辺境に咲く花

結衣可

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第8話 王都

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 城壁の向こうに尖塔がいくつも突き上がり、朝の鐘が幾重にも響いた。
 石畳は陽を反射して白く、香油の匂いと焼き立てのパンの香りが行き交う人波に混じって流れる。王都――かつてアデルが暮らし、そして追放の判を押されて去った場所。

 馬車がゆるやかに止まり、扉が開く。護衛の騎士が下乗りの手を差し出すより早く、ヴァルガスが先に降り、手を伸ばした。

「足元に気をつけろ」

「……はい」

 その指に触れた一瞬だけ、王都の喧噪が遠のいた気がした。

 まず向かったのは王家御用達の仕立屋だった。扉の上には小さな金の王冠が掲げられ、奥の鏡張りの間には優美なマネキンと、色とりどりの生地が静かに並ぶ。
「御前謁見の正装を」と告げると、店主は一目でヴァルガスの紋章を認め、最敬礼した。

 採寸が始まる。白に近い薄灰の上衣、深い群青の外衣、銀糸で控えめに施す蔦文様。アデルの肩に柔らかな布がのせられるたび、鏡に映る自分が少しずつ“貴族”へ戻っていく。
 針子が裾を留め、襟元の立ち上がりを整えた時、背後から視線を感じた。
 鏡越しにヴァルガスと目が合う。彼は短く息を呑み、ほんのわずかに目を細めた。

「似合っている」

「……ありがとうございます」

「アデル・アルベールとして堂々としていろ――いいな?」

「はい、ヴァルガス様」

 言葉は淡々としているのに、胸の奥に灯を置かれたように温かい。

 出来上がった装いは、素朴な砦の布衣とは違う重みを持っていた。袖口に沿わせた銀糸は光を受けて静かに輝き、胸元の留め具は控えめな真珠が施されていた。
 店を出ると、王城へ向かう石畳は人と馬車で埋まり、城門前には紺色の上衣を着た侍従たちが列を整えていた。

 謁見の間へ続く長い回廊を進む。高窓から射す光は冷たく、赤い絨毯の上に色のない影を落とす。壁に掲げられた双頭の獅子の旗が、わずかな風に震えた。
 王の前では、いかなる心の揺らぎも見せてはならない――そう教えられて育ったはずなのに、足音が近づくほど鼓動は早くなる。横を歩くヴァルガスの歩調が変わらぬ一定であることが、救いだった。

 重い扉が開く。
 玉座の間は静寂に包まれ、列柱の間を渡る光に塵が舞っている。玉座に老練な王、その傍らに若い王弟、そして列席する重臣たち。
 名乗りと礼。定められた作法を、アデルの身体は確かに覚えていた。

「アデル・アルベール」

 王の声は低く澄んでいた。

「光の噂を聞いている。ここで見せよ、とは言わぬ。だが……事実を知りたい」

 広間の空気が薄くなった気がした。
 アデルは胸の前で指を重ね、真っ直ぐに顔を上げる。視線の端で、ヴァルガスが微かに顎を引く――“恐れるな”という合図。

「恐れながら、発言をお許し下さい。陛下」

 声は思ったより落ち着いていた。

「あの光は、私自身にとっても初めての現象で、発動の条件も制御の方法も、未だ不明です。ゆえに、この場で再現を求められても、お応えできません」

 列席者のざわめき。王弟が興味深げに目を細める。
 アデルは続けた。

「ですが――。魔獣の脅威が絶えぬ辺境に身を置き、観察と記録、検証を積み重ねれば、いずれは『いつ』『なぜ』『誰を』救えるのか、道が見えてくるはずです。私は、その研究を辺境で続けたいと存じます」

 一拍置き、言葉を選ぶ。

「代わりに、有事の際には必ず召喚に応じます。陛下の御国の民を救うために、私の力が役立つのなら、喜んで力を尽くします」

 正面からの視線が重く降りかかる。だが、アデルは逸らさなかった。
 沈黙ののち、王は短く息を吐き、玉座の肘掛けから手を離した。

「……よい。言葉だけでなく、己を知ろうとする姿勢、殊勝である。辺境伯ヴァルガス」

 名を呼ばれ、ヴァルガスが一歩進み出る。

「はっ」

「この者を暫時、お前の監督下に置く。研究の報告は月ごと。必要の際は召を送る」

「謹んで拝命いたします」

 許しの文言が下った瞬間、肩の力がほどけるのを感じた。安堵と同時に、広間の一角から針のような視線が刺さる。重臣の列にいた、見知った紋章の襟章――貴族派の中で噂好きとして知られる一派だ。彼らの囁きは、岩肌を伝う水のように冷たい。それに対し、ヴァルガスの横顔がわずかに硬くなった。
 

 謁見を辞し、控えの間に戻る。
 控えの間には薄い香が焚かれ、外の喧噪は遠い。侍従が下がると、広い空間に二人の足音だけが残った。
 沈黙を破ったのはヴァルガスだ。

「堂々としていたじゃないか」

「手が、少し震えていました」

「見えなかった。上手く隠せたな」

 ヴァルガスが近づき、アデルの手を取る。掌の冷えを確かめるように、温かな指が包んだ。

「……大丈夫だ。これで、辺境に帰れる」

 アデルは小さく笑い、けれどすぐに真顔に戻る。

「陛下はお許し下さったけれど、全員が納得した顔ではありませんでした」

「ああ。『光』という言葉は、欲を呼ぶ。王都はそういう場所だ」

「……僕、強くなりたい。あなたの後ろに隠れてばかりではなく」

「隠れていていい」

 きっぱりと返す声に、アデルは目を瞬いた。
 ヴァルガスはアデルの手に口づけをする。

「お前は俺に守られていればいい――それが、俺の望みだ」

 プロポーズのような言いまわしに、胸が高鳴る。

「そ、そんなこと言われたら、あなたに甘えてしまいます」

「存分に甘えればいい」

「ヴァルガス様!?」
 
 短いやり取りがアデルの緊張を解いた。
 しかしそれよりも、自分のいつまでも収まらない胸の高鳴りが気になって仕方なかった。

 城を出て、夕刻の街路へ。陽は傾き、屋根瓦に金の縁取りが走る。
 王城前の広場では、旅芸人が輪になり、子どもが笑う。
 ふと、ざわりと人波が割れた。かつての婚約者と、その家の紋章をつけた侍女――ちらりと見えた横顔に、アデルは視線を落とす。
 ヴァルガスは気づいていたが、何も言わない。ただ、歩幅を半歩だけ緩め、アデルの肩越しに人混みを遮るように位置を取る。

 宿へ向かう馬車の中で、アデルは窓枠に手を置いた。

「……ヴァルガス様」

「あぁ」

「辺境で、力のことを記録します。発動の前後の自覚症状、呼吸、心拍、温度、音――些細なことも全部。きっと何か掴めます」

「俺も注意して見ていよう。お前が見落とすものは俺が拾う」

「ふふ、頼もしい共同研究者ですね」

「護衛だ」

「では、護衛兼、共同研究者で」

 控えめに重なる笑い声。馬車は石畳を滑るように進む。

 宿に着く頃、空は薄群青に染まっていた。
 部屋に入ると、ヴァルガスは窓を確かめ、扉の錠を二重に落とし、視線で死角を洗う。王都の夜は、美しく、そして危うい。
 ランプに火が入る。灯りの輪が二人の距離を近くする。

「……ありがとうございます、ヴァルガス様」

「何がだ」

「ここで、僕に発言の場を許してくださったこと。そして、背中を押してくれたことも」

「押してはいない。隣に立ってただけだ」

「それが、どれほど心強いか、あなたはきっと知らない」

 アデルが微笑むと、ヴァルガスは困ったように目を伏せ、すぐに顔を上げた。

「明日は図書館に行くのだろう?」

「はい――何か光についての資料が見つかればいいのですが」

「そうだな、辺境より貴重な資料はたくさんあるだろう。俺も探してみよう」

「ありがとうございます」

「アデル、今日は疲れただろう?もう休め」

「はい、ヴァルガス様」

 アデルは明日の支度を終えると、寝台に横たわった。
 ヴァルガスが窓辺で外を眺めている背中をしばらく見つめていた。

「寝付けないのか?」

「いえ、あなたを……見ていたかっただけです」

 その言葉に振り返ったヴァルガスはアデルの寝台に座り、髪を撫でた。
 
「今日は一緒に寝るか?」

「……はい。まだ心が落ち着かなくて」

 ヴァルガスはアデルの横に滑り込み、腕枕をすると、自分に引き寄せた。

「ふふ、あったかいです」

「そうだな。もう寝ろ、アデル」

「……」

 アデルはじっとヴァルガスを見つめた。

「アデル?」

「このまま朝までこうして居てくださいますか?」

「あぁ、お前が望むなら」

「……お願いします、このままで」

「わかった」

「おやすみなさい、ヴァルガス様」

「あぁ、おやすみ」

 やっと安心したのか、ヴァルガスの夜着を掴んだまま、アデルは寝入った。
 ヴァルガスはアデルが冷えないように、そっと上掛けを肩が隠れるように掛け直した。
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