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第10章:辺境に咲く薬草師
10-3:救済の薬
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辺境の森は、王都の混乱など嘘のように、穏やかな時間が流れていた。
ルシルの小屋は、今や、彼女の研究成果である『美容ポーション』(試作品)と、様々な薬草の香りが満ちる、完璧な「工房」となっていた。
カイラスは、第9章の「婚約者宣言」以来、その庇護をさらに強めていた。もはや「森の監視」という口実も使わず、ただ日課として彼女の小屋を訪れ、ルシルの淹れるハーブティーを飲みながら、彼女の研究ノートを眺めるのが、彼の最大の安らぎとなっていた。
「王都から、使者が」
その日、カイラスは、ルシルに静かに告げた。
「!」
ルシルの肩が、一瞬、強張った。あの日の騎士団の恐怖が蘇る。
(また、あの冷たい光の世界に引き戻される?)
彼女の心臓は、王都の華やかさよりも、この森の静寂を選び取っていた。
「案ずるな」
カイラスは、ルシルの手を、そっと握った。その手は、完治した今もなお、ルシルよりも冷たい。だが、その冷たさは、彼女を安心させる、力強い冷たさだった。
「彼らは『嘆願』に来た。わたくしではなく、貴女にだ」
小屋の前に現れたのは、あの日、カイラスに剣を砕かれた騎士隊長だった。
だが、彼の姿に、かつての傲慢さや敵意は微塵もなかった。
彼は、鎧も兜も外し、一人の人間として、ルシルの前で深く、深く頭を下げた。その姿は、ルシルが王都で見た、どの貴族よりも謙虚で誠実なものだった。
「ルシル様。いや、『大薬師』殿。我々は、取り返しのつかない過ちを犯した。王太子殿下に代わり、この通り、深く謝罪申し上げる」
彼の声には、敗北の屈辱ではなく、真実を認める痛みが込められていた。
ルシルは、その光景に戸惑った。王都の権威の象象であった騎士が、自分の前で、ここまで頭を下げる。
(わたくしが、この屈辱を彼らに与えたのではない。彼らが、王太子のために負った屈辱だわ)
彼女の心に、騎士たちへの憐れみと、そして、彼らをここまで追い詰めたジェラルドへの静かな怒りが湧いた。
「顔を、上げてください。わたくしは」
「嘆願に参りました!」
隊長は、宰相ヴェルナーからの親書を、震える手で差し出した。
「騎士団長フェリクス様が、未だ昏睡状態にあります。アデリーナ様の光では、何の効果もありません。あの日、貴女様が精製なさった『神聖原液』こそが、彼を救う唯一の薬であったと、我々は愚かにも今更ながら気づきました。どうか、フェリクス団長をお救いいただきたい!」
彼の声は、国家の命運がかかっているという切実さを帯びていた。
ルシルは、親書に目を通し、カイラスを見上げた。
親書には、ルシルの名誉回復と、辺境伯領の「大薬師」としての地位を認める旨が、正式に記されていた。
カイラスは、ただ静かに頷いた。その蒼い瞳には、ルシルの望みを問う、絶対的な信頼が宿っている。
「わたくしは、貴女の判断に従う。貴女が王都を許す必要はない。貴女が断れば、わたくしはこの場で彼らを追い返す」
彼の言葉は、ルシルの「自由意志」を最大限に尊重するものだった。
ルシルは、数秒間、目を閉じた。
王宮での屈辱、ジェラルドの冷たい瞳、アデリーナの嘲笑。過去の苦い記憶が、彼女の心に抵抗を生む。
(なぜ、わたくしが、あの愚かな者たちのために)
だが、彼女の脳裏に浮かんだのは、病床で苦しんでいた、騎士団長フェリクスの顔だった。
(フェリクス様に、罪はない)
彼は、アデリーナとジェラルドの策略の、最大の被害者の一人だ。そして、ルシルが最後に「毒」を盛ったと濡れ衣を着せられた、唯一の患者だ。彼を救うこと。それは、ルシル自身の汚名を完全に雪ぐことに他ならなかった。
「わかります。彼に罪はありません」
ルシルは、きっぱりと答えた。
「騎士団長フェリクス様は、わたくしが最初に救おうとした、大切な患者様です。わたくしの薬が、彼を救えるのなら、わたくしは薬草師として、当然の責務を果たします」
ルシルは、工房へと向かった。
あの日、すり替えられた『神聖原液』。その時と同じ調合を、今、この森の最高の素材(『星涙草』と『月影草』をブレンドする、彼女だけの新レシピ)で行う。
王宮の工房よりも遥かに充実した設備で、ルシルは完璧な集中力で、フェリクス団長の「呪い」を解くためだけに最適化された、『解呪原液』を精製した。
蒸留器から滴り落ちる琥珀色の液体は、王都の薬師たちが精製できなかった「不純物ゼロ」の純度を誇り、自ら光を放っているようだった。それは、ルシルの揺るぎない技術と、森の恵みの融合だった。
「これを」
ルシルは、その小瓶を鉛のケースに納め、騎士隊長に手渡した。その手には、過去の屈辱ではなく、薬草師としての誇りが満ちていた。
「必ず、フェリクス団長ご本人に。そして、宰相閣下に、わたくしの望みは『王都への帰還』ではないと、そうお伝えください」
騎士隊長は、その「救済の薬」を、まるで神の奇跡を受け取るかのように、震える両手で受け取った。
「ありがとうございます、聖女様! このご恩は、決して忘れません!」
彼らは、カイラスとルシルに対し、最敬礼を残し、王都へと馬で駆けていった。その背中は、王都の騎士団としての傲慢さを捨て、ただ一人の女性の慈悲に、王国の命運を託したのだ。
ルシルの小屋は、今や、彼女の研究成果である『美容ポーション』(試作品)と、様々な薬草の香りが満ちる、完璧な「工房」となっていた。
カイラスは、第9章の「婚約者宣言」以来、その庇護をさらに強めていた。もはや「森の監視」という口実も使わず、ただ日課として彼女の小屋を訪れ、ルシルの淹れるハーブティーを飲みながら、彼女の研究ノートを眺めるのが、彼の最大の安らぎとなっていた。
「王都から、使者が」
その日、カイラスは、ルシルに静かに告げた。
「!」
ルシルの肩が、一瞬、強張った。あの日の騎士団の恐怖が蘇る。
(また、あの冷たい光の世界に引き戻される?)
彼女の心臓は、王都の華やかさよりも、この森の静寂を選び取っていた。
「案ずるな」
カイラスは、ルシルの手を、そっと握った。その手は、完治した今もなお、ルシルよりも冷たい。だが、その冷たさは、彼女を安心させる、力強い冷たさだった。
「彼らは『嘆願』に来た。わたくしではなく、貴女にだ」
小屋の前に現れたのは、あの日、カイラスに剣を砕かれた騎士隊長だった。
だが、彼の姿に、かつての傲慢さや敵意は微塵もなかった。
彼は、鎧も兜も外し、一人の人間として、ルシルの前で深く、深く頭を下げた。その姿は、ルシルが王都で見た、どの貴族よりも謙虚で誠実なものだった。
「ルシル様。いや、『大薬師』殿。我々は、取り返しのつかない過ちを犯した。王太子殿下に代わり、この通り、深く謝罪申し上げる」
彼の声には、敗北の屈辱ではなく、真実を認める痛みが込められていた。
ルシルは、その光景に戸惑った。王都の権威の象象であった騎士が、自分の前で、ここまで頭を下げる。
(わたくしが、この屈辱を彼らに与えたのではない。彼らが、王太子のために負った屈辱だわ)
彼女の心に、騎士たちへの憐れみと、そして、彼らをここまで追い詰めたジェラルドへの静かな怒りが湧いた。
「顔を、上げてください。わたくしは」
「嘆願に参りました!」
隊長は、宰相ヴェルナーからの親書を、震える手で差し出した。
「騎士団長フェリクス様が、未だ昏睡状態にあります。アデリーナ様の光では、何の効果もありません。あの日、貴女様が精製なさった『神聖原液』こそが、彼を救う唯一の薬であったと、我々は愚かにも今更ながら気づきました。どうか、フェリクス団長をお救いいただきたい!」
彼の声は、国家の命運がかかっているという切実さを帯びていた。
ルシルは、親書に目を通し、カイラスを見上げた。
親書には、ルシルの名誉回復と、辺境伯領の「大薬師」としての地位を認める旨が、正式に記されていた。
カイラスは、ただ静かに頷いた。その蒼い瞳には、ルシルの望みを問う、絶対的な信頼が宿っている。
「わたくしは、貴女の判断に従う。貴女が王都を許す必要はない。貴女が断れば、わたくしはこの場で彼らを追い返す」
彼の言葉は、ルシルの「自由意志」を最大限に尊重するものだった。
ルシルは、数秒間、目を閉じた。
王宮での屈辱、ジェラルドの冷たい瞳、アデリーナの嘲笑。過去の苦い記憶が、彼女の心に抵抗を生む。
(なぜ、わたくしが、あの愚かな者たちのために)
だが、彼女の脳裏に浮かんだのは、病床で苦しんでいた、騎士団長フェリクスの顔だった。
(フェリクス様に、罪はない)
彼は、アデリーナとジェラルドの策略の、最大の被害者の一人だ。そして、ルシルが最後に「毒」を盛ったと濡れ衣を着せられた、唯一の患者だ。彼を救うこと。それは、ルシル自身の汚名を完全に雪ぐことに他ならなかった。
「わかります。彼に罪はありません」
ルシルは、きっぱりと答えた。
「騎士団長フェリクス様は、わたくしが最初に救おうとした、大切な患者様です。わたくしの薬が、彼を救えるのなら、わたくしは薬草師として、当然の責務を果たします」
ルシルは、工房へと向かった。
あの日、すり替えられた『神聖原液』。その時と同じ調合を、今、この森の最高の素材(『星涙草』と『月影草』をブレンドする、彼女だけの新レシピ)で行う。
王宮の工房よりも遥かに充実した設備で、ルシルは完璧な集中力で、フェリクス団長の「呪い」を解くためだけに最適化された、『解呪原液』を精製した。
蒸留器から滴り落ちる琥珀色の液体は、王都の薬師たちが精製できなかった「不純物ゼロ」の純度を誇り、自ら光を放っているようだった。それは、ルシルの揺るぎない技術と、森の恵みの融合だった。
「これを」
ルシルは、その小瓶を鉛のケースに納め、騎士隊長に手渡した。その手には、過去の屈辱ではなく、薬草師としての誇りが満ちていた。
「必ず、フェリクス団長ご本人に。そして、宰相閣下に、わたくしの望みは『王都への帰還』ではないと、そうお伝えください」
騎士隊長は、その「救済の薬」を、まるで神の奇跡を受け取るかのように、震える両手で受け取った。
「ありがとうございます、聖女様! このご恩は、決して忘れません!」
彼らは、カイラスとルシルに対し、最敬礼を残し、王都へと馬で駆けていった。その背中は、王都の騎士団としての傲慢さを捨て、ただ一人の女性の慈悲に、王国の命運を託したのだ。
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