緋色の風

月原 裕

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第1話 

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 6時きっちりに目覚ましが鳴り出した。
 カーテンのかかっていない東側の窓から、夏の陽射しが容赦ない光を送ってくる。
 上半身だけ起こし、窓の外を眺めると、目の前の真っ白な建物に朝日があたり、何日か前にテレビで見たスペインの風景に似ていると思った。
 建物は何の変哲もない市営団地の壁の白なのに、今一番行きたいところだからなのかもしれなかった。
 窓を開けると、一斉に蝉の声が大きくなる。
 雲が天使の羽の形に翼を広げている。
 今日も暑くなりそうだ。
 遠くの野球場から夏の甲子園の切符をめぐって、応援の声が毎朝聞こえてくる。
 部屋から一望できる目の前の公園に、子供が持っている白い網が蝶々のようにひらひらしているのが見える。
 おじいさんとふたり。
 小さな公園は、シーソー、すべり台、砂場、それだけしかなかったが、子供の遊び場にはもってこいだ。秘密の隠れ家ができそうな場所まであるときている。
 去年の夏は、秘密を持った小学生5人が集まって基地を作っていた。
 去年のあの子たちはどこへ行ったのだろう?
 新しい遊び場所をみつけたのだろうか?

「おじいちゃん」

 やさしげな声が聞こえてくる。
 水色のワンピースにエプロンをつけて、白い犬を連れたおばあちゃんが表れた。
遠くから聞こえる歓声と蝉の声に消されて何を話しているのかわからないが楽しそうだ。
 夏の陽射しがじりじりと暑さを連れてくる。熱気があがってきた。この暑さにぼうっとなりながらも急いで、荷造りを始める。
銀色の一番小さなスーツケースを昨日購入した。

「そちらは2泊3日ぐらいの旅用ですよ。1週間の旅ならこちらの方がいいと思いますよ」

 お店の人が助言してくれたが、観光というよりもひとりの人に会うための旅だった。
 必要なのは着替え、日記帳代わりの手帳、歯ブラシ、パスポート。そして、いつも棚の上で眠っていたパステルが目に入る。
 たぬきの置物が置いてある文房具屋で2年前に手にいれた画材だった。

 文房具屋は、交差点の角に私が物心ついたときにはあった。
 昔は画材屋だったのか、イーゼルがあちこちに置いてあり、お決まりの場所にいつもの油絵が飾られていた。
店主が描いたものなのか売り物なのかわからないが、薔薇が大きく描かれていて、その真中にいるのは人の顔にも見えたし、ただの薔薇のようにも見えた。
 いつもその絵とパステルを見るのが私の日課。
 美術部で描いていた絵にどうしても新しい画材が欲しかった。
 題材は、夢。
 柔らかい感じをだしたい。
 先輩が使っているのを見て憧れた。
 自分が求めるあの柔らかい質感はパステルでないとだせない。
 高校で禁じられていたアルバイト。その校則を破ってまでこだわったパステルは、60色で7200円。
8月の誕生日の日に私の物になった。

『7月23日、日本を出発してそちらへ向かいます。オランダ航空1671便、バルセロナ到着22時45分。噂のガウディの建築物に案内してね。ひかり』

 彼の返事を聞かない一方的なE-mailを書いて、おろしたての銀色のスーツケースを持って成田空港へ向かった。

 1年前にいいえ、正確に言うと、7ヶ月前に彼、古田克之はスペインへ留学した。
 毎日、彼が夢中になってたものは大学ではなく、アルバイトだった。
 そのなかでもバーテンダーのバイトは1日の日当がよかったみたいだ。

「毎日が勉強だな。カクテルがわかりませんじゃ話にならない」

 2日間ぼうっとお店で立っていて、隣のあまり歳の変わらない学生がシェイカーを振って見事にカクテルを作った姿はショックが大きかったらしい。

「カクテルの本を買っておいてくれないかな? できれば作り方が詳しく載っている本」
 
用件を伝えるだけの短いメールに溜息つきながらも夜の町に自転車を漕ぎ出した。

 きつい仕事だったけど、楽しかったようでもあり、いろんな話をしたと言っていた。

「釣りは山の上のダムが結構いいよな。もしくはかなり濁っているけど、双円墳の近くの三角池って呼ばれている三つの池がブラックバスが釣れるって有名なとこだって教えてもらったよ」
 
 夢中になれるものが克之みたいにたくさんあったら、私は彼の隣で皿洗いのお手伝いをしながら、釣りの話を聞くことがなかったよな。
そんなこと思っていた。
夏にバイトがなくなると、コンビニで割のいい夜間のバイト、昼間に眠って、またバイト。
何が彼をそこまで夢中に駆り立てているのかわからないまま、大学1年生の夏は終わろうとしていた。
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