1 / 1
雪下老
しおりを挟む河北の雪深い土地で例年に倣って大雪が降った。雪は夜通し降り続け、朝には一面が銀世界となっていた。さらさらの新雪は風に吹かれると軽やかに舞い、瞬間的に宙に白い花を咲かせるのであった。
徐は狩猟で生計を立てている者だ。名を璞と言い、飾り気のない純朴な男である。平生より山谷に身を置いて厳しい自然を相手にしているが故に、迷信や怪異を語るを好まず、眼前の事実を冷静に捉える眼力を備えている。
朝の天気は晴朗にして穏やかであった。狩人にとって好都合な環境だ。雪は動物の足跡を明確にし、こちらの匂いを隠してくれる。
「さて、近くに何か通っていないだろうか」
庵を出て雪景色をまじまじと眺めてみる。森へ向かって鹿らしき細い足跡が点々と森へ伸びているのもあれば、イタチの類が掘ったと思しき小さな穴も雪面のそこかしこに認められる。冬であっても動物の動きは活発であり、今日は豊猟にありつけるかもしれないと胸が躍った。
徐は手早く支度を整えて狩りに出かける。まずは仕掛けておいた罠の回収に赴くことにした。雪を踏み均しつつ山林へ分け入っていく。
「何だ? これは?」
罠の設置場所へ向かう中で徐は不可思議な痕跡を見かけた。四足歩行の動物とは違う。
「人間? いや、だが自分以外に誰が……」
雪上にできた足跡を見るに二足歩行、つまり人間であると推測されるのだが、冬の山中にわざわざ立ち入る人間は限られていた。人が通る山道は徐の庵から見えるし、麓の村民ならいつも挨拶がてら立ち寄ってくる。足跡は森の外では見かけておらず、この森の中で突如現れていた。徐は自分の知らない者が立ち入っているのだろうかと警戒を強める。
足の向きも自分の進行方向に沿っており、自分よりも先にここへ立ち入っていると思われた。足跡を為した者は夜通し森の中にいたのだろうか。いや、晩の降雪量なら痕跡は忽ちにかき消えてしまうだろう。樹々の奥へ連なっていく足跡を追うべきか、徐はしばし考えた。
(野盗やお尋ね者なら夜の間に庵を襲っていただろうし、ただの行きずりだろうか……。新しい猟場を探している同業や急ぎで薬草を取りに来た麓の人間かもしれない。いずれにしても状況を明らかにした方が身の安全を確保できるだろう)
徐は耳目の感度を最大限に高めて注意深く周囲を警戒しつつ、足跡を追跡する。雪は凍り付いておらず、小麦粉のようなきめ細やかさだったので、彼と言えど歩を進めるのに難儀した。足跡に自分の足を重ねるように、踏み固められた場所を足掛かりにして樹林を進んでいく。
足跡はまだ先へ続いていた。ただ、先ほどとは形がうって変わっている。二本足が四つ足になっているのだ。おそらく手を地面に着いて移動している。人から猿へと変じたのかと錯覚したが、元より人間と断定できていない。もしかしたら猿が人の真似をしていたのか、はたまた単純に二本足という推理自体が誤っていたのか。物の怪の類である可能性も考えに浮かんだが、徐は「馬鹿馬鹿しい」と即座に否定する。
四つ足に変わってからの足跡を観察してみると、徐はもう一つ不思議な点に気が付いた。
「真ん中に穴?」
左右の足跡の間に不可解な穴が点々とできている。いわば賽子の五の目のような形で足跡がついており、真ん中の穴は細い棒状の物を雪へ差し込んだように見える。
「五つ脚の生き物などいるはずがない。杖か何かを支えにつきながら這っていたのか?」
怪我でもしたのだろうか。しかし、ここまでの道のりに血痕は見当たらなかった。足を挫いたり踏み外してこけたりする危険性はなくもない。ただ、それなら何故引き返さずに奥へ進んだのだろうか。
痕跡は時折、何度も雪面を突いたかのように棒状の穴がいくつも作られていた。それが意味するところを徐は察しかねた。上を仰いでも青い空が広がっているばかりだし、ぐるりと周りを見渡してみても、樹々が静かに葉を揺らしているだけである。
――穴ができている辺りを掘ってみるのはどうだろう?
土は凍っているだろうから難儀するとしても、雪を掘るくらいなら造作ない。革製の手袋をぎゅっとはめ直してから、雪をかき分けてみる。
「……ん?」
雪の下に苔生した地面が見えた。そこには白く濁った液、というより流動体に近い物体が地に注がれていた。「注がれていた」と表したのは徐が直感的にそれが何なのかを把握したからだ。
「こいつは狂ってやがる」
外で致す趣味はないので想像に近いが、同性としてそれの特性はわかる。土に染み込んでいないなら、これはついさっき出したばかりの物だ。宿主はまだ近くにいる。
貴人共と違って徐には同性と睦み合う嗜好はない。臭いを嗅ぐのに躊躇したが、狩りにおいて嗅覚からの情報は非常に貴重な手掛かりになる。犬並みとは言えないが、熟練した狩人にかかれば臭いで獲物を追跡するのも不可能ではない。
「それにしてもかなり濃いな……」
空気に混じってむせ返るような雄の臭気が鼻腔を通過する。もちろん狩りでこんな臭いを嗅いだのは初めてだ。だが、山林にそぐわない異質な香りなら追跡も容易と言えよう。
足跡が続く先へ歩を向けてから徐はふと思い返す。この棒状の物で突いたような穴はやはり……。
「命よりも貞操の危険に備えておいた方が良いかもしれんな」
経験上、盛りがついた動物は何をしでかすかわからない。ましてやこんな奇行に走るほどの人間なら、なりふり構わない行動を取るに違いない。
徐は一層気を引き締めて歩みを進める。もはや罠の回収なぞ関心の外であった。樹々の間をずんずんと通り抜け、獲物への距離を詰めんとして風の如く疾く、林の如く静かに、雪に覆われた森を奥へ奥へと進んでいく。人であるならば先に発見した方が絶対的に有利だ。徐も若い頃に数多くの戦を経験した。山へ引っ込み、俗世との関わりを断ってから長いが、白兵戦は今もなお心得がある。
(鳥獣に比べたら人など鈍重鈍感この上ない。先に見つけさえすれば後はどうにでもできる)
幸いにも雪を踏む音は遠くまで反響しにくい。油断大敵ではあるものの、相手に気取られる不安が軽減されるのはありがたかった。
――冬にここまで奥へ入るのは初めてだな。
気付けば庵からかなり離れた場所まで入り込んでいた。夏に付けた目印はまだ残っているから帰還は可能だが、冬山は何が起こるかわからない。そろそろ引き返すのも選択肢に入れるべきだろう。
それにしても足跡はまだ先へ続いている。棒で突いた穴も相変わらず点々と地へと刻まれていた。それはつまり、凍えるような寒さの険しい山道を欲情しながら練り歩いている人間がいるということを意味している。それはまさしく怪異と言って良いだろう。しかし、徐はそれらの類を信じていない。「怪力乱神を語らず」を信条とするならば、その存在の正体を掴みたい。山は様々な現象を引き起こす。徐は山での暮らしにおいて、その因果を知ろうとすることに喜びを見出してきた。それは好奇心と言えるだろう。「君子危うきに近付かず」とも言うが、徐は自らを君子と思っていないし、君子になりたいとも思っていない。故に今この場において、彼の好奇心を止めるものはなかった。
「――いた」
徐は道筋から逸れた辺りに切り立った高台を見つけると、そこへ登って標的の姿を探した。樹々の間にポツポツと打たれた点線を目で追うと、それはいた。
「人だ」
粗末な衣服を纏った者が見える。衣の裾を上げて下半身を露出しているのか、肌色が目立つ。雪に覆われた山で行動するには不相応この上ない。よくも生きていられるものだと徐は感心するどころか呆れていた。
(山に魅入られたのだろうか……。ならば正気に戻してやらねばなるまい)
徐は標的へ向かって真っすぐに坂を駆け下る。相手はまだ気付いていない。もう風貌がはっきり捉えられる距離まで近付いていた。改めてその異様さを目の当たりにすると息を呑んでしまう。雪面に向かって下腹を押し当てじっと佇む。腰を引いてから数歩進む。そしてまた雪面に下腹を押し当てる。一心不乱とも言える激しさもなく、一連の動作を静かに丁寧に繰り返していた。
徐はじりじりと忍び寄りつつ気配を殺して様子を窺う。相手の顔色も見える。眼を見るに視線は虚ろではなく、明確に意志がこもっており、息遣いは泰然として緩やかであり、一突きするごとに大きく息を吐いている。徐の予想に反して言葉が通じそうな雰囲気を醸し出していた。
徐は万が一に備えて刀の鍔に指を掛けつつも、それに声をかけることにした。相手は丸腰で痩せぎすの体つきをしている。たとえ荒事に至ろうとも、一刀の元に切り伏せられようと踏ん切りが付いていた。
「これ、そこの者。こんな所で何をしておる?」
「…………ずっと見ていてわからぬか?」男は振り返ることなく返答した。
「……気付いておったのか」
徐は追跡に落ち度があったのだろうかと省みる。男は例の動作を止めることなく、「お主は大した狩人よ」と静かに告げた。
「お主はこの山を熟知している。だが、それ以上に山を知る者がいただけのこと」
「何?」
徐は静かなる憤りを抱く。それは「自分以上にこの山を知る人間はいない」という自負に根付いたもっともな怒りであった。だが、今はそれは問題ではない。ここで明らかにすべきはこの男が凍てつく冬山で特殊な行為をしている事情である。
「春、を呼んでおるのだ」
「春……?」
何か儀礼をしていたというのだろうか。徐には男の発言の意味を解しかねた。「自分の知る礼の書には少なくともこのような儀式や慣習は記載されていないはず……いや、あってたまるか」と、わずかに逡巡してから即座にかぶりを振る。
「俗信を是とすると身を滅ぼすぞ」
「お主はここに官憲の手が届くと思っておるのか?」
「そうではない。それ以前の問題だ。そんなことをしていては凍え死んでしまうぞ」
徐の言葉を男は一笑に付した。ちなみにこの間も彼は雪に向かって腰を突き出している。
「お主はまだわしを常人と思うておるのか」
「常人も何も……」
「ただの人間がこんな行いをすると?」
「…………」
ぐうの音も出ない正論であった。徐が押し黙ると男は満足そうに頷いた。「よかろう。お主は怪を恐れぬ勇と冷静に象を見る智のみならず、理ばかりに囚われない明を備えておる。儂の身の上を聞こうとも道を過つことはなかろう。特別に教えようではないか」
ここでようやく男は行為を止めて、徐へ向けて振り返った。雪の冷たさで赤く腫れた逸物がぶらりとかり首を垂らしている。
「儂は水精伯の修蛟と木精后の句の元で仙道の修験を積んだ甘蕗道人こと趙子虚弄と申す。術を修めた後、泰山府東岳君の臣となり、君命によりこの地の神霊となることを仰せつかったのだが……」
「…………」
徐は唇が凍り付いたかのように言葉を紡げないでいた。男の言葉が関心・理解・共感の網に何一つ引っかからなかったからだ。
「何と……?」
「もう一度ご所望か? 儂は――」
「いや、いい」と即座に制する。依然として刀の鞘から手を離さず、徐はこの後の対処について思考を巡らせた。
(この際、こ奴の言葉の真偽などどうでも良い。今、見極めるべきはこの男が俺の身辺を害するかどうかだ)
改めて男の佇まいを観察しようとするが、早々に徐は必要ないと判断した。何てことはない。この男はまるで自分を警戒していない。徐が刀に手を掛けていることを歯牙にもかけていない様子であった。まともに相手をするだけ無駄だと悟った。
「ご老人よ。わざわざ呼ばずとも待っておれば春は来るものではないのか? 天地の運行は人為のみならず、神仙もその意の及ぶ領域ではあるまい。それに俺はこの方幾年もこの地に身を置いているが、いずれも例外なく春はやってきていたし、お主のような者と相まみえた経験はない。お主のその行為はまさに無為としか思えぬ」
半ば戯れのつもりで徐は趙に対して問いを投げかける。狂人であっても人は人。人里から離れたこの地において、貴重な他者との交流の機会を楽しもうと態度を切り替えていた。徐の指摘に自称道士は特に反論もせず、うんうんと頷く。
「左様。仙術は天地の理にならって現象を起こす。故に我が道力を以てしても、自然の運行を意図的に変えることは適わぬ」
「ならば何故?」
「儂は春に恋をしている」
またしても徐は絶句した。趙の発言の意図が微塵も理解できない。人智を超えた存在なのはあながち虚言ではないのかもしれないとさえ思った。
「雪に覆われた地は陶磁器のように滑らかで美しい。樹木が鬱蒼とし、力強く根を張っている様は奥底で滾る熱く豊かな陽の気を押し隠しており、こちらの情欲をそそらせる。冬真っ只中にあっても春の気はそこかしこに見え隠れしており、その淫靡な趣が儂の情を掻き立てるのだ。これをただ待ち呆けるだけで良いではないかと諫めるのは、偏に君子に対して、自ら名を売らずとも、自ずと名君が迎えにやってくるから待てと諭そうとするようなものであり、如何に理知を備えた人物であっても、憧れ、恋焦がれ、待ち焦がれる存在を一たび頭に浮かべれば、木の葉に浮かび上がる露の如く感情が発するもので、それを振り払わんとして自慰に耽るのも当然の帰結であろう」
徐にも趙の言わんとしている理屈はわかった。しかし、それは特定の意識ないし主体をもつものを対象とする論理であり、無為自然に対しても適用されるとは到底思えなかった。
「ならば春が訪れ、まさしく恋焦がれた相手と面を突き合わせ、同じひと時を過ごせるようになったとしたら、お主は如何にしてその思いを遂げるのだ?」
「言うまでもない。結ばれるのだよ」
「……?」徐はついに考えることを諦めた。
この者は人間の理で物を考えていない。天地には天地の、仙道には仙道の思索の筋道があり、同一の到達点に至ろうとも、その結果生まれる意識の彩りはそれぞれ異なるものなのだろうと自らを納得させた。頂上に至るにも通行の為に人の手で整備された登山道、修験者が使う道なき道、動物が通るけもの道とではそれぞれ登り切った時の感慨が異なるようなものであろう。
(こちらの道理が通じる相手ではない。わざわざ手を差し伸べて世話を焼く必要もなかろう)
徐は刀の柄から手を離して相好を崩す。
「趙大人よ。そなたの考えはよくわかった。いや、お主の思想を理解し得たのではない。お主のその考えに基づいた行動を私の都合で制する必要がないことがわかったのだ。邪魔をしたな。志は多少異なるが、私も春を待ち遠しく思う身。自然の運行に心を委ね、一日ごとの変化を喜びながら、共にいずれ訪れる春に思いを馳せよう」
徐はそう一息に言い切ると、早々と踵を返して元の道を戻ろうとする。しかし、趙の張りのある声がそれを止めた。
「待て。この広い山々で得たせっかくの縁だ。そう慌てて別れる必要もなかろう」
「残念だが、俺にも急ぐ理由がある。ここで油を売って獲物が全く得られなければ、生活に直結するのでな」
「それは良くない。儂の心眼によれば、お主は命を奪うよりも、根付かせる方が些か向いているように見受けられる」
「それはどういう意味だ?」徐は再び趙へ視線を向けて身構える。相手に良からぬ企みが降って湧いたのではなかろうかと、悪い予感が背筋を走ったのだ。
「儂とお主の立っているここはちょうど地の脈が通っておる。そこへ一念を以て精根を突き刺せば、天地の気と交合して活力を得られよう。その大いなる力は陰にして陽、淫にして庸だ。他者を損ない、世を混乱に陥れるものではなく、万物を芽吹かせ、安定をもたらすことができる。これを得れば身は永く世に留まり、心は天地に染みわたって命脈を絶やさないでいられるだろう。ここまで聞いて儂の考えがわからぬほど、お主は愚かではなかろう?」
獲物をつけ狙う猛獣のように趙は遠回しに徐へ迫る。徐は自らの立場が狩る側から狩られる側へ変わったと即座に察知した。白刃を抜き、趙へ突き付ける。
「俺は自然への供物になるほど敬虔深くはないし、永遠に生を享受するほど傲慢でもない。でたらめを抜かして謀るつもりなら、その粗末な物をぶった切ってやるぞ」
木漏れ日が射し込んで刃が煌めく。この男に武力による脅しは意味を為さないとは理解している。タガが外れた者に相対する状況に当たって、自らを奮い立たせる意味合いの方が強かった。この場をやり過ごし、日常へ帰還するには努めて冷静でいる姿勢が不可欠だと、徐は持ち前の明察を以て判断した。
「……と、儂には手に取るようにお主の心情がわかる」
「そうか……。なら今から俺が何をしようとしているのかもわかるな?」
返事を待たずに徐は刀を振った。
(こちらの考えが読めていても身体が反応せねばどうにもなるまい……!)
だが、確信を伴って放たれた一振りはものの見事に空を切る。
徐は焦らなかった。この男が狂人ではなく真に神仙の類であるなら、雲霞を相手にしているようなものだと理解している。自分の精神がどうにかなって夢や幻覚を見ている可能性さえも考慮できていた。自らを俯瞰して眼前の事象に対処できないようであれば、山に棲み処を置く資格はない。雪によって精神の芯までも冷えてしまったのかと思わせる程に、徐は落ち着き払っていた。
(当たらなかった……いや、躱されたか。かろうじて動きは追えた。ということは――)
「夢ではない。そして幻でもない。神速を以て移動したに過ぎない。つまり、凶器が触れれば身を損なう、生命ある者であることは間違いない」趙は悠然と笑みを浮かべて、徐が心中で発しようとした先の言葉を告げた。
(と、思考まで読まれている。全てこの男の掌の上という訳だ。その上で俺を試している)
徐は刀を納めて地へ放り捨てる。人柄がそのまま表れた無骨な鞘はサクッと軽やかな音を立てて雪上に刺さった。
「用件を申せ。遠回しにではなく、率直にな」
趙は態度を改めて慇懃に拝礼する。これが徐なりの敬服だと彼には理解できていた。
「単刀直入に言おう。お主はこの山に愛されておる」
「…………ほう?」
突拍子もない告白に徐は言葉を失う。されど即座に思考を取り戻し、趙の発言の意図を顧みる。なるほど、たしかに自分はこの山に身を置いて不自由した覚えはない。食料は豊富で水も清く、危険な目に遭った経験にも思い至らない。これは自らの知見や慎重な姿勢によるもののみならず、好運によるものも多分に関係しているだろうと、ここでの生活を振り返る度に感じていた。しかし、あえて神々や霊魂へ感謝の意を奉ったことはない。こんな不敬な輩を愛するとは、つれない異性に惹かれるのは人間も山の神も変わらぬということだろうか。
「神ではない」趙が徐の思考に割って入る。
「山そのものだ」
「そのものとは……?」
「言葉通りの意味だ」
しんと静まり返った山間に鳥の啼鳴が響く。
(では今、俺が踏みしめているこれが俺に恋していると……?)
趙は静かに頷く。理解しがたい事態だが、徐の頭に引っかかる事実があった。
「いや、待て。では、何故お主は山に向かって精を吐いておったのだ? この山が、その、俺に恋している知っておったのなら、そのような汚す行為は……」
「一夫一妻や貞節などを万物に通ずる理とでも信じる程、お主も清くなかろう?」
釈然としないものの「目を閉じて深く呼吸せよ」との趙の言葉に従い、徐は空気に身を委ねる。
「感じるであろう? この山が抱える繋がりを」
「何のことだか」と思ったのも束の間、徐の頭の中に大量の情報が注ぎ込まれる。
山、河、空、太陽、風、雨、雪、雲、月光、土、樹木、草花、鳥、獣、虫、そして人、霊、神……。貞淑を装う者の関係を全て見てしまったかのような不快感がこみ上げて、徐は堪らず嘔吐した。
「とんでもないものを見せおって……」
「だが、その割には」趙は徐の下腹を指差した。
「お主のそこは沸き立っているようだな?」
これにはさしもの徐の明察も解を見出すには至らなかった。
(俺が……何故……? 男は元より、女だってとうの昔に……。禁欲などしていた自覚はないが、行為から自ずと距離をおいていたその間に、個を持たぬ自然にわいせつな感情を抱くほどに俺は狂ってしまっていたのか? 蓋し人はどんなに徳を培おうと、虚心に至ろうと、御仏になろうとも欲からは逃れられぬ。極論を言えば精神に異常をきたしたとしても、だ。どこへ行こうと何者になろうとも、それはついてくる。そんなことはわかっている。ただ、俺はこんな物を見せられて悦ぶ人間だったのか? これのどこに情欲をそそらせる要素があったのか、皆目見当が付かん)
動揺する徐に対し、趙は自らの思いを投げかける。
「お主は巡り合った。この山に。お主は見初められた。この山に。そこに理屈や言論など存在しない。ただ言えるのはこの山はとんでもなく淫乱ドスケベであることだけだ。お主が気に病む必要はない」
徐の股間に下がる逸物は極寒にあってもなお屹立し、衣の中で熱を溜めている。これは紛れもない事実であった。そして、この先は言葉を要さぬ領域であることも徐は薄々感じ取っていた。
「趙大人よ、そなたの号は甘蕗道人と申したな?」
趙は徐の思考を読むまでもなく、問いの意図を察して静かに頷いた。
「なるほど、お主もこの山に連なる生の一つ。このむっつり淫乱山嶺を昂らせんとして……」
「そろそろ雪の下にいるにも飽いたのでな。もうギンギンで春を待っておられんのだ」
掘れた雪の下に眼をやると、蕗の葉が所狭しと生い茂り、瑞々しい緑を覗かせている。
「だが、やはり枯れかけの老いぼれの物では些か物足りないようだ。長き禁欲によって培われた雄々しく凛々しい性命の息吹でなければな……」
「天命あれば地命あり。そこで俺が惚れられた訳か」
徐は自らの物分かりの良さに半ば後悔した。人間一人の性の昂ぶりでこの地に春の訪れが前後するなど、理屈上あり得ない。だが、言葉を介さないあの一瞬かつ膨大な情報交換を味わうと、己もこの地に熱を運ぶ因子をもっているのだと自覚できてしまうのだ。
徐は下衣を下ろし、誰も踏み入れていないまっさらな雪面へ突端を触れさせてみた。冷たい。とても。しかし、やわらかく、押せば沈み込む。
そのまま腰を押し込み、ゆっくり深く突き入れる。新雪はあっさりと徐を受け入れて、陰茎が冷たい感触に包まれた。一部しか交わっていないのに全身に心地よい冷感が伝わり、情欲で火照った体を慰めてくれる。
徐の先端はさらに侵入し、山の肌へ触れた。深奥に春の萌芽を湛えた温もりを感じる。
この時、徐の頭の中に再び情報が送り込まれる。先ほどのような暴力的な奔流ではなく、静かにせせらぐ小川のような緩やかな交感であった。一つの山に連なる幾億の命、その一つ一つが連綿と続く詩のように細やかに紡がれている象が全身に行き渡っていく。そうして徐は自らもその大いなる言葉の一つだと悟った。と、同時に果てた。意識が遠のく中、徐は自らの子種が大地に浸透していく様をありありと感じ取っていた。
それからしばらくして春を迎えると、徐は庵を畳んで山を下りた。懐には柔布にくるまれた赤子が抱えられている。白より緑が目立ち始めてから徐が再びへあの場へ赴くと、生い茂る蕗に守られるようにして眠っていたのを拾ったのだ。山羊の乳を嫌がらずに飲み、粗末な環境にあっても、すくすくと育ったこの子を徐は己と山の間にできた子であると信じて疑わなかった。それは彼の明察を以てせずとも明らかな事実であった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
触手エイリアンの交配実験〜研究者、被験体になる〜
桜井ベアトリクス
恋愛
異星で触手エイリアンを研究する科学者アヴァ。 唯一観察できていなかったのは、彼らの交配儀式。
上司の制止を振り切り、禁断の儀式を覗き見たアヴァは―― 交わる触手に、抑えきれない欲望を覚える。
「私も……私も交配したい」
太く長い触手が、体の奥深くまで侵入してくる。 研究者が、快楽の実験体になる夜。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる