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第9話
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「おはよう」
ロビーからの電話で目覚めた。
時計を見ると、9時を回っていた。
夜中に隣の部屋の人がお風呂に入っていた。その音で目が覚めたのが現地時間の2時。
明かりを点けてみると、見慣れたカーテンの青とは違って、赤のカーテンが目に飛び込んできた。
シングル部屋が満室で取れなかったために、ツインの部屋をひとりで使っているので、隣のベッドがやけに大きく見えてさびしくなった。
異国の地にひとりでいるという不安。
夜中に目が覚めてもちょっと寂しいからといって国際電話をかけるわけにもいかない。どれぐらい高くついてしまうのかが不安でホテルの受話器をあげておろした。
日本を発ったのが昨日なのに、こんなに恋しいなんて、彼もこんな思いを味わったのだろうか? 寂しいと枕をぬらす日があったのだろうか?
結局眠れなくて、羊を数え始める。頭のなかが羊だらけになっても不安が胸をしめていて、いつ眠ったのかさえわからない。
朝起きるのがこんなにつらいということは明け方まで眠れなかったのだろう。
克之を30分ロビーに待たせて、足元がおぼつかないまま、ロビーに下りてきた。
「おはよう」
「さて、ガウディに会いにいこうか!」
彼は疑いもしないのだ。
私が昨日言った言葉。
アントニ・ガウディ、彼の建築物、サグラダファミリアを見にきた。
バスに揺られて、スペインの町並みを見ていくうちに気がついたのは、一度もアナウンスがないということだった。
それなのにみんなわかっているかのようにボタンを押して降りるところを知らせるとバスが止まる。席が開いている場合も必ず目の前に人に断ってでないと座らない。
若い人はみんな立っている。
それにならって私たちも立つ。
身長が伸びた?
並んで立つのは、久しぶりでスペインの町並みを楽しむ余裕もないくらいに、横に立っている彼に意識が集中していた。
降りたのは丘の上のグエル公園。
「ガウディを楽しみたいなら、ここからスタートしよう」
いきなり来た私を怒りもしないで、どこに案内しようか、マップを片手に悩んでくれたに違いなかった。スペインの街中のマップを無造作にジーンズの後ろのポケットにねじりこんでいる。
公園を入ってしばらく行くとピンクの家が見えてきた。
「ガウディが暮らした家だよ」
グエル公園の中に建っているピンクの屋敷はかわいい造りの二階建ての家だった。
「ここに住んでいるときは、家族とまだ一緒に暮らしていたんだよ」
「まだ?」
「ああ、家族を全員亡くして、友人が同居したけど、友人が病に倒れてからは、ここにはもう戻らなかったんだよ。この家は自分のためというより、ガウディにとっては家族のための家だったみたいだからね。晩年はサグラダファミリアに寝泊りしたらしいから」
「家族って何人だったの?」
「ここに暮らしたときは、お父さんと姪っ子とガウディの三人」
三人で暮らすのにしては、十分な広さだ。
暖炉の上の小さな飾り棚、お皿が何枚か飾ってある。
この家にひとり残されたそのとき、彼は運命を呪っただろうか。
家族が亡くなった夜に、ひとりの友人がガウディ宅を訪れた。
ロレンソ・マタマラ、鋳型職人。
彼は家族がありながらも一緒にガウディと暮らし始めた。
家族よりも大事なもの。
そんな職人の夢なんてわかりたくもないし、理解できない。
家族よりも大切なものがあるのかな。
まるで、ロレンソに克之を重ねてみてるような気がして、彼は日本の友達を捨てたわけではないけど、彼が描いている夢の一員には誰も参加できない。
建築家という夢に取り付かれた彼は、その一部を誰とも共有することができない。
スペインの大学で建築家になるための勉強をして、ここのスペインの地で働こうとしている彼。
反対する理由もないが、賛成する理由もない。
日本に帰る気配がしないかと彼を見るまでは、そんな淡い期待が胸のどこかにあった。
それさえもガウディの話をする彼の前では、しぼんでいって本当に彼はこちらで生きていこうとしているのだという現実が目の前にあった。
グエル公園には、アーチ型をした陸橋がある。陸橋を支える柱は、まっすぐに建っていない。斜めに外開きに建っているのが不思議なくらいだ。どんなマジックを使ったのだろう。柱のひとつひとつには、小さな石がくっついているが、まるで樹木が生きているかのように見える。
トカゲの形をしたかわいい噴水は、オレンジと青に彩られて、この場所を守っているかのような錯覚に捕らわれる。それじゃなければ、誰かがやってくるのを待っているようだ。
波を思わせる中央広場のベンチからはバルセロナ市内が一望できる。
ヘンゼルとグレーテルが見たお菓子の家はきっとこれだったに違いない、そう感じさせるモザイクタイルの煙突の家。
どこからか小さな子供たちのやんちゃな声が聞こえてくる。
小学校も一体になっているようだ。
すべてが目新しく、こんな斬新なタイルの使い方があっていいのだろうか。
それほどカラフルの色合いに満ちたガウディの世界がここには確かに建造物として残っていた。
中央広場のベンチに座りながら、タイルの色を見ていた。
これを書くにはパステルではなく色鉛筆が欲しい。
そんなことを考えていたときに耳に飛び込んできた。
「後世に残るものを造るっていいよな」
「後世に残るものをあなたは造る予定ですか?」
おどけた調子で突撃レポーターのような雰囲気で口を尖らせながら、空中に描いたマイクを手に持ってインタビューした。
「Si」
少し不安に揺れている「はい」の言葉。
「大丈夫だよ。未来はまだ決まってないからね」
つぶやいた言葉は彼に届いたのだろうか。
戻ってきたのは笑顔。おひさまから光を受けて眩しくて目を細めるくらいの笑顔。
「決まった未来はないか。自分次第ってことか」
迷っていた道をもう一度、その言葉が照らしてしまったかのような晴れやかな笑顔に困ってしまったのは、私のほうだった。
ガウディの駄目な点を言うつもりでいたのに、どうしてもいい部分が目に映る。
あまりにも見事な破砕タイルのグラデーション、そうかと思うと、全然違う色が途中に組み込まれている。
お金がかかってしまうよ。今、この建築物を建てようと考えてる人はいないよとか否定的な言葉はいくらでも言えたはずだ。
でも、きっと彼が建てようとしているのは、ガウディみたいな建物ではなく、彼しか考えることのできない建物だと思う。
かつてのガウディが目指したように。
「ここでお昼にしようか?」
時計は12時を指していた。
スペインの人々にとっては、かなり早いお昼ごはん。シエスタって呼ばれるお昼休みは、2時から4時にかけての2時間をたっぷりと昼食にかける。
公園は思ったよりも広くて、さっきからおなかが鳴ってたのを聞いていたらしい。
「ちょっと早いけど、ごめんね。おなかすいちゃった」
舌をぺろっと出して笑う。
「オッケー。いいよ」
スペインの太陽はすべてを焼き尽くすかのように暑い。
売店でオレンジジュースとホットドッグ。
「ビールの方が冷えてるけど、オレンジジュースでいい?」
その意味がよくわからずに頷いた。
オレンジジュースのオーダーが入ると、後ろの方の大きな機械がオレンジを四個飲み込んでいく。オレンジジュースは、搾りたて百パーセントの代わりに全然冷えてないが、ビールは冷え冷えの冷蔵庫から出したての物がくる。
「意味が今やっとでわかった」
オレンジジュースを目の前にしながら苦笑いをしていると、彼の目がそうだろうってやさしく笑っていた。
グエル公園から始まった私たちの旅は、どこで終点を迎えるのかな?
バスで次の地点を目指しながら、こぼれそうになる涙を必死に抑えていた。
旅はまだ序盤なのだ。
何が起こるかがわからないのが旅なのだったら笑顔が一枚でも多く残るように、写真にも心にも。
大事に大事にしたい記念すべき一ページを涙で汚したくはなかった。
ロビーからの電話で目覚めた。
時計を見ると、9時を回っていた。
夜中に隣の部屋の人がお風呂に入っていた。その音で目が覚めたのが現地時間の2時。
明かりを点けてみると、見慣れたカーテンの青とは違って、赤のカーテンが目に飛び込んできた。
シングル部屋が満室で取れなかったために、ツインの部屋をひとりで使っているので、隣のベッドがやけに大きく見えてさびしくなった。
異国の地にひとりでいるという不安。
夜中に目が覚めてもちょっと寂しいからといって国際電話をかけるわけにもいかない。どれぐらい高くついてしまうのかが不安でホテルの受話器をあげておろした。
日本を発ったのが昨日なのに、こんなに恋しいなんて、彼もこんな思いを味わったのだろうか? 寂しいと枕をぬらす日があったのだろうか?
結局眠れなくて、羊を数え始める。頭のなかが羊だらけになっても不安が胸をしめていて、いつ眠ったのかさえわからない。
朝起きるのがこんなにつらいということは明け方まで眠れなかったのだろう。
克之を30分ロビーに待たせて、足元がおぼつかないまま、ロビーに下りてきた。
「おはよう」
「さて、ガウディに会いにいこうか!」
彼は疑いもしないのだ。
私が昨日言った言葉。
アントニ・ガウディ、彼の建築物、サグラダファミリアを見にきた。
バスに揺られて、スペインの町並みを見ていくうちに気がついたのは、一度もアナウンスがないということだった。
それなのにみんなわかっているかのようにボタンを押して降りるところを知らせるとバスが止まる。席が開いている場合も必ず目の前に人に断ってでないと座らない。
若い人はみんな立っている。
それにならって私たちも立つ。
身長が伸びた?
並んで立つのは、久しぶりでスペインの町並みを楽しむ余裕もないくらいに、横に立っている彼に意識が集中していた。
降りたのは丘の上のグエル公園。
「ガウディを楽しみたいなら、ここからスタートしよう」
いきなり来た私を怒りもしないで、どこに案内しようか、マップを片手に悩んでくれたに違いなかった。スペインの街中のマップを無造作にジーンズの後ろのポケットにねじりこんでいる。
公園を入ってしばらく行くとピンクの家が見えてきた。
「ガウディが暮らした家だよ」
グエル公園の中に建っているピンクの屋敷はかわいい造りの二階建ての家だった。
「ここに住んでいるときは、家族とまだ一緒に暮らしていたんだよ」
「まだ?」
「ああ、家族を全員亡くして、友人が同居したけど、友人が病に倒れてからは、ここにはもう戻らなかったんだよ。この家は自分のためというより、ガウディにとっては家族のための家だったみたいだからね。晩年はサグラダファミリアに寝泊りしたらしいから」
「家族って何人だったの?」
「ここに暮らしたときは、お父さんと姪っ子とガウディの三人」
三人で暮らすのにしては、十分な広さだ。
暖炉の上の小さな飾り棚、お皿が何枚か飾ってある。
この家にひとり残されたそのとき、彼は運命を呪っただろうか。
家族が亡くなった夜に、ひとりの友人がガウディ宅を訪れた。
ロレンソ・マタマラ、鋳型職人。
彼は家族がありながらも一緒にガウディと暮らし始めた。
家族よりも大事なもの。
そんな職人の夢なんてわかりたくもないし、理解できない。
家族よりも大切なものがあるのかな。
まるで、ロレンソに克之を重ねてみてるような気がして、彼は日本の友達を捨てたわけではないけど、彼が描いている夢の一員には誰も参加できない。
建築家という夢に取り付かれた彼は、その一部を誰とも共有することができない。
スペインの大学で建築家になるための勉強をして、ここのスペインの地で働こうとしている彼。
反対する理由もないが、賛成する理由もない。
日本に帰る気配がしないかと彼を見るまでは、そんな淡い期待が胸のどこかにあった。
それさえもガウディの話をする彼の前では、しぼんでいって本当に彼はこちらで生きていこうとしているのだという現実が目の前にあった。
グエル公園には、アーチ型をした陸橋がある。陸橋を支える柱は、まっすぐに建っていない。斜めに外開きに建っているのが不思議なくらいだ。どんなマジックを使ったのだろう。柱のひとつひとつには、小さな石がくっついているが、まるで樹木が生きているかのように見える。
トカゲの形をしたかわいい噴水は、オレンジと青に彩られて、この場所を守っているかのような錯覚に捕らわれる。それじゃなければ、誰かがやってくるのを待っているようだ。
波を思わせる中央広場のベンチからはバルセロナ市内が一望できる。
ヘンゼルとグレーテルが見たお菓子の家はきっとこれだったに違いない、そう感じさせるモザイクタイルの煙突の家。
どこからか小さな子供たちのやんちゃな声が聞こえてくる。
小学校も一体になっているようだ。
すべてが目新しく、こんな斬新なタイルの使い方があっていいのだろうか。
それほどカラフルの色合いに満ちたガウディの世界がここには確かに建造物として残っていた。
中央広場のベンチに座りながら、タイルの色を見ていた。
これを書くにはパステルではなく色鉛筆が欲しい。
そんなことを考えていたときに耳に飛び込んできた。
「後世に残るものを造るっていいよな」
「後世に残るものをあなたは造る予定ですか?」
おどけた調子で突撃レポーターのような雰囲気で口を尖らせながら、空中に描いたマイクを手に持ってインタビューした。
「Si」
少し不安に揺れている「はい」の言葉。
「大丈夫だよ。未来はまだ決まってないからね」
つぶやいた言葉は彼に届いたのだろうか。
戻ってきたのは笑顔。おひさまから光を受けて眩しくて目を細めるくらいの笑顔。
「決まった未来はないか。自分次第ってことか」
迷っていた道をもう一度、その言葉が照らしてしまったかのような晴れやかな笑顔に困ってしまったのは、私のほうだった。
ガウディの駄目な点を言うつもりでいたのに、どうしてもいい部分が目に映る。
あまりにも見事な破砕タイルのグラデーション、そうかと思うと、全然違う色が途中に組み込まれている。
お金がかかってしまうよ。今、この建築物を建てようと考えてる人はいないよとか否定的な言葉はいくらでも言えたはずだ。
でも、きっと彼が建てようとしているのは、ガウディみたいな建物ではなく、彼しか考えることのできない建物だと思う。
かつてのガウディが目指したように。
「ここでお昼にしようか?」
時計は12時を指していた。
スペインの人々にとっては、かなり早いお昼ごはん。シエスタって呼ばれるお昼休みは、2時から4時にかけての2時間をたっぷりと昼食にかける。
公園は思ったよりも広くて、さっきからおなかが鳴ってたのを聞いていたらしい。
「ちょっと早いけど、ごめんね。おなかすいちゃった」
舌をぺろっと出して笑う。
「オッケー。いいよ」
スペインの太陽はすべてを焼き尽くすかのように暑い。
売店でオレンジジュースとホットドッグ。
「ビールの方が冷えてるけど、オレンジジュースでいい?」
その意味がよくわからずに頷いた。
オレンジジュースのオーダーが入ると、後ろの方の大きな機械がオレンジを四個飲み込んでいく。オレンジジュースは、搾りたて百パーセントの代わりに全然冷えてないが、ビールは冷え冷えの冷蔵庫から出したての物がくる。
「意味が今やっとでわかった」
オレンジジュースを目の前にしながら苦笑いをしていると、彼の目がそうだろうってやさしく笑っていた。
グエル公園から始まった私たちの旅は、どこで終点を迎えるのかな?
バスで次の地点を目指しながら、こぼれそうになる涙を必死に抑えていた。
旅はまだ序盤なのだ。
何が起こるかがわからないのが旅なのだったら笑顔が一枚でも多く残るように、写真にも心にも。
大事に大事にしたい記念すべき一ページを涙で汚したくはなかった。
応援ありがとうございます!
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