レシピの指示に従って作れば大した問題はない。小林みたいに自分で新しい料理を創ることはできないけど、こういう決まった手順に沿って少しずつ美味しいものを作り上げることが、なぜか心を落ち着かせる。もちろん、人に褒められればそれに越したことはないけど…… 小林は絶対に俺を褒めないし、家の人も作ったものを当たり前のように食べるだけだ」
「お前はまだまだから」小林は自慢げに答えた。
「得意げなんていうな」俺は彼の肩をつついた。
君野はもう皿の半分の餃子を食べ終えて、ほんのりと頷いた。俺と小林も座り、三人で囲んで「熱い!熱い!」と叫びながら、次から次へと餃子を口に入れた。
翌日、俺たちは君野からの入部申請書を受け取った。
約束した麻婆豆腐の日がやってきた時、君野はエビと豚肉を持って学校に来た。俺と小林はいつもより激しく言い争い、自分の調味料を相手の顔にかけそうになった。君野はただ興味深そうに、俺たちが喧嘩しながら料理をするのを見ていた。
「二人は全然意見が合わないように見えるのに、同じ部でこんなに長い間我慢し合えるなんて、すごいですね」
「不思議だよね、君野先輩が来る前は、俺たちの部は太平間みたいだった。毎日、三浦とは挨拶するだけでそれぞれ料理を作っていた。たまに餃子などを作る時協力することもあるけど、あまり話すことはなかった。ただ静かに作って、静かに食べて、食べ終わったらそれぞれ家に帰るだけだ。最初は三浦が『料理を作りながら音楽をかけよう』と提案したんだけど、結局俺たちの好みも全然合わなかった!その時はじゃんけんで当日の音楽を決めていたけど、三浦の勝率が高すぎて俺はむかついた。また何度か喧嘩した後、それぞれイヤホンをつけて自分の好きな音楽を聞くことにしたんだ」
「お前はただ先輩の前で目立ちたいだけでしょう」俺は容赦なく皮肉った。
「お前も同じだよ!君野先輩が来た後、お前もはりきってるでしょ?以前のお前が自発的に唐辛子エビを作ろうとしたことあった?」
小林に言い返せなくなった俺は、振り返って君野を見た。彼も俺を見ていて、透き通った栗色の瞳には、なぜか赤くなった俺の顔が映っていた。
料理ができ上がるまで、俺たち三人は一言も話さなかった。
「唐辛子エビ、すごく美味しいです。ごめん、どう表現したらいいか分からなくて…… ただ美味しい、とても美味しいです。もし俺がこのエビだったら、こんなに美味しい料理になれて嬉しいと思うでしょう」
「ふっ」俺は思わず笑ってしまった。
小林はさらに前かがみに笑いころげて、「さすが元文芸部ですね」
「麻婆豆腐もとても美味しいです。僕は中華料理店に行くたびに、シェフに唐辛子を多めに入れてもらうのか、それでもどこか物足りないと感じてしまうんです…… 小林さんの作った辛さは、僕にとってちょうどいいです」
「同志だね!」小林は箸を放り投げて君野と指を組み、泣きそうになりながら言った。「俺の唐辛子を理解してくれる人がいなかったんだ、先輩が来るまでは……」
「いい加減にしろ」俺は力を込めて小林の脇腹を肘で突いた。彼は「痛っ!」と叫びながら、手を上げて俺を攻撃しようとした。「あ、君野先輩、唇がちょっと腫れてますよ…… この辛さ、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫です、とっても好きです」
俺は君野のますます赤く腫れ上がり、その美しい顔に相応しくない唇を見つめて、この違和感から生まれる滑稽さで腹を抱えて笑った。
「一体どういうことだ?前は君野先輩だったし、今回はお前かよ。次は俺がおかしくなるのか?」
「……あ、俺は今晩早く店に帰って手伝わなきゃいけないから、あんた達は食べてくれ。俺は先に行くね」午後 6 時に近くなった時、小林が急いでリュックを背負って出かけた。
「え?おまえ、リュック持ってたの?お前は勉強しないと思ってたよ」
「死んで」小林はリュックで容赦なく俺を突いた。
小林が去った後、俺と君野の二人だけが、お互いに顔を見合わせることになった。部屋の雰囲気はまた少し暗くなった。小林の言う通り、俺たち三人の中で一人でもいなくなると、あんなに活気のある空気にはならないんだ……俺はこの時小林が「物を忘れた」と叫びながら戻ってくることをこんなに強く願ったことはなかった。そうすれば、俺と君野は話をそらす理由が見つけられる。彼を皮肉ることを借りて、本当に言いたいことを口に出さないようにできるのに。
だが彼は戻ってこなかった。
「三浦さん」
「あ…… はい!」驚いて急いで背筋を伸ばしたが、それでも君野の美しい顔を見る勇気がなかった。俺は、その長いまつ毛の下にある栗色の瞳に見つめられると、体中が不自然になり、ひどい時は耳たぶまで真っ赤になってしまう。
ヤバい、心拍数が速すぎる。こんな狭くて静かな部屋の中では、速い鼓動の反響さえ聞こえる。
君野は微笑みながら俺に本を渡した。「読み終えました、ありがとうございます。思った以上に面白かったです、道理でいつも借りられないね。三島由紀夫先生は本当に天才ですね」
『金閣寺』。本の表紙をちらっと見て、俺はため息をついた。
「…… 俺、先輩にプレゼントするものだと言ったでしょ?先輩、そんなに受け取るのが嫌いなんですか?」怒ったふりをして顔を逸らした。
君野は手を引っ込めず、一言も話さなかった。俺たちはこうして、ほぼ暗い部屋の中で、黙り込んでいた。
君野が先に立ち上がって部屋の明かりをつけ、その明るさを確認した後、椅子に戻ってきて、再び本を渡す動作を繰り返した。
「あのさ……」
顔を彼に向けると、その手に持っていた本が変わった。
『仮面の告白』。
俺は驚きと絶望の入り混じりの中で、ゆっくりと頭を上げ、視線を本から少しずつ彼の顔へと移した。正直に言うと、彼の微笑む口元を見た瞬間、自分はきっとダメになってしまうと思った。なぜなら、俺の心臓の鼓動は通りかかる消防車のサイレンよりも騒がしく、頬はきっとテーブルの上の唐辛子エビよりも赤かったからだ。
「僕を見て、三浦さん」
「……」俺はあきらめた。全ての勇気を振り絞って、その人の目を見た。
「その……」「三浦……」
「あなたが先に……」「君が先に……」
ああ —— くそっ、俺は何してるんだ。焦燥感に駆られて自分を殴りたくなった。君野がいなかったら、きっとそうするんだろう。
「…… あの、先輩、一緒に帰りましょう」
「僕もそう言おうと思ってた」君野はまた優しい眼差しで俺を見つめた。俺はテーブルの上に残ったピーマン炒め肉を見たり、窓の外の完全に暗くなった空を見たりした。「それに、三浦さんには『君野』って呼んでほしい。敬称をつけると、すごい距離感が感じるんだ。一歳違うだけなのに。それから……」
「?」
「本を受け取ってくれないか?このポーズ、かっこいいように見えるかもしれないけど、実は手が疲れているんだ」
「ああ、はい。君野先輩……あ、いえ、君野……」
その本を読んだことがあったが、それでも受け取った。
君野は笑顔で頷いた、「じゃあ行こう、三浦」
これって、直接名前を呼ぶよりも変わってない?僕はこっそり思った。まるで見知らぬ人から一気に親友になったようだ!まるで……俺と小林の関係みたい?ちょっと待て、俺、不満なの?何に不満なんだ?確かに昔より仲が良くなったんだけど……もし君野が突然「名前で呼んで」って言ったら、むしろその方が驚くだろう……そうだ、これでいい。こうして段階的に進んでいけば、いつか本当にお互いの名前を呼べるかもしれない……蓮。君野が僕の名前を呼ぶ声を想像すると、頬がさらに赤くなった。なんてこった、俺、本当に君野に名前を呼んでもらいたかったのか。ちょっと待て、これ、どう見ても……そうだろ?本当にちょっと……俺、こんな変態なの?いや、もう考えちゃダメ。気を逸らさなきゃ。それなら、俺が君野の名前を呼んでみることを想像しよう。うん、楓咲、楓咲。ん……どんどん変な感じになってきた。少女漫画に出てくるようなシーンだ……
ずっと後になって、やっと君野が俺を呼んでいる声が聞こえた。彼は俺が熱を出したのかと聞いてきた。俺は慌てて手を振って「いいえ」と言ったが、すぐにうなずいて「そうだ、ちょっと熱があるんだ。だから今日は早く家に帰らないと……」と言い直した。
「……」君野はまばたきしながら俺を見て、微笑みながら言った。「うん、じゃあ三浦が案内して。僕が送っていくよ」
「え?いいんですか?俺んちは……ちょっと遠いんですし、今日も遅いし……」
「まだ七時だよ」君野は時計を見ながら言った。「どう言っても僕は先輩だから、病気の三浦を家まで送ってあげないと安心できない。君がおいしくてたまらないご飯を奢ってくれたお返しだね」
「……」俺は黙って君野の好意を受け入れた。
「そういえば、三浦は家族との関係があまり良くないみたいだね。前に自分で料理を作る理由にも、これと関係あるって言ってたよね?」
「うん。でも大したことじゃないんだ。どうせ高校卒業したらそこを出て一人暮らすから……」
君野は少し黙った後、言った。「もし話したいなら、いつでも聞いてあげる。万一何かあったら、僕の家に来てもいいよ」
俺を家に送る途中、俺たちはほとんど話をしなかった。この気まずい雰囲気を和らげるために、何か話題を出そうと思うけど、どれも場違いだと感じた。誰でも言えるような、栄養のないつまらない話はしたくないし、他人のことも話したくない。君野と二人だけの話をしたい。だが、俺が持っている見せられる部分は全部彼に見せ尽くした。君野のことをもっと知りたいけど、自分から聞きたくない。彼が自発的に俺に打ち明けてくれる姿を見たいんだ。
「……ここまででいいよ。じゃ、また来週ね」君野に手を振って、家の方向に走り出した。
「バイバイ」その声が、まるで冬の夜の風の中にすぐ消えてしまうようだった。
俺は少し前に進んだ後、振り返った。君野はまだその場に立って、俺の後ろ姿を見送っていた。
……なんだよ!俺を子供だと思ってるの?そう思いながら、また君野の方に走り戻った。
「……?どうしたの?何かあった?」
「……あの、君野先輩……君野、家に着いたら、メッセージを送ってくれる?」
「うん。早く帰ろう」彼はそっと頷いた。
——俺、何してるんだ。余計なことをして、馬鹿みたい。慌ててマフラーで顔の下半分を隠し、家の方向に走っていった。約三十分後、俺の携帯がふるえた。深呼吸を三回してから携帯を開くと、可愛いアメリカンショートヘアの猫をアイコンにしている人から、短いメッセージが届いていた。
「家に着いた」
その後、携帯は長い間静かなままだった。俺はがっかりした顔で「やっぱり全部俺の勘違いだった」と嘆いた。先輩はやはり先輩だ。彼はもう俺の気持ちを……知っているんだろう。
ああ、もう。俺は髪を掻きながらシャワーを浴びに行って、無理やり気を移したかった。。シャワーを浴びたら、この愚かなこと全てを忘れてすぐ寝ると決めた。
シャワーを浴びて戻った時、携帯に三つの新しいメッセージが届いていた。送信時間は十分前だった。また三回深呼吸をしてからメッセージ画面を開いた。
最初のメッセージはアメリカンショートヘアの写真だった。彼のアイコンと同じ猫だ。
「可愛いでしょ?優は三浦によく似てると思う」
「今日はお疲れ様。唐辛子エビ、とても美味しかった。体に気をつけて。おやすみ」
メッセージ画面を十分間も見つめた。その後、ぼんやりと電気を消してベッドに横になったが、どんなに寝返りを打っても眠気が全く訪れてこなかった。三十分後、俺はぼんやりと起き上がった。
ちょっと宿題をしようか。
もう一度やり直した中学校生活、俺は毎日昼休みの屋上を避け、夕凪と空っぽの教室で朝起きて作った弁当を食べていた。弁当を作る時間がない時は、コンビニで適当に何かを買った。もう一度中学校から卒業するまで、俺は楓咲に直接会うことはなかった。もう一度卒業写真を撮る日、俺はほっと一息ついた。もちろん楓咲にもう一度会いたかったが、けど彼の美しくて恐ろしい顔を見たら、きっと前と同じ過ちを繰り返してしまうのがとても怖かった。これでいい、俺はそう思った。ただ時折、前の卒業の日に楓咲が渡してくれた大きな束の白いバラと、彼のシャツについていた淡い石鹸の香りが懐かしくなるだけだ。
でも、あの秋の午後の地獄は、もう二度と経験したくない。
「夕凪は神様じゃないっすか?楓咲がどうしてあんな自分の命を終えたのか、きっと知ってるでしょ」
ドアる春の夕方、俺はいつものように夕凪を連れて放課後の道を歩いていた。
「……」
「長い間、俺はこの問題から逃げてきた。考えたくなくて、聞きたくもなかった。逃げ続ければ、楓咲が死んだ事実を受け入れなくてもいいと思ったんです」
「……」
「楓咲が死んだ時、誰も俺を責めなかった。それは誰もが理由もなく俺を罵ったり叱ったりするより、ずっと辛かったです。なぜなら、彼の死がきっと俺に関係があることを知っていたから」
俺が彼の遺体のそばに静かに置かれていた『金閣寺』を見た瞬間から、ずっとそう思っていた。葬式の日、楓咲の母は優しく俺に言った。「私は先に帰ってご飯を作っておくから、君はあの子とまだ話したいことがあるでしょ。日が暮れる前にうちに来てご飯を食べてから帰りなさい」
「教えてください。知りたいです。何も分からずにこの全てを終えたくないっす。今度こそ、前の結末を変えて、あの人をちゃんと生かせるかもしれない」
「……その時、君野が蓮に話さなかったのは、おそらくあなたにその理由を知ってほしくなかったからだと思う。それは怒りを感じさせるとかどうしようもない理由とかかもしれない。蓮が知っても、どうすることもできないかもしれないから、かえってもっと悲しくなるかもしれない……」
「でも、彼はどうして俺にきっと役に立たないと分かったの?まだ何も俺に話していないのに……それに、夕凪も言ったじゃないか。何も起こっていないうちに、大まかに何かの意味だのとか言うのは独断的だって」
夕凪は話さなかった。
「あいつは俺の恋人です。少なくとも、かつては。だから、どんなに悲しいことでも、辛いことでも知りたいっす。十三年前の楓咲は死んだけど、今の楓咲はまだ生きている。だから……」
「これはもう一つの願いだね。もし蓮が僕に叶えてほしいなら、神社に十五円を入れてくれる?」夕凪はにっこり笑いながら首を傾げて俺を見た。」
「……」俺は小銭入れから百円玉を一枚取り出した。「お釣りは不用だ」
それで夕凪は平然と言い始めた。
「簡単に言うと、君野は中学校の時、中川先生に強制わいせつされ続けていたんだ。中川先生は君野たち三年生の国語の先生で、学校の図書室の管理人も兼任していた。そう、あの見た目は知的で礼儀正しいそうな、眼鏡をかけた三十代前半の中川先生だ。中川先生は優しそうに見えたので、君野もそれに騙されて、初めて中川先生について倉庫で本を探しに行った時、真っ暗な倉庫に閉じ込められ、中川先生と三十分くらいにわたる性的行為を強いられた。」
「これは蓮が入学したばかりの時、つまり君野が二年生の時に起こったことだ。君野は誰にもこのことを話せなかった。なぜなら中川先生は、こんな下品な行動をするはずがない人だと思われていたから。それに、両方とも男性だ。こんなことを話しても、誰も信じてくれない。中川はこの罪に対して証拠を取るような機会も、彼に与えなかった。それで君野は図書室から離れることを選び、ご飯を食べる時とトイレに行く時以外は、できるだけにぎやかな教室から離れなかった。彼は真っ暗で誰もいない場所が怖かった。なぜならそこに中川という獣が潜んでいるからだ」
「でも一週間後、彼は同級生から手渡された本をもらった。その新しい包装紙がついた『スプートニクの恋人』を開くと、中に自分がわいせつされている写真が挟まっていた。写真の裏には鉛筆で『午後一時、図書室』と書かれていた」
「それで彼は、もう中川の手から逃れられないことを知った。『スプートニクの恋人』は彼の死の宣告になった。彼は何度も真っ暗な倉庫の中で、中川による屈辱と折檻に耐えた。どんなに叫んでも誰にも聞こえない。恐怖、羞恥、憎しみ——蓮は多少気づいていたはずだ。ホテルの布団で君野の頭を覆い、冗談を言おうとした時、彼は荒れ狂った野獣のように逃げ出して布団を引き裂き、白い詰め物があちこちに散らばったこと。あなたは理由も分からず彼を抱いて謝り、『本当にごめん、暗いのが怖いことを忘れた』と言ったが、彼はただ震えながら涙を流して『ごめんなさい』と繰り返したこと」
「ごめんなさい、ごめんなさい——彼は自分の過激な反応を謝っているのではない。普通の、正常な人間としてあなたを愛せないことを謝っていたのだ。彼の心と体は中川によって一欠片も残らず奪われていた。自分があなたを心から愛せないことを恨んでいた。だから彼は『成年になるまで、あなたとこれ以上の接触は一切しない』と固持した。それは、ただ時間を稼いでいたのだ。汚れた自分の体にあなたが触れるのを恐れ、あなたがそれで離れていってしまうのを怖がっていた。彼にはあなた以外の頼りはもうなかった」
「中川はロープで君野を縛って、わいせつの最中に彼の首をきつく締め付け、ベルトで彼の体に赤い傷跡を次々と残した。中川は君野にオーラを強要し、もし君野が我慢できず吐いたら、さらに激しい殴打を加えた。中川は写真と動画を撮って脅したので、彼は誰にもこのことを話せず、ただ耐え続けた。どうせこの地獄のような中学校生活も、もうすぐ終わるはずだった」
「だがあなたに出会った。あなたが彼にぶつかり、名前を聞いたその日、彼は自分よりも美しい人を初めて見た。中川先生に逆らうのも初めてだった。約束を破り、独りで暗い場所に行かず、明るい教室であなたと弁当を分かち合い、村上春樹のこと、三島由紀夫のこと、大江健三郎のことを話した。その瞬間、『スプートニクの恋人』はやっとその本来の意味に戻り、二つの少年がお互いの心を開く鍵になった」
「あなたを愛したからこそ、君野は中川に対して何度も反抗する勇気が湧いた。中川の指示に従わず、教室にいてあなたと会うのを待った。真っ暗な倉庫の中で、彼は初めて中川の手から小さな肉をかみ切った。中川は痛くて叫び、もう一方の手で彼の頬を十回以上強く叩いた。中川の血が自分の鼻血と混ざり、口の中に鉄錆のあじを放つネバネバしたものが広がった。君野は吐きそうになったが、嬉しかった。やっと自分が生きていることを感じだ。彼のキスは、もはやかけてはいるが、やっと愛する人に捧げられるようになった。それが彼に、再び生きる勇気を与えた。あなたが渡した全ての本を真面目に読み、自分の好きな本を全部あなたに贈った。あなたと手をつなぎたくて、キスをしたくて、愛をかわしたくて。愛する人と全てのことをしたいと思った。愛する人とこれらのことをする時、どんな感じになるのか知りたかった。時間さえあれば、きっと最小限の代償で暗い図書室の倉庫から逃れられると信じていた。全てを終えた後であなたに全てを打ち明け、選択権をあなたの手に渡したかった。あなたがこの全てを受け入れられるか、百パーセント確信ではなかったけど」
俺は黙っていた。まるで自分とは無関係な人の話を聞いているように、無限の距離感を感じた。本能的に耳をふさいでこの現実を受け入れたくなかったが、聞こえた全ては楓咲に本当に起こったことだとはっきり分かっていた。
「あなたが三年生になった時、君野は卒業した。その高校の生徒の大半は、あなたたちが今通っている中学校から進学して来たんだ。両校の距離もそれほど遠くないが、それでも中川に関することを一時的に忘れ、新たに始めようと試したのだ」
「そうあるべきだった」
「だが中川は君野の写真と動画を全て公開した。二年間に蓄えたそれらは、数が多くて驚くほどだった。それで君野の通っていた中学校と高校の一部の先生や生徒は、この事を知った。中川に関する全ての情報はモザイクで隠されたが、君野の傷だらけで潮紅した裸だけははっきりと露わになった。君野は高校に入学した後、中川からのあらゆる嫌がらせを無視し続けていたので、中川はそれを君野の一方的な約束破りだと見なし、結果として全ての秘密を晒された」
「もちろん、蓮はこの一切を知らなかった。なぜなら写真と動画が広く伝わる前に、君野はすでにその暗い地獄に戻り、中川に全てを削除するように跪いて頼んだからだ。彼は実は他人がどんな目で自分を見ても構わなかった。ただこの汚い事が蓮の耳に届くのを恐れていただけだ。それで彼は再び中川というの地獄に戻さざるを得なかった。中川は年を重ねるごとにさらに残虐になり、君野はこんな変態の悪魔が、どうして表面的には円満な家庭を持てるのか理解できなかった。中川の妻も夜中に首を締め付けられ口を覆われてレイプされているのか、彼の娘たちも自分と同じような地獄を経験しているのか——君野はそんなことまで想像した」
「中川は約束守り、送った写真と動画を全て削除した。肝心な証拠が無くなり、当事者である君野も割と平然とした態度を示したため、この件はすぐに人々に忘れ去られた。誰も『君野』という名前を口にしなければ、誰もあの見るに耐えない写真や動画を思い出すことはない。だが代償として、君野は自分が永遠に中川から逃れられないことを絶望しながら悟った」
「その頃の君野はただ無感覚になっていた。彼は高校二年生の夏、暑い倉庫の中で地面に倒れ、顔に残った白い液体を手で拭いながら、『やっと終わった』と思った時、立ち去る中川のポケットから落ちてきた写真を見た。力を振り絞って地上の写真を自分の目の前まで引き寄せると、それが蓮の写真だと驚いた。あなた一人の写真一枚に加え、あなたと君野が一緒に食事をしている写真もあった。写真には、彼が慣れた悪臭のする白い液体が乾いた跡がまだ残っていた。その時、君野は初めて中川を殺そうと思った。愛するあなたの美しい顔にこんな汚い跡がついているのを見て、もう我慢できなかったのだ。それは過去四年間の折檻よりも、はるかに耐えがたい痛みだった。彼は暗闇の中で、あなたの写真に向かってひたすら涙を流した」
「再び中川に会った時、君野は口の中にカミソリの刃を隠していた。中川が再び狂暴に彼のパンツを脱ぎ取る瞬間、君野は勢いでその刃を中川の首に刺し込んだ。動脈から噴出した血が彼の顔にかかり、鼻と口と目の中に流れ込んだが、君野は目を閉じなかった。この悪魔が地獄に落ちる瞬間を、自分の目で確かめたかったのだ」
「その刃は君野の予想以上に深く刺さった。中川は地面にひざまずき、血を吐きながら刃を抜こうとしたが、もう力がなかった。充血した目を見開き、血のかかった眼鏡越しに君野を見つめながら、何かの遺言を言う前に倒れて死んだ」
「君野は中川の遺体に向かって『地獄へ行け』と言い、立ち上がって全身に血をまみれたまま倉庫から出た。どんなに悪辣な人でも、血は温かいものだと思った。その温度があなたの唇を思い出させ、突然最後にもう一度あなたに会いたくなり、もう一度あなたとキスをしたくなった——それが彼の最後の願いだった」
「それであなたの誕生日に、あなたに会いに行った。もし時間がもっとあれば、たくさんお金を貯めてあなたにきれいな指輪を買えたかったのに、あなたの美しさに相応しい指輪を——そう思った。だが彼はもうすぐあなたから離れなければならないことを知っていた。そんな無責任な指輪で、無限の可能性のあるあなたの余生を束縛してはいけないと思った。だから彼は二枚の切符を買い、あなたと一緒に出雲へ行った」
「出雲から帰ってから半月も経たないうちに、君野は中川の命を終えたそのカミソリの刃で、自分の命を終えた。あなたへの愛を抱いたまま」
夕凪は俺の前で立ち止まり、無念なように笑いながら俺を見た。
「だから最初から蓮には話さない方が良いと言ったでしょ……今のように泣いちゃうことが知ってるから。心はもう二十七歳の大人なのに……外見はまだ中学生のままだけど。君野もきっと、蓮が自分のために泣く姿を見たくなかっただろう」
夕凪はそっと俺の顔を掬い上げ、君野と同じ栗色の瞳で優しく俺を見つめた。彼の瞳に映る俺は肩を震わせ、息も荒くなっていた。頬を伝う涙は、彼の手に優しく受け止められた。
「だから、君野はあなたに出会えたことに本当に感謝していたよ。あなたに出会っていなければ、君野は確かに死ななかったかもしれないけど、本当の愛を感じることもできなかっただろう。彼を救ったのはあなただよ、蓮」
「……夕凪、君野に伝えてくれますか?」
「何を伝えるの?」
「『俺、君に会いたい……君を愛してる……この数年、一度も本当に君のことを忘れたことはなかった……』って」
「苗字だけだと、人を間違えちゃうかもしれないよ。蓮、その人の名前を教えてね」
「楓咲。君野楓咲」俺はあの人の名前を叫んだ。まるでこうすれば、遠い彼方の世界にいるあの人に聞こえるように。
「君野楓咲、君はこの世で一番の馬鹿野郎だ!どうして俺が役に立たないと思って、全部自分一人で抱え込んだんだ?君は俺がどれだけ君を愛しているかも、どれだけ君に会いたいかも知らないくせに!君がいない生活は、こんなにつまらなくて、こんなに孤独なんだ……君野楓咲、君は俺の青春を台無しにして、さらに俺の一生までも台無しにした。君のせいで、俺は二十七歳になっても童貞だよ……クソ野郎!」
夕凪はそっと笑った。
「だから……早く俺の目の前に現れて、一発殴らせてくれ……地獄に行くなら、俺と二人で一緒に行くよ!君に俺から離れるような馬鹿な決定をすることを必ず止めてやる……」
「うん、全部聞いてたよ。ちゃんと彼に伝えたよ」春の夕暮れの中、夕凪は俺をしっかり抱きしめた。まだ寒い日に、他人から伝わる温度——見覚えがある。
今度は、少なくとも何かを変えたい。君野が何を背負っているか分かった今、無視することができない。俺は夕凪に録音機を持たせて図書室の倉庫に潜入し、中川と君野の会話を録音して証拠にするよう頼んだ。俺が関与すると、ちょうど変だから、松岡先生を仲介人として君野と話すことができるか尋ねるしかなかった。
それで一週間後、全ての録音データが入ったUSBが松岡先生によって君野の机の上に置かれた。その日の夕方、俺は夕凪と一緒に学校を出ると、校舎の出口で君野が誰かと話している声が聞こえた。
「なんだよ、いつも僕のロッカーにチョコレートを入れてくる。普段チョコレートをあまり食べないから、勿体ないよ……」
俺は無言で足を止め、夕凪の袖を引いて前に進まないよう合図した。
「ああ……ごめん。今日はクリスマスだから、楓咲にクリスマスプレゼントを送ろうと思って……」
「……どうも。このピアスも?」
「うん、つけてみて?楓咲に似合うと思うから」
「本当につけるの?僕はこういうアクセサリーをつけるのがあまり好きじゃないんだ、めんどくさいと感じるから……」
「ねえ、楓咲、こんな事されたら、鬱陶しいと思ってる?」
「え?まあ……ただ江永が僕に対して親密すぎるから、慣れないだけだ。でも江永は僕の友達だよ。君という友達を大切にしている」
「分かった。でも楓咲ともっと親しくなりたくて、こうしてるの」
「江永は僕のこと好き?」
「……うん、大好き」
「じゃ、目を閉じて」
俺と夕凪はその場で固まった。ロッカーの間の狭い隙間から、十五歳の君野と十五歳の江永が夕日の中でキスをしているのが見えた。
「今後はチョコレートを送らないで。好きじゃないから」
「……分かった!でも、楓咲、何が好きか教えてくれる?何でも買ってあげる!」
「知らん」君野はそっと言い残し、屈んでリュックを背負い、出口に向かって歩いていった。
「なんだよそれ……」江永は無念そうに小声で言った。「ねえ、待ってよ楓咲!ねえ……夜、一緒にご飯食べない?」
遠ざかっていく喧騒と足音。長い間たってから、やっと俺と夕凪はさっきあの二人が立っていた場所までぼうっと歩いた。白いチョコレートが、そのまま地面に捨てられていた。
一ヶ月後、君野は母親と一緒に中川を起訴したが、警察が中川のアパートでパソコンのデータを調査したとき、録音資料の中で中川が言及した「写真と動画」はどうしても見つからなかった。誰かがこの事を中川に漏らしたのだろう —— 俺はそう考えた。中川は自分を守るため、警察が調べに来る前に全てのデータを削除せざるを得なかったのだ。君野が卒業した日、法廷は「証拠不十分」を理由に中川を無罪と宣告し、学校も中川を降格させるだけで、それ以上の処分は行わなかった。その後しばらくすると、君野は母親と一緒に大阪に引っ越した。彼の母親がそこで良い仕事を見つけたらしい。
「これでいいの?」夕凪は実質的な内容がほとんどない判決文を撫でながら、そっとため息をついた。
「悔しいけど、君野がちゃんと生きているのを見れば、それで十分です」俺は薄い判決文を受け取り、ちぎってゴミ箱に捨てた。「彼が俺のせいで間違った決定をして一生を台無しにすることもなく、俺も彼のために後半生を無駄な後悔に浸すこともないです。これでいいっす」
俺は中川と君野の会話を記録した USB をなぞった。リビングで父がスポーツチャンネルを大音量で見ながら、酔っ払って空きビール瓶を壁や俺の寝室の戸に投げつける時、俺と夕凪はイヤホンをつけて布団にもぐり込み、最大音量にしてあのクソ野郎が何を言っているか聞き取ろうとした。
「…… 黙れ」
「黙れって言っただろ!」
はっきりとした平手打ちの音。
その後、俺は初めて君野の苦痛な悲鳴を聞いた。その声は「悲鳴」という言葉で表せるのが婉曲すぎる、完全に無残な叫び声だった —— 人間に虐められて瀕死になる動物が発するような声だ。本能的に音量を下げようとしたが、指は固まって動かなかった。
もしこうして、彼の痛みを少しでも分かち合えるのなら。
五秒後、声は小さくなった。おそらく中川が君野の口を覆ったのだ。
一度聞いたら決して忘れられない声だ。イヤホンを外しても、その心を引き裂かれるような声は依然として耳の周りを回り続け、取り憑く悪霊のようだった。
「……」
この録音は終わったと思い、次の録音に切り替えようとした瞬間、突然君野の泣き声混じりのささやきが聞こえた。
「…… どこにもたどり着けないことは……わかっているのに……止まらない……やらなければ……いけないんだ……」
その後は長い沈黙が続いた。君野のささやきも、すすり泣きも聞こえなかった。
イヤホンを抜き、顔を上げると、夕凪の栗色の瞳には涙が溢れていて、月光の下で糸切れた真珠のようだった。俺はゆっくりと、動きが遅れる手を伸ばして彼の涙を拭おうとしたが、彼は俺の手を握って自分の前に引き寄せ、唇に温度のないキスを残した。
俺は長い夢を見た。夢の中で君野楓咲が泣きながら俺の名前を叫んでいるのを見たが、どうしても彼のそばに行けなかった。俺たちの間には透明なガラスの壁があり、俺は力を込めてそのガラスを叩き続けたが、それを少しも動かすことができなかった。
目を開くと、美しい栗色の瞳が見えた。
「楓咲……」
「やっぱり、まだ寝言を言っている…… 蓮、ちょっと熱があるみたいだ。今日は休んだ方がいいんじゃない?」目の前の夕凪はため息をつき、薬を俺の前に運んだ。「さあ、まず薬を飲もう」
夕凪は俺を扶けて起こしてくれた。俺はこの十五歳の体が思ったよりも脆いだと悟った。
「お父さんも仕事に行っちゃったよ……何か食べたい?」
「君が作ってくれるんですか?」
「もちろんだよ、蓮も僕にたくさんご飯を作ってくれたし……」
「じゃ、唐辛子エビが食べたいです」
「それは難しすぎる!」夕凪は大声で叫んで跳び上がった。「変えてよ」
「じゃあ麻婆豆腐……」
「病人は辛いものを食べちゃダメだよ、変えて変えて」
「……じゃ、君が何が作れるか教えてくれます?」
「カレーは作れるよ」
「わかった」俺はあきらめたようにうなずき、夕凪が嬉しそうに台所に向かうのを見ながら、ゆっくりと目を閉じてまた眠りに落ちた。
「ね、蓮は文学部に行きたい?」
君野が高校一年生の秋、ある曇りの午後、俺たちは空っぽの屋上で一緒に座っていた。真っ黒な大きなカラスが頭上を旋回しながら鳴き、その後去っていった。
「うむ。本を読むのが好きだし、自分の文章で稼げるか試してみたい」
「それなら、同じ大学に合格したら、同じ学部にいれるかもしれないね」君野は俺の肩にもたれかかった。俺はその清潔な石鹸の香りを嗅いながら、目を閉じた。
「でも、文章で稼ぐのは難しいようだね。どうしたら三島由紀夫みたいな文章が書けるんだろう」俺はため息をついた。「もしかしたら文学部から卒業しても、他の人たちと同じように普通の会社に入って、普通の文書処理や事務の仕事をしているかもしれない……痛っ!」
君野は肘で俺の脇腹をついた。
「そう思うと、本当に普通の人になっちゃうよ。蓮が書いた文字を見たことがあるよ、とても好きだ。蓮はきっとすごい作家になれると信じてる」
「え?……え?嘘だろう、いつ俺が君に見せたんだ……あ!」
「やっと思い出した?」君野は意気揚々とした笑顔で俺を見た。「蓮が僕に贈った『金閣寺』の中に挟まってたよ。開けたら蓮の手書きのメモ用紙があって、何度も繰り返し読んだ。『金閣寺』よりもずっと面白かったと思うよ」
「……皮肉ってないで」顔が真っ赤になり、手で顔を覆ってもぐもぐと言った。
「……もし蓮がこれからも書き続けるなら、僕たちの話を書いてくれない?とても読みたい」君野は俺の膝の上に頭を枕に、目を閉じて眠ってしまった。
前の俺は、君野との約束を叶えられなかった。志望校の学科を選ぶ時さえ、全ての大学の文学部をパスした。それでぼんやりと早稲田のデザイン科に入り、知らないし興味もないものたちと関わり、ゼロから学んだ。大学卒業の日、カメラのレンズをぼうっと見つめ、「本当に言ったことが当たった」と思った。他の人たちと同じように、普通の会社に入り、普通の仕事をする。俺は俺を見つめるカメラのレンズを凝視し、それが君野の悲しそうな目に似ていると感じた。
結局、俺はどうしてこの山川会社で働くことになったんだろう。会社の近くの喫煙所でセブンスターに火をつけ、タバコを吸いながらふと考えた……ああ、そうだ、面接してくれた人事部長だった。あの時はもう最終面接まで進んでいたけど、正直に言ってあまり期待していなかった。他の二人の候補者は自信満々で余裕だったから。俺はため息をつき、自分が単なる捨てコマだと認めた後、人事部長の前に座った。
「面接の経験を積むことにしよう」——俺はくたびれて絶望的に思った。
「おはようございます、三浦さん」人事部長は意外と若く、柔らかい黒い肩越しの長髪をしており、リムレスメガネをかけ、黒いスーツはシワ一つないようにアイロンがかけられていて、颯爽とした姿だ。「人事部長の佐々木です。よろしくお願いいたします。……弊社では現在新商品の企画を進めていますが、もちろん大きなポスターも掲示して宣伝する予定です。三浦さんが応募したデザイン職は、主にこうした業務を担当することになります。そのため、あなたが弊社の期待に合った魅力的な商品デザインとポスターを作成できるかどうかを見定めたいです。実際に描かなくても構いませんので、主なデザイン構想を話していただければオーケーです」
俺はお礼をして企画書を受け取ると、太字で「清涼飲料水——減糖・ビタミン補給・運動後に適し・持ち運びやすい・豊富なフレーバー」と書かれていた。最近各業界のメーカーが必死で出している夏用飲料の一種だな——俺は目を閉じて考えた。こういうものは、俺から見れば実質的に大した違いがない。どのメーカーの商品も、フレーバーや原料、価格はあまり変わらない。もし俺が自販機の前にいたら、おそらく最初に目に入った一本を選ぶだろう。電車がもうすぐ来る場合ならなおさらだ。そんなに時間をかけて、商品の違いを細かく比較することはないだろう——
「佐々木さん、多くの同類商品の中で勝ち残るためには、まず商品の外装を十分に目立たせる必要があると思います」しばらく考えたあと、俺は話し始めた。「現在市販されている清涼茶や清涼飲料水は、『清涼感』を出すために、基本的に青色、白色、緑色の外装が使われています。そこで、逆のアプローチを考えて、ピンク、黄色、赤色といった鮮やかで目を引くような色をメインカラーにするのはどうでしょうか。こうした色は若い層の注意を引きやすいと思います。もちろん、これらの色は『清涼感』を連想させにくいかもしれません。その場合は商品説明の文字も大きくすることで補えます。商品名は『君の』清涼飲料水にします。こういう呼び方は、商品と消費者の心理的な距離を大幅に縮めることができます。同時に、外装には商品のフレーバーに合わせて違う柄を印刷します。例えば黄色にはレモン、ピンクにはもも……」
「……うん、では赤色は?」
「もみじです」
「え?もみじですか?」佐々木さんは笑い出し、レンズの向こうの濃褐色の目が細まった。「もみじフレーバーの飲料は、今まで見たことがありませんね……もみじの味?どんな味になるの?ふふ」
「季節限定か地域限定にしてもいいかもしれません。味については……薄いお茶の味に設計するのはどうでしょうか?お茶の葉も葉っぱの一種ですから」俺は笑いながら答えた。
「いいアイデアですね……もっとも、そうすると清涼茶飲料になってしまうかもしれませんが」佐々木さんはボールペンで机を軽く叩き、うつむいて少し考えた後、話し始めた。「ただ市場調査レポートによると、商品のフレーバー評価は非常に高いです。つまり、消費者が好奇心から一度試してくれれば、その後は再購入する可能性が高いということです……そうですね、三浦さんの言う通り、目を引くことは大切です。うん、素晴らしいデザイン構想だと思います。ありがとうございます、三浦さん」
それで俺はお辞儀をして、一週間後に山川会社から内定を受け取った。一ヶ月後、俺は総武線の地下通路で「『君の』清涼飲料水」の大きな宣伝ポスターを見かけた。
「君の」、「君の」——俺はこの言葉を繰り返し噛み締め、やがてそれが「君野」の名前に変わっていった。ポスターに「地域限定」と書かれたもみじ柄の外装の飲料を凝視すると、突然そのもみじの赤さが刺眼にさえ感じられた。不思議だな、これが自分がデザインしたものだなんて——感慨深く思った。佐々木さんはもちろん俺の下心を知らないし、山川会社も知らない。俺の下心を一発で見抜けるのは、もう俺から離れた君だけかもしれない。君野がこの大きなポスターを見たら何と言うだろう?笑顔で俺の肩に腕を回して髪を揉み乱すのか、それともまじめなふりをしてギャラをちょうだいって言うのか。
机の引き出しから黄ばんだ東京地図を取り出した。 浅草周辺は赤いマーカーで囲まれていて、その時は浅草という名前の響きがいいと思っただけだ。 地図の余白には「頑張れ三浦蓮!」と歪んだ字が書かれていた。
夢じゃなかったのか。 苦笑いしながら思った。
「東京」は俺が長野で黙々と努力の支えになった。十八歳の夜に夜行バスに乗った時、俺は長野に関するすべてを忘れようと決めた。 東京都の賑やかさは圧倒的で、繁華街の中心にいた時、過去十八年間が夢だったかのように感じられた。 いや、その後は夢の中でさえ長野に戻ったことがなかった。 目の前のこの黄ばんだ地図と幼稚な字だけが「過去のすべては夢じゃない」と伝えている。 もしかしたら東京でのすべてが夢だったのか? それはいい夢か悪夢か。
「ねえ、ご飯の時間だよ。 みんな弁当を持って屋上に行ったよ」
「……腹が空いていません。」 俺は机に伏せてもぐもぐと言った。
「もうぺこぺこでしょう? お腹が鳴くの聞こえたよ。蓮は朝から何も食べてないでしょ?」 夕凪は俺の手を引いたが、俺は何と言われてもしつこくてそこから離れたくなかった。
「……会いたくない人がいるの?」
顔を上げた時、夕凪は俺の真ん前の位置に座って、少し悲しい目で俺を見つめていた。 風が彼のシャツの裾を揺らし、俺は目を細めた。
「……いません」
「嘘つき。 蓮が嘘をつく時はこうして人と目を合わせない。知ってる。」
「……」深くため息をつき、夕凪を連れて外に出た。
「この時間、屋上はもう満員だろう。近くのコンビニに行こう。」
「……またコンビニ? ! そんなに好きなの?」夕凪は目を見開いた。「またマグロおにぎりかよ……」
「ふふ、カツ丼だったのか」 夕凪は安心したような笑顔を浮かべ、頷いて俺のそばに座った。「僕にも一口させて」
箸を持った手が動かなくなり、数秒間黙った後でやっと夢から覚めたようにゆっくりと頭を横に向けた。
「神様も……食べますか?」
「本当に僕を幽霊みたいなものだと思ってるの? 視覚的には似てるかもしれないけど、神もぺこぺこするよ」 夕凪は拒むことができない笑みを浮かべてゆっくりと近づいてきた。
おかしいな、彼の笑顔に全然抵抗できない。まるでもう何度も彼の笑顔を見てきたかのようだ。
「今日の昼ごろだと思いますが……十三年前の今日のことですけど。屋上に食事に行く途中、急いでいたせいで三年生の男の子にぶつかりました。」
その男の子は俺より1歳年上なのに、俺よりずっとやせていて、髪の色が日光の下でわずかにきれいな栗色に見え、彼の美しい瞳と同じ色だった。 彼が顔を上げて俺を見た時、俺は足元にこぼれた弁当も忘れ、ただその年齢に相応しくない美しい顔つきを見つめて、息をのんでいた。
彼はまばたきをして、小声で「申し訳ありません」、屈んでこぼした料理の中に落ちた文庫本を拾い上げた。
「すみません……」俺は髪を掻きながらお辞儀をし、「どうか弁償させていただきます……」
スプートニクの恋人。 トマト炒め卵と野菜サラダをつけたスプートニクの恋人。
「大丈夫です。この本はもうすぐ読み終えるところです」
「『遠くから見ると流星のように美しいが、実際にはその中に閉じ込められて、どこへも行けない囚人に等しいんだ』……あ、ごめんなさい。なんだか独り言を言ってしまった。 いや、あの、この本のこのセリフがとても好きで、つい……」
「……『二つの衛星の軌道がたまたま交差するとき、僕たちはこうして出会う。』」 男の子はほんのり笑顔を浮かべて、「僕もこの部分が大好きです。 それではお先に失礼します……」
「あ、さっきは申し訳ありませんでした……」と俺は小声で言った。
男の子は俺とすれ違った。俺は階段の上にこぼれた形にならないの料理を見つめながら、どうしようもなくなった。今月のお小遣いはもう残り少ないし、コンビニで何か買っていこうか。それともこのまま空腹に耐えようか……
解決策を思いつく前に、俺は振り返り、『スプートニクの恋人』を持ち、俺とは反対方向へ一人で歩いていく男の子を呼び止めた。
「君の名前は何ですか?」
「君野楓咲」 俺はほとんど震えながらあの言いにくいが美しい名前を口にした。 ただこの名前を言うだけで、体中の力が尽きそうだった。 その人はそんなにやせていて、静かに見えたが、こんな輝かしく鮮やかな名前を持っていた。 天成園の晩秋のカエデの葉のように鮮やかで、一度見れば決して忘れられない。
「彼は本当に綺麗です。一度見ればわかります。」 弁当の中に残った三分の一のポークカツを見つめて、突然喉が詰まるように感じた。
「でも蓮の方が綺麗だと思うよ。」
夕凪は右手で俺の頬を撫でて、君野と同じ栗色の瞳で静かに俺を見つめた。
「バカなことを言って……」顔をそらした。「男性を『きれい』って本当に褒めるの?」
「でも蓮も君野のことをこう言っているじゃないか」と夕凪は笑って手を下ろした。「蓮、君野という人を見せてくれない?蓮が美しいと思う人に会いたい」
夕凪は立ち上がって離れようとした。
「……駄目、行かないで。」
「そもそも、君は彼と同じ目をしていますね。」と俺は下手に話をそらして、「初めて君に会った時に気づきました。 偶然なの?それとも君が人間の形になった時、外見を自由に選ぶことができるのか……など、漫画みたいな設定?」
夕凪の手首をしっかりと掴んだ。彼が俺を見下ろした瞬間、俺の頭に浮かんだのは夕日の下で血海の中で倒れ動かない君野の姿だった。小刀を握っていた彼の右手は力を抜いて離れ、左手首は刺すような紅と既に乾いた赤褐色に覆われていて、曼珠沙華が咲き乱れているようで、彼の名前のように鮮やかだった。
俺はその血海の中に腰を下ろし、すべてが悪夢にすぎないと思った。 だが余光で机の上に置かれた紅葉のしおりを挟んだ『金閣寺』を見た時、これが現実だと悟った。どんなに彼の唇にキスしても、彼は再び目を覚ますことはなく、二度と彼の美しい声で俺の名前を呼ぶこともできない。
「もしその時、彼の名前を聞かなければ良かったのに…… 彼にその本を贈らなければ良かったのに…… 最後に会った時、彼にキスをしていれば良かったのに……」
夕凪が涙を拭いてくれた時、初めて自分が泣いていることに気づいた。
「そんなことはない。 蓮が現れたことは、君野にとっては救いだったかもしれない」
もし今回、俺が君野とすれ違うことを選んだら、彼はそんなに苦しくて命を終えなくて済むのだろうか? 俺たちはより良い人生を過ごせるのだろうか? 俺はわからないが、夕凪がここからやり直す機会を与えてくれたのだから、試してみたい。
今でもはっきりと覚えている、十三年前の平成十八年の十二月一日、午後四時ごろから窓の外に雪が舞い始めた。 最後の授業が終わると、俺はリュックを背負って急いで三年生の階に上がって、君野がどのクラスにいるか尋ねた。
しばらくすると、君野は困惑した表情を浮かべて俺の前に立った。俺は少しお辞儀をして手に持っている本を彼に差し出した。
「平気です……」
向こうの人の視線が表紙に落ちた時、少し驚いた顔を見せた。
「ありがとうございます。 ずっとこれを読みたかったんだけど、学校の図書室のものはいつも貸し出し中だ……一週間後に返します。」
「これは君野先輩に送るものです。えっと、ゆっくり読んでいいですよ…… こっちはもう読み終えました」
「……で、図書館のその本は蓮が借りていたの?」
「……すみません。」
「謝ることないよ」君野は俺の頭をそっと叩きながら言った。「行こう、放課後だ」
「あ、俺は部活に行かないと……」俺は顎を掻いた。
「どの部?」
「中華料理部……」声はどんどん小さくなっていった。
「? うちの学校にそんな部があるの?」君野の俺を見る表情が、まるでこの部が俺の適当に作り上げたもののようだ。俺は照れくさそうに笑った。こんな反応には慣れていた。
「本当ですよ、実は俺は部長で、もう一人の部員がいます。 人数がずっと足りないので、今月末には解散する予定です……元々文芸部に入りたかったんですが、入学した時はもう満員でした……」
「ああ、文芸部の奴らは…… 彼らはそんなに文学に興味があるわけじゃないよ。ただ文学という名前を借りて出しゃばりたいだけだ。入らなくても損はない」君野は少し考えた後、言った。「中華料理部に連れてくれますか?」
「もちろん!喜んで。」
人数が少ないので、俺たちは独立した部活室がなく、囲碁部が使わない小さな部屋を一時的に借りていた。着いた時、小林はもう麺を捏ね始めた。
「ああ、三浦! 今日早いね……え、こちらは?」
「彼は見学にいらしゃった三年生の君野楓咲先輩です。 君野先輩、こちらは小林拓也です。同級生の中華料理マニアで、卒業後は専門学校へ行きたいって、それから横浜中華街に中華料理店を開きたいっす。」
「本当ですか? 先輩も入部するのですか……! 俺たちの部は生き残れるのですか?!」小林は泣きそうに興奮していた。
「まさか、君野先輩はもう他の部に参加しているはずっす……」
「そーか」 小林はがっかりして頭を垂れた。
「餃子を作ってるの?」君野は俺たちの活動室を一周しながら、引き出しと戸棚を全部開けて、刃物や食材を思い思いに手に取って見た。「活動室は小さいけど、器材は意外とそろっていますね……」
「なんだか似合ってると思うよ。雪、どんどん降ってきたし」小林は口笛を吹きながら言った。「雪の日はやっぱり餃子だよ」
君野は何度も手伝おうとしたが、最後はいつも手伝いどころか迷惑をかけてしまう。皿を割るくらいはどうでもいいが、刃物でけがをしたら困る。そこで俺は彼に隣の椅子に座るようレシピや料理雑誌をめくるように勧めた。君野は少し渋るようだったが、最後はあきらめて従った。
「先輩、時間があれば来てください。俺達はよく変わった中華料理を作るんです。三浦はいつも俺の料理を美味しいと褒めてくれるので、今では自分の実力が把握できなくなっちゃいました」
「本当に美味しかったよ。一昨日の麻婆豆腐、改良したのはよかったじゃないか?俺は中華料理店の麻婆豆腐はいつも辛さが足りないと思ってたんだ」
「え、麻婆豆腐まで作れるんですか?」
「三浦、先輩の目が輝いてるよ」
「え?あ、本当だ、輝いてるよ、ハハハ。じゃあ来週もう一度作ろう。君野先輩、興味があれば試食に来てもいいですよ」
「先輩、他に好きな料理はありますか?」
「え、僕が注文してもいいんですか?ちょっと…… 迷惑じゃないですか?」
「大丈夫ですよ!中華料理が好きな人から意見を聞きたいんです」
「じゃ、唐辛子エビとピーマン炒め肉を作ってくれませんか?」
「スー……」俺と小林は思いがけず、ガス漏れのような声を漏らした。
「え、難しいんですか?じゃ……」
「先輩がエビと豚肉を持ってきてくれれば、作れますよ」俺が言った。
小林も頷いた。「実は、俺は中華料理店であまり見かけない料理も試しに作ってるんです。例えば砂鍋料理や、酢豚エビみたいなの」
「聞いたこともないですね ——」君野は驚いたように言った。
「こいつの母さんは中国人ですよ」俺が言った。「超上手に中華料理を作れるんです。俺も食べたことがあります」
「すごいんだ……」
「フフフ」小林は得意げに鼻を鳴らした。「先輩、時間があればうちに食べに来てもいいですよ。でも条件は俺たちの部に入ることですよ」
「なんか詐欺みたいだな……」
「いいよ、問題ない。君たちの部の雰囲気、すごく好きだ。今の僕の部よりずっといい」
「そういえば、先輩はどの部にいますか?」
「文芸部だ」
「ええ、突然こっちに来ちゃって、ギャップが大きくないですか……」
君野は笑いながら首を振った。
「ところで、俺、もうぺこぺこだ」俺は肉を刻みながら天を仰いで嘆いた。
「三浦さんも料理ができるんですか?」
「できるよ。普段は俺たちで協力して作ることが多いんだ、効率が高いから。でも意見が合わない時は別々に作ることもある。彼は時折レシピを書いてきて、俺に作らせることもある」
「三浦さんの手料理も食べてみたいですね」
「こいつの料理は俺のほど美味しくない」
「!なんで勝手に結論付けるんだよ!」
「さて、審査員さんも来たし。よし、この日を一年待ってたんだ。勝負をつけよう、三浦!」
小林は袖をまくり上げ、頭を高く上げて餃子の汁を一碗飲んだ。
「いや、俺は今でもこのものの美味しさが理解できないんだ……」俺は困惑して言った。
「お前には説明しきれない」小林は手を振った。
「ねえ、君野先輩も……?」
君野は既に碗を取って餃子の汁を飲んだ。
「やめてよ、君野先輩 ——」
「—— やはり不味い」君野は複雑な表情で餃子の汁を見つめた。
小林は残念そうな表情を浮かべた。
突然君野が笑い出した。俺と小林は揃った困惑した表情で彼を見た。少し憂いのように見えた君野が、こんな明るく笑うなんて、信じられない。
「小林、餃子の汁に変な薬とか入れてないよな?」俺は少し呆然した。
「本当にそうなら、何で俺が平気よ?」
「何で笑ってるかは分からないけど、まず一つ食べてみるか?」
俺はできたの餃子を箸で挟んで君野の口元に差し出した。
「熱いから気をつけてくださいね」
君野は手を箸にかけた。指先が触れた瞬間、俺は小さくふるえた。
寒い雪の日に、他人から伝わる温度。不思議だな。
「どう?」
「熱い!…… 酸っぱい…… え?美味い、わ、すごく香りますね!」
「妙な反応だな」小林は笑いを抑えきれなかった。
「お前の作ったものは、味が複雑すぎるよ」俺は評価した。
「先輩はお腹空いたでしょう?先に食べていいよ。俺と小林はもう一鍋煮るから」
「あなたたちはお腹空いてないの?」
「三浦は料理を作りながらこっそり食べちゃうから、料理が終わったら大体お腹いっぱいになってるよ」
「あれは味見だよ!」
「え?…… そ、う、か、な ——」
「三浦さんも中華料理の大ファンですか?」
「実は…… 最初はただ、楽しく料理ができる場所を作りたかっただけだ。でも部員がなかなか集まらなくて。で、今年の初めに、同級生が「丸々して肌白くて眼鏡をかけた、ちょっとオタクっぽい人が君を指名して探してるよ」と言ってきたんだ。当時は『ヤバい、告白されるのか?』って思ってた —— ハハハ、幸いそうじゃなかったけど、本当に心臓が止まるかと思った。彼は『部名を中華料理部に変えて、中華料理だけを専門に研究しないか』って俺に聞いた。『もし変えるなら、俺も入る』。俺はその時、嬉しくて泣きそうになって、通りかかったクラスメイトの前で彼に抱きついちゃった —— きっと『告白を受け入れたんだ、よかったね』って思われたんだろう —— 翌日には部名を変えたよ」
君野は笑いすぎて咳き込んだ。
「またそのクソユーモアを乱用するなら、切り刻んでやるからね」
「許してくれ」
「なので三浦さんは単純に料理が好きなだけですか?昨日の昼の弁当に入ってた、とても美味しそうだった料理も自分で作ったものですか?」
俺は恥ずかしくてうなずいた。
「でも『好き』って言うと…… ちょっと違うかな。最初は家で誰も料理を作ってくれなくて、毎日家族とラーメンや冷凍食品ばかり食べて、胃を壊しちゃったんだ。病院で治った後、味にすごく敏感になって、食べ物にもうるさくなってきた。それから自分で料理を学び始めて、部で作ったものは家に持ち帰ることもできるし。実は家でも作れるんだけど、小林と一緒だと新しいことを学べるから」
俺は茹でた餃子を鍋からすくい上げながら言った。「実は意外と簡単なんだ。食材を揃えて、レシピの指示に従って作れば大した問題はない。小林みたいに自分で新しい料理を創ることはできないけど、こういう決まった手順に沿って少しずつ美味しいものを作り上げることが、なぜか心を落ち着かせる。もちろん、人に褒められればそれに越したことはないけど…… 小林は絶対に俺を褒めないし、家の人も作ったものを当たり前のように食べるだけだ」
「お前はまだまだから」小林は自慢げに答えた。
「得意げなんていうな」俺は彼の肩をつついた。
君野はもう皿の半分の餃子を食べ終えて、ほんのりと頷いた。俺と小林も座り、三人で囲んで「熱い!熱い!」と叫びながら、次から次へと餃子を口に入れた。
翌日、俺たちは君野からの入部申請書を受け取った。
約束した麻婆豆腐の日がやってきた時、君野はエビと豚肉を持って学校に来た。俺と小林はいつもより激しく言い争い、自分の調味料を相手の顔にかけそうになった。君野はただ興味深そうに、俺たちが喧嘩しながら料理をするのを見ていた。
「二人は全然意見が合わないように見えるのに、同じ部でこんなに長い間我慢し合えるなんて、すごいですね」
「不思議だよね、君野先輩が来る前は、俺たちの部は太平間みたいだった。毎日、三浦とは挨拶するだけでそれぞれ料理を作っていた。たまに餃子などを作る時協力することもあるけど、あまり話すことはなかった。ただ静かに作って、静かに食べて、食べ終わったらそれぞれ家に帰るだけだ。最初は三浦が『料理を作りながら音楽をかけよう』と提案したんだけど、結局俺たちの好みも全然合わなかった!その時はじゃんけんで当日の音楽を決めていたけど、三浦の勝率が高すぎて俺はむかついた。また何度か喧嘩した後、それぞれイヤホンをつけて自分の好きな音楽を聞くことにしたんだ」
「お前はただ先輩の前で目立ちたいだけでしょう」俺は容赦なく皮肉った。
「お前も同じだよ!君野先輩が来た後、お前もはりきってるでしょ?以前のお前が自発的に唐辛子エビを作ろうとしたことあった?」
小林に言い返せなくなった俺は、振り返って君野を見た。彼も俺を見ていて、透き通った栗色の瞳には、なぜか赤くなった俺の顔が映っていた。
料理ができ上がるまで、俺たち三人は一言も話さなかった。
「唐辛子エビ、すごく美味しいです。ごめん、どう表現したらいいか分からなくて…… ただ美味しい、とても美味しいです。もし俺がこのエビだったら、こんなに美味しい料理になれて嬉しいと思うでしょう」
「ふっ」俺は思わず笑ってしまった。
小林はさらに前かがみに笑いころげて、「さすが元文芸部ですね」
「麻婆豆腐もとても美味しいです。僕は中華料理店に行くたびに、シェフに唐辛子を多めに入れてもらうのか、それでもどこか物足りないと感じてしまうんです…… 小林さんの作った辛さは、僕にとってちょうどいいです」
「同志だね!」小林は箸を放り投げて君野と指を組み、泣きそうになりながら言った。「俺の唐辛子を理解してくれる人がいなかったんだ、先輩が来るまでは……」
「いい加減にしろ」俺は力を込めて小林の脇腹を肘で突いた。彼は「痛っ!」と叫びながら、手を上げて俺を攻撃しようとした。「あ、君野先輩、唇がちょっと腫れてますよ…… この辛さ、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫です、とっても好きです」
俺は君野のますます赤く腫れ上がり、その美しい顔に相応しくない唇を見つめて、この違和感から生まれる滑稽さで腹を抱えて笑った。
「一体どういうことだ?前は君野先輩だったし、今回はお前かよ。次は俺がおかしくなるのか?」
「……あ、俺は今晩早く店に帰って手伝わなきゃいけないから、あんた達は食べてくれ。俺は先に行くね」午後 6 時に近くなった時、小林が急いでリュックを背負って出かけた。
「え?おまえ、リュック持ってたの?お前は勉強しないと思ってたよ」
「死んで」小林はリュックで容赦なく俺を突いた。
小林が去った後、俺と君野の二人だけが、お互いに顔を見合わせることになった。部屋の雰囲気はまた少し暗くなった。小林の言う通り、俺たち三人の中で一人でもいなくなると、あんなに活気のある空気にはならないんだ……俺はこの時小林が「物を忘れた」と叫びながら戻ってくることをこんなに強く願ったことはなかった。そうすれば、俺と君野は話をそらす理由が見つけられる。彼を皮肉ることを借りて、本当に言いたいことを口に出さないようにできるのに。
だが彼は戻ってこなかった。
「三浦さん」
「あ…… はい!」驚いて急いで背筋を伸ばしたが、それでも君野の美しい顔を見る勇気がなかった。俺は、その長いまつ毛の下にある栗色の瞳に見つめられると、体中が不自然になり、ひどい時は耳たぶまで真っ赤になってしまう。
ヤバい、心拍数が速すぎる。こんな狭くて静かな部屋の中では、速い鼓動の反響さえ聞こえる。
君野は微笑みながら俺に本を渡した。「読み終えました、ありがとうございます。思った以上に面白かったです、道理でいつも借りられないね。三島由紀夫先生は本当に天才ですね」
『金閣寺』。本の表紙をちらっと見て、俺はため息をついた。
「…… 俺、先輩にプレゼントするものだと言ったでしょ?先輩、そんなに受け取るのが嫌いなんですか?」怒ったふりをして顔を逸らした。
君野は手を引っ込めず、一言も話さなかった。俺たちはこうして、ほぼ暗い部屋の中で、黙り込んでいた。
君野が先に立ち上がって部屋の明かりをつけ、その明るさを確認した後、椅子に戻ってきて、再び本を渡す動作を繰り返した。
「あのさ……」
顔を彼に向けると、その手に持っていた本が変わった。
『仮面の告白』。
俺は驚きと絶望の入り混じりの中で、ゆっくりと頭を上げ、視線を本から少しずつ彼の顔へと移した。正直に言うと、彼の微笑む口元を見た瞬間、自分はきっとダメになってしまうと思った。なぜなら、俺の心臓の鼓動は通りかかる消防車のサイレンよりも騒がしく、頬はきっとテーブルの上の唐辛子エビよりも赤かったからだ。
「僕を見て、三浦さん」
「……」俺はあきらめた。全ての勇気を振り絞って、その人の目を見た。
「その……」「三浦……」
「あなたが先に……」「君が先に……」
ああ —— くそっ、俺は何してるんだ。焦燥感に駆られて自分を殴りたくなった。君野がいなかったら、きっとそうするんだろう。
「…… あの、先輩、一緒に帰りましょう」
「僕もそう言おうと思ってた」君野はまた優しい眼差しで俺を見つめた。俺はテーブルの上に残ったピーマン炒め肉を見たり、窓の外の完全に暗くなった空を見たりした。「それに、三浦さんには『君野』って呼んでほしい。敬称をつけると、すごい距離感が感じるんだ。一歳違うだけなのに。それから……」
「?」
「本を受け取ってくれないか?このポーズ、かっこいいように見えるかもしれないけど、実は手が疲れているんだ」
「ああ、はい。君野先輩……あ、いえ、君野……」
その本を読んだことがあったが、それでも受け取った。
君野は笑顔で頷いた、「じゃあ行こう、三浦」
これって、直接名前を呼ぶよりも変わってない?僕はこっそり思った。まるで見知らぬ人から一気に親友になったようだ!まるで……俺と小林の関係みたい?ちょっと待て、俺、不満なの?何に不満なんだ?確かに昔より仲が良くなったんだけど……もし君野が突然「名前で呼んで」って言ったら、むしろその方が驚くだろう……そうだ、これでいい。こうして段階的に進んでいけば、いつか本当にお互いの名前を呼べるかもしれない……蓮。君野が僕の名前を呼ぶ声を想像すると、頬がさらに赤くなった。なんてこった、俺、本当に君野に名前を呼んでもらいたかったのか。ちょっと待て、これ、どう見ても……そうだろ?本当にちょっと……俺、こんな変態なの?いや、もう考えちゃダメ。気を逸らさなきゃ。それなら、俺が君野の名前を呼んでみることを想像しよう。うん、楓咲、楓咲。ん……どんどん変な感じになってきた。少女漫画に出てくるようなシーンだ……
ずっと後になって、やっと君野が俺を呼んでいる声が聞こえた。彼は俺が熱を出したのかと聞いてきた。俺は慌てて手を振って「いいえ」と言ったが、すぐにうなずいて「そうだ、ちょっと熱があるんだ。だから今日は早く家に帰らないと……」と言い直した。
「……」君野はまばたきしながら俺を見て、微笑みながら言った。「うん、じゃあ三浦が案内して。僕が送っていくよ」
「え?いいんですか?俺んちは……ちょっと遠いんですし、今日も遅いし……」
「まだ七時だよ」君野は時計を見ながら言った。「どう言っても僕は先輩だから、病気の三浦を家まで送ってあげないと安心できない。君がおいしくてたまらないご飯を奢ってくれたお返しだね」
「……」俺は黙って君野の好意を受け入れた。
「そういえば、三浦は家族との関係があまり良くないみたいだね。前に自分で料理を作る理由にも、これと関係あるって言ってたよね?」
「うん。でも大したことじゃないんだ。どうせ高校卒業したらそこを出て一人暮らすから……」
君野は少し黙った後、言った。「もし話したいなら、いつでも聞いてあげる。万一何かあったら、僕の家に来てもいいよ」
俺を家に送る途中、俺たちはほとんど話をしなかった。この気まずい雰囲気を和らげるために、何か話題を出そうと思うけど、どれも場違いだと感じた。誰でも言えるような、栄養のないつまらない話はしたくないし、他人のことも話したくない。君野と二人だけの話をしたい。だが、俺が持っている見せられる部分は全部彼に見せ尽くした。君野のことをもっと知りたいけど、自分から聞きたくない。彼が自発的に俺に打ち明けてくれる姿を見たいんだ。
「……ここまででいいよ。じゃ、また来週ね」君野に手を振って、家の方向に走り出した。
「バイバイ」その声が、まるで冬の夜の風の中にすぐ消えてしまうようだった。
俺は少し前に進んだ後、振り返った。君野はまだその場に立って、俺の後ろ姿を見送っていた。
……なんだよ!俺を子供だと思ってるの?そう思いながら、また君野の方に走り戻った。
「……?どうしたの?何かあった?」
「……あの、君野先輩……君野、家に着いたら、メッセージを送ってくれる?」
「うん。早く帰ろう」彼はそっと頷いた。
——俺、何してるんだ。余計なことをして、馬鹿みたい。慌ててマフラーで顔の下半分を隠し、家の方向に走っていった。約三十分後、俺の携帯がふるえた。深呼吸を三回してから携帯を開くと、可愛いアメリカンショートヘアの猫をアイコンにしている人から、短いメッセージが届いていた。
「家に着いた」
その後、携帯は長い間静かなままだった。俺はがっかりした顔で「やっぱり全部俺の勘違いだった」と嘆いた。先輩はやはり先輩だ。彼はもう俺の気持ちを……知っているんだろう。
ああ、もう。俺は髪を掻きながらシャワーを浴びに行って、無理やり気を移したかった。。シャワーを浴びたら、この愚かなこと全てを忘れてすぐ寝ると決めた。
シャワーを浴びて戻った時、携帯に三つの新しいメッセージが届いていた。送信時間は十分前だった。また三回深呼吸をしてからメッセージ画面を開いた。
最初のメッセージはアメリカンショートヘアの写真だった。彼のアイコンと同じ猫だ。
「可愛いでしょ?優は三浦によく似てると思う」
「今日はお疲れ様。唐辛子エビ、とても美味しかった。体に気をつけて。おやすみ」
メッセージ画面を十分間も見つめた。その後、ぼんやりと電気を消してベッドに横になったが、どんなに寝返りを打っても眠気が全く訪れてこなかった。三十分後、俺はぼんやりと起き上がった。
ちょっと宿題をしようか。
もう一度やり直した中学校生活、俺は毎日昼休みの屋上を避け、夕凪と空っぽの教室で朝起きて作った弁当を食べていた。弁当を作る時間がない時は、コンビニで適当に何かを買った。もう一度中学校から卒業するまで、俺は楓咲に直接会うことはなかった。もう一度卒業写真を撮る日、俺はほっと一息ついた。もちろん楓咲にもう一度会いたかったが、けど彼の美しくて恐ろしい顔を見たら、きっと前と同じ過ちを繰り返してしまうのがとても怖かった。これでいい、俺はそう思った。ただ時折、前の卒業の日に楓咲が渡してくれた大きな束の白いバラと、彼のシャツについていた淡い石鹸の香りが懐かしくなるだけだ。
でも、あの秋の午後の地獄は、もう二度と経験したくない。
「夕凪は神様じゃないっすか?楓咲がどうしてあんな自分の命を終えたのか、きっと知ってるでしょ」
ドアる春の夕方、俺はいつものように夕凪を連れて放課後の道を歩いていた。
「……」
「長い間、俺はこの問題から逃げてきた。考えたくなくて、聞きたくもなかった。逃げ続ければ、楓咲が死んだ事実を受け入れなくてもいいと思ったんです」
「……」
「楓咲が死んだ時、誰も俺を責めなかった。それは誰もが理由もなく俺を罵ったり叱ったりするより、ずっと辛かったです。なぜなら、彼の死がきっと俺に関係があることを知っていたから」
俺が彼の遺体のそばに静かに置かれていた『金閣寺』を見た瞬間から、ずっとそう思っていた。葬式の日、楓咲の母は優しく俺に言った。「私は先に帰ってご飯を作っておくから、君はあの子とまだ話したいことがあるでしょ。日が暮れる前にうちに来てご飯を食べてから帰りなさい」
「教えてください。知りたいです。何も分からずにこの全てを終えたくないっす。今度こそ、前の結末を変えて、あの人をちゃんと生かせるかもしれない」
「……その時、君野が蓮に話さなかったのは、おそらくあなたにその理由を知ってほしくなかったからだと思う。それは怒りを感じさせるとかどうしようもない理由とかかもしれない。蓮が知っても、どうすることもできないかもしれないから、かえってもっと悲しくなるかもしれない……」
「でも、彼はどうして俺にきっと役に立たないと分かったの?まだ何も俺に話していないのに……それに、夕凪も言ったじゃないか。何も起こっていないうちに、大まかに何かの意味だのとか言うのは独断的だって」
夕凪は話さなかった。
「あいつは俺の恋人です。少なくとも、かつては。だから、どんなに悲しいことでも、辛いことでも知りたいっす。十三年前の楓咲は死んだけど、今の楓咲はまだ生きている。だから……」
「これはもう一つの願いだね。もし蓮が僕に叶えてほしいなら、神社に十五円を入れてくれる?」夕凪はにっこり笑いながら首を傾げて俺を見た。」
「……」俺は小銭入れから百円玉を一枚取り出した。「お釣りは不用だ」
それで夕凪は平然と言い始めた。
「簡単に言うと、君野は中学校の時、中川先生に強制わいせつされ続けていたんだ。中川先生は君野たち三年生の国語の先生で、学校の図書室の管理人も兼任していた。そう、あの見た目は知的で礼儀正しいそうな、眼鏡をかけた三十代前半の中川先生だ。中川先生は優しそうに見えたので、君野もそれに騙されて、初めて中川先生について倉庫で本を探しに行った時、真っ暗な倉庫に閉じ込められ、中川先生と三十分くらいにわたる性的行為を強いられた。」
「これは蓮が入学したばかりの時、つまり君野が二年生の時に起こったことだ。君野は誰にもこのことを話せなかった。なぜなら中川先生は、こんな下品な行動をするはずがない人だと思われていたから。それに、両方とも男性だ。こんなことを話しても、誰も信じてくれない。中川はこの罪に対して証拠を取るような機会も、彼に与えなかった。それで君野は図書室から離れることを選び、ご飯を食べる時とトイレに行く時以外は、できるだけにぎやかな教室から離れなかった。彼は真っ暗で誰もいない場所が怖かった。なぜならそこに中川という獣が潜んでいるからだ」
「でも一週間後、彼は同級生から手渡された本をもらった。その新しい包装紙がついた『スプートニクの恋人』を開くと、中に自分がわいせつされている写真が挟まっていた。写真の裏には鉛筆で『午後一時、図書室』と書かれていた」
「それで彼は、もう中川の手から逃れられないことを知った。『スプートニクの恋人』は彼の死の宣告になった。彼は何度も真っ暗な倉庫の中で、中川による屈辱と折檻に耐えた。どんなに叫んでも誰にも聞こえない。恐怖、羞恥、憎しみ——蓮は多少気づいていたはずだ。ホテルの布団で君野の頭を覆い、冗談を言おうとした時、彼は荒れ狂った野獣のように逃げ出して布団を引き裂き、白い詰め物があちこちに散らばったこと。あなたは理由も分からず彼を抱いて謝り、『本当にごめん、暗いのが怖いことを忘れた』と言ったが、彼はただ震えながら涙を流して『ごめんなさい』と繰り返したこと」
「ごめんなさい、ごめんなさい——彼は自分の過激な反応を謝っているのではない。普通の、正常な人間としてあなたを愛せないことを謝っていたのだ。彼の心と体は中川によって一欠片も残らず奪われていた。自分があなたを心から愛せないことを恨んでいた。だから彼は『成年になるまで、あなたとこれ以上の接触は一切しない』と固持した。それは、ただ時間を稼いでいたのだ。汚れた自分の体にあなたが触れるのを恐れ、あなたがそれで離れていってしまうのを怖がっていた。彼にはあなた以外の頼りはもうなかった」
「中川はロープで君野を縛って、わいせつの最中に彼の首をきつく締め付け、ベルトで彼の体に赤い傷跡を次々と残した。中川は君野にオーラを強要し、もし君野が我慢できず吐いたら、さらに激しい殴打を加えた。中川は写真と動画を撮って脅したので、彼は誰にもこのことを話せず、ただ耐え続けた。どうせこの地獄のような中学校生活も、もうすぐ終わるはずだった」
「だがあなたに出会った。あなたが彼にぶつかり、名前を聞いたその日、彼は自分よりも美しい人を初めて見た。中川先生に逆らうのも初めてだった。約束を破り、独りで暗い場所に行かず、明るい教室であなたと弁当を分かち合い、村上春樹のこと、三島由紀夫のこと、大江健三郎のことを話した。その瞬間、『スプートニクの恋人』はやっとその本来の意味に戻り、二つの少年がお互いの心を開く鍵になった」
「あなたを愛したからこそ、君野は中川に対して何度も反抗する勇気が湧いた。中川の指示に従わず、教室にいてあなたと会うのを待った。真っ暗な倉庫の中で、彼は初めて中川の手から小さな肉をかみ切った。中川は痛くて叫び、もう一方の手で彼の頬を十回以上強く叩いた。中川の血が自分の鼻血と混ざり、口の中に鉄錆のあじを放つネバネバしたものが広がった。君野は吐きそうになったが、嬉しかった。やっと自分が生きていることを感じだ。彼のキスは、もはやかけてはいるが、やっと愛する人に捧げられるようになった。それが彼に、再び生きる勇気を与えた。あなたが渡した全ての本を真面目に読み、自分の好きな本を全部あなたに贈った。あなたと手をつなぎたくて、キスをしたくて、愛をかわしたくて。愛する人と全てのことをしたいと思った。愛する人とこれらのことをする時、どんな感じになるのか知りたかった。時間さえあれば、きっと最小限の代償で暗い図書室の倉庫から逃れられると信じていた。全てを終えた後であなたに全てを打ち明け、選択権をあなたの手に渡したかった。あなたがこの全てを受け入れられるか、百パーセント確信ではなかったけど」
俺は黙っていた。まるで自分とは無関係な人の話を聞いているように、無限の距離感を感じた。本能的に耳をふさいでこの現実を受け入れたくなかったが、聞こえた全ては楓咲に本当に起こったことだとはっきり分かっていた。
「あなたが三年生になった時、君野は卒業した。その高校の生徒の大半は、あなたたちが今通っている中学校から進学して来たんだ。両校の距離もそれほど遠くないが、それでも中川に関することを一時的に忘れ、新たに始めようと試したのだ」
「そうあるべきだった」
「だが中川は君野の写真と動画を全て公開した。二年間に蓄えたそれらは、数が多くて驚くほどだった。それで君野の通っていた中学校と高校の一部の先生や生徒は、この事を知った。中川に関する全ての情報はモザイクで隠されたが、君野の傷だらけで潮紅した裸だけははっきりと露わになった。君野は高校に入学した後、中川からのあらゆる嫌がらせを無視し続けていたので、中川はそれを君野の一方的な約束破りだと見なし、結果として全ての秘密を晒された」
「もちろん、蓮はこの一切を知らなかった。なぜなら写真と動画が広く伝わる前に、君野はすでにその暗い地獄に戻り、中川に全てを削除するように跪いて頼んだからだ。彼は実は他人がどんな目で自分を見ても構わなかった。ただこの汚い事が蓮の耳に届くのを恐れていただけだ。それで彼は再び中川というの地獄に戻さざるを得なかった。中川は年を重ねるごとにさらに残虐になり、君野はこんな変態の悪魔が、どうして表面的には円満な家庭を持てるのか理解できなかった。中川の妻も夜中に首を締め付けられ口を覆われてレイプされているのか、彼の娘たちも自分と同じような地獄を経験しているのか——君野はそんなことまで想像した」
「中川は約束守り、送った写真と動画を全て削除した。肝心な証拠が無くなり、当事者である君野も割と平然とした態度を示したため、この件はすぐに人々に忘れ去られた。誰も『君野』という名前を口にしなければ、誰もあの見るに耐えない写真や動画を思い出すことはない。だが代償として、君野は自分が永遠に中川から逃れられないことを絶望しながら悟った」
「その頃の君野はただ無感覚になっていた。彼は高校二年生の夏、暑い倉庫の中で地面に倒れ、顔に残った白い液体を手で拭いながら、『やっと終わった』と思った時、立ち去る中川のポケットから落ちてきた写真を見た。力を振り絞って地上の写真を自分の目の前まで引き寄せると、それが蓮の写真だと驚いた。あなた一人の写真一枚に加え、あなたと君野が一緒に食事をしている写真もあった。写真には、彼が慣れた悪臭のする白い液体が乾いた跡がまだ残っていた。その時、君野は初めて中川を殺そうと思った。愛するあなたの美しい顔にこんな汚い跡がついているのを見て、もう我慢できなかったのだ。それは過去四年間の折檻よりも、はるかに耐えがたい痛みだった。彼は暗闇の中で、あなたの写真に向かってひたすら涙を流した」
「再び中川に会った時、君野は口の中にカミソリの刃を隠していた。中川が再び狂暴に彼のパンツを脱ぎ取る瞬間、君野は勢いでその刃を中川の首に刺し込んだ。動脈から噴出した血が彼の顔にかかり、鼻と口と目の中に流れ込んだが、君野は目を閉じなかった。この悪魔が地獄に落ちる瞬間を、自分の目で確かめたかったのだ」
「その刃は君野の予想以上に深く刺さった。中川は地面にひざまずき、血を吐きながら刃を抜こうとしたが、もう力がなかった。充血した目を見開き、血のかかった眼鏡越しに君野を見つめながら、何かの遺言を言う前に倒れて死んだ」
「君野は中川の遺体に向かって『地獄へ行け』と言い、立ち上がって全身に血をまみれたまま倉庫から出た。どんなに悪辣な人でも、血は温かいものだと思った。その温度があなたの唇を思い出させ、突然最後にもう一度あなたに会いたくなり、もう一度あなたとキスをしたくなった——それが彼の最後の願いだった」
「それであなたの誕生日に、あなたに会いに行った。もし時間がもっとあれば、たくさんお金を貯めてあなたにきれいな指輪を買えたかったのに、あなたの美しさに相応しい指輪を——そう思った。だが彼はもうすぐあなたから離れなければならないことを知っていた。そんな無責任な指輪で、無限の可能性のあるあなたの余生を束縛してはいけないと思った。だから彼は二枚の切符を買い、あなたと一緒に出雲へ行った」
「出雲から帰ってから半月も経たないうちに、君野は中川の命を終えたそのカミソリの刃で、自分の命を終えた。あなたへの愛を抱いたまま」
夕凪は俺の前で立ち止まり、無念なように笑いながら俺を見た。
「だから最初から蓮には話さない方が良いと言ったでしょ……今のように泣いちゃうことが知ってるから。心はもう二十七歳の大人なのに……外見はまだ中学生のままだけど。君野もきっと、蓮が自分のために泣く姿を見たくなかっただろう」
夕凪はそっと俺の顔を掬い上げ、君野と同じ栗色の瞳で優しく俺を見つめた。彼の瞳に映る俺は肩を震わせ、息も荒くなっていた。頬を伝う涙は、彼の手に優しく受け止められた。
「だから、君野はあなたに出会えたことに本当に感謝していたよ。あなたに出会っていなければ、君野は確かに死ななかったかもしれないけど、本当の愛を感じることもできなかっただろう。彼を救ったのはあなただよ、蓮」
「……夕凪、君野に伝えてくれますか?」
「何を伝えるの?」
「『俺、君に会いたい……君を愛してる……この数年、一度も本当に君のことを忘れたことはなかった……』って」
「苗字だけだと、人を間違えちゃうかもしれないよ。蓮、その人の名前を教えてね」
「楓咲。君野楓咲」俺はあの人の名前を叫んだ。まるでこうすれば、遠い彼方の世界にいるあの人に聞こえるように。
「君野楓咲、君はこの世で一番の馬鹿野郎だ!どうして俺が役に立たないと思って、全部自分一人で抱え込んだんだ?君は俺がどれだけ君を愛しているかも、どれだけ君に会いたいかも知らないくせに!君がいない生活は、こんなにつまらなくて、こんなに孤独なんだ……君野楓咲、君は俺の青春を台無しにして、さらに俺の一生までも台無しにした。君のせいで、俺は二十七歳になっても童貞だよ……クソ野郎!」
夕凪はそっと笑った。
「だから……早く俺の目の前に現れて、一発殴らせてくれ……地獄に行くなら、俺と二人で一緒に行くよ!君に俺から離れるような馬鹿な決定をすることを必ず止めてやる……」
「うん、全部聞いてたよ。ちゃんと彼に伝えたよ」春の夕暮れの中、夕凪は俺をしっかり抱きしめた。まだ寒い日に、他人から伝わる温度——見覚えがある。
今度は、少なくとも何かを変えたい。君野が何を背負っているか分かった今、無視することができない。俺は夕凪に録音機を持たせて図書室の倉庫に潜入し、中川と君野の会話を録音して証拠にするよう頼んだ。俺が関与すると、ちょうど変だから、松岡先生を仲介人として君野と話すことができるか尋ねるしかなかった。
それで一週間後、全ての録音データが入ったUSBが松岡先生によって君野の机の上に置かれた。その日の夕方、俺は夕凪と一緒に学校を出ると、校舎の出口で君野が誰かと話している声が聞こえた。
「なんだよ、いつも僕のロッカーにチョコレートを入れてくる。普段チョコレートをあまり食べないから、勿体ないよ……」
俺は無言で足を止め、夕凪の袖を引いて前に進まないよう合図した。
「ああ……ごめん。今日はクリスマスだから、楓咲にクリスマスプレゼントを送ろうと思って……」
「……どうも。このピアスも?」
「うん、つけてみて?楓咲に似合うと思うから」
「本当につけるの?僕はこういうアクセサリーをつけるのがあまり好きじゃないんだ、めんどくさいと感じるから……」
「ねえ、楓咲、こんな事されたら、鬱陶しいと思ってる?」
「え?まあ……ただ江永が僕に対して親密すぎるから、慣れないだけだ。でも江永は僕の友達だよ。君という友達を大切にしている」
「分かった。でも楓咲ともっと親しくなりたくて、こうしてるの」
「江永は僕のこと好き?」
「……うん、大好き」
「じゃ、目を閉じて」
俺と夕凪はその場で固まった。ロッカーの間の狭い隙間から、十五歳の君野と十五歳の江永が夕日の中でキスをしているのが見えた。
「今後はチョコレートを送らないで。好きじゃないから」
「……分かった!でも、楓咲、何が好きか教えてくれる?何でも買ってあげる!」
「知らん」君野はそっと言い残し、屈んでリュックを背負い、出口に向かって歩いていった。
「なんだよそれ……」江永は無念そうに小声で言った。「ねえ、待ってよ楓咲!ねえ……夜、一緒にご飯食べない?」
遠ざかっていく喧騒と足音。長い間たってから、やっと俺と夕凪はさっきあの二人が立っていた場所までぼうっと歩いた。白いチョコレートが、そのまま地面に捨てられていた。
一ヶ月後、君野は母親と一緒に中川を起訴したが、警察が中川のアパートでパソコンのデータを調査したとき、録音資料の中で中川が言及した「写真と動画」はどうしても見つからなかった。誰かがこの事を中川に漏らしたのだろう —— 俺はそう考えた。中川は自分を守るため、警察が調べに来る前に全てのデータを削除せざるを得なかったのだ。君野が卒業した日、法廷は「証拠不十分」を理由に中川を無罪と宣告し、学校も中川を降格させるだけで、それ以上の処分は行わなかった。その後しばらくすると、君野は母親と一緒に大阪に引っ越した。彼の母親がそこで良い仕事を見つけたらしい。
「これでいいの?」夕凪は実質的な内容がほとんどない判決文を撫でながら、そっとため息をついた。
「悔しいけど、君野がちゃんと生きているのを見れば、それで十分です」俺は薄い判決文を受け取り、ちぎってゴミ箱に捨てた。「彼が俺のせいで間違った決定をして一生を台無しにすることもなく、俺も彼のために後半生を無駄な後悔に浸すこともないです。これでいいっす」
俺は中川と君野の会話を記録した USB をなぞった。リビングで父がスポーツチャンネルを大音量で見ながら、酔っ払って空きビール瓶を壁や俺の寝室の戸に投げつける時、俺と夕凪はイヤホンをつけて布団にもぐり込み、最大音量にしてあのクソ野郎が何を言っているか聞き取ろうとした。
「…… 黙れ」
「黙れって言っただろ!」
はっきりとした平手打ちの音。
その後、俺は初めて君野の苦痛な悲鳴を聞いた。その声は「悲鳴」という言葉で表せるのが婉曲すぎる、完全に無残な叫び声だった —— 人間に虐められて瀕死になる動物が発するような声だ。本能的に音量を下げようとしたが、指は固まって動かなかった。
もしこうして、彼の痛みを少しでも分かち合えるのなら。
五秒後、声は小さくなった。おそらく中川が君野の口を覆ったのだ。
一度聞いたら決して忘れられない声だ。イヤホンを外しても、その心を引き裂かれるような声は依然として耳の周りを回り続け、取り憑く悪霊のようだった。
「……」
この録音は終わったと思い、次の録音に切り替えようとした瞬間、突然君野の泣き声混じりのささやきが聞こえた。
「…… どこにもたどり着けないことは……わかっているのに……止まらない……やらなければ……いけないんだ……」
その後は長い沈黙が続いた。君野のささやきも、すすり泣きも聞こえなかった。
イヤホンを抜き、顔を上げると、夕凪の栗色の瞳には涙が溢れていて、月光の下で糸切れた真珠のようだった。俺はゆっくりと、動きが遅れる手を伸ばして彼の涙を拭おうとしたが、彼は俺の手を握って自分の前に引き寄せ、唇に温度のないキスを残した。
俺は長い夢を見た。夢の中で君野楓咲が泣きながら俺の名前を叫んでいるのを見たが、どうしても彼のそばに行けなかった。俺たちの間には透明なガラスの壁があり、俺は力を込めてそのガラスを叩き続けたが、それを少しも動かすことができなかった。
目を開くと、美しい栗色の瞳が見えた。
「楓咲……」
「やっぱり、まだ寝言を言っている…… 蓮、ちょっと熱があるみたいだ。今日は休んだ方がいいんじゃない?」目の前の夕凪はため息をつき、薬を俺の前に運んだ。「さあ、まず薬を飲もう」
夕凪は俺を扶けて起こしてくれた。俺はこの十五歳の体が思ったよりも脆いだと悟った。
「お父さんも仕事に行っちゃったよ……何か食べたい?」
「君が作ってくれるんですか?」
「もちろんだよ、蓮も僕にたくさんご飯を作ってくれたし……」
「じゃ、唐辛子エビが食べたいです」
「それは難しすぎる!」夕凪は大声で叫んで跳び上がった。「変えてよ」
「じゃあ麻婆豆腐……」
「病人は辛いものを食べちゃダメだよ、変えて変えて」
「……じゃ、君が何が作れるか教えてくれます?」
「カレーは作れるよ」
「わかった」俺はあきらめたようにうなずき、夕凪が嬉しそうに台所に向かうのを見ながら、ゆっくりと目を閉じてまた眠りに落ちた。
「ね、蓮は文学部に行きたい?」
君野が高校一年生の秋、ある曇りの午後、俺たちは空っぽの屋上で一緒に座っていた。真っ黒な大きなカラスが頭上を旋回しながら鳴き、その後去っていった。
「うむ。本を読むのが好きだし、自分の文章で稼げるか試してみたい」
「それなら、同じ大学に合格したら、同じ学部にいれるかもしれないね」君野は俺の肩にもたれかかった。俺はその清潔な石鹸の香りを嗅いながら、目を閉じた。
「でも、文章で稼ぐのは難しいようだね。どうしたら三島由紀夫みたいな文章が書けるんだろう」俺はため息をついた。「もしかしたら文学部から卒業しても、他の人たちと同じように普通の会社に入って、普通の文書処理や事務の仕事をしているかもしれない……痛っ!」
君野は肘で俺の脇腹をついた。
「そう思うと、本当に普通の人になっちゃうよ。蓮が書いた文字を見たことがあるよ、とても好きだ。蓮はきっとすごい作家になれると信じてる」
「え?……え?嘘だろう、いつ俺が君に見せたんだ……あ!」
「やっと思い出した?」君野は意気揚々とした笑顔で俺を見た。「蓮が僕に贈った『金閣寺』の中に挟まってたよ。開けたら蓮の手書きのメモ用紙があって、何度も繰り返し読んだ。『金閣寺』よりもずっと面白かったと思うよ」
「……皮肉ってないで」顔が真っ赤になり、手で顔を覆ってもぐもぐと言った。
「……もし蓮がこれからも書き続けるなら、僕たちの話を書いてくれない?とても読みたい」君野は俺の膝の上に頭を枕に、目を閉じて眠ってしまった。
前の俺は、君野との約束を叶えられなかった。志望校の学科を選ぶ時さえ、全ての大学の文学部をパスした。それでぼんやりと早稲田のデザイン科に入り、知らないし興味もないものたちと関わり、ゼロから学んだ。大学卒業の日、カメラのレンズをぼうっと見つめ、「本当に言ったことが当たった」と思った。他の人たちと同じように、普通の会社に入り、普通の仕事をする。俺は俺を見つめるカメラのレンズを凝視し、それが君野の悲しそうな目に似ていると感じた。
結局、俺はどうしてこの山川会社で働くことになったんだろう。会社の近くの喫煙所でセブンスターに火をつけ、タバコを吸いながらふと考えた……ああ、そうだ、面接してくれた人事部長だった。あの時はもう最終面接まで進んでいたけど、正直に言ってあまり期待していなかった。他の二人の候補者は自信満々で余裕だったから。俺はため息をつき、自分が単なる捨てコマだと認めた後、人事部長の前に座った。
「面接の経験を積むことにしよう」——俺はくたびれて絶望的に思った。
「おはようございます、三浦さん」人事部長は意外と若く、柔らかい黒い肩越しの長髪をしており、リムレスメガネをかけ、黒いスーツはシワ一つないようにアイロンがかけられていて、颯爽とした姿だ。「人事部長の佐々木です。よろしくお願いいたします。……弊社では現在新商品の企画を進めていますが、もちろん大きなポスターも掲示して宣伝する予定です。三浦さんが応募したデザイン職は、主にこうした業務を担当することになります。そのため、あなたが弊社の期待に合った魅力的な商品デザインとポスターを作成できるかどうかを見定めたいです。実際に描かなくても構いませんので、主なデザイン構想を話していただければオーケーです」
俺はお礼をして企画書を受け取ると、太字で「清涼飲料水——減糖・ビタミン補給・運動後に適し・持ち運びやすい・豊富なフレーバー」と書かれていた。最近各業界のメーカーが必死で出している夏用飲料の一種だな——俺は目を閉じて考えた。こういうものは、俺から見れば実質的に大した違いがない。どのメーカーの商品も、フレーバーや原料、価格はあまり変わらない。もし俺が自販機の前にいたら、おそらく最初に目に入った一本を選ぶだろう。電車がもうすぐ来る場合ならなおさらだ。そんなに時間をかけて、商品の違いを細かく比較することはないだろう——
「佐々木さん、多くの同類商品の中で勝ち残るためには、まず商品の外装を十分に目立たせる必要があると思います」しばらく考えたあと、俺は話し始めた。「現在市販されている清涼茶や清涼飲料水は、『清涼感』を出すために、基本的に青色、白色、緑色の外装が使われています。そこで、逆のアプローチを考えて、ピンク、黄色、赤色といった鮮やかで目を引くような色をメインカラーにするのはどうでしょうか。こうした色は若い層の注意を引きやすいと思います。もちろん、これらの色は『清涼感』を連想させにくいかもしれません。その場合は商品説明の文字も大きくすることで補えます。商品名は『君の』清涼飲料水にします。こういう呼び方は、商品と消費者の心理的な距離を大幅に縮めることができます。同時に、外装には商品のフレーバーに合わせて違う柄を印刷します。例えば黄色にはレモン、ピンクにはもも……」
「……うん、では赤色は?」
「もみじです」
「え?もみじですか?」佐々木さんは笑い出し、レンズの向こうの濃褐色の目が細まった。「もみじフレーバーの飲料は、今まで見たことがありませんね……もみじの味?どんな味になるの?ふふ」
「季節限定か地域限定にしてもいいかもしれません。味については……薄いお茶の味に設計するのはどうでしょうか?お茶の葉も葉っぱの一種ですから」俺は笑いながら答えた。
「いいアイデアですね……もっとも、そうすると清涼茶飲料になってしまうかもしれませんが」佐々木さんはボールペンで机を軽く叩き、うつむいて少し考えた後、話し始めた。「ただ市場調査レポートによると、商品のフレーバー評価は非常に高いです。つまり、消費者が好奇心から一度試してくれれば、その後は再購入する可能性が高いということです……そうですね、三浦さんの言う通り、目を引くことは大切です。うん、素晴らしいデザイン構想だと思います。ありがとうございます、三浦さん」
それで俺はお辞儀をして、一週間後に山川会社から内定を受け取った。一ヶ月後、俺は総武線の地下通路で「『君の』清涼飲料水」の大きな宣伝ポスターを見かけた。
「君の」、「君の」——俺はこの言葉を繰り返し噛み締め、やがてそれが「君野」の名前に変わっていった。ポスターに「地域限定」と書かれたもみじ柄の外装の飲料を凝視すると、突然そのもみじの赤さが刺眼にさえ感じられた。不思議だな、これが自分がデザインしたものだなんて——感慨深く思った。佐々木さんはもちろん俺の下心を知らないし、山川会社も知らない。俺の下心を一発で見抜けるのは、もう俺から離れた君だけかもしれない。君野がこの大きなポスターを見たら何と言うだろう?笑顔で俺の肩に腕を回して髪を揉み乱すのか、それともまじめなふりをしてギャラをちょうだいって言うのか。
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