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モノクロの世界
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モノクロの世界
千九百八十八年の五月、昼下がり。敦美は編集課の上司に、「広報しろ」とどやされて、帰ってきたばかりであった。
オフィスには「戦争ではなく平和」という文字が飾られている。書道が趣味だった社長が広報課に寄贈したものである。
「広報広報っていわれてもどうしたらいいのかわからないのよねぇ」
帰ってくると敦美はため息をつきながらデスクに坐った。ここエヌ出版局は荻窪駅のほど近くに本社を構えており、千九百四十八年に発足した。
以来四十年の歴史を持つが、全社員が百人弱と、いまだに弱体の鑑のような会社であった。
広報は、敦美、クニヱ、博の三人だ。オフィスはだだっ広いのに、がらんとしていて、物足りない。敦美はオフィスを見渡し嘆息した。
「広報しろって言われてもねぇ」
隣のデスクにクニヱが座り、敦美の愚痴をきいた。「編集課がいうと、説得力がないよねぇ」
「そう、説得力! クニヱ、いい言葉知ってんねぇ」
「あたりまえだよ。こんくらいの形容もできずに広報が務まりますか」
「そりゃそうだ」
いつの間にか沈んだ気持ちは、談笑のうきうきとした気分に変わっていた。
「そうだよ、あんた」クニヱが膝を打った。「新人賞。奥の手があるじゃないかい」
「そうだ、新人賞!」敦美が答えた。
博が、目を落としていた新聞から顔を上げ。興味津々と言わんばかりにこちらを見てきた。
「それで、賞金はどうしますか?」博がきいた。
「そうねえ。五万円がせいぜいじゃないかな」敦美がこたえた。
「こーんな景気がいいんだから、どどんと三十万」クニヱが叫んだ。
「銀行から借りろっていうの」
「そりゃあそっか」クニヱはすぐにひきさがった。
「でも、これじゃまとまりませんね。五万円だとちょっと少ない」博がまとめた。
「じゃあ、博くんはどうしろっていいたいの?」
「七万が限度かな、と思います」
「七万。歯切れが悪いねぇ!」クニヱがいうと信ぴょう性に欠けるが、敦美も同感だ。
「じゃあどうしろってんですか」博はあいかわらず冷静だ。
オフィスに沈黙が流れた。時計の秒針が響く。
――六時。
定時だ。敦美もクニヱも無言でオフィスをでていった。博は、照明をけすとでていった。
太田幸雄。書店でその名前を見つけた。エヌ文庫の新刊本をあさっているときだった。
「社長……」思わず声がもれた。
太田幸雄。本の裏表紙には、太田幸雄の簡単な紹介がしてある。
千九百十二年生まれの昭和の文豪。(中略。太田のデビュー作などが書いてある)千九百四十八年エヌ社を設立した。千九百五十一年没。
幸雄は、「エヌ社社員」の肩書を手に入れたばかりの敦美と対面して、
「これからは戦争ではない、平和の時代だ」と自分の信念を語った。
――戦争ではない、平和だ。
オフィスに飾られているあの文字が脳裏にフラッシュバックし、敦美は不安から解放される。
「話にいってみようかな」
敦美は決意を固めた。
「クニヱ」帰宅すると敦美がクニヱを探した。クニヱはいない。お風呂に入っているのだ。
「クニヱぇ」
「聞こえているよ」
沈黙。敦美のからだが揺れているのか、ときおり風呂場からは、ちゃぽ。水の跳ねる音がした。
「クニヱ、ごめんね」
「こっちこそだよ、敦美ぃ」
「賞金はさ、折衷案で十万円でどう?」
「折衷してないけど、いいんじゃない」
「よかった」
七月。新刊本に「エヌ社新人賞」がはりだされた。
応募要項は次のとおりである。
「商業未発表または初の発表後3年以内の新人による小説」
「賞金は、大賞10万円」
「選考委員:エヌ社広報部」
「原稿用紙80~150枚」
「九月締め切り」
九月。郵便に三十六冊の応募がたまっていた。
一次選考は、十六作が通過した。本のしおりと同時に挟み、書店にはポップと共に外に出すようにお願いしてある。
二次選考は五作が通過した。
最終選考――。
「ロード・Aがいい」ロード・Aを押したのはクニヱだ。「主人公の九寧悠斗の描写がいい」
「僕はこれですかね」博は図書館司書の物語を推薦した。敦美もおなじ考えだ。
大賞は「図書館司書」で、優秀は「ロード・A」に決まる。
どちらの作者も、文壇に20年以上も生き残り、超売れっ子作家として活躍することもなる。
千九百八十八年の五月、昼下がり。敦美は編集課の上司に、「広報しろ」とどやされて、帰ってきたばかりであった。
オフィスには「戦争ではなく平和」という文字が飾られている。書道が趣味だった社長が広報課に寄贈したものである。
「広報広報っていわれてもどうしたらいいのかわからないのよねぇ」
帰ってくると敦美はため息をつきながらデスクに坐った。ここエヌ出版局は荻窪駅のほど近くに本社を構えており、千九百四十八年に発足した。
以来四十年の歴史を持つが、全社員が百人弱と、いまだに弱体の鑑のような会社であった。
広報は、敦美、クニヱ、博の三人だ。オフィスはだだっ広いのに、がらんとしていて、物足りない。敦美はオフィスを見渡し嘆息した。
「広報しろって言われてもねぇ」
隣のデスクにクニヱが座り、敦美の愚痴をきいた。「編集課がいうと、説得力がないよねぇ」
「そう、説得力! クニヱ、いい言葉知ってんねぇ」
「あたりまえだよ。こんくらいの形容もできずに広報が務まりますか」
「そりゃそうだ」
いつの間にか沈んだ気持ちは、談笑のうきうきとした気分に変わっていた。
「そうだよ、あんた」クニヱが膝を打った。「新人賞。奥の手があるじゃないかい」
「そうだ、新人賞!」敦美が答えた。
博が、目を落としていた新聞から顔を上げ。興味津々と言わんばかりにこちらを見てきた。
「それで、賞金はどうしますか?」博がきいた。
「そうねえ。五万円がせいぜいじゃないかな」敦美がこたえた。
「こーんな景気がいいんだから、どどんと三十万」クニヱが叫んだ。
「銀行から借りろっていうの」
「そりゃあそっか」クニヱはすぐにひきさがった。
「でも、これじゃまとまりませんね。五万円だとちょっと少ない」博がまとめた。
「じゃあ、博くんはどうしろっていいたいの?」
「七万が限度かな、と思います」
「七万。歯切れが悪いねぇ!」クニヱがいうと信ぴょう性に欠けるが、敦美も同感だ。
「じゃあどうしろってんですか」博はあいかわらず冷静だ。
オフィスに沈黙が流れた。時計の秒針が響く。
――六時。
定時だ。敦美もクニヱも無言でオフィスをでていった。博は、照明をけすとでていった。
太田幸雄。書店でその名前を見つけた。エヌ文庫の新刊本をあさっているときだった。
「社長……」思わず声がもれた。
太田幸雄。本の裏表紙には、太田幸雄の簡単な紹介がしてある。
千九百十二年生まれの昭和の文豪。(中略。太田のデビュー作などが書いてある)千九百四十八年エヌ社を設立した。千九百五十一年没。
幸雄は、「エヌ社社員」の肩書を手に入れたばかりの敦美と対面して、
「これからは戦争ではない、平和の時代だ」と自分の信念を語った。
――戦争ではない、平和だ。
オフィスに飾られているあの文字が脳裏にフラッシュバックし、敦美は不安から解放される。
「話にいってみようかな」
敦美は決意を固めた。
「クニヱ」帰宅すると敦美がクニヱを探した。クニヱはいない。お風呂に入っているのだ。
「クニヱぇ」
「聞こえているよ」
沈黙。敦美のからだが揺れているのか、ときおり風呂場からは、ちゃぽ。水の跳ねる音がした。
「クニヱ、ごめんね」
「こっちこそだよ、敦美ぃ」
「賞金はさ、折衷案で十万円でどう?」
「折衷してないけど、いいんじゃない」
「よかった」
七月。新刊本に「エヌ社新人賞」がはりだされた。
応募要項は次のとおりである。
「商業未発表または初の発表後3年以内の新人による小説」
「賞金は、大賞10万円」
「選考委員:エヌ社広報部」
「原稿用紙80~150枚」
「九月締め切り」
九月。郵便に三十六冊の応募がたまっていた。
一次選考は、十六作が通過した。本のしおりと同時に挟み、書店にはポップと共に外に出すようにお願いしてある。
二次選考は五作が通過した。
最終選考――。
「ロード・Aがいい」ロード・Aを押したのはクニヱだ。「主人公の九寧悠斗の描写がいい」
「僕はこれですかね」博は図書館司書の物語を推薦した。敦美もおなじ考えだ。
大賞は「図書館司書」で、優秀は「ロード・A」に決まる。
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