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二章
初めての朝
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「……しもーし」
声が聞こえる。どこから? 分からない。ただ控えめな声が、遠くから聞こえてくる。
「……もしもーし」
声が近づいてきたのか、それとも言葉の意味を俺が分かるようになったのか。そのどちらかは分からなかったけれど、その声は確かにそう言っていた。
聞き覚えのない声だ。誰だろう、耳の遠い人と話している電話の声だろうか。だとしたら、こんなに可愛らしい声の人、俺の係に居ただろうか。
「もしもーし。……えっと、あの、聞こえてますか? これ、生きてます……よね」
……どれだけ電話の相手は耳が遠いのだろうか。というかそこまでいったら電話の調子を疑った方がいいのではないだろうか。そんなことをぼんやりと考えて、
「それなら……。すっ、すみません!!」
「うおわっ!?」
突然襲いかかってきた浮遊感と、そして全身を包み込むひんやりとした感触に、俺は情けない悲鳴を上げていた。
「なっ、なにが……」
「あ、やっと起きました。もう朝のお掃除の時間ですよ?」
さっきまで聞こえていた可愛らしい声が、すぐ傍から聞こえる。どうしてか窓の外に向けられていた顔を、俺はその方に慌てて向けた。
「おはようございます。メイヤーさんに言われて起こしに参りました。なかなか起きなかったので、ちょっとだけ手荒になってしまいましたが……」
そこに居たのは、長い黒髪の美少女だった。前髪を眉の上で横一文字に切り揃え、黒い和服には真っ赤な菊のような文様が描かれている。長い黒髪は腰のあたりまで届いていて、まるで大和撫子のような風貌だった。
ただ一つ、腰から下が蛇の体になっていて、更にそれが俺の体に巻き付いていることを除けば。
「……いや手荒すぎでしょ!?」
「あっ、ごめんなさい。嫌でしたよね、私なんかに巻き付かれたら……。でもいくら声をかけても目を覚まされなかったので……」
「それにしても体を巻き付けて窓の方に向けるってのはどうなんですかね!? 確かに起きなかった俺も悪かったけども!!」
流石に人生で初めての経験に、俺は思わず声を大にして叫んでしまう。寝起きで動揺しているというのもあるけれど、体に巻き付いた尻尾はやたらとモチモチとした感触で、しかも微妙にひんやりとしているのだ。
しかも俺の体を巻き付けた尻尾で持ち上げて、更に俺が苦しくないようにと加減できているということは。つまり、力にまだまだ余裕があるということで。
「ちょっと待てよ。確かアナコンダとかが締め付ける力って、何百キロとかあるんじゃなかったっけ……?」
もし彼女がその気になれば、俺の胴体と下半身はお別れ……とまではいかなくても、ひ弱な肋骨ごと内蔵を潰すくらいは訳ないだろう。そう思うと背筋が思わず凍って、体が強張ってしまう。
「まさかこのまま俺を絞め落として食べ……」
「そ、そんなことは致しません!! 確かに手荒く起こしたのは申し訳なかったですけれども、そこまで言わなくてもいいじゃなりませんか……」
「わ、悪い。思ったことがつい口に出ちゃって……」
「それ、謝っているように聞こえません」
俺の考えを読んだかのように、目の前の少女はそう言って拗ねたように唇を尖らせる。それからその言葉を証明するみたいに、そっと俺のことを床に下ろしてくれた。
「ほら、ちゃんと下ろしましたよ? さっきも言いましたけど、私はただメイヤーさんに頼まれて、新しく入ったばかりの方を起こしに来ただけなんです。それに、私が締め付けたいのは愛する人だけですもの……」
「……え? なんか今、もの凄く怖い言葉が聞こえた気がするんだけど」
「なんの話ですか? それより順番が前後してしまいましたけど、初めまして。私は見ての通りラミアのニシキと申します」
「あ、ああ。ええと、俺はヒューマンの……」
「ユウトさん、ですよね。メイヤーさんから聞きました。本当は昨夜の夕食でお互いの自己紹介をする予定だったのですが、死んだように眠いっていたので放置したとも」
にこやかな笑顔で、地味に怖い情報をぶち込んでくる。話し方は丁寧で常識のある感じなのに、起こし方と言い発現の節々に漂う遠慮のなさと言い、見た目通りの大和撫子というわけではなさそうだ。
「って、もしかして俺あれからずっと寝てたのか……申し訳ないことしたなぁ。もしかしてメイヤーさん、怒ってたりしないよな……?」
最初のインパクトがあまりに強すぎたせいか、それとも彼女の人柄がそうさせるのか。俺は思わず敬語も忘れてニシキと名乗るラミアに口を開いていた。
「どうでしょう。口では文句を言ってましたけど、あの感じだと本気で怒ってるって感じではないと私は思います。まあ、保証は出来かねますが」
クスクスと、鈴を転がしたような笑みを浮かながらニシキさんは笑う。その笑顔はどこか作り物みたいに可愛らしくて、お人形みたいだと思った。まあ下半身が蛇なのを除けば、それこそ大和撫子そのもののような女性なのだけれど。
「なら早く起きて謝らないと……。確か朝は掃除があるんだよな……って、初対面なのに不躾な口調でしたね。すみません」
「いえ、私は気にしていませんよ? 私とユウトさんは同じ立場ですし、出来れば親しく話しかけて頂きたいです。私の口調は……口癖みたいなものですので、気にしないでいてだけると」
優しい。なんて優しい人なんだ。変わった人ばかり接客してきたせいか、その優しさがやたらと胸に染みる。
「分かった、それならこのままで。それで、掃除だけど……」
「そうですね、二人でやってしまいましょうか。寮の周りを掃除したら朝食ですので、シャワーはその後に浴びるほうがよろしいかと。ちなみに今日は皆遠方の出稼ぎでいらっしゃいませんので……二人きり、ですよ?」
「そっ、そうか……」
何故か一瞬、背筋に悪寒が走った気がした。それはチロリと唇を舐めた彼女の舌が扇情的だったからか、それとも俺を見る目がそれこそ獲物の品定めをしている目のようだったからか。
そのどちらかは分からなかったけれど、瞬きをした後のニシキさんは優しそうな笑顔を浮かべていて。きっと俺の見間違いかなにかだろうと、俺は自分に言い聞かせることにした。
「あ、お着替えはしていった方がいいですよ。その服、掃除には向いてなさそうですので。恐らくはその棚に最低限の衣類は置いてあると思います。私は後ろを向いてますから、着替えてしまってください」
「……本当だ。Tシャツにズボンに上着まである」
麻で出来ているであろうシャツやズボンは、どこか某モンスターを狩るゲームに出てきそうな民族チックな模様が編み込まれていた。クオリティは日本で売っているものに比べるべくもないが、デザインも悪くないしなにより実際に着てみると頑丈そうな肌触りだ。
「着ては見たけど、なんか着慣れない感じが凄いな……」
「初めて袖を通す服はそんなものですよ。……あっ、襟が捻れちゃってます。直して差し上げますね」
「え? いや自分で──」
遠慮する言葉を俺が口に仕切る前に、ニシキさんはどういう体運びか一瞬で数歩分はあった距離を詰めてくる。そしてそのまま、まるで抱きしめるみたいに俺の背中に腕を回して。
「ええ、これで大丈夫です。……どうかしましたか?」
「いえ、その、ここまで女性に近づかれたことがなかったから少し動揺しただけというか、黒い髪が綺麗だなとか思っただけで」
女性慣れしてないこと丸出しの俺の早口に、ニシキさんが頭の上にはてなマークを浮かべている。この距離まで近づいて、しかも俺のまくし立てるような早口にもなんとも思わないなんて──。
「……天使か?」
「いえ……ラミアですけど……?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
もしかして天然なのだろうか。もしくはラミアの間ではこれくらいの距離になることは当たり前で、そして今の俺の言ったことが理解できないだけなのか。
確かに種族間でそういう文化の違いがあるのはおかしくない、というか当たり前だ。日本人と欧米の人ですら、距離感の違いであれだけ問題が起きるくらいなのだから。
「あー、なるほど、そういうことか……。いや、変なこと言って悪かった」
「そう、ですか? もしお体の具合が悪いのでしたら……」
「いえ、本当に大丈夫だから!! それよりメイヤーさんに怒られる前に行かないと!!」
「は、はい、分かりました……? ええと、ではこちらからまず外に行きましょうか」
未だにキョトンとしているニシキさんは、それでも俺の気迫に押されてかアッサリと引き下がってくれる。
それを見て、もしもラミアの距離感が近いからだったとしても、きっと彼女は天然なのだろうとハッキリ思った。
「……ちなみに、天使も居るのか? この街には」
「ええ、まあ。そんなに人数は多くないと思いますけれど、私も以前にお見かけしました」
なるほど、通りで褒め言葉としての天使という形容詞が通じないわけだ。と言うことはきっと、鬼!! とか悪魔!! とかも通じないのだろう。
「まあ、悪魔も居れば天使が居てもおかしくはねぇか……」
「この街には本当に色々な種族が居ますから。おかげで色々な国の文化が入ってきますし、色々なお店でお買い物が出来るんです。例えば、この和服も妖怪の国の方々が持ち込んだものなんですよ?」
ほら、どうですか? と、ニシキさんは裾を持ち上げて、蛇の下半身でしかも前に進みながら器用にくるりと一周してみせる。
大和撫子な雰囲気と相まって、正直に言ってめちゃくちゃ可愛い。おしとやかな話し方と、無邪気な可愛らしい笑顔。艷やかな黒い髪も相まって、和服との親和性はバッチリだ。
……ただ、下半身が蛇というギャップは、今の俺には大きすぎて受け入れられそうにないが。
「い、いいんじゃないかな。似合ってるよ」
「ふふっ、ありがとうございます。ユウトさんもお似合いですよ」
あからさまなお世辞だけど、不思議と嫌味には感じない。彼女の人柄のおかげだろうか。もしくは俺が人に肯定されることに飢えすぎていたのか。……前者ということにしておこう。後者は悲しすぎる。
そんなことを自分に言い聞かせながら、俺とニシキさんは分厚い木の扉を開けて外に出た。ちなみに外の掃除はメイヤーさんは一切やらないらしく、入所者に全て任せきりらしい。なんて適当な人だ、と思ったが。
「でもメイヤーさんは室内を全部一人で掃除してるんですよ? 廊下があんなにピカピカなのは、あの人のおかげなんです。だから文句なんて言えません」
とはニシキさんの談である。あんなに適当で面倒くさがりなことを言っていたのに、なんだかんだ掃除や料理だけはプロ並みとか、それこそギャップがありすぎて脳がバグりそうだ。
「まあ外の掃除とは言っても、基本的には落ち葉をまとめたりゴミを拾ったりとかくらいです。そんなに時間はかかりませんよ」
この辺りは現実と変わらず、ほうきで落ち葉をまとめてちりとりで拾っていく。集めた落ち葉は麻袋に詰めていくのだが、その袋から葉が溢れないようにとニシキさんが尻尾の先で常に持ち上げているのは、微妙にコメントに困る見た目だった。
「って言っても、結構広いよなぁ……この寮」
「ええ、なので人数が少ない時は玄関周りくらいでいいそうです。就職活動がある人とか、仕事が決まって働いてる人も居ますので」
「なるほど、確かに。……ちなみにニシキさんはもう働いてたりするのか?」
「わ、私ですか? 私は、その……少しだけ事情がありまして……」
ニシキさんは気まずそうに目線を反らし、聞かれたくないことがあるように言葉を濁す。なんだろう、なにか就労阻害要因でもあるのだろうか。
だが就労移行支援施設ということは、本来は就労しているか就職先を探しているかの二択になる。就労が難しい場合は、俺の知っている制度の場合は他の施設に行くはずなのだけど……。
「あー、まあ事情は人それぞれだよな、ここでは。悪い、不躾なことを聞いて」
「いえ、本来であればユウトさんの言う通り、就職先を探しているか就職しているのが本来です。なので、むしろ謝るのは私の方ですよ」
「……その理由って──」
どういう理由なんですかと口にしようとして、慌てて俺はその言葉を飲み込む。彼女は今日あったばかりの他人で、そして今の俺はケースワーカーではないのだ。
おいそれと他人の人生に踏み込むべきではない。かつて仕事とは言え散々他人の人生に踏み込んできたからこそ、その重みが俺には分かる。踏み込むのなら、最後まで付き合う覚悟を持つ。そうあるべきだと、ずっと思ってきたのに。
それなのに覚悟もなく、仕事だから仕方ないと他人の人生に踏み込んで、踏み荒らして。それがずっと嫌でたまらなかったんだから。
「──いや、なんでもない。それより袋、もう少し広げてくれるか?」
「あ、はい。……どうぞ」
だから俺は、何も聞かず何も考えず、彼女が尻尾で持ってくれている麻袋に落ち葉を詰め込んでいった。そう、俺はもうケースワーカーでもなんでもない。だから他人の人生になんて踏み込む必要なんてないんだと、踏み込んじゃいけないんだと。
彼女の表情すら見ないで、俺はただひたすらにそう強く思っていたのだった。まるで、自分に言い聞かせるように。
声が聞こえる。どこから? 分からない。ただ控えめな声が、遠くから聞こえてくる。
「……もしもーし」
声が近づいてきたのか、それとも言葉の意味を俺が分かるようになったのか。そのどちらかは分からなかったけれど、その声は確かにそう言っていた。
聞き覚えのない声だ。誰だろう、耳の遠い人と話している電話の声だろうか。だとしたら、こんなに可愛らしい声の人、俺の係に居ただろうか。
「もしもーし。……えっと、あの、聞こえてますか? これ、生きてます……よね」
……どれだけ電話の相手は耳が遠いのだろうか。というかそこまでいったら電話の調子を疑った方がいいのではないだろうか。そんなことをぼんやりと考えて、
「それなら……。すっ、すみません!!」
「うおわっ!?」
突然襲いかかってきた浮遊感と、そして全身を包み込むひんやりとした感触に、俺は情けない悲鳴を上げていた。
「なっ、なにが……」
「あ、やっと起きました。もう朝のお掃除の時間ですよ?」
さっきまで聞こえていた可愛らしい声が、すぐ傍から聞こえる。どうしてか窓の外に向けられていた顔を、俺はその方に慌てて向けた。
「おはようございます。メイヤーさんに言われて起こしに参りました。なかなか起きなかったので、ちょっとだけ手荒になってしまいましたが……」
そこに居たのは、長い黒髪の美少女だった。前髪を眉の上で横一文字に切り揃え、黒い和服には真っ赤な菊のような文様が描かれている。長い黒髪は腰のあたりまで届いていて、まるで大和撫子のような風貌だった。
ただ一つ、腰から下が蛇の体になっていて、更にそれが俺の体に巻き付いていることを除けば。
「……いや手荒すぎでしょ!?」
「あっ、ごめんなさい。嫌でしたよね、私なんかに巻き付かれたら……。でもいくら声をかけても目を覚まされなかったので……」
「それにしても体を巻き付けて窓の方に向けるってのはどうなんですかね!? 確かに起きなかった俺も悪かったけども!!」
流石に人生で初めての経験に、俺は思わず声を大にして叫んでしまう。寝起きで動揺しているというのもあるけれど、体に巻き付いた尻尾はやたらとモチモチとした感触で、しかも微妙にひんやりとしているのだ。
しかも俺の体を巻き付けた尻尾で持ち上げて、更に俺が苦しくないようにと加減できているということは。つまり、力にまだまだ余裕があるということで。
「ちょっと待てよ。確かアナコンダとかが締め付ける力って、何百キロとかあるんじゃなかったっけ……?」
もし彼女がその気になれば、俺の胴体と下半身はお別れ……とまではいかなくても、ひ弱な肋骨ごと内蔵を潰すくらいは訳ないだろう。そう思うと背筋が思わず凍って、体が強張ってしまう。
「まさかこのまま俺を絞め落として食べ……」
「そ、そんなことは致しません!! 確かに手荒く起こしたのは申し訳なかったですけれども、そこまで言わなくてもいいじゃなりませんか……」
「わ、悪い。思ったことがつい口に出ちゃって……」
「それ、謝っているように聞こえません」
俺の考えを読んだかのように、目の前の少女はそう言って拗ねたように唇を尖らせる。それからその言葉を証明するみたいに、そっと俺のことを床に下ろしてくれた。
「ほら、ちゃんと下ろしましたよ? さっきも言いましたけど、私はただメイヤーさんに頼まれて、新しく入ったばかりの方を起こしに来ただけなんです。それに、私が締め付けたいのは愛する人だけですもの……」
「……え? なんか今、もの凄く怖い言葉が聞こえた気がするんだけど」
「なんの話ですか? それより順番が前後してしまいましたけど、初めまして。私は見ての通りラミアのニシキと申します」
「あ、ああ。ええと、俺はヒューマンの……」
「ユウトさん、ですよね。メイヤーさんから聞きました。本当は昨夜の夕食でお互いの自己紹介をする予定だったのですが、死んだように眠いっていたので放置したとも」
にこやかな笑顔で、地味に怖い情報をぶち込んでくる。話し方は丁寧で常識のある感じなのに、起こし方と言い発現の節々に漂う遠慮のなさと言い、見た目通りの大和撫子というわけではなさそうだ。
「って、もしかして俺あれからずっと寝てたのか……申し訳ないことしたなぁ。もしかしてメイヤーさん、怒ってたりしないよな……?」
最初のインパクトがあまりに強すぎたせいか、それとも彼女の人柄がそうさせるのか。俺は思わず敬語も忘れてニシキと名乗るラミアに口を開いていた。
「どうでしょう。口では文句を言ってましたけど、あの感じだと本気で怒ってるって感じではないと私は思います。まあ、保証は出来かねますが」
クスクスと、鈴を転がしたような笑みを浮かながらニシキさんは笑う。その笑顔はどこか作り物みたいに可愛らしくて、お人形みたいだと思った。まあ下半身が蛇なのを除けば、それこそ大和撫子そのもののような女性なのだけれど。
「なら早く起きて謝らないと……。確か朝は掃除があるんだよな……って、初対面なのに不躾な口調でしたね。すみません」
「いえ、私は気にしていませんよ? 私とユウトさんは同じ立場ですし、出来れば親しく話しかけて頂きたいです。私の口調は……口癖みたいなものですので、気にしないでいてだけると」
優しい。なんて優しい人なんだ。変わった人ばかり接客してきたせいか、その優しさがやたらと胸に染みる。
「分かった、それならこのままで。それで、掃除だけど……」
「そうですね、二人でやってしまいましょうか。寮の周りを掃除したら朝食ですので、シャワーはその後に浴びるほうがよろしいかと。ちなみに今日は皆遠方の出稼ぎでいらっしゃいませんので……二人きり、ですよ?」
「そっ、そうか……」
何故か一瞬、背筋に悪寒が走った気がした。それはチロリと唇を舐めた彼女の舌が扇情的だったからか、それとも俺を見る目がそれこそ獲物の品定めをしている目のようだったからか。
そのどちらかは分からなかったけれど、瞬きをした後のニシキさんは優しそうな笑顔を浮かべていて。きっと俺の見間違いかなにかだろうと、俺は自分に言い聞かせることにした。
「あ、お着替えはしていった方がいいですよ。その服、掃除には向いてなさそうですので。恐らくはその棚に最低限の衣類は置いてあると思います。私は後ろを向いてますから、着替えてしまってください」
「……本当だ。Tシャツにズボンに上着まである」
麻で出来ているであろうシャツやズボンは、どこか某モンスターを狩るゲームに出てきそうな民族チックな模様が編み込まれていた。クオリティは日本で売っているものに比べるべくもないが、デザインも悪くないしなにより実際に着てみると頑丈そうな肌触りだ。
「着ては見たけど、なんか着慣れない感じが凄いな……」
「初めて袖を通す服はそんなものですよ。……あっ、襟が捻れちゃってます。直して差し上げますね」
「え? いや自分で──」
遠慮する言葉を俺が口に仕切る前に、ニシキさんはどういう体運びか一瞬で数歩分はあった距離を詰めてくる。そしてそのまま、まるで抱きしめるみたいに俺の背中に腕を回して。
「ええ、これで大丈夫です。……どうかしましたか?」
「いえ、その、ここまで女性に近づかれたことがなかったから少し動揺しただけというか、黒い髪が綺麗だなとか思っただけで」
女性慣れしてないこと丸出しの俺の早口に、ニシキさんが頭の上にはてなマークを浮かべている。この距離まで近づいて、しかも俺のまくし立てるような早口にもなんとも思わないなんて──。
「……天使か?」
「いえ……ラミアですけど……?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
もしかして天然なのだろうか。もしくはラミアの間ではこれくらいの距離になることは当たり前で、そして今の俺の言ったことが理解できないだけなのか。
確かに種族間でそういう文化の違いがあるのはおかしくない、というか当たり前だ。日本人と欧米の人ですら、距離感の違いであれだけ問題が起きるくらいなのだから。
「あー、なるほど、そういうことか……。いや、変なこと言って悪かった」
「そう、ですか? もしお体の具合が悪いのでしたら……」
「いえ、本当に大丈夫だから!! それよりメイヤーさんに怒られる前に行かないと!!」
「は、はい、分かりました……? ええと、ではこちらからまず外に行きましょうか」
未だにキョトンとしているニシキさんは、それでも俺の気迫に押されてかアッサリと引き下がってくれる。
それを見て、もしもラミアの距離感が近いからだったとしても、きっと彼女は天然なのだろうとハッキリ思った。
「……ちなみに、天使も居るのか? この街には」
「ええ、まあ。そんなに人数は多くないと思いますけれど、私も以前にお見かけしました」
なるほど、通りで褒め言葉としての天使という形容詞が通じないわけだ。と言うことはきっと、鬼!! とか悪魔!! とかも通じないのだろう。
「まあ、悪魔も居れば天使が居てもおかしくはねぇか……」
「この街には本当に色々な種族が居ますから。おかげで色々な国の文化が入ってきますし、色々なお店でお買い物が出来るんです。例えば、この和服も妖怪の国の方々が持ち込んだものなんですよ?」
ほら、どうですか? と、ニシキさんは裾を持ち上げて、蛇の下半身でしかも前に進みながら器用にくるりと一周してみせる。
大和撫子な雰囲気と相まって、正直に言ってめちゃくちゃ可愛い。おしとやかな話し方と、無邪気な可愛らしい笑顔。艷やかな黒い髪も相まって、和服との親和性はバッチリだ。
……ただ、下半身が蛇というギャップは、今の俺には大きすぎて受け入れられそうにないが。
「い、いいんじゃないかな。似合ってるよ」
「ふふっ、ありがとうございます。ユウトさんもお似合いですよ」
あからさまなお世辞だけど、不思議と嫌味には感じない。彼女の人柄のおかげだろうか。もしくは俺が人に肯定されることに飢えすぎていたのか。……前者ということにしておこう。後者は悲しすぎる。
そんなことを自分に言い聞かせながら、俺とニシキさんは分厚い木の扉を開けて外に出た。ちなみに外の掃除はメイヤーさんは一切やらないらしく、入所者に全て任せきりらしい。なんて適当な人だ、と思ったが。
「でもメイヤーさんは室内を全部一人で掃除してるんですよ? 廊下があんなにピカピカなのは、あの人のおかげなんです。だから文句なんて言えません」
とはニシキさんの談である。あんなに適当で面倒くさがりなことを言っていたのに、なんだかんだ掃除や料理だけはプロ並みとか、それこそギャップがありすぎて脳がバグりそうだ。
「まあ外の掃除とは言っても、基本的には落ち葉をまとめたりゴミを拾ったりとかくらいです。そんなに時間はかかりませんよ」
この辺りは現実と変わらず、ほうきで落ち葉をまとめてちりとりで拾っていく。集めた落ち葉は麻袋に詰めていくのだが、その袋から葉が溢れないようにとニシキさんが尻尾の先で常に持ち上げているのは、微妙にコメントに困る見た目だった。
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「ええ、なので人数が少ない時は玄関周りくらいでいいそうです。就職活動がある人とか、仕事が決まって働いてる人も居ますので」
「なるほど、確かに。……ちなみにニシキさんはもう働いてたりするのか?」
「わ、私ですか? 私は、その……少しだけ事情がありまして……」
ニシキさんは気まずそうに目線を反らし、聞かれたくないことがあるように言葉を濁す。なんだろう、なにか就労阻害要因でもあるのだろうか。
だが就労移行支援施設ということは、本来は就労しているか就職先を探しているかの二択になる。就労が難しい場合は、俺の知っている制度の場合は他の施設に行くはずなのだけど……。
「あー、まあ事情は人それぞれだよな、ここでは。悪い、不躾なことを聞いて」
「いえ、本来であればユウトさんの言う通り、就職先を探しているか就職しているのが本来です。なので、むしろ謝るのは私の方ですよ」
「……その理由って──」
どういう理由なんですかと口にしようとして、慌てて俺はその言葉を飲み込む。彼女は今日あったばかりの他人で、そして今の俺はケースワーカーではないのだ。
おいそれと他人の人生に踏み込むべきではない。かつて仕事とは言え散々他人の人生に踏み込んできたからこそ、その重みが俺には分かる。踏み込むのなら、最後まで付き合う覚悟を持つ。そうあるべきだと、ずっと思ってきたのに。
それなのに覚悟もなく、仕事だから仕方ないと他人の人生に踏み込んで、踏み荒らして。それがずっと嫌でたまらなかったんだから。
「──いや、なんでもない。それより袋、もう少し広げてくれるか?」
「あ、はい。……どうぞ」
だから俺は、何も聞かず何も考えず、彼女が尻尾で持ってくれている麻袋に落ち葉を詰め込んでいった。そう、俺はもうケースワーカーでもなんでもない。だから他人の人生になんて踏み込む必要なんてないんだと、踏み込んじゃいけないんだと。
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